2025年03月03日
*日付: 2025年3月2日, 主日礼拝
*本文: ピリピ人への手紙3章4-16節
†「知識は力なり」(Knowledge is power.)という言葉がありますが、この世に存在する無数(むすう)の知識の中で、最も優れた、最も高貴(こうき)な知識とは何でしょうか? 使徒はそれを「主を知る知識、福音」であると語っています。この使徒は、神様から特別な啓示の光を受けた者でした。神様に選ばれたこの使徒を通して私たちに伝えられた真理は、あまりにも深遠で、誰もがその解き明かしに感嘆(かんたん)せずにはいられません。実際、他(ほか)の誰もがこれほど明確に説明することはできなかったでしょう。使徒は真理の深遠な世界を完全に悟り、その真理の道に従って生き、そしてその生涯を全(まっと)うしました。使徒による真理の証言と弁証は、実に驚くべきものです。それはまるで、一瞬の稲妻(いなずま)(電)が全世界を照らし出すように、使徒の証言を通して、私たちは福音の真理を鮮明に理解することができるのです。
「ただし、私には、肉においても頼れるところがあります。ほかのだれかが肉に頼れると思うなら、私はそれ以上です。」(ピリピ 3:4)
使徒パウロはどのような人物だったのでしょうか。彼は肉体、すなわち外的な基準で見ても、真に信頼するに値(あたい)する人物でした。世間的な経歴(けいれき)という点においても、卓越(たくえつ)した背景を持っていました。
「私は生まれて八日目(はちにちめ)に割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人、」(ピリピ 3:5)
ユダヤ教の正統性という観点から見ると、パウロは生まれて八日目に割礼を受けた人でした。彼はイスラエル人であり、特にベニヤミン部族の出身でした。ベニヤミン部族は、イスラエルの十二部族の中でも、すべての戦いで最前線に立って戦った勇敢(ゆうかん)な部族として知られています。狼(おおかみ)を象徴とするこの部族は、狼のような不屈(ふくつ)の精神で戦い続けた誇り高い伝統を持っていました。パウロはまさにその血を引く者として、生涯を通じて戦い続け、後退することも、止まることも知らない人物でした。さらに、パウロは「ヘブル人の中のヘブル人」であり、「律法についてはパリサイ人」でした。「パリサイ人」とは「区別された者」を意味します。当時、パリサイ人の数は約6,000人ほどだったと言われています。彼らは特別に選び分かたれた存在として、神の御言葉を忠実(ちゅうじつ)に守り、その規定(きてい)に従って生きることを追求(ついきゅう)した人々でした。パウロはそのパリサイ派に属していたのです。
「その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところがない者でした。」(ピリピ 3:6)
パウロの律法への献身は並々(なみなみ)ならぬものでした。彼は教会迫害の先頭(せんとう)に立ち、律法による義においては非難されるところがない人物でした。守るべきものすべてを守ろうと懸命(けんめい)に努めた彼は、当代最高の教師とされたガマリエルというラビの門弟(もんてい)でもありました。このように、パウロは世俗(せぞく)的な基準で見ても卓越(たくえつ)した人物だったのです。
「7しかし私は、自分にとって得(とく)であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。8a それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。…」(ピリピ 3:7-8a)
しかし、パウロはそのすべてをキリストのゆえに損と思うようになりました。イエス・キリストを知るために、一切を手放(てばな)したのです。その理由は明快でした。キリストを知る知識こそが最も高貴だからです。これは実に美しい言葉です。世の中にはさまざまな知識が存在しますが、どれほど高尚で力強い知識であっても、キリストを知る知識には及(およ)ばないということです。このキリストを知る知識が、何ものにも代えられない最も高尚(こうしょう)な知識であるとパウロは語っているのです。
「…私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、」(ピリピ 3:8b)
真にイエスを信じる者は、このように全てを捨てることができます。ピリピの信徒たちは、このパウロの言葉の重みを深く理解していたことでしょう。これは単なる理論ではなく、パウロ自身の人生の証しでした。尊敬されるラビとして最高の地位にあった彼は、優れた知識人でもありました。しかし、それら全てを捨て去ったのです。彼のこの選択は教会内でも非難の的(まと)となりましたが、パウロの応答は崇高なものでした。「私が得たものがあったからこそ、捨てることができた」と。「私がキリストを得た」ということです。 私たちもこの真理を真摯(しんし)に考える必要があります。私たちが得たからこそ、捨てることができたのです。ペテロとヨハネが、施(ほどこ)しを求める人に「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう」と言ったことを思い出してください。私たちには金銀よりももっと貴重(きちょう)で大切なものがあるのです。それがイエス・キリストです。信仰の道を歩む時、私たちは誤解に直面することがあります。厳しい視線を避けられない時もあります。しかし、そのような時こそ、立ち止まって考えるべきことがあります。私たちが捨てたものは何か、そして得たものは何か。どのようにしてその貴重なものを手に入れたのか。答えは明確です。捨てることによって得たのです。東洋の宗教、特に仏教の教えでは、真理を得るための第一の徳目は「捨てること」とされます。確かに、捨てなければ得ることはできません。しかし、問題は捨てても得られない時です。さらに悲しいのは、より大きなものを得ているのに、その価値に気づかない時です。
