礼拝説教

このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。


2025年06月22日

*本文:コロサイ人への手紙2章1-5節

†今日の神様の御言葉は、《コロサイ人への手紙2章》を見たいと思います。

「私が、あなたがたやラオディキアの人たちのために、そのほか私と直接顔を合わせたことがない人たちのために、どんなに苦闘しているか、知ってほしいと思います。」(コロサイ2:1)
コロサイ人への手紙は、パウロがローマに投獄されていた時期に記された獄中書簡の一つです。これは彼の獄中書簡の中で最初に執筆されたものとされています。コロサイ教会は、パウロ自身が開拓した教会ではありませんでした。実際、パウロはコロサイの地を訪れたことがなく、その教会の信徒たちと直接対面する機会もありませんでした。しかし、そのような状況にもかかわらず、彼は熱意を持ってこの教会に宛てて手紙を書き送ったのです。
《コロサイ1章》のテーマは「パウロのキリスト論」です。この章においてパウロが最も力強く訴えかけたのは、「イエスとは誰か」という根本的な問いに対する彼の深い理解と確信でした。なぜパウロはこれほどまでにキリスト論を強調したのでしょうか。それは、キリスト教の教理の中で、キリスト論が最も本質的な重要性を持つからです。私たちが《コロサイ1章》を学ぶことで、「パウロのキリスト論」に対する深い理解を得ることができます。パウロは主の啓示を受けて立ち上がった人物であり、神様に特別に選ばれた器でした。当時のユダヤ人と異邦人という二つの世界の架け橋となり、特に異邦人のための偉大な使徒として働きました。彼は《コロサイ1章》において、「イエスとはこのような方である」という明確な宣言をもって、イエスの本質を説き明かしたのです。ですから、1章がいかに重要であるかが分かります。ここで一つの疑問が生じます。なぜパウロは、自身が直接開拓したわけでもないコロサイ教会に、このキリスト論の真髄を伝える必要があったのでしょうか。その理由は、コロサイ教会がキリスト論において混乱と動揺を経験していたからです。パウロは、揺らぐ教会を正しい信仰の土台へと導くために、キリスト論を力強く強調し、丁寧に教え導いたのです。

初代キリスト教会は、「グノーシス主義 (霊知主義、Gnosticism)」と「仮現説 (Docetism)」という二つの重大な思想的挑戦に直面しました。これらの挑戦は教会の本質に関わる重要な問題であったため、それぞれを詳細に見ていく必要があります。聖書の多くの教えは、実際にこれらの挑戦に対する応答として記されたものです。現代を生きる私たちもまた、同様の挑戦に直面しています。世俗的な哲学や巧妙に構築された理論、そして不十分な理解によって歪められた解釈が、純粋な福音の真理を覆い隠そうとしています。これらは信仰生活を送る信徒たちの心に混乱をもたらすものです。
「グノーシス主義 (Gnosticism) は、福音のみでは救いは完全ではなく、他の知識と哲学を組み合わせてはじめて真の救いが達成されると主張します。さらに、この思想は霊の絶対的優位性を説き、肉体を無価値なものとして否定します。パウロはコロサイ書において、このグノーシス主義の主張に対して最も体系的で完璧な弁証を展開しました。使徒ペテロは「むしろ、心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい」と語り(Ⅰペテロ 3:15)、またパウロは「真理の戦いにおいて、常に勝利を収めるように」と教えています(Ⅱコリント 10:3-5)。グノーシス主義の最も深刻な問題点は、福音の純粋性を損なうことにあります。この思想は、福音だけでは救いに至ることができないと主張し、さらなる「霊的な知識 (霊知、Gnosis)」の必要性を説きます。具体的には、人間の内に存在するとされる「神聖な粒子 (divine particle)」を覚醒させることで完全性に到達できると説くのです。

