礼拝説教

この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです


2025年06月15日

*本文:コロサイ人への手紙1章24-29節

†前の時間には、《コロサイ人への手紙1章23節》までを共に見ました。私たちはキリスト論に関する深遠な御言葉と向き合いましたが、この重要な箇所を深く理解し、完全に記憶するまでに黙想しましょう。「イエスとは誰か、キリストとは誰か」という根本的な問いに対する使徒の詳細な教えを、私たち一人ひとりが深く理解し、日々の生活の中で体現していくことは極めて重要です。今日は《24節から29節》までを見ていくことになりますが、前節の《23節》には「…この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられており、私パウロはそれに仕える者となりました」(コロサイ 1:23b)という御言葉があります。

「今、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。…」(コロサイ 1:24a)
コロサイ教会は、パウロが直接足を運んで伝道することも、御言葉を教えることもなかった教会でした。使徒と会衆は一度も顔を合わせることなく、パウロから福音を受け取った人々によって建てられ、育てられた教会でした。そのような中で、使徒パウロの身に投獄という試練が訪れました。主の働き手が突如として自由を奪われ、牢獄に閉じ込められたのです。この知らせを受けた時、コロサイの教会の人々は、一度も会ったことのない使徒の身を、どれほど案じ、心配したことでしょうか。なお、パウロの投獄という出来事とその霊的な意味については、ピリピ人への手紙において詳しく記されています。
苦難は、主に従う者の歩みに必然的に伴うものです。私たちが使徒の生涯と教えを深く理解するためには、この苦難の意味を十分に理解する必要があります。信仰者に訪れる様々な苦難について、私たちは真摯に向き合い、その本質を理解しなければなりません。パウロは《ローマ人への手紙8章》において、「今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます」(ローマ 8:18)と語っています。このことは、私たちの経験する苦難が決して無意味なものではなく、むしろ栄光へと結びつくものであることを示しているのです。さらに、《第二コリント人への手紙1章》では、苦難の目的について「神だけに頼るようになるため」だと教えています。「実際、私たちは死刑の宣告を受けた思いでした。それは、私たちが自分自身に頼らず、死者をよみがえらせてくださる神に頼るものとなるためだったのです」(Ⅱコリント 1:9)という御言葉が、このことを明確に物語っています。

「無駄骨(むだぼね)を折(お)る」という表現があります。それは何の意味も価値も見出せない徒労を指す言葉です。しかし、クリスチャンが経験する苦難は、主に従う道において、また主の御国の前進のために与えられるものであり、必ずや栄光を伴うものなのです。それゆえに、これは決して無意味な苦難ではなく、深い霊的意義を持つ尊い経験なのです。これがパウロの苦難に対する理解です。彼は苦難を通して神様により深く信頼することを学び、その過程で霊的に鍛錬されると教えました。すなわち、信仰者の苦難は決して苦難だけで終わることがありません。
コロサイの教会を導いたこの使徒は、想像を超える数々の苦難を経験しました。《第二コリント11章》には、使徒パウロが耐え忍んだ様々な苦難が克明に記されています。パウロは、苦難というものが聖徒を精錬して純金のように価値あるものとするだけでなく、将来における彼の誇りとなり、さらには主の栄光をあらわすための尊いものであると理解して生きました。今、牢獄に閉じ込められている状況もまた、パウロにとって大きな苦難でした。しかし、彼は苦難に直面する中でも、決してその意味を見失うことなく、また無意味なものとして捉えることもありませんでした。

