礼拝説教

平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい


2024年10月14日

†今日の御言葉は<エペソ人への手紙4章>です。<エペソ書>は全6章で構成(こうせい)されており、前半(ぜんはん)3章と後半(こうはん)3章に大別できます。前半3章では、使徒パウロが高尚(こうしょう)な福音の真理と神秘について語っています。これは「教理」と呼ばれる部分です。ここでパウロは、エペソの聖徒たちが必ず知っておくべき重要な教え:神様が私たちを選んで救われたその深い御心、その救いのご計画と、人間と歴史を扱(あつか)われる神様の深い神秘の世界について詳しく説明しました。 後半3章、特に今日取り上げる4章からは、主を信じ福音の中に生きる者が実践(じっせん)すべき生活について語られています。これは「倫理(りんり)」の部分と言えるでしょう。ここから使徒パウロの倫理的な勧めが始まり、「このように生きなさい」という指針(ししん)が示(しめ)されます。

「さて、主にある囚人(しゅうじん)の私はあなたがたに勧めます…」(エペソ 4:1a)

「主にある囚人の私は」と言っています。これは<ピレモン書>の冒頭(ぼうとう)にある「キリスト・イエスの囚人パウロ」と同じ表現です。この言葉には、「囚人であるわたしの勧めだからこそ、注意深く聞いてほしい」という切実(せつじつ)な思いが込められています。「皆さん、このように生きなさい」と言っています。

「…あなたがたは、召(め)されたその召しにふさわしく歩みなさい」(エペソ 4:1b)。

ここでパウロは、私たち一人一人に「召命(しょうめい)」があることを強調しています。その召命を常(つね)に心に留めて生きることの重要性を説いているのです。この教えは1章18節とも呼応(こおう)しています。「また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富(と)んだものか」(エペソ1:18)。ここでも、私たちが「神の召しにより与えられる望み」が何であるかを常に意識(いしき)しながら生きるべきだというのです。これこそが、私たちの人生において最も重要な指針(ししん)となるのです。

イエス・キリストを信じる者には皆、召命(しょうめい)(Calling)があります。主が私たちを召(め)し、それぞれの職(しょく)を任命されたのです。従って、私たちも自らの召命を自覚(じかく)し、その召命にふさわしく生きる必要があります。

「謙遜(けんそん)と柔和(にゅうわ)の限りを尽(つ)くし、寛容(かんよう)を示(しめ)し、愛をもって互いに耐え忍(しの)び」(エペソ 4:2)。

パウロは今、4つの徳目について語っています。それは、1)謙遜であること、2)柔和であること、3)寛容を示すこと、そして4)愛をもって互いに 耐え忍ぶことです。なぜパウロはエペソ教会にこのようなことを伝えているのでしょうか。その理由を、私たちは黙示録の記述(きじゅつ)から知ることができます。前回も触(ふ)れましたが、エペソ教会は主から賞賛(しょうさん)を受けました。<黙示録2章1-3節>にはこう記(しる)されています。「1 エペソにある教会の御使いに書き送れ。『右手に七つの星を握(にぎ)る方、七つの金の燭台(しょくだい)の間を歩(ある)く方が、こう言われる──。2 わたしは、あなたの行い、あなたの労苦(ろうく)と忍耐を知っている。また、あなたが悪者(わるもの)たちに我慢がならず、使徒と自称(じしょう)しているが実はそうでない者たちを試(ため)して、彼らを偽り者だと見抜(みぬ)いたことも知っている。3 あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れ果てなかった」」(黙示録2:1-3)。エペソ教会の聖徒たちは、自称(じしょう)使徒と呼ばれる者たちの誘惑や偽りの教理、異端思想(いたんしそう)に陥(おちい)ることなく、むしろ彼らと熱心に戦い、問題を撲滅(ぼくめつ)しました。これはコリント教会やガラテヤ教会とは異なる姿勢でした。そのため、エペソに送られた手紙は、コリントやガラテヤに送られた手紙とは内容が異なります。このような姿勢ゆえに、彼らは主から褒(ほ)められたのです。しかし、その後に主の叱責(しっせき)が続きます。<黙示録2章4-5節>には次のように記(しる)されています。「けれども、あなたには責(せ)めるべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたのか思い起こし、悔い改めて初めの行いをしなさい。そうせず、悔い改めないなら、わたしはあなたのところに行って、あなたの燭台(しょくだい)をその場所から取り除く」」(黙示録 2:4-5)。主は、彼らがどこから落ちたかを思い起こし、悔い改め、初めの行いをするよう命じられました。あの有名な「初めの行いをしなさい」という言葉は、ここから来ています。これは、彼らが激しく戦う中で、愛の純粋(じゅんすい)な姿を失ってしまったということです。

