世の中では自分の存在価値をものを所有することで証明しようとします。高価なものを所有すれば、自分は価値あるものになるという錯覚の中で生きるようになります。これはサタンによって植え付けられた偽りの文化と言います。本当の自分の価値を探す旅に出かけてみませんか?
私たちは生まれる時から色々なことを吸収しながら生きています。良いものだけを見て、良いものだけを受け入れたいと願っても、現実は良くないものをさらに多く受け入れています。目が回る忙しさの中で森林で深呼吸をしなければならない時があります。しかし、息をしても肺に入るのは煤煙だけです。世の中はある程度のお金と学歴、世間の肩書きを持ってこそ、価値のある人生だと言っています。家庭や学校で、そして職場や社会でも。。どこに行っても、私たちはそのような要求を受けいれて生きてきました。そのような要求は、必ずそのように生きなければならなさそうな義務感を生み出します。要求どおり生きられなかったと、自分がそう感じた時には、不安になったり、羞恥心を覚えて堂々と生活が出来なくなります。義務感、羞恥心、不安な心は私が願うものではありません。自分でも願ってないその心がすでに私の中につくられ、その心は私が願ってもないのに、私を追い詰めていきます。
どうしてイエス様は ‘あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします‘ と言われましたか?私たちが作り出した文化は私たちを追い詰めているからです。自分も願ってないことをしなければならなさそうな。。。してないと淘汰して失敗した人生になりそうな。。そのように生きないと後ろ指をさされ、イジメられるかもしれない。。
聖書を学んでみてください。私たちの価値を見つけた瞬間、私たちはそのすべてのことから自由になれます。
“皆さんも承知のとおり、私はやるごとすべてに幸運がやってきて、莫大なお金を稼ぎました。私が想像したよりもさらに多く、一生かけて使っても使いきれないほどです。私の家族が必要とするよりもさらに多くのお金を稼ぎました“。
オクスフォード大学の近所で開かれた講演会である著名な事業家が言い始めました。彼の顔には決意に満ち、強い自信がにじんでいましたが、一瞬戸惑いの表情を見せ、強い外見に隠された深い感情を露出させてしまいました。小麦色に焼けた頬には一滴の涙が流れ落ちました。
“正直に言うと、私がが多くのお金を稼ごうとしていた動機は単純でした。お金で人を雇って、私がやりなくない仕事を任せようとしたのです。しかし、私の代わりに、他人には決してできないことが一つありました。それは私の人生の目的を見つけて、それを成し遂げることでした。その目的を見つけることさえできれるなら、私はどんな代価も払う準備が出来ています“。
内面への旅は簡単な質問から始まります。私は誰なのか?私は何をすべきか?誠に価値ある人生は自分の価値を見つけることから始まります。その価値を教えてくださるのは唯一に聖書のみです。
神様が取って食べてはならないと仰った実があり、思い存分食べて良いと許可した実があります。その実とは、‘愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制‘という実です。しかし、その前にサタンが蒔いた価値観があります。自分が自分の人生の主人であって、自分の人生の神はあなただという考えです。他人が持っていない何かを手に入れなさいと言います。‘Having`を追求するようにします。他人より多くの財産、高い学歴、尊い肩書を得れば、私たちの人生が価値あるものになるとささやきます。Havingを追求するその価値観は神様のない世界観をつくりました。神様など必要ないと言います。神様がない時にこそ自由があると言います。そのようにして、間違った人生観を追求するようにさせます。
しかし、‘Having‘を追求した人生の結論は、残念なことに、高慢と比較意識、嫉妬とねたみ、寂しさと虚しさだけが残ります。
イエス様はそのような私たちの罪を背負い、十字架で苦しみを受けました。死の権勢を打ち破り、よみがえりました。そして、昇天されて私たちに聖霊を注いでくださいました。聖霊によって新しく生まれたものは天国の人生を生きることが出来ます。聖霊が私たちの中で働く時、私たちは‘愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制‘という9つの実を結ぶようになります。その実は私たち自身です。まさに私たちがそのような存在‘Being‘になるのです。
