礼拝説教

生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることです


2025年01月27日

*日付: 2025年 1月26日, 主日礼拝
*場所: 大阪エペソ長老教会
*說敎: 張(ジャン)サムエル 牧師
*本文: ピリピ人への手紙1章12-30節

†今日は先週に引き続き、《ピリピ人への手紙1章》を見ていきます。使徒パウロが置かれている状況を詳しく見ることで、人生においてどんな状況が訪(おとず)れようとも、使徒の主に対する心に似(に)せられ、変わらない私たちになることを願います。そのような切実な気持ちでこの使徒の手紙を読んでいきます。

「さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音の前進(ぜんしん)に役立ったことを知ってほしいのです。」(ピリピ1:12)
ここで「私の身に起こったこと」とは何でしょうか。それは使徒が今、鎖(くさり)につながれて牢(ろう)に閉じ込められていることを意味しています。投獄された使徒が今、非常に心配し落胆しているピリポの信徒たちにこの手紙を書いています。しかし、鎖につながれている者がどうして「福音の前進だ」と言うことができたのでしょうか。普通の人ならすぐに絶望するでしょう。ある人は嘆(なげ)き、信仰の薄(うす)い人は神様を恨(うら)むでしょう。しかし、この使徒は少しも変わることなく、自分が鎖につながれていても、それがかえって福音の前進に役立つことを信じているのです。

「私がキリストのゆえに投獄されていることが、親衛隊(しんえいたい)の全員と、ほかのすべての人たちに明らかになり、」(ピリピ1:13)
 これは「私がキリストのゆえに投獄されているという事実が、親衛隊の全員と、その他のすべての人々に知られるようになった」ということです。パウロは自分を監視(かんし)する者たちとも会話をしたようです。機会さえあれば福音を伝えたのです。ここで私たちは、使徒はどんな状況に置かれても、その状況になったことで誰かを責(せ)めたり恨(うら)んだりすることなく福音を伝えたという驚くべき事実を見い出すことができます。《使徒の働き16章》を読むと、パウロはピリピで占(うらな)いの霊につかれた若い女(おんな)奴隷を救ったことで牢(ろう)に入(い)れられましたが、獄中で絶望することなく祈り、神様を賛美していました。そして地震が起こり、牢獄(ろうごく)の扉が開かれる奇跡が起こりました。そこから、その監獄の看守(かんしゅ)とその家の者が伝道されるという驚くべきことが起こりました。牢から福音伝道の扉が開かれたのです。そのように、今も使徒はこの牢の中で親衛隊にも福音を伝えているのです。私たちがここで学ぶべきことは、どんな状況にあっても福音伝道は止められないということです。

「兄弟たちの大多数(だいたすう)は、私が投獄されたことで、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆にみことばを語るようになりました。」(ピリピ1:14)
 これは「パウロが投獄されたことで、兄弟たちの大多数は主をより固く信じるようになり、恐れることなく、ますます大胆にみことばを伝えるようになった」ということです。多くの信徒たちが、使徒パウロが獄中でも親衛隊(しんえいたい)に福音を伝えていること、またパウロを訪ねて福音を聞く人々がいることを見て、大きな慰めを受けたようです。そしてパウロを心配していた者たちが「かえって牢(ろう)の中でも福音が宣べ伝えられているのだ」と、より一層(いっそう)神様を信じる信仰が強められたのです。そして御言葉をますます大胆に伝えることができるようになりました。《第二テモテ人への手紙2章》に次のような御言葉があります。「この福音のために私は苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばはつながれていません」(Ⅱテモテ2:9)。「神のことばはつながれていません。」パウロはこのように考えていました。これは私たちに深い感動を与えます。捕(と)らわれている者がこのような考えを持つことは決して簡単なことではありません。私たちは日々、日常生活において福音を宣べ伝えていますか?ある人は、環境のせいにして福音を伝えることを躊躇(ちゅうちょ)しているかもしれません。良い環境になければ福音伝道はできないと思い、ただ環境が良くなるのを待っているかもしれません。しかし、この使徒はそうではありませんでした。パウロは自分の体は鎖につながれていても、福音はつながれていないと固く信じていました。
目の見えない物乞(ものご)いのバルティマイの話が思い出されます(マルコ10:46-52)。バルティマイは盲人で目が見えませんでした。しかし、彼は聞こえる耳で主イエスがおられると聞きました。そして、叫べる口で「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫びました。そうして彼は主に出会い、救われました。彼は見えない目のことだけを考えて絶望したり、座り込んでいませんでした。今、使徒パウロも絶望するしかない立場にあっても絶望しませんでした。「神のことばはつながれていない」ということです。福音はどんな制約(せいやく)も受けません。私たちも使徒のように制限(せいげん)された領域(りょういき)に置かれても、いくらでもその領域を広げていくことができます。私たちもどんな状況でも伝道することができます。このような面で使徒パウロは私たちの驚くべき師(し)であり、福音伝道の模範(もはん)です。

