礼拝説教

神の前では、ことばを少なくせよ


2023年01月22日

伝道者の書5章1-7節

聖なるものを体験することを通して信仰は成長します。世が移り変わるとしても、時と場所を区別して神様にささげることに関して、我々は妥協してはなりません。

私たちは新しい一年に大きな期待とたくさんの計画をもって臨みますが、主に仕えることの動機を見失うことほど愚かで悲惨なことはありません。イエス様に仕えたマルタとマリア(ルカの福音書10章)を見てください。食べるために仕えることは不要で「みことば」(聖書の言葉、イエス様の言葉)を聞くことだけが必要という二者択一ではありません。食べるために仕えるのも、みことばを聞くのも、主(しゅ)の恵みに動機づけられてしようという教えです。主に仕えることが苦しくて辛くなるのは、マリアの姿を見失うからです。仕事の忙しさや、挫折感を理由に礼拝から遠ざかり、信仰を失う人がいます。神様は私たちにささげものを期待しているのではありません。貴方の成果は神様の貴方を愛する愛の大きさに何一つ影響を与えません。神様のために自分に何ができるか考える姿は美しいですが、まず神様が自分を無条件に愛してくださったことを忘れないでください。新しい一年をどうやって生きるかよりも、神様が自分をどのように用いようとしておられるかに目を向けてください。

神様のご計画とみこころ(御心)は聖書の御言葉に記されています。聖書を読み、みことばを聞き、みことばが私に何を語り、どう生きるように示しているかを黙想する時間を持ちましょう。神の前で、軽々しく心焦ってことばを出すな、とあります。私たちはまず第一に神様に尋ね、神様のみこころを待って祈りましょう。祈りの人、みことばを愛する人は、神様のみこころが示されるまで忍耐します。そして、みことばを参照し、そのみことばに従います。みことばに従うことがまことの知恵です。何をするにも、まず祈り、聖書を読み、それから始めるのです。私たちが常にみことばを頼りにして生きるとき、聖霊が私たちを導いてくださいます。

私たちの信仰は「見る信仰」から「聞く信仰」に変わらなければなりません。(ルカの福音書19章1-9節)信仰の成熟は「聞くこと」から始まります。「見る」ことは自分が主体です。自分が見たいときに見たいものを見るのですから、見る対象が自分よりも低い立場にあります。「聞く」ことはどうでしょうか。聞くことは、自分が主体ではなく、他の主体となる方の話す言葉に自分が合わせるということです。なぜ私たちは神の前で軽々しくことばを出すべきではないのか。神様の考えと私たち人間の考えは水準が異なるからです(イザヤ書55章8-9節)。神様は全宇宙の創造主であり、その方は慈愛の方です。罪を犯したイスラエルの民は捕虜となって悲惨に生きていましたが、罪を犯したのであれば罰せられて当然であるのに、深い絶望の闇の中にある民を神様は大いなるあわれみをもって救い出してくださいました(イザヤ書54章1-8節)。その方は、乾いている者には水を飲ませ、金のない者にも穀物を与え、代価を求めずにぶどう酒と乳をくださるお方です(イザヤ書55章1節)。罪深い私たち人間を、罰と絶望ではなく、許しと恵みで満たしてくださり、いと高き考えで私たちを導いてくださいます。だから私たちは心焦ってことばを出すのではなく、まず聖書の言葉に心を向けて、神様の考えに私たちの考えを合わせなければなりません。

自分の考えで多くの計画を立てて一つも成し遂げられず、もみ殻のように空っぽの人生だったと言って全てを神様のせいにするようなことがあってはなりません。私たちは主の恵みを感謝し、主の愛を賛美します。その恵みと愛の中に留まり、主のみことばに聞き従い、主のみこころに全てを委ねて、真剣な姿勢をもってこの一年を歩みましょう。

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