2026年07月12日
*本文:ローマ書2章1-10節
パウロは「すべて他人をさばく者よ、あなたに弁解の余地はありません」と語ります。ローマ書1章では異邦人の罪を語りましたが、2章では神様を信じているユダヤ人の罪を語ります。ユダヤ人は、自分たちは神様に選ばれた民だから、裁きを受けることはないと考えていました。しかしパウロは、「あなたがたも他の人を裁きながら、同じ罪を犯している」と厳しく警告したのです。
イエス様も「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです」と言われました。私たちは人の弱さや失敗はよく見えますが、自分の罪には気づかないことがあります。他の人を厳しく批判するとき、実は自分自身に同じ基準を当てているのです。ですから、他人を裁く前に、まず自分の心と行いを神様の御前で見つめなければなりません。
パリサイ人は、断食をし、十分の一をささげ、自分は正しく生きていると考えていました。そして、取税人や罪人を見下していました。しかし取税人は、遠くに立ち、胸をたたいて「神様、罪人の私をあわれんでください」と祈りました。イエス様は、自分を正しいと思っていたパリサイ人ではなく、罪を認めた取税人が義とされたと教えられました。神様が求めておられるのは、見せかけの敬虔ではなく、へりくだりと悔い改めの心なのです。
信仰を持っているからといって、私たちは自分の力で立っているのではありません。罪の中にいた人も、救いを受けた人も、神様の恵みなしには立つことができません。パウロは「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」と語りました。私たちは、自分は大丈夫だ、自分は正しいと思うのではなく、毎日神様の恵みにより頼んで歩まなければならないのです。
神様の裁きは公平です。ユダヤ人であっても、異邦人であっても、信仰者であっても、そうでなくても、神様は同じ真理によって一人ひとりを裁かれます。神様は人を外見や立場によって特別扱いされません。他の人を裁きながら自分も同じことをしているなら、誰も神様の裁きを逃れることはできないのです。
しかし神様は、私たちが罪を犯したとき、すぐに滅ぼされるのではありません。神様は慈しみ深く、忍耐し、悔い改める時を与えてくださいます。それは、私たちが罪の道から立ち返ることを願っておられるからです。ところが、「神様は愛のお方だから、何度罪を犯しても赦してくださる」と考えるなら、私たちは神様の愛を利用することになります。神様の慈しみは、罪を続けるためではなく、悔い改めるために与えられているのです。
悔い改めない心は、神様の怒りを自分のために積み重ねることになります。パウロは、その原因は心の頑なさにあると語ります。罪を指摘されても認めず、言い訳をし、自分の考えを変えない心です。しかし神様は、取税人のように「私が罪人です。あわれんでください」と告白する人を受け入れてくださいます。私たちには、いつも悔い改めて神様のもとに帰る柔らかな心が必要です。
神様は一人ひとりの行いに応じて報いられます。救いは神様の恵みによって与えられますが、その恵みは、好き勝手に生きてもよいという意味ではありません。信仰を持つ人は、忍耐をもって善を行い、愛を実践し、十字架の道を歩むべきです。失望せずに善を行うなら、神様は永遠の命と栄光と平和を与えてくださいます。
反対に、真理に従わず、自分の利益だけを求め、争いや分裂を作る人には、苦難と苦悩が臨みます。罪についても善についても、神様の前に例外はありません。ですから皆さん、他人を裁くことをやめ、自分自身を神様の御言葉の前に立たせましょう。神様の慈しみを軽んじることなく、へりくだって悔い改め、忍耐をもって善を行う者となりましょう。