「今、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。…」(コロサイ 1:24a)
パウロが「喜びとしています」と記したこの言葉は、主に従う者たち、特に宣教の最前線で働く人々にとって、どれほど大きな慰めと励ましとなることでしょうか。《第二コリント1章》において、パウロは苦難を通して神の慰めが与えられることを教えています。神様は私たちを苦難によって鍛えられるだけでなく、より輝かしい栄光の座へと導いてくださるのです。この栄光とは、すなわち神様が私たちに与えてくださる永遠の報いを指しています。パウロは、耐え難いほどの苦難の中にあっても、このより大いなる栄光を確かな希望として待ち望みながら歩んだのでした。
パウロは《24節》において、自らの苦しみを喜びとして受け止め、むしろコロサイの信徒たちを慰める立場に立っています。私たちは、苦難に直面する時、このように苦難の本質を深く理解していた使徒の姿勢から学ぶ必要があります。主に従う道は狭い道です。多くの人々が選ぶ広い道とは異なり、決して安逸と快適さを約束する道ではありません。特に当時の時代背景においては、なおさらのこと厳しい道でした。しかし、この使徒は狭く険しい患難の道を歩みながらも、決して苦難や逆境に打ちのめされることはありませんでした。第二コリント4章でパウロが語ったように、「8 私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。9 迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません」(Ⅱコリン ト4:8-9)という力強い証しは、彼が苦難に対する正しい解釈と深い理解を持っていたからこそ可能だったのです。
主が歩まれた苦難の道に、弟子である自分も従うべきだと、パウロは固く信じていました。主の受けられた苦難の極みは十字架でしたが、その十字架を通して確かな復活がもたらされました。十字架なくして復活はなく、その復活こそが「栄光」なのです。パウロは生涯を通して「苦難はすなわち栄光である」という揺るぎない信念を持ち続けました。これこそ彼の人生の確信であり、生き方の根幹を成す哲学でした。そのため、パウロにとって苦難は重荷ではなく、むしろ喜びとなったのです。皆さんの内にも、必ずやこのような深い霊的理解が開かれますように。使徒が決して苦難に打ち負かされることがなかったのは、苦難は必ず栄光へと導かれるという揺るぎない信仰があったからです。このように、パウロは苦難の本質とその意義について、深い洞察を持っていました。

「…私は、キリストのからだ、すなわち教会のために、自分の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。」(コロサイ 1:24b)
キリストが受けられた苦難によって、罪に陥った人類に完全な救いがもたらされました。では、そこにまだ「キリストの苦しみの欠けたところ」が残されているのでしょうか?答えは否です。主が十字架上で受けられた苦難は完全なものであり、贖いのためにさらなる苦難が必要とされることは決してありません。では、なぜ使徒パウロはここで「キリストの苦しみの欠けたところ」という表現を用いたのでしょうか。それは、キリストの十字架による罪の赦しと救いは完全であるものの、なお成し遂げられるべき「残されたもの」があるからです。これは、キリストの体である教会を通して実現される神の御国の完成を指しているのです。使徒パウロは、この残された使命を満たしていくことこそが、自分に与えられた人生の目的であると深く理解し、告白しているのです。
ここで「キリストのからだ、すなわち教会のために」と言いました。教会はキリストの体として、この地上で様々な苦難を経験します。キリストご自身が苦難を通して栄光へと至られたように、教会もまた多くの苦難を通して建て上げられていくのです。キリストの体である教会を力強く立ち上げるために、キリストに従う者たちは自らの肉体においてこの苦難を満たしていくのです。これは本当に素晴らしい表現です。
パウロは、必ずや栄光の日を迎えるという確かな信仰を持って生きました。これは彼の心打つ告白です。《第二コリント4章と11章》を熟読してみてください。主が苦難を通して人類を罪から救われたように、私たちもまた苦難を通して数多くの栄光の日を迎えることになるでしょう。それゆえに、私たちの献身と労苦は決して無駄なものとはなりません。確かに、その残された苦難を自らの肉体に満たすことは容易ではありませんが、それによって新しいいのちが生み出されていくのです。《第二コリント4章》には「こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働いているのです」(Ⅱコリント 4:12)という言葉が記されています。使徒はこの揺るぎない確信を持って主に従う道を歩みました。主イエスを信じることは、「華々しい道」を歩むことではありません。美しく安楽な道のりではないのです。私たちには多くの試練と逆境が押し寄せてくることでしょう。しかし、それは将来、私たちに現れる神の栄光と比べれば、取るに足りないものなのです。私たちはこの信仰を堅く保って生きていかなければなりません。そして《25節》はこのように続きます。