<エペソ書4章>において、使徒パウロは教会に向けた彼の切なる願いを語っています。その願いとは何でしょうか。それは「教会の一致」です。パウロは、教会が主のからだであり、そのからだは一つであるべきだと強調しています。しかし、現実には教会がどんどん分裂(ぶんれつ)していくという問題があります。では、教会を分裂させる要因(よういん)は何でしょうか。教会史を研究する専門家たちは、教会が分裂する主(おも)な理由を二つ挙(あ)げています。一つ目は、教会の中で人が政治(せいじ)的な駆(か)け引(ひ)きをすることです。二つ目は、神学的な相違(そうい)です。それぞれが信じる教理と主張が異なるにもかかわらず、自分の解釈(かいしゃく)だけが正しいと固執(こしつ)してしまうのです。このような態度が、教会の分裂を引き起こしてしまいます。結果として、主のからだである教会が分断されてしまうのです。しかし、エペソ教会は間違った教理を徹底(てってい)的に排除(はいじょ)し、福音の真理を守(まも)り抜(ぬ)いた教会でした。そのため、主からの賞賛(しょうさん)を受けたのです。ところが、使徒は彼らが失ってはならないものを失ったと指摘します。 それはまさに初めの愛、最初に持っていた愛です。

それだけでなく、エペソ教会が持つべき徳がありました。使徒パウロは、彼らが持つべき重要な徳目(とくもく)について語っています。その中で最初に挙(あ)げられているのが「謙遜(けんそん)」です。パウロは「皆さん、謙遜になりなさい」と勧めています。これは、イエス・キリストご自身の言葉を思い起こさせます。<マタイによる福音書11章29節>で、イエス様はこう語っています。「わたしは心が柔和(にゅうわ)でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい」(マタイ11:29)。主の心は「柔和」であり「謙遜」であるということです。これら二つの心は同じものです。謙遜とは、自己を低くする心です。一方、柔和は優しい心を指します。イエス・キリストは、まさにこのように生きられました。このことは、エペソ書の次に続くピリピ書でも詳しく述(の)べられています。「6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、7 ご自分を空(むな)しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現(あらわ)れ、8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました」(ピリピ 2:6-8)。この箇所は、主がいかに自らを低くされたかを鮮明(せんめい)に描いています。これこそが真の謙遜の姿なのです。謙遜とは自らを低くする心であり、同時(どうじ)に他人を自分より優(すぐ)れていると考える心でもあるのです。

人々が少人数(しょうにんずう)で集まる時は和解(わかい)が比較(ひかく)的容易です。しかし、大勢(おおぜい)が集まると、それぞれの考えや理論が衝突(しょうとつ)し、分裂しやすくなります。初期教会でもこの問題は顕著(けんちょ)でした。例えば、コリントの教会では、神殿にある肉を食べるべきか否(いな)かで意見が分かれ、争いが生じました。ローマの教会でも同様(どうよう)の問題があり、パウロはローマ書14章で、信仰の「弱い者」と「強い者」との分裂をどう扱うべきかについて詳しく述べています。では、キリストのからだである教会が分裂の痛みを経験しないためには、どうすればよいのでしょうか。その答えは「謙遜」にあります。