「人々の中には、ねたみや争(あらそ)いからキリストを宣べ伝える者もいますが、善意からする者もいます。」(ピリピ1:15)
 これは「ある人は妬みや競争心からキリストを宣べ伝えますが、善意からキリストを伝える人もいる」ということです。パウロが妬(ねた)みや競争(きょうそう)心からキリストを宣べ伝える人もいると言っています。実際、パウロがローマに行く前にすでにローマには教会がありました。おそらくそれはユダヤ主義的な教会だったのでしょう。ところが、彼らがパウロを助けたという記録は聖書に全くありません。パウロが投獄された都市にも教会がありましたが、実際にパウロを助けたのは2,000kmも離れたピリピ教会でした。私たちがこの聖書を読むとき、背後に流れる教会の状況を感じ取ることができます。教会の中に葛藤がありました。後ろの方に、そういった話が少し出ています。

「16 ある人たちは、私が福音を弁証するために立てられていることを知り、愛をもってキリストを伝えていますが、17 ほかの人たちは党派(とうは)心からキリストを宣べ伝えており、純粋な動機からではありません。鎖につながれている私をさらに苦しめるつもりなのです。」 (ピリピ1:16-17)
 これは「善意から伝える人たちは、私が福音を弁証する使命を受けていることを知り、愛する心をもって伝えていますが、利己(りこ)的な動機から伝える人たちは、純粋な動機からではなく、投獄されている私をさらに苦しめるつもりなのです」ということです。私たちがこの手紙の背景にある不便な状況を全て知ることはできませんが、このような悲しみがパウロにあったことを感じることができます。パウロは《第二コリント人への手紙11章28節》でも、自分にある最も大きな困難(こんなん)は、信徒たちの中にある問題に対する心配だと言いました。自分が受ける患難(かんなん)や迫害よりも、教会内の問題によってパウロはいつも圧迫(あっぱく)されていました。今もこの箇所から、私たちはパウロの心配を僅(わず)かでも感じ取ることができます。

「しかし、それが何だというのでしょう。見せかけであれ、真実であれ、あらゆる仕方でキリストが宣べ伝えられているのですから、私はそのことを喜んでいます。そうです。これからも喜ぶでしょう。」(ピリピ1:18)
 「ある人は自分の功績(こうせき)をあげようと、嫉妬(しっと)心から福音を宣べ伝えますが、結局大切なのはキリストが宣べ伝えられることなのだから、私はそのことを喜んでいる」と使徒は言います。本当に広い心です。教会の中に葛藤や妬(ねた)み、争いや分裂があっても、このように主を見つめながら未来に向かって進む者はその状況に囚(とら)われることはありません。私たちが教会の中にある問題だけを見て、それが問題だとそれだけを心配し、そこに縛(しば)られて立ち止まっていてはいけません。教会は罪人の共同体ですから、常に多くの問題があります。ですから、私たちが教会内の問題に囚われて、福音の地境(じざかい)を広げることを止めてはいけません。私たちも使徒のように広い心を持たなければなりません。

