教会について

教会について

教会名称 大阪エペソ長老教会
所属教団 日本オリベットアッセンブリー教団
教会住所 〒557-0033 大阪市西成区梅南1丁目1-5 花園大一ビル4F

私たちのコアバリュー

御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。
このようなものを禁ずる律法はありません。
ガラテヤ人への手紙5:22-23

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正直(神様と隣人に接する基本姿勢の価値)

宣言文(キャッチフレーズ) – 神様の成し遂げたことに注目しなさい。

私たちの信仰
正直の価値は、神様と私との関係だけでなく、私と隣人との関係でももっとも重要な徳目であると、私たちは信じる。

1. 神様との関係

神様は私たちの悪さと弱さを知っておられ、イエス・キリストを通して完全な新しい人を創ろうとします。従って、私たちのすべきもっとも大事なことは、自分自身を飾らずありのままの姿で主の十字架の前に立つことであると、私たちは信じる。 過越祭が年の始まり、月の始まりであるように私たちが十字架の前で新しく創られる時こそ真なる人生を生きることができる。私たちのたましいの真なる喜びは私の魂の価値を見つけることにあり、その発見はただ私を創造された神様の本来の目的を見つける時のみ、可能であると、私たちは信じる。

暗唱の聖書箇所
(ヨハネの手紙 第一 1:7-10)
しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

2. 隣人との関係

神様をそむき、Havingによって他の人より優越になろうとする世界では、真の付き合いはありえません。ただ私の足りなさを他人に見せることができ、他人の足りなさを私が抱けれるどころが天国であり、天国の練習場である教会だと、私たちは信じる。
お互いに対する深い尊敬は、人間が神様の形で作られた存在であることを自覚することにあり、すべてのHaving(学歴, 社会的な身分, 職業)を脱ぎ捨てる時に可能であると、私たちは信じる。
神様から離れた人間は互いが持っているHavingによって高慢、もしくは嫉妬・妬み、その二つによって私たちの魂は互いに交わることができず、ついには寂しい人生を生きるようになることを、私たちは認める。

暗唱の聖書箇所
(ヨハネの手紙 第一 2:15-16)
世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。



学び(人生に接する基本姿勢の価値)

宣言文(キャッチフレーズ) – 神様が生きておられることを信頼しなさい。
私たちの信仰
私たちに与えられた一瞬・一瞬の人生は神様の大きい祝福であると、私たちは信じる。時には、私が願わないことが私に起きるにしても、それが私に必要であると、私たちは信じる。(神様は私たちのWantsより私たちのNeedsを満たしてくださる) 神様は私たちを導かれ、私たちに対する美しい計画を持っておられ、ご自身で私たちを教える。だから、私たちはその過程の中で私が成熟する方法を学ぶことを決断する

暗唱の聖書箇所
(ローマ人への手紙 8:28-30)
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

(エペソ人への手紙 1: 4-6)
すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。
それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

(テモテへの手紙 第一 4: 4)
神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。



信仰の人生(主な人生の目標的な価値1 - 個人的)

宣言文(キャッチフレーズ) – 神様の成し遂げるわざを期待しなさい。

私たちの信仰
私たちはこの世の中に二つの人生の生き方が存在すると信じる。(ガラテヤ4章)

  • 一つは信仰の生き方であり、一つは立法的な生き方である。
  • 一つは神様がわたしのために準備した様々なプレゼントを味わうことを願う生き方であり、一つは自分の努力と能力を証明するための生き方である。
  • 一つは挑戦する生き方であり、主体的な生き方である一方、もう一つは誰かに自分の価値を証明したいと思い、問題の対応に焦る生き方である。
  • 神様から離れた人間は保護者を離れた存在のようで、最初から最後まで自分の人生に自分が責任を取らないといけない、そして自分が正しいことを証明しようとする人生を生きるようになることを、私たちは信じる。
  • 救われることは、主が主人(Lord)になる人生であり、その方は私たちに美しい挑戦を願われていることを、私たちは信じる。
  • 神様の無限な愛と無限な力を信じる時こそ、私たちは神様が私たちを創造した創造の目的どおりに生きられると信じる。
  • 私たちは神様が生きておられることを信頼し、その方の導きに頼り、挑戦する時、一番美しい人生を生きられると信じる。

暗唱の聖書箇所
(エレミヤ書 2:13)
わたしの民は二つの悪を行なった。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。



一致と多様性(主な人生の目標的な価値2 - 共同体的)

宣言文(キャッチフレーズ) – 神様が私たちを通して成し遂げるわざを期待しなさい。

私たちの信仰

  • 1.個人的な賜物と能力の目的
    神様が私たち一人一人に固有な賜物を下さり、その賜物は自分の満足と有益のためではなく他人に仕えるために下さったものだと、信じる。
  • 2.個人的な賜物と能力の固有性
    神様が下さった賜物は全体を美しく、素晴らしくするだけでなく、神様の栄光になり、一人の魂に下さった賜物は他の誰の賜物とも変えれないことを、私たちは信じる。
  • 3.個人的な賜物の啓発と方法
    私たちは一人の個人の力量を主の中で極大化する道を探り、この部分で互いに助け合えると信じる。
  • 4.協力のシナジー効果
    神様は私たちが私たちの賜物を積極的に使うことを願っておられるだけでなく、さらに偉大なことのために私たちが協力し合う姿を見ることを願っておられると、私たちは信じる。

暗唱の聖書箇所
(ヨハネの福音書 17:21-22)
それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。 またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。



訓練(具体的な行いの価値))

宣言文(キャッチフレーズ) – 神様の善に似ていきなさい。
私たちの信仰
神様はとても人格的に私たちを接するため、たとえ私たちが神様の指導を受けるにしても、私たちに下さった自由意志で自発的に参加することを願われ、待たれる。
奉仕とは、私たちが神様に何かをささげるのではなく、奉仕を通して究極的に私の足りない姿を見つけ、キリストの形が私の中に成し遂げられるためであると信じる。
従って、私たちは自発的な訓練に励み、祈りを持っていつも神様の助けを求めることを決断する。

暗唱の聖書箇所
(コリント人への手紙 第一 9:24-27)
競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。



節制(具体的な行いの価値)

宣言文(キャッチフレーズ) – 神様がくださる栄光に集中しなさい。

私たちの信仰
ミニストリー(奉仕)は、誰かが代わりに行うことのできない尊い召しである。神様は一人を通して偉大なことを成し遂げられる。神様に完全に用いられる人こそ、真の幸せな人生だと、私たちは信じる。

暗唱の聖書箇所
(ピリピ人への手紙 3:10-14)
私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、 どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。
私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。
兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

(コリント人への手紙 第一 4: 1-2)
こういうわけで、私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。
この場合、管理者には、忠実であることが要求されます。