この使徒は、かけがえのない真理を手に入れるために、世のすべてを損とみなすほどの決断をしました。彼の目には、この世のあらゆる知識が色あせて見えるほど、驚くべき高貴な知識を見出し、それを手に入れたのです。ここで注目すべきは、使徒の態度が他のものを排他的(はいたてき)に否定するものではないということです。むしろ、彼ははるかに大きな何かを得たのです。他のものを手放(てばな)してもよいほどの、より崇高な境地(きょうち)に到達したのです。皆さんは、この使徒の言葉を不可思議(ふかしぎ)に感じるでしょうか。それとも、その真意(しんい)を理解できるでしょうか。私たちの教会の30-40年の歴史を振り返ると、私たちはこの使徒が語る世界の深みを、常に感じながら歩んできたように思えます。
今、パウロは語ります。彼は高貴な人生を送ることができたにもかかわらず、さらに高貴なものを見出したがゆえに、すべてを捨てたと。あなたの人生も、そうであるはずです。少なくとも私にとっては、確かにそうです。この言葉の意味は、限りない深みを持って響いてくるのです。
「キリストにある者と認められるようになるためです…」(ピリピ3:9a)
「認める」のではなく、「認められる」ようになるためと語りました。これは能動態(のうどうたい)ではなく受動態(じゅどうたい)です。この箇所はパウロの人生観を表現しています。「主が私を認められるまで、主が私を見つけるまで」という視点です。つまり、私が主を認めたり見つけたりするのではないのです。使徒パウロは、主に認められることを願いながら人生を歩んでいました。これこそが使徒の人生における基本精神でした。
「キリストにある者と認められるようになるためです。私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。」(ピリピ 3:9)
義には二つがあります。「律法の義」と「福音の義」です。これらは本質的に異なる次元(じげん)のものです。1) 律法の義は、律法を実践(じっせん)することによって得られる義であり、道徳と倫理の次元のものです。2) 福音の義は信仰に基づく義です。これは神様から与えられた義と表現されます。私たちが神の国の民となるのは、自らの行いによってではなく、神の御子を通して、ただ恵みによって実現するのです。私たちが義とされたのは、私たち自身の善良(ぜんりょう)さによってではなく、主の善性と愛と恵みによってなされました。だからこそ、「認められるようになるため」という表現が適切(てきせつ)なのです。主の恵みによってなされたのであり、私が見出したのではなく、主によって認められたことこそが、恵みの本質なのです。
「私は、キリストとその復活(ふっかつ)の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、」(ピリピ 3:10)
私たちの「信仰の究極の目的」とは何でしょうか。それは、私たちが復活の力の中に生きることです。パウロがこの手紙を通して伝えようとしているのは何でしょうか。それは、イエス・キリストが、神としてのありかたを捨てられないとは考えず、ご自身を空しくして、この罪に満ちた現実の中にしもべの姿をもって来られたという事実です(ピリピ2章)。しかし、主の歩まれた道を見ると、最終的に主は復活の権能(けんのう)の座へと昇(のぼ)られました。復活は美しく栄光に満ちた座です。私たちは主の歩まれた道を通して、復活が苦難を経(へ)て得られたものであることを理解できるのです。
「…キリストの死と同じ状態になり。」(ピリピ 3:10b)
これは実に深遠な言葉です。世間(せけん)一般の価値観とは一線を画(かく)すものです。「同じ状態になる」とは、その道に従うことを意味します。「死と同じ状態になる」とは、苦難を愛するということです。使徒パウロは「いかなる苦難が待ち受けていようとも、主が歩まれた道を私は愛する」と宣言しているのです。この道を歩む先に何が待っているのでしょうか。究極的には、復活の力にあずかることになるのです。
「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。」(ピリピ 3:12)
この聖句は、私たちが心から愛し、何度も読む御言葉です。現在は苦難の中にあっても、将来は栄光の座に至るという約束が示されています。「キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。」パウロはダマスコの途上でイエス様に捕らえられました。そこで彼の人生は劇的な転換を迎えました。それ以降、パウロは険(けわ)しい道を歩むこととなります。その道がいかに困難であったかは、《第二コリント人への手紙11章》に詳しく記されています。パウロは、捕らえられた者として、今はそれをつかむためにこの道を進むのだと語っています。この表現は美しく、また深い洞察(どうさつ)に満ちています。パウロはこの世界の本質を深く理解していたのです。