「 私は神から委ねられた務めにしたがって、教会に仕える者となりました。あなたがたに神のことばを、」(コロサイ 1:25)
教会に仕える者は、英語のKJV聖書ではミニスター(Minister)と呼ばれます。また、NIV聖書では“servant”と訳されていますが、これは“stewardship” (管理人職) を意味しています。管理人とは、主人の財産を託され、それを代わりに管理する重要な役割を担う者です。パウロはこの管理人としての職務を忠実に全うし、神の御言葉を成し遂げようと努めました。ここでいう神の御言葉とは、「福音」と「神の御国」の実現を指しています。

「すなわち、世々の昔から多くの世代にわたって隠されてきて、…」(コロサイ 1:26a)
ここで語られる奥義は、ギリシャ語でミステリオン(μυστήριον, Mystērion)と表現されます。このミステリー (Mystery) という言葉が示すように、それは真に神秘的なものであり、長い間隠されていました。この「奥義」という重要な言葉は、《26節》に一度、そして《27節》には二度登場します。
「世々の昔から多くの世代にわたって (for ages and generations)」という表現は、「世界の始まる前から」(Ⅰコリント 2:7)、また「世々隠されていた」(エペソ 3:9)と同じ意味を持つ言葉です。これは、数え切れないほどの世代を超えて、はるか永遠の昔、この世界が始まるよりも前から続いてきた時を表しています。そして、このように世々の昔から幾多の世代にわたって隠されてきた奥義が、今や聖徒たちに明らかにされたという、驚くべき事実を告げているのです。
その奥義とは何でしょうか。それは、御子を通して罪人を救うという神様の壮大な救いのご計画画を指しています。この計画は長い間、隠されていました。隠されていたということは、地上の人々がこの計画を知ることができなかったということです。この深遠な神様の救済計画は、世に対して明らかにされることはありませんでした。しかし、「時が満ちて」、今まさにその時が来たとき、罪に陥って苦しむ人間の魂を見放すことなく、神様は御子を遣わされました。「しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。」(ガラテヤ 4:4)ついに御子がこの地上に来られ、愛に満ちた生涯を送られ、受難を経験され、復活され、そして昇天されて、神の右の座に着かれました。この一連の出来事の全体を、私たちは福音と呼んでいます。この神様の救いのご計画こそが、まさに神秘的な奥義なのです。長い間隠されていた人類救済の啓示的な出来事が、今や明らかにされたのです。パウロは、この事実を深く思い巡らせば巡らせるほど、そこに測り知れない恵みの世界を見出しました。この救いの計画がどのようにして自分に及ぶようになったのかを考えると、それは全て神の愛であり、限りない恵みだったと彼は言っているのです。

「…今は神の聖徒たちに明らかにされた奥義を、余すところなく伝えるためです。」(コロサイ 1:26b)
今、この奥義は聖徒たちに明らかにされました。長い間隠されていたこの驚くべき救いの出来事が、ついに明らかにされ、私たちにも及ぶようになったのです。使徒の内に宿るこの深遠な霊的世界を、皆さんも深く理解してください。この真理は、考えれば考えるほど、その驚くべき本質が明らかになってくるのです。
私たちは御言葉を「黙想する」と言いますが、これは御言葉を心の中で繰り返し味わい、反芻することを意味します。その深い意味を汲み取り、自分のものとしていく営みなのです。御言葉を単に読む (observation) だけではなく、深く掘り下げて、そこに込められた神様からのメッセージが何であるのかを黙想 (meditation) しなければなりません。
パウロは、この深遠な神のご計画が自分にも及んだという事実に心から感激を覚えています。彼は今、その言葉では言い表せない喜びと感動を語っているのです。使徒がどのような思いで福音を追い求め、主に仕え、数々の患難と逆境を乗り越えながら生きてきたのか、皆さんにもぜひ深く掘り下げて理解していただきたいのです。そして、この同じ霊的世界が皆さんの内にも開かれますように。御言葉を聞くだけでは、必ずしもその真理を悟れるわけではありません。使徒の働き28章でパウロは「この民のところに行って告げよ。あなたがたは聞くには聞くが、決して悟ることはない。見るには見るが、決して知ることはない」(使徒 28:26)と語っています。使徒の内には、世の人々には理解し得ない、神様の特別な恵みによって選ばれた民の中にのみ開かれたこの世界への深い感動が満ちあふれているのです。
私たちは時として、信仰についての理解が偶然もたらされたものであったり、特別な意味もなく与えられたものと捉えがちです。また、世の流れに押し流されて、神の御業を世の多くの事象の一つとしてしか見られなくなることもあります。しかし、使徒パウロの理解は全く異なります。彼は、神の経綸、すなわち人類救済という偉大な奥義が私たちに明らかにされたと力強く語っています。この「明らかにされた」という表現は、「見るに至った」という深い意味を持っています。ヨブ記において、ヨブは自らの人生をこう結論づけています。「私はあなたのことを耳で聞いていました。しかし今、私の目があなたを見ました」(ヨブ 42:5)。これは、ヨブが数々の苦難を経験した後になされた感動的な告白です。ヨブ記の核心は「私は神様を見るに至った」という驚くべき事実にあります。このように神様を見るようになったという経験は、私たちの信仰生活においても重要なものです。