言葉に長(た)けた優(すぐ)れたラビ(先生)であった使徒パウロは、「謙遜」と「柔和」が並べて語られていることを見過(みす)ごすはずがありません。これらの徳目(とくもく)が共に言及(げんきゅう)される理由があるのです。特に、当時メイン教会のようなエペソ教会にとって、謙遜と柔和は必須(ひっす)の徳目でした。

当時のエペソ教会は、初期キリスト教会の中で主力(しゅりょく)の教会でした。使徒パウロは、彼らが持つべき第一の徳目として「謙遜」を挙げました。この謙遜こそ、イエス・キリストの生き方そのものでした。主イエスは、屠殺場(とせつじょう)に引きずり込まれる子羊のようでした。力による支配や勝利を最高の価値とはしませんでした。むしろ、沈黙(ちんもく)し、耐え忍ぶ姿勢を貫(つらぬ)かれました。これは、勝利を誇(ほこ)る凱旋将軍(がいせんしょうぐん)の姿とは対照(たいしょう)的です。エルサレム入城(にゅうじょう)の場面を思い起こしてみましょう。神の御子が小さなろばに乗って町に入る姿は、当時の世界を支配していた権力者たちとはあまりにも異なっていました。神の御子が自らの都(みやこ)に入る姿として、これほど謙遜な姿はありません。

エペソ教会は、非常に誇り高い教会でした。パウロが最も長く牧会した教会として知られています。<使徒の働き20章36節>には、パウロがエルサレムに出発する直前(ちょくぜん)、小さな港町(みなとまち)ミレトスで告別の説教を終えた後、すべての長老たちが一緒にひざまずき、一緒に祈る様子(ようす)が描かれています。「こう言ってから、パウロは皆とともに、ひざまずいて祈った」(使徒 20:36)。この場面こそ、エペソ教会の謙遜と柔和な姿を象徴(しょうちょう)しています。パウロは「このことを忘れてはならない」と、この姿勢の重要性(じゅうようせい)を強調したのです。エペソ教会は強大な影響(えいきょう)力を持っていましたが、後に「初めの愛」を失ってしまったのでした。彼らは高潔(こうけつ)さを失わず、真理を守り、厳しい迫害や困難(こんなん)にも屈(くっ)しない強さを持っていました。しかし、彼らが本当に心に留めるべきことがあったのです。それは、私たちの中にある真の強さは、実は「弱さ」にあるということです。優しさという徳目こそが、本当の強さなのです。パウロは、エペソ教会に対して切に勧めています。剣と剣がぶつかり合う殺伐(さつばつ)とした世界ではなく、互いを思いやり、優しく、柔和で、謙虚な心で生きる教会になるようにと。

中国の古典(こてん)「菜根譚(さいこんたん)」には、人体(じんたい)の強さについての興味深い洞察(どうさつ)があります。人体で最も硬(かた)いのは歯で、最も柔らかいのは舌です。しかし、どちらがより強いでしょうか。実は、柔らかい舌の方が強いのです。歯は最終的に全て抜(ぬ)けてしまいますが、舌は生涯を通(つう)じて私たちの体に残ります。この例えは、柔和さこそが真の強さであることを示唆(しさ)しています。教会も同様です。強固(きょうこ)な基盤(きばん)と構造(こうぞう)も必要ですが、それ以上に柔和さを失ってはいけません。教会は人為(じんい)的に作られた組織(そしき)ではなく、聖三位一体の神によって設立(せつりつ)されたキリストのからだなのです。私たちはただそれを管理する役割(やくわり)を与えられているだけです。そして、その管理において最も大切なのが、謙遜と柔和の心なのです。

パウロは、次に「耐え忍ぶ」という徳目を挙げています。これは前述(ぜんじゅつ)の謙遜、柔和と密接(みっせつ)に関連しています。<ヘブル人への手紙12章2節>には「イエスから、目を離さないでいなさい」とあります。なぜイエス様を見つめ続けることが大切なのでしょうか。それは、長く耐え忍(しの)ばれた主の生涯が、私たちの人生の模範(もはん)となるからです。主は十字架上で極限(きょくげん)の苦痛を耐え忍ばれました。私たちも苦しい状況にあるとき、視線を留めるべき先はイエス・キリストなのです。「信仰の創始者(そうししゃ)であり完成者(かんせいしゃ)であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱(はずかし)めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座(ちゃくざ)されたのです」(ヘブル 12:2)。<イザヤ書53章>にも描かれている受難(じゅなん)のしもべの姿は、まさに主が歩まれた道です。私たちもこの姿を見つめ、長く耐え忍ぶ必要があります。