皆さん、私たちの人生がより深い次元に到達するためには、この世界が開かれなければなりません。私たちの信仰が単なる宗教的な戒律や慣習的な信仰にとどまることなく、この使徒が体現した深遠な世界へと私たちも踏み入っていく必要があります。パウロはこの志(こころざし)を持ってピリピの教会を開拓し、その魂を教え導きました。ピリピの教会は、ヨーロッパ最初の教会でした。その後、ヨーロッパはキリスト教の王国(Christendom)となり、キリスト教の大陸として発展していきます。その起点となった教会がピリピの教会です。私たちが今読んでいるピリピ書は、まさにこの教会に宛(あ)てて書かれたものです。使徒パウロは、崇高な言葉をもって、愛するピリピの教会の人々の心の扉を開き、新たな世界の展望(てんぼう)を示しているのです。
パウロは主に捕らえられました。しかし今度は、パウロ自身が主を捕らえるために追求しているのです。その道のりは茨(いばら)の道であり、苦難の連続でした。この使徒は鞭打(むちう)たれ、追(お)われ、時には石で打たれ、死んだものと思われて城外(じょうがい)に投げ捨てられることさえありました(IIコリント11章)。しかし、彼が歩むそのすべての苦難の道は「私が主を捕らえようとするため」という目的を持っていたのです。《第一コリント書9章》にはこう記されています。「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得(かくとく)するために、すべての人の奴隷になりました。」(Ⅰコリント 9:19) ここでパウロは、自分が自由な者でありながら、自らしもべの立場を選んでいるという両面性を語っています。使徒は主に捕らえられながらも、自ら主を捕らえようと追い求めたのです。私たちはこの両面を理解する必要があります。もし私たちがこの両面性を見失い、一方のみを見るならば、私たちの心は閉(と)ざされてしまいます。そのため、《第二コリント書6章》でパウロはこの両面性について語り、心を広くするように勧めています。「あなたがたに対する私たちの愛の心は、狭くなってはいません。むしろ、あなたがたの思いの中で狭くなっているのです。私は子どもたちに語るように言います。私たちと同じように、あなたがたも心を広くしてください。」(Ⅱコリント 6:12-13) 心を広くするとは、心に新たな空間(room)を作り出すことです。そうすることで、清々(すがすが)しい風が吹き込んでくるのです。パウロが「捕らえようとして追求している」と語る時、それは自らの意志でこの道を歩むという決意を表しています。そしてその言葉には、切迫感(せっぱくかん)と躍動性(やくどうせい)があります。
「兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸(の)ばし、」(ピリピ 3:13)
これは心を打つ言葉です。教会がある程度の繁栄(はんえい)を得ると、ともすれば安住(あんじゅう)して、自己満足に陥りがちです。しかし、パウロの姿に見られる驚くべき点は、彼がそうした誘惑に屈(くっ)しなかったことです。パウロは高邁(こうまい)な知識の中に安住し、自己陶酔(とうすい)的な生活を送ることもできたはずです。当時のユダヤ人ラビたちが律法をいかに深く愛していたことでしょうか。律法の究極の目的は魂の自由を得ることにあります。使徒パウロは罪からの解放を得て、その自由を満喫(まんきつ)しながら生きることも可能だったでしょう。永遠のいのちを得た者は、往々(おうおう)にして安逸(あんいつ)な生活に埋没(まいぼつ)しがちです。しかし、この使徒の偉大さはどこにあるのでしょうか。彼の人生の態度がそれを物語っています。それは、彼が「すでに捕らえた」などとは考えなかったことです。過去のものを忘れ、前のものに向かって全身全霊(ぜんしんぜんれい)を傾(かたむ)けて追い求めたのです。私たちもまた、この使徒の教えを心に刻みましょう。
未来を切り開いていく者たちは、過去の栄光や苦悩にとらわれることはありません。このピリピ書を詳しく読むと、ピリピ教会の中に争いがあったことがわかります。なぜ彼らの間に争いが生じたのでしょうか。その根本的な原因は、彼らが未来への道筋(みちすじ)を見出(みいだ)せず、自己の殻(から)の中に閉じこもっていたことにあります。これこそが自己陶酔(とうすい)の状態です。現在の信仰的境地に酔(よ)いしれているのです。これは信仰が停滞(ていたい)し、危険な方向に向かう要因でもあります。パウロは「うしろのもの」、すなわちすでに過ぎ去ったものを手放(てばな)し、前方(ぜんぽう)にあるものを捕らえるために邁進(まいしん)しました。私たちはこの御言葉を深く黙想する必要があります。これは各家庭においても、またあらゆるコミュニティにおいても、心に留めておくべき重要な教えです。
「目標を目指して…」(ピリピ 3:14a)
この目標とは何でしょうか。それは神の国とイエス・キリストです。これは《使徒の働き28章》の結論でもあります。この真理を宣べ伝えることにおいて、誰も妨(さまた)げる者(もの)はいなかったと記されています。“No one can stop us!”
「キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞(しょう)をいただくために、目標を目指して走っているのです。」(ピリピ 3:14)
パウロは、「神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っている」と語りました。パウロの信仰は報酬(ほうしゅう)を目指す信仰です。律法の信仰もまた報酬を目指す信仰です。これは正しい言葉です。私たちは恵みを語る際に報酬としての側面(そくめん)を見落(みお)としがちですが、神からの褒賞(ほうしょう)が確かに用意されているのです。パウロは必ず報いがあることを意識しながら、目標に向かって人生を歩んでいました。マラソンの優勝者(ゆうしょうしゃ)が栄冠(えいかん)を戴(いただ)くように、必ず報いが伴うのです。《ヤコブの手紙》にはこのような御言葉があります。「試練に耐える人は幸いです。耐え抜(ぬ)いた人は、神を愛する者たちに約束された、いのちの冠を受けるからです」(ヤコブ 1:12)。私たちの人生の終着点(しゅうちゃくてん)において、栄光の冠が授けられるのです。いのちの冠が与えられるということです。マラソンの優勝者に授けられる月桂冠(げっけいかん)を、ギリシャ語で「ステファノス(στέφανος, stephanos)」と呼びます。この言葉は、教会の最初の殉教者「ステパノ(Stephen)」の名と同じ語源を持ちます。ステパノは残虐(ざんぎゃく)にも石打ちによって殺された殉教者です。最初の真理の証人、伝道者として死を迎えた人です。しかし、彼は真の勝利者です。私たちは彼に栄光の冠を捧げます。ステパノは、その名の通り、勝利の月桂冠(げっけいかん)となったのです。パウロはその冠を得るために全力で追い求めると語っているのです。
《ヨハネの黙示録》には七つの教会が登場しますが、その中で二番目のスミルナにある教会に対して、主はこのように語られました。「…死に至るまで忠実(ちゅうじつ)でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与える。」(黙示録 2:10b) このように主は教会を励まされたのです。使徒パウロは、自らがこの冠を得るために走り続けるのだと語りました。皆さんにも人生の目標があるはずです。その目標とは何でしょうか。人生のゴールテープを切る日、それは主の御前に立つ日となるでしょう。パウロは「命の冠を得る」という明確な目標を掲(かか)げて走り続けました。「よくやった、忠実なしもべだ。私はあなたに命の冠を与える。」この言葉を励(はげ)みに、彼は前進し続けたに違いありません。
「ですから、大人である人はみな、このように考えましょう。もしも、あなたがたが何か違う考え方をしているなら、そのことも神があなたがたに明らかにしてくださいます。」(ピリピ 3:15)
「大人である人」とは、救われた者を指(さ)します。彼らはこのように考えるでしょう。パウロは言います。「私はこのような考えに基づいて人生を歩んでいます。しかし、あなたがたの中に私とは異なる考えを持つ人がいるでしょうか。それも良いのです。どのような形で生きていても、それは価値あることです。主は、それぞれに相応(ふさわ)しい方法と報いをもって、あなたがたを受け入れてくださるでしょう。」
「ただし、私たちは到達したところを基準にして進むべきです。」(ピリピ 3:16)
速く走る者もいれば、ゆっくりと歩む者もいます。霊的成熟(せいじゅく)の高みに達した者もいれば、まだその途上にある者もいます。しかし、いずれにせよ、私たちは皆、同じレース場(じょう)に立つ走者(そうしゃ)です。私たちは様々(さまざま)な形で主への献身を表しています。それぞれが、心を尽くして走ることを願っているのです。私たちは主に倣(なら)い、主に向かって歩むことを切望(せつぼう)しています。使徒は今、私たちの人生の終わりに、それぞれに相応(ふさわ)しい形の報いを受ける者となることを願っていると語っているのです。
この使徒の勧めに従って、来る四旬節の期間を主の愛を深く黙想し、それぞれの場所で最善(さいぜん)を尽くす聖徒になりましょう。お祈りします。Ω
The steadfast love of the Lord never ceases His mercies never come to an end They are new every...
*日付: 2025年3月2日, 主日礼拝 *本文: ピリピ人への手紙3章4-16節 †「知識は力なり」(Knowledge is...