  パウロには広い心がありました。教会の中に色々なことがあっても、とにかく福音は前進しなければならないということです。ですから、パウロは全く影響を受けませんでした。パウロには神様の摂理、主権、統治に対する確信がありました。だから喜ぶことができたのです。

《マタイ福音書の13章》で、イエス様が天の御国のたとえ話をされるとき、舟に乗って語られました。主が座られた舟の背景はどうようだったでしょうか。海でした。美しく広大(こうだい)な海でした。御国が広い海を越えて速いスピードで広がっていくことを連想(れんそう)させます。そのように想像すると、私たちの心が広くなり、清々(すがすが)しくなります。私たちの心が、時には厳しい環境と患難と迫害の中で狭くなることがあります。使徒パウロがコリントの信徒たちに送った手紙に「あなたがたの心が狭くなっている」という箇所があり、「あなたがたも心を広くしてください」と勧めています。「11 コリントの人たち、私たちはあなたがたに対して率直(そっちょく)に話しました。私たちの心は広く開かれています。12 あなたがたに対する私たちの愛の心は、狭くなっていません。むしろ、あなたがたの思いの中で狭くなっているのです。13 私は子どもたちに語るように言います。私たちと同じように、あなたがたも心を広くしてください」(Ⅱコリント6:11-13)。私たちの信仰生活の中で本当に大切なのは、広い視野を持つことです。その広い視野はどこから得られるのでしょうか。私たちが神様の主権の下に、そのお方の統治の下に生きていることを信じるとき、私たちの視野と心が広くなります。摂理は英語で「プロビデンス(Providence)」です。これは《Pro》 + 《Video》が合わさった言葉です。あらかじめ全て見えているという意味です。私たちは皆、神様の大きなご計画と構想の中にあります。私たちがこれを信じるとき、私たちの心は広くなります。そして、このような人を暗闇の権勢は決して閉じ込めることができません。人の本質は、苦境(くきょう)に陥ったときにこそ現(あらわ)されます。終わりが見えない状況に置かれたときに、その人の本当の姿が明らかにされます。その点で、使徒パウロは本当に素晴らしいです。彼の教えとその人生は、私たちに大きな恵みとなります。

「19 というのは、あなたがたの祈りとイエス・キリストの御霊の支えによって、私が切に期待し望んでいるとおりに、このことが結局は私の救いとなることを知っているからです。20 私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。」(ピリピ1:19-20)
 使徒パウロは、どんな場合にも恥じることなく、生きるにしても死ぬにしても、その人生を通してキリストの栄光を現わして生きることが彼の願いであったと語っています。

「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。」(ピリピ1:21)
使徒パウロにとって、キリストは人生のすべてでした。彼の人生の最終的な目的は、キリストの栄光を現わすことでした。だから「キリストは私の人生のすべてです」と告白しています。そして、死ぬことも自分にとって益だと言います。なぜ、そのように言ったのでしょうか。この手紙は、紀元62年頃に書かれました。その時はパウロがローマに送還(そうかん)され、監禁された状態で裁判を受けていて、まだ裁判の結果が出ていない状況でした。この裁判において「この者は世界を騒(さわ)がせ、ローマ帝国の秩序を揺るがせたのだから、殺さなければならない」とも言う者もありました。だから、いつ死ぬか分からない状況でした。明日にでも首(くび)をはねられるかもしれない状況でした。だから、使徒は「生きること、死ぬこと」という言葉を使っているのです。ここから、使徒の生きる姿勢が分かります。彼は生と死をすでに超えていました。このような状況にあって、使徒は福音の前進を語っているのです。