さらにパウロは「愛をもって互いに寛容(かんよう)になりなさい」と勧めています。苦しみや疲れを抱(かか)えている人がいるなら、彼らの重荷(おもに)を共に背負ってあげてください。<ガラテヤ書6章2節>には「互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就(じょうじゅ)することになります」とあります。寛容とは、相手の重荷を背負うことです。彼の事情をよく聞き、抱(だ)くことです。愛が与えることなら、寛容は相手の困難と罪を抱くことです。その重荷を私が背負うことです。 私たちが互いに争うとき、心を広くする必要があります。<第二コリント人への手紙6章13節>の「あなたがたも心を広くしてください」という言葉があります。さらに深く掘(ほ)り下(さ)げるなら、これは「赦し」を意味します。たとえ相手が罪人であっても、主が私たちの罪を赦されたように、私たちも相手を赦すのです。これこそが福音の本質であり、主が私たちに全生涯を通して示(しめ)された世界です。この福音が私たちの内に浸透(しんとう)すれば、私たちもこのような人格(じんかく)と姿勢を持って生きるようになるのです。使徒パウロがエペソ教会に宛(あ)てた手紙で、これら4つの重要な徳目―謙遜、柔和、忍耐、寛容―を強調したのは、彼らがこれらの特質(とくしつ)を備(そな)えることを切に願ってのことでした。

「平和の絆(きずな)で結ばれて、御霊による一致を熱心に保(たも)ちなさい」(エペソ 4:3)。

「聖霊による一致を」と言いました。聖霊は私たちを一つにする神の霊です。聖霊によって、私たちは一つになりました。ユダヤ人と異邦人の間にあった隔(へだ)ての壁は、イエス様の血によって崩(くず)され、互いに和解するようになったのです。こうして、私たちに与えられたものが教会です。すべての民がキリストにあって一つとなりました。聖霊が私たちを一つにしてくださったのです。キリストのからだである教会を分裂させることは、主のからだを引き裂(さ)くことと同じです。ですから、私たちは教会を破壊(はかい)する者ではなく、主のからだなる教会を一つにまとめ、立て上げる者でなければなりません。それこそが、私たちの生活において最も優先(ゆうせん)すべきことです。これは、主が遺言(ゆいごん)のように残された告別の説教で語られた言葉です。人が最も大切に残したいことがあれば、それを遺言に記(しる)します。<ヨハネの福音書17章>にある主の告別の祈りを見てください。「また、わたしはあなたがくださった栄光を彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです」(ヨハネ 17:22)。主が弟子たちを置(お)いて神様に捧げた最後の祈りで、「彼らも一つになるように」と祈られました。ここに、主のすべての心と思いが込められています。主は彼らが分裂したり、崩(くず)されたり、引き裂(さ)かれたりせず、一つになることを切に願っておられたのです。

教会は、主の血の代価によって建てられたものです。また、聖霊が築(きず)かれたところでもあります。キリストの美しいからだなる教会が建てられました。この一致を守るために、私たちは全力を尽(つ)くさなければなりません。

「あなたがたが召(め)された、その召しの望みが一つであったのと同じように、からだは一つ、御霊は一つです」(エペソ 4:4)。

からだは一つです。キリストを頭として、私たちは一つのからだです。また、教会は一つである御霊から生まれました。私たちは一つの望みの中で召されています。その望みとは何でしょうか。それは未来に属(ぞく)する事柄(ことがら)であり、神の御国です。

「主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです」(エペソ 4:5)。

私たちは(分かれることも、)引き裂(さ)くことも、別(わか)れることもできません。主もひとり、信仰も一つ、バプテスマも一つです。

<後略>
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