《コロサイ書》において、パウロは自身が一度も訪れたことのない、牧会経験もない教会に向けて、最も伝えたかったキリスト論を渾身の力で説き明かしています。それは、コロサイ教会が深刻な教理的混乱に見舞われていたからでした。この教会を揺るがしていたのは、グノーシス主義 (靈知主義、Gnosticism) と仮現説 (Docetism) という二つの思想でした。グノーシス主義は霊的なものだけを尊び、肉的なものを無価値とする考え方です。一方、仮現説はイエスの人としての姿は単なる見せかけに過ぎず、実際の肉体を持っていなかったとする説です。特に仮現説は、グノーシス主義的な観点からイエスの肉体を実体なき幻とする巧妙な主張でした。彼らは「神の御子である尊い御方が、どうして肉体を持って来臨することができようか」と論じ、イエスが肉体をもってこの地上に来られた事実を否定しました。つまり、イエスの肉体は実在せず、「偽りの現れ」―文字通り「仮現」―に過ぎないと主張したのです。このような状況下で、グノーシス主義と仮現説に対する明確な弁証が必要とされていたのです。
今日の教会もまた、同様の挑戦に直面しています。「ニューエイジ運動 (New Age Movement)」をはじめとする様々な世俗的な運動が存在しますが、世のいかなるものも人間の魂を真に満たすことはできません。「主は私の満足である」という詩篇の御言葉は、永遠の真理を示しています (詩篇 107:9)。人間の魂は、主の恵みとその愛を知る時にのみ、真の満足を得ることができるのです。しかし今なお、この世界を揺るがす勢力が存在します。その背後には、偽りの思想と欺きが潜んでいます。《コロサイ2章》が語ろうとしているのは、まさにこのような世界の現実なのです。

コロサイ教会が直面したもう一つの挑戦は、ユダヤ主義的な考えを持つ偽教師たちの影響でした。彼らによって教会は大きく揺らぎました。パウロは、コロサイ教会への深い愛ゆえに、急いで手紙を書き送ったのです。これこそが愛の世界です。使徒の手紙の一字一句には、深い愛が込められているのです。

「 私が、あなたがたやラオディキアの人たちのために、そのほか私と直接顔を合わせたことがない人たちのために、どんなに苦闘しているか、知ってほしいと思います。」(コロサイ2:1)
コロサイ教会を含む3つの教会は、風前(ふうぜん)の灯火(とうか)のように揺らいでいました。そこでパウロは、教会を支え守るためにコロサイ書を送ったのです。
「どんなに苦闘しているか、知ってほしいと思います」というパウロの言葉には、深い思いが込められています。私たちの存在の意味とは何でしょうか。「私たちは自分自身を宣べ伝えているのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えています。私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕えるしもべなのです。」(Ⅱコリント 4:5) ここでパウロは、私たちが宣べ伝えるべき2つの事柄(ことがら)を示しています。それは「キリスト・イエスが主であること(主なるイエス・キリスト)」と「私たちがあなたがたのしもべになったこと」です。宣教会の最も重要な使命は、「キリスト・イエスが主であること」を宣べ伝えることです。そして、パウロは私たちが人々のしもべとなったことも宣べ伝えると語っています。このように、パウロは危機に直面したコロサイ教会のために全力を尽くし、切実な思いで自らの信仰を告白し、真理の深遠な世界を教え示しているのです。