「聖徒たちに明らかにされた」という表現は、私たちが直接に目の当たりにし、霊的な真理を見ることができるようになったという意味です。しかし、世の人々はこれを見ることができませんでした。彼らは見ても真に見ることができず、聞いても本質を悟ることができなかったのです。私たちが使徒の働きを学ぶ時、これを「不信仰の神秘」と呼びました。
《使徒28章》において、パウロは選ばれたイスラエルの民に神の御国とイエス・キリストについて力強く証ししましたが、彼らがその真理を理解できなかったため、大預言者イザヤの預言(イザヤ 6:9-10)が彼らの上に実現したと語っています(使徒 28:23-27)。そして、神の救いが彼らには閉ざされ、異邦人に向けられることになったと告げました。「ですから、承知しておいてください。神のこの救いは、異邦人に送られました。彼らが聞き従うことになります。」(使徒 28:28)
これは《ローマ書9章、10章、11章》で詳しく語られている内容です。この驚くべき奥義は、まことに深遠なものです。パウロはこの世界に対して「ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう…」(ローマ 11:33a)と感嘆の声を上げました。たとえイスラエルの民が理解できなかったとしても、神の歴史は止まることなく前進し、神様は新たな道を開いてくださいました。この奥義は、長年にわたって主を待ち望み、神の御言葉を愛し、昼夜を問わず黙想していた民には隠されたままでしたが、驚くべきことに異邦人に対して開かれることになったのです。こうして異邦人に救いが与えられるようになりました。「それでは尋ねますが、彼らがつまずいたのは倒れるためでしょうか。決してそんなことはありません。かえって、彼らの背きによって、救いが異邦人に及び、イスラエルにねたみを起こさせました。」(ローマ 11:11)

コロサイ教会は異邦人の教会でした。パウロはコロサイの信徒たちに、この神秘的な奥義が今や彼らに明らかにされたことを告げているのです。この真理こそが、私たちの信仰の核心となるものです。私たちは時として、他者が信じるから自分も信じ、他者が救われるから自分も救われるという、表面的な理解に陥りがちです。しかし、そのような理解は余りにも浅はかなものと言えます。使徒パウロの救いに対する理解は、どれほど深いものだったでしょうか。使徒の内には、救いに対する溢れんばかりの感激がありました。人間がどれほど努力しても見ることができず、いかに懸命に求めても捉えることのできなかった神様の救いのご計画が、今や私たちの内に成就して現れたのです。それゆえに、感激せずにはいられないのです。この深い感激が使徒に大きな喜びをもたらし、その結果として使徒の人生には喜びが満ち溢れていたのです。それゆえに、誰一人としてこの使徒の心を閉じ込めることはできなかったのです。
使徒が牢獄に閉じ込められたのは、確かに試練と逆境でしたが、使徒はむしろこれが「福音の前進」のため(ピリピ 1:12)であると告白しました。そして、これが皆さんのためであり、究極的には皆さんの栄光(エペソ 3:13)のためだと語ったのです。使徒は決して自分の人生を漫然と、あるいは表面的に生きることはありませんでした。彼は常に熱い感動と溢れる恵みを持って生きました。その深い理由については、エペソ人への手紙とピリピ人への手紙に詳しく記されています。

