2025年02月17日
*日付: 2025年2月16日, 主日礼拝
*本文: ピリピ人への手紙2章12-30節
†今日は、《ピリピ人への手紙2章12節》から見ていきたいと思います。この章は非常に美しく、読み進めていくと特に《15節》が心に響(ひび)きます。「それは、あなたがたが、非難されるところのない純真(じゅんしん)な者となり、また、曲(ま)がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり」(ピリピ 2:15)。使徒は私たちに「光のように輝きなさい」と呼びかけています。この表現は、旧約聖書にも見られます。《ダニエル書12章》には、「賢明(けんめい)な者たちは大空の輝きのように輝き、多くの者を義に導いた者は、世々限りなく、星のようになる」(ダニエル 12:3)と書かれています。ここで示されているのは、多くの人を正しい道に導いた者が、永遠に天の星のように輝くということです。今日では、「スター」(star)という言葉は多くの人々に尊敬される人物に使われており、誰もがスターになりたいと望んでいます。しかし聖書によれば、多くの人を神へと導く者こそが、天の星のように永遠に輝く存在とされるのです。
中国では、方位を色で表現しました。東は青、西は白、南は赤、北は黒とし、さらに「北邙山(きたぼうやま)」という言葉で死後の行き先を示しました。北邙山(きたぼうやま)は「北」を象徴し、人が死ぬとその暗闇に行くとされていたのです。そしてその暗闇の中で唯一輝くのが北斗七星(ほくとしちせい)でした。しかし、聖書では多くの人を神に導く者を星にたとえ、そのような者が闇の中で輝く存在だと教えています。その意味では、使徒たちは漆黒(しっこく)の暗闇の中で輝く北斗七星のような存在なのです。今日、私たちが《ピリピ書2章》を通して学べることは、パウロが言う「キリストの心を持って生きなさい」ということです。皆さんがキリストの心をもって歩むとき、皆さん自身が星のように輝き、他者の道を照らす存在となるでしょう。
「こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努(つと)めなさい。」(ピリピ 2:12)
使徒パウロは、「私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい」と語っています。この言葉は、いつも神様の前に敬意を持って生きなさいという意味です。ここでの「恐れ」とは、人の前で恐れるのではなく、神様への畏敬の念を持つことを指しています。使徒の働き 2 章を見ると、初代教会の人々の中に恐れがあったと記されています。「すべての人に恐れが生じ…」(使徒 2:43a)とあるこの恐れは、畏敬(いけい)の念や尊敬の念のようなものです。そのような心を持って生きなさいということです。箴言(しんげん)にも、「主を恐れることは知識の初め。愚か者は知恵と訓戒(くんかい)を蔑(さげす)む」(箴言 1:7) と語られています。知識の初めとは、神様への畏敬の念を持つことです。多くの人がそのような恐れを感じて生きています。
ここで使徒パウロは、ピリピの信徒たちに恐れおののく心を持つよう呼びかけています。以前もお話ししましたが、《ローマ書8章》には、神様がご自分の御子を惜しまずに私たちのために渡されたことが書かれています。「私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか」(ローマ 8:32)。神様がご自身の御子を渡されたことの深い意味を考えると、胸が震(ふる)え、一日中その思いに囚(とら)われます。息子を渡す父の心を想像するだけで、胸が締め付けられ、言葉では表(あらわ)せない感情が押し寄せてきます。父なる神は、何のために愛する子を犠牲にされたのでしょうか。それは、私たち一人ひとりを罪から救うためです。「渡される」という表現の奥にある世界を思い巡(めぐ)らしてみてください。それは本当に胸を震(ふる)わせるものです。その深い愛を理解する時、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか)の言葉が、私たちの心に切実(せつじつ)に響(ひび)いてくるのです。イエス様は、この御父の深い愛を知っていたからこそ、激しい死の力に対しても動(どう)じることなく、堂々と立ち向かい、死を打ち破り、勝利されたのです。この話は、私たちの胸を打ち震(ふる)わせます。そして、主の愛を知った弟子たちもまた、大胆な信仰を持つようになりました。神様の強烈(きょうれつ)な愛が、川のように豊かに流れ出し、教会にあふれたのです。
「恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい」という言葉には、神学的な議論の余地が多くあります。この「達成に努めなさい」という表現からは、救いが「まだ達成されていない(Not yet)」か、もしくは「すでに成し遂げられている(Already)」のかという問いが浮(う)かびます。この「達成に努めなさい」という言葉には、まだ「Not yet」のニュアンスがあるように感じられます。では、私たちにおける救いは、「すで」に成し遂げられたものでしょうか。それとも「まだ」道半(みちなか)ばなのでしょうか。 その答えとして、主の愛と恵みを知る人にとって、救いはすでに成し遂げられているものです。では、将来において成し遂げられるものとは何でしょうか。私たちが完全な救いを理解するには、義認と聖化の両方を知ることが重要です。まず、私たちは個人としてすでに救われました(義認)。しかし、聖化はまだ道半(みちなか)ばです。したがって、「キリストの満ち満ちた身たけ」にまで達するために、さらに進み続けなければなりません。パウロはこの点を明確に教えています。ローマ書では、《1章》から《4章》までで義認を集中的に説き、《5章》から《8章》で聖化について語っています。このように、聖書には必要な要素が全て網羅され、正確に示されています。一方、グノーシス主義(Gnosticism)は、人間が救いの完全性に至るには、聖書に加(くわ)えて他の知識が必要であると主張します。しかし、使徒パウロの教えを深く読むと、彼の救済論がどれほど深遠であるかに驚かされます。使徒は、救い(義認)は信仰、すなわち主の恵みによって与えられるものであり、聖化は聖霊の力によって実現されると教えています。どちら(義認と聖化)も人間の力で成し遂げるものではありません。この言葉は本当に正直な言葉です。私たちがいくら自分の力で自分を変えようと努力しても不可能だということです。真の変化は聖霊の導きによってのみ実現されるのです。では、「達成に努める」とは具体的に何を意味するのでしょうか。これは「歴史の救い」を指しています。救いは個人の救いだけでなく、歴史の救いもあります。主の祈りにある「御国が来ますように」という部分は、この歴史の救い、つまり神の国が完全に回復されることを願うものです。私たちは個人の救いを超えて、歴史の救いのために人生を献げる者として召されています。これは実に深遠な世界です。
「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志(こころざし)を立てさせ、事(こと)を行わせてくださる方です。」(ピリピ 2:13)
神様は、私たちの中で働かれる方です。私たちの行うすべての営(いとな)みには神の主権が及(およ)んでおり、私たちはその統治の下で生きています。私たちには主なる神様がおられ、その御支配の中に私たちは在るのです。
「すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。」(ピリピ 2:14)
うちの教会は立派で分裂のない教会なので、この使徒の言葉が実感できないでしょう。しかし、争いの絶えない教会でこの御言葉に触(ふ)れると、その意味が痛切(つうせつ)に響(ひび)いてきます。使徒は「神様の統治を心に留め、すべてのことを不平を言わずに、疑(うたが)わずに行いなさい」と諭(さと)しています。この「不平を言わず、疑わずに」という表現からは、当時のピリピの教会、特に女性指導者たちの間に、確かな軋轢(あつれき)があったことがうかがえます。
「それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲(ま)がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、」(ピリピ 2:15)
陶芸家(とうげいか)が器(うつわ)を焼き上げた後、わずかなヒビがあればその器を割(わ)ってしまうシーンをテレビで見たことがあるかもしれません。使徒もまた、信徒たちが傷のない存在となることを切に願っていました。「曲がった邪悪な世代のただ中にあって」という言葉は、まさに「傷だらけの世代の中で」を意味します。使徒は私たちに「傷のない神の子どもとして、世の光となりなさい」と諭(さと)しているのです。彼らが純粋(じゅんすい)さを保(たも)ち、真っすぐに成長し、大空の星のように輝くことを願っているのです。
「いのちのことばをしっかり握(にぎ)り、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は自分の努力したことが無駄ではなく、労苦(ろうく)したことも無駄でなかったことを、キリストの日に誇ることができます。」(ピリピ 2:16)
ここでは「いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝かせる」という表現が用いられていますが、使徒は「心の目がはっきり見えるように」という表現をしばしば用いました。「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって…」(エペソ 1:18a)という言葉が示すように、私たちの心の目が明瞭(めいりょう)に見えることが重要なのです。つまり、すべては私たちの心の問題なのです。
では、私たちはこの心をどのように扱い、修練すればよいのでしょうか。使徒パウロは「心を光で照らさなければならない」と説きました。暗闇の権勢である悪魔は、常に闇に潜(ひそ)んで密(ひそ)かに働き、人の心を惑(まど)わせ暗くします。そのため、パウロは心をはっきりと照らす必要があると強調しました。私たちの心は、真の光(true light, Verelux)によって照らすことができます。この真の光とは、イエス・キリストの生き方と御言葉(word and deed)を指します。その光こそが、私たちの心を照らす力を持つのです。今日の《ピリピ書》のこの箇所では、「いのちの言葉をしっかり握(にぎ)りなさい」と教えています。それは私たちの努力(どりょく)と苦労を無駄にしないためです。死ぬほどの苦労を重ねた後で、それが無意味に終わってはならないのです。