「 私が苦闘しているのは、この人たちが愛のうちに結び合わされて心に励ましを受け、さらに、理解することで豊かな全(まった)き確信に達(たっ)し、」(コロサイ2:2a)
パウロはこの手紙を通して、コロサイの信徒たちが励ましを受け、愛のうちに結び合わされ、豊かな全き確信に到達すると語っています。私たちの魂が主の愛を深く悟るとき、そこに真の豊かさがもたらされるのです。ここで「豊かな」という言葉に特に注目してください。パウロは、イエスを真に知る者が豊かな全き確信に到達すると力強く強調しています。この豊かさとは、何一つ欠けることのない充実した状態を意味します。これは、偽りの理論を主張する者たちへのパウロの明確な答えとなっています。彼らがどれほど多くのものを持ち、すべてを悟ったと主張したとしても、なお根本的な不足が存在するということなのです。
「主の中には、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。」(コロサイ2:9) 私はこの御言葉を特に大切にしています。主の中には神の霊が満ちあふれ、流れ出ているのです。これこそが完全な世界の姿です。私たちもまた、主の中で全き満たしへと至るのです。イエスを知るようになると、私たちの心から自然と「主は私の満足である」という告白が湧き出てきます。古代ギリシャ人は、人間を何かを入れる器として理解しました。つまり、人間は何かを受け入れる存在だというのです。では、人間の完全さはどこから来るのでしょうか。私たちの魂の満足と豊かさは、主の中にこそあるのです。「主は私の満足である」―これは、グノーシス主義者や偽りの哲学、世俗の欺瞞的な攻撃に対する、パウロの明確な答えなのです。

「…神の奥義であるキリストを知るようになるためです。」(コロサイ2:2b)
「神の奥義であるキリスト」という表現が再び登場します。キリストのうちには、驚くべき世界が広がっているのです。「神の奥義であるキリストを知るようになるためです。」―私たちの人生において、最も優先的に知るべきことは、この神の奥義であるキリストです。私たちはさらに主に近づき、主をより深く知ろうと努めなければなりません。

「このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。」(コロサイ2:3)
《マタイの福音書13章》の天国のたとえ話には、「畑に隠された宝のたとえ」が記されています。そこには、自分の持ち物をすべて売り払って畑を買う賢い人が登場します。キリストのうちにある知恵は、決して尽きることがないのです。皆さん、聖書を熱心に読んでください。そこにすべての答えが示されているのです。キリストのうちには知恵と知識のあらゆる宝が備えられています。この御言葉は今、私たちに「あなたがたはどこで何を探しているのか」と問いかけています。どうか、この世の偽りの哲学や欺きに惑わされないでください。すべてのものがキリストのうちに備えられているのです。

「私がこう言うのは、まことしやかな議論によって、だれもあなたがたを惑わすことのないようにするためです。」(コロサイ2:4)
教会には常に、まことしやかな議論で信徒たちを欺こうとする者たちが存在します。しかし、蛇のような言葉で誘惑されたとしても、教会はその罠に陥ってはなりません。パウロは今、巧妙な哲学と偽りの教理を説く者たちに対して語っているのです。私たちの生きる現代も同様です。形を変え、装いを新たにして現れても、相変わらず巧妙な手段で教会を脅かす者たちが存在します。彼らは教会に影響を及ぼし、その土台を揺るがそうとするのです。皆さん、この偉大な使徒の教えを心に刻み、この御言葉を何度も読み返しながら、神のすべての武具を身に着けて、この戦いに打ち勝ってください。

「私は肉体においては離れていても、霊においてはあなたがたとともにいて、…」(コロサイ2:5a)
素晴らしい言葉です。使徒のこの言葉は、主が彼に語られた言葉と同じです。聖霊の恵みの中に生きる者たちは、肉体は離れていても、霊においては共にあるのです。私たちは聖霊の中で結び合わされ、一つの体を成して歩んでいくのです。

「あなたがたの秩序と、キリストに対する堅い信仰を見て喜んでいます。」(コロサイ2:5b)
使徒パウロの心には、常にキリストの信徒たちへの信仰と希望が満ちています。これは主が私たちに接してくださる方法であり、「あなたがたがよくやると信じている」という励ましの言葉なのです。 私たちもこの使徒の心を見習って、どんな状況でも一緒に祈り、お互いへの信頼と愛を持って力強く前進しましょう。お祈りします。Ω

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The steadfast love of the Lord never ceases His mercies never come to an end They are new every...

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