聖書で話す人類の堕落とその結果は、神様がしてはならないと命じたのをアダムとエバが破ったせいで罰を受けているということではありません。そうならば、神様は自分の固執のままに世を動かす存在のように思えます。
サタンはみにくい姿の怪物ではありません。神様によって創造されたのに、神様に反逆した存在です。一番大きな権勢を持っていたし、一番美しく創造されたものです。彼は美しい姿で私たちを魅惑します。自分が犯した罪を私たちにも犯すようにします。新しい価値観を私たちに植え付けます。神様が私たちを創造した時に入れてくださった‘神様の形‘を見つけて啓発するよりも、他人が持っていないものを手にいれる方が、価値ある存在になれると私たちを惑わします。しかし、この誘惑はふさわしく聞こえるにしても、その結果は悲惨です。自分の本来の姿で生きることが出来ず、他人が持っていないものを手に入れることで自分は尊い人だと自ら証明するために生きるようになります。
イエス様は新しい価値観を宣布されました。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。人の先に立ちたいと思うものは、みなのしもべになりなさい。これが私たちの中に入れてくださった神様の形どおりに生きる人生を意味します。イエス様は正道を、サタンは邪道を強要します。
神様が自分に与えた固有な価値が分からない時、私たちは高慢になったり、嫉妬ねたみにさいなまれるようになります。表面ではそうでないふりをしても、心の中ではこの感情によって苦しむようになります。
私たちは持っていることを他人と比べながら、他人が持ってないものを手に入れた時には高慢になり、そうでない時には嫉妬・ねたみようなります。
私たちの感情は私たちの間違った欲求から出てきます。
愛の世界である神様の御国は仕えと犠牲、赦しといつくしみの溢れる所です。
私たちはこの世の間違った教えと文化からすでに形成された自我があります。その自我がどれほど徹底的に間違っているのか、今回の段階を通して私たちは知ることが出来ます。
誰かとの比較ではなく、私の魂が本当に喜び、満足できる人生はどんなものなのか学ぶことが出来ます。
罪を犯した瞬間、アダムの姿を徹底的に分析し、考えてみましょう。罪を犯したことよりももっと悪いのは罪を悔い改めないことです。自分を弁明し、合理化します。子供は自分の間違いを認めることを難しく思います。私たちも子供のころはそうでした。間違いを認めない理由は色々あるでしょう。体罰に対する恐れ、自分は正しいという頑固さ。他人も違いないだろうという相対主義、間違いを認めてしまえば卑屈になりそうな間違った認識。
神様が罪を犯したアダムに何を願われたのか、深く考えることによって、神様に進んでいくことがどんなことなのかを考えてみましょう。間違いを認めることが出来ず、弁明し、責任を転嫁することがどれほど弱い姿なのかを考えてみましょう。
子供が間違っても両親が子供を愛するように、罪を犯しても神様は私たちを見捨てたりしません。しかし、その間違いを認めない理由は神様の中にとどまることを嫌がり、神様から独立しようとするからです。
私たちがどれほど哀れで、貧しくて、裸なのかを十分に共感して見る時間です。
そのため、どうしてイエスが必要なのか。。
どうして、私たちがイエス様の十字架で犠牲されたその義に頼るべきかを徹底的にみる時間です。魂がなげき、イエスを呼べる恵みが望まれる時間になることを願います。
イエス様がどうして道であり、真理であり、命なのかを学ぶ時間です。
そして、どうして唯一な道だと話すのかを十分に理解する時間を持つことを願います。
人生の目的を決めることは、自分が歩むべき方向を決めることです。間違った方向へ進むことは出発せず立ち止まるよりも目的地に遠ざかることになります。
聖書は私たちに人間がすべき尊い使命を教えています。
本当の自分の使命を探す旅に出かけてみませんか?
世の中はキリスト教を宗教の一つと見ます。教会に通うことは非現実的で、人間の弱みを利用して商売する集団だと考えます。しかし、私たちは進化論が非科学的で創造論が科学的だと証明される時代に生きています。
聖書は私たちがすでに多くの権勢を持っていると語っています。私が持っている権勢を活用する旅に出かけてみませんか?