「22 しかし、肉体において生きることが続くなら、私の働きが実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいか、私には分かりません。23 私は、その二つのことの間で板(いた)ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。そのほうが、はるかに望ましいのです。24 しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためにはもっと必要です。」(ピリピ1:22-24)
使徒は今、鼻がジーンとなり涙の出るような思いで話しています。「私は、その二つのこのの間で板(いた)ばさみとなっています。」これは、釈放(しゃくほう)されて自由になるのか、それとも死刑を受けるのか、この二つことの間で板ばさみとなっているいうことです。使徒は今、生死の岐路(きろ)に立たされています。しかし、彼は何と言いますか?「私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです」と言います。「主のもとに帰ることに対する恐れは、私にはない」ということです。信じる者の中には確かな未来があります。ですから、主イエスを信じる者、天国の希望を持つ者には恐れがありません。しかし、使徒は自分が生きることが、信徒たちのためにはもっと益になると言います。彼が主のもとに帰る前に、もっと信徒たちを愛し、教え、奉仕しなければならないということです。

「このことを確信しているので、あなたがたの信仰の前進と喜びのために、私が生きながらえて、あなたがたすべてとともにいるようになることを知っています。」(ピリピ1:25)
使徒は「私は生きながらえて、あなたがたと一緒にいるようになることを知っています」と、ピリピの信徒たちを慰めます。彼は、あなたがたと愛の交わりができる時が来るという希望を語っています。そして、信徒たちの「信仰の前進」を助けたいと。この「信仰の前進」とは、信仰の成長を意味しています。信仰が成長することです。私たちの信仰が進歩(しんぽ)しなければなりません。パウロは、自分が自由にされたらそれを助けたいと言うのです。この使徒の願いは、彼が伝道して建てた教会と、彼が救った魂の信仰がより大きく成長することでした。

「そうなれば、私は再びあなたがたのもとに行けるので、私に関するあなたがたの誇りは、キリスト・イエスにあって増(ま)し加(くわ)わるでしょう。」(ピリピ1:26)
 使徒は「私が再びあなたがたのもとを訪ねると、私のことであなたがたはさらにイエス・キリストを誇ることになるでしょう」と言っています。使徒は「私があなたがたのもとに行ったら、私の信仰を証しします」と言ったのではありません。「私の美しい勝利によって、皆さんがますます主イエスを誇ることになるのではないでしょうか」と言っています。ここから私たちは一つのことが分かります。それは、キリストにある私たちの交わり(fellowship, Koinonia)が、キリストのからだをより一層(いっそう)強くするということです。

「27 ただキリストの福音にふさわしく生活しなさい。そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、私はあなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。あなたがたは霊を一つにして堅く立ち、福音の信仰のために心を一つにしてともに戦っていて、28 どんなことがあっても、反対者たちに脅(おびや)かされることはない、と。そのことは、彼らにとっては滅びのしるし、あなたがたにとっては救いのしるしです。それは神によることです。」(ピリピ1:27-28)
使徒は「あなたがたは、キリストの福音にあずかった人としてふさわしく生活しなさい。私があなたがたに会うにしても、離れているにしても、私はあなたがたが一心で福音のために生きていると証しされるのを聞きたいのです。私たちの反対者たちがどんなことをするとしても、あなたがたは彼らを少しも恐れていないと言われるのを聞きたいのです」と言います。使徒は、彼らの勇気が反対者たちにとっては滅びのしるしとなり、私たちにとっては救いのしるしとなると言います。

「あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。」(ピリピ1:29)
 使徒は、私たちはキリストを信じる特権のみならず、主のために苦しみを受ける特権をも与えられていると言います。《ヘブル人への手紙12章》にもそのような御言葉があります。子であれば訓練を受けるのだと。《ローマ人への手紙8章》にも、子どもであれば栄光とともに、苦難をもともに受けるとあります。

「かつて私について見て、今また私について聞いているのと同じ苦闘(くとう)を、あなたがたは経験しているのです。」(ピリピ1:30)
 使徒は「皆さんは、私がキリストにあって苦闘しているのを見てきたでしょう。そして、今も私が戦い続けていることを聞いたでしょう。皆さんも同じ苦闘を経験しているのです」と言って、<1章>を締めくくります。

このように使徒パウロの手紙は生死を越えた瞬間にもただ福音伝播と聖徒たちの信仰のための券面の言葉で始まります。 私たちもこれを見習ってただ福音を伝播する主の弟子たちになりましょう。お祈ります。Ω


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