《第一コリント人への手紙9章26節》でも、使徒は「ですから、私は目標がはっきりしないような走り方はしません。空を打つような拳闘(けんとう)もしません」と語っています。パウロは、目標がはっきりしない人生を送ったわけではなく、すべてが無駄にならないよう、はっきりとした目的を持って生きたのです。古代ローマのコロッセオでは、ランニングと格闘技(かくとうぎ)が主要な競技(きょうぎ)でした。走者(そうしゃ)には明確な方向が、格闘家には確かな目標が求められました。パウロは、「いのちの言葉」を通じて、自分が行うことの方向と目標が何(なに)であるかを明確に知って生きることができると語っています。人は時間という限られた枠(わく)の中で生きる存在であり、年月は矢(や)のようのように速やかに過ぎ去ります。だからこそ、いのちの言葉で心を照らし、私たちの努力や歩みが無駄にならないようにすることが大切です。そうして、キリストの日に自分の人生を誇りあるものとして差し出せるようにするのです。つまり、私たちの人生は最終的に誇りある生き方へと導かれなければなりません。
パウロは、報(むく)われる未来を見据(みす)え、その日を心に描(えが)きながら今日を生きていました。彼の生き方からは、自分の人生を誇れるようにと願う強い信念が感じられます。皆さんも、自分の人生を誇りたいと思いませんか。善行を積(つ)み重ねて生きる人には、強い後ろ盾(だて)があるがゆえの自信があります。使徒は絶えず自分の人生が正しい道を歩んでいるかを省(かえり)みながら生きました。彼はただ神の栄光を明らかにすることを目指していました。その中でも特に重要視したのは、多くの人を主へと導き、星のように輝く存在となることでした。 「キリストの日に誇ることができます。」ここでいう「キリストの日」とは、「ヤハウェ(Yahweh)の日」、つまり終わりの日を指します。パウロは、天国で誇ることのできる人生を目指して生きていたのです。
「たとえ私が、あなたがたの信仰の礼拝といういけにえに添(そ)えられる、注ぎのささげ物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。」(ピリピ 2:17)
使徒は、自らをいけにえとして献げることさえ喜びとすると語っています。これは、使徒自身がピリピの信徒たちのために存在する者であることを表明しているのです。最も成熟(せいじゅく)した人生とは他者のために生きることだと教えています。つまり、人生が成熟の境地(きょうち)に達すると、それは自然と他者のための生き方に変わるということです。使徒はまさにこの精神で生き、教会を開拓し、魂を愛し続けました。たとえ投獄(とうごく)されようとも、彼らのために自らをいけにえとして献げる覚悟を持っていたのです。《ローマ書12章》でも「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい」と語られているように、使徒は自身の人生の全てを、自らが建てた教会と救われた魂のための生きたいけにえとして献げたのです。
「同じように、あなたがたも喜んでください。私とともに喜んでください。」(ピリピ 2:18)
この言葉で使徒は、信徒たちにも同じ生き方を命じているのです。
「私は早くテモテをあなたがたのところに送りたいと、主イエスにあって望んでいます。あなたがたのことを知って、励ましを受けるためです。」(ピリピ 2:19)
ここには使徒がテモテを派遣する目的が明記されています。それは、彼らの様子を知ることで慰めを得るためでした。
「テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、だれもいません。」(ピリピ 2:20)
使徒パウロは、自身がピリピの信徒のために生きているように、テモテもまた彼らのために生きていると証言しています。
「21 みな自分自身のことを求めていて、イエス・キリストのことを求めてはいません。22 しかし、テモテが適任(てきにん)であることは、あなたがたが知っています。子が父に仕えるように、テモテは私とともに福音のために奉仕してきました。23 ですから、私のことがどうなるのか分かり次第(しだい)、すぐに彼を送りたいと望んでいます。」(ピリピ 2:21-23)
他の人々は自分のことばかりを考え、イエス・キリストのことをおろそかにしていましたが、テモテは違いました。彼は、まるで子が父に仕えるかのように献身的に生きたのです。これは驚くべき世界です。テモテがピリピの信徒たちに示した献身は、子が父を敬い、忠実(ちゅうじつ)に仕える姿そのものだったのです。
「また、私自身も近(ちか)いうちに行けると、主にあって確信しています。」(ピリピ 2:24)
パウロはこう語っています。「私はあなたがたのもとに無事に行きたい。命を失わずに、愛する皆さんと再び会いたいと願っている」と。彼の切なる望みが伝わってきます。
