2021年11月07日
本文:創世記4章1-12節
ルカ15章29節
『しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。
その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。』
「お父さんの愛は不公平だ。自分のほうがもっと義人なのだから、もっと大きな愛と権限を与えられて当然だ。」
私たちの基準はいつも相対的です。パリサイ派は、取税人よりは義人であり、取税人はパリサイ派よりは罪人である、これが相対的な観点です。
しかし、自分が罪人かどうかは、創造主なる唯一の神様の目で判断されるのです。
放蕩息子のたとえで登場する兄と父との間には、父と子の間にあるべき愛の連帯が見えませんでした。
放蕩息子である弟は、自分が誇っていたものを失った時に父の元に帰ってきました。一方、父のそばでずっと仕えてきた兄でしたが、
父に対する熱心さは、父に対する愛による熱心ではなかったのです。父のそばで純金のような熱い信仰を育む立場であるのに、
弟がどれだけ祝福されたかに関心がありました。あの人のほうが私よりももっと祝福されるのではないか。
私にはどうしてこんなに少ないのですか。お父さんの愛を測定して比べたりします。私たちが聖書を読むと、
パリサイ派の狭量が残念で仕方ありません。しかし彼らの心情の深いところを探ってみると、私たちにも同じ姿があるのであるが分かります。