2026年03月22日
*本文:ヨハネの福音書 15章18-19節、第一ヨハネの手紙 3章13-16節
この御言葉は、私たちの人生において避けることのできない「憎しみ」の問題を明らかにしています。世が私たちを憎むのは、すでにキリストを憎んだからであり、それは人間の内にある罪の現れです。 憎しみは単なる感情ではなく、怒りとなり、さらに広がれば暴力や殺人へとつながっていきます。四旬節において、私たちは十字架で殺された主を見つめながら、この憎しみの問題に真剣に向き合う必要があります。
聖書は、この憎しみの根が人間の罪にあることを示しています。人は神との関係を失い、真理から離れた結果、誤解と偽りの中で生きるようになりました。その結果、憎しみは心の中に入り込み、次第に広がっていきます。創世記に記されているように、罪には神との関係におけるものと、人との関係におけるものがあり、その両方が壊れたときに、人間は本来の姿を失ってしまいました。
しかし主イエス・キリストは、この憎しみの問題を十字架によって解決されました。主は人々の憎しみを受けて殺されましたが、その死によって憎しみそのものに打ち勝たれました。これは神に対する完全な従順であり、私たちに対する完全な愛の現れでした。従順は高慢に打ち勝ち、愛は憎しみに打ち勝ちます。このようにして主は、死によって死を打ち破られたのです。
しかし当時の人々は、この真理を理解することができませんでした。律法を重んじていた宗教指導者たちは、イエスを律法を破る者だと誤解し、ついには殺してしまいました。それは真理を知らない無知から来るものでした。主は律法を廃するためではなく完成するために来られ、律法の根底にある「愛の法」、すなわち「いのちの法」を示されたのです。
だからこそ、私たちは自分の内にある憎しみと向き合わなければなりません。世は今もなお憎しみに満ちていますが、私たちは兄弟を愛することによって、死からいのちへと移された者です。憎しみを放置すれば、それはさらに広がります。しかし御言葉と真理によってそれを悟り、断ち切ることができます。愛とは感情ではなく、十字架において示されたいのちの力です。私たちはその主の道に従い、憎しみを乗り越え、愛の中に生きる者とされているのです。