「私は、私の兄弟、同労者、戦友(せんゆう)であり、あなたがたの使者で、私の必要に仕えてくれたエパフロディトを、あなたがたのところに送り返す必要があると考えました。」(ピリピ 2:25)
ここで登場するエパフロデトという名には「愛(いと)しい」という意味があります。彼はパウロのために、ピリピからローマまでの長距離(1,800km-2,000km)を、贈り物と資金(しきん)を携(たずさ)えて旅した人物でした。そして今、パウロは彼をピリピの信徒たちのもとへ送り返そうとしています。これは、深い人間愛と信仰に基づく感動的なヒューマンストーリーであり、愛の物語です。信徒たちから送られてきたエパフロデトを、パウロが送り返すことを通じて、パウロの信念の強さが感じられます。
同様のエピソードが《ピレモンへの手紙》にも見られます。そこでは、彼は召使いのオネシモをその主人ピレモンのもとへ送り返しています。それは、キリストを通して神様と和解した者は、人間同士の間にも隔(へだ)ての壁を築(きず)かずに生きるべきだとパウロが信じていたからです。私たちは受けた恵みと愛によって、互いに真の和解を実現しなければならないのです。獄中のパウロにとって、オネシモは不可欠(ふかけつ)な存在でしたが、それでもなお、この深い信念に基づいて彼を主人のもとへ返したのです。このことからも、パウロの深い人格をうかがい知ることができます。《ピリピ書》におけるエパフロデトの話は、《ピレモン書》とは状況が異なります。エパフロデトは当初から慰問(いもん)の使者としてパウロのもとへ派遣された人物でした。パウロはエパフロデトについて、次の5つの言葉で彼を評(ひょう)しています。1)私の兄弟、2)同労者(共に苦労を重ねた仲間)、3)戦友(厳しい戦いを共に戦った同志)、4)あなたがたの使者(messengerー使者として選ばれたのですから、この人はどれほど信頼できる人だったでしょうか)、5) 私の必要に仕えてくれた人だと言いました。
「26 たがたみなを慕(した)っており、自分が病気になったことがあなたがたに伝わったことを、気にしているからです。27 本当に、彼は死ぬほどの病気にかかりました。しかし、神は彼をあわれんでくださいました。彼だけでなく私もあわれんでくださり、悲しみに悲しみが重(かさ)ならないようにしてくださいました。」(ピリピ 2:26-27)
パウロの世話をするために牢獄に赴いたエパフロデトは、そこで重病に倒(たお)れ、死の淵(ふち)をさまようことになりました。自分のために尽くしてくれた者が命の危機に瀕(ひん)したことで、パウロの心は深い苦悩(くのう)に沈みました。ここでは「悲しみに悲しみが重なる」と表現されています。しかし、エパフロデトは死の危機から奇跡的に回復し、パウロは彼をピリピへ送り返すことを決意(けつい)したのです。なぜパウロは回復したエパフロデトを送り返そうとしたのでしょうか。それは、ピリピの信徒たちがエパフロデトをどれほど心配しているかを理解し、彼らの平安を第一に考えたからです。使徒はこのエパフロデトの手に、女性指導者(しどうしゃ)たちの対立に悩むピリピの教会への愛の手紙を託(たく)したのです。この愛に満ちた手紙は、どれほど力強い影響を教会にもたらしたことでしょうか。聖書とは、まさにこのような愛の書なのです。
「そこで、私は大急(おおいそ)ぎで彼を送ります。あなたがたが彼に再び会って喜び、私も心配が少なくなるためです。」(ピリピ 2:28)
パウロは自分の喜びよりも相手の喜びを大切にしていました。自身の安楽よりも相手の喜びを優先する姿勢、これこそが真の愛なのです。愛と喜びは、まさにコインの両面のようなものです。相手の喜びを見て自分も喜ぶ、これが愛の真髄(しんずい)です。《ヨハネの福音書15章》の主の告別説教でも示されているように、深い苦難の中にあっても主イエスは内なる喜びを語られました。他者の喜びを自らの喜びとすること、これが愛です。使徒パウロも、自身の喜びよりもピリピの教会の喜びを第一に考え、「あなたがたの心配が少なくなるとき、私の心配も少なくなる」と語っています。これこそがイエス様を信じる者から漂(ただよ)う香りであり、私たちもこの香りを持つ者とならなければなりません。主の愛を経験した者たちが、この香りを分かち合いながら生きる共同体、それが教会なのです。
「29 ですから大きな喜びをもって、主にあって彼を迎えてください。また、彼のような人たちを尊敬(そんけい)しなさい。30 彼はキリストの働きのために、死ぬばかりになりました。あなたがたが私に仕えることができなかった分を果たすため、いのちの危険を冒(おか)したのです。」(ピリピ 2:29-30)
この一節の深い意味を、じっくりと考え、心に刻んでください。これこそがキリストに従う者の姿であり、福音の香りなのです。私たちもまた、この御言葉に従って生きるキリストの兄弟姉妹となりましょう。お祈りします。Ω
The steadfast love of the Lord never ceases His mercies never come to an end They are new every...
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