「…今は神の聖徒たちに明らかにされた奥義を、余すところなく伝えるためです。」(コロサイ1:26b)
これは実に感動的な言葉です。私たちが神の真理を見ることができるようになった――この事実を回想するだけでも、使徒は深い喜びを覚えるのです。コロサイ書は公の教会に宛てられた手紙でしたが、人々はこれを受け取ると、広々としたチャペルに集まって共に耳を傾けたことでしょう。牢獄に閉じ込められている使徒が、自由な身である聖徒たちに、この深遠な霊的世界について語りかけているのです。使徒はエペソ書でも「私の内に喜びが溢れ、歌う理由がある」(エペソ1:3-6) と告白しています。
私たちの人生が無味乾燥となり、意味もなくただ時が流れていくような生き方に陥ることのないようにしなければなりません。死んだ魚は水の流れに身を任せるだけですが、生きている魚は水面に向かって力強く泳ぎ上がります。しなやかに体を動かし、生命力に満ち溢れた躍動感を見せるのです。私たちの内に驚くべき喜びが注がれ、心が神様に触れられるとき、私たちはもはやじっとしていることができません。抑(おさ)えきれない感動が私たちの内から湧き上がってくるのです。それゆえに、この使徒の手紙を読むとき、私たちは思わず立ち上がってしまうことがあります。この真理を深く黙想するとき、私たちの魂は自ずと高められていくのです。こうして、私たちの人生は決して枯渇することがありません。私たちがこの使徒の姿を心に刻みながら、日々を歩んでいきましょう。

「この奥義が異邦人の間でどれほど栄光に富んだものであるか、神は聖徒たちに知らせたいと思われました。…」(コロサイ1:27a)
この奥義を最初に知るべき者は誰だったでしょうか。それは神様によって準備された民であったはずです。主なる神様は「そのしもべである預言者たちに奥義を明らかに示さずには、決して事を行わない」(アモス3:7)と宣言されました。しかし、預言者たちに示されたこの奥義を、準備された民が受け入れなかったがゆえに、この奥義は異邦人にまで及ぶこととなったのです。この驚くべき事実は、使徒の心に深い感激と限りない恵みをもたらしました。どの角度から見ても、感動なしには語ることのできない真理でした。使徒は、まだ一度も会ったことのないコロサイの信徒たちに向かって「この奥義があなたがたに現れた」と告げたのです。これは本来、異邦人が先んじて目にすることのできる世界ではありませんでした。しかし、本来知るべき者たちにこの奥義が隠され、彼らが聞くことも見ることもできなかったために、異邦人である私たちに救いが訪れることになったのです。私たちの救いも、まさにこのような性質を持つものです。私たちに臨んだ驚くべき救いの出来事、罪の赦しという奥義も、同じ性質を持つものなのです。

「…この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」(コロサイ 1:27b)
これが奥義の本質であり、私たちの人生の最終的な到達点です。この到達点とは何でしょうか。それは「希望の国」に他なりません。

「私たちはこのキリストを宣べ伝え、…」(コロサイ1:28a)
この使徒の内には抑(おさ)えきれない喜びが満ちあふれていました。それゆえ、この福音を伝えずにはいられなかったのです。もし私たちの内に真の喜びがなければ、どうしてその喜びを他者に伝えることができるでしょうか。しかし、本物の喜びが内にあるとき、それを伝えずにはいられないのです。福音とは、グッドニュース (Good News) 、すなわち「良い知らせ」を意味します。まさに「喜ばしい知らせ」なのです。
大宣教命令 (Great Commission) は「すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15) というものです。これは私たちに、そして教会に与えられた特別な特権です。この喜ばしい知らせを宣べ伝える使命を、神様は教会に託してくださったのです。この使命は、オリンピックの最後を飾るマラソン競技になぞらえることができます。マラソンという競技は、古代ギリシャの戦いにおける勝利の知らせを伝えたことに由来しています。当時、戦争に敗れれば全ての人々が奴隷となり、勝利すれば全ての人々が自由を得ることができました。それゆえに、勝利の知らせは文字通り、命と自由をもたらす喜ばしい知らせだったのです。オリンピックはギリシャで誕生しましたが、その最終種目であるマラソンでは、スタジアムに大勢の人々が集まり、勝者の到着を見守ります。そして優勝者には月桂冠が授けられます。ステファノス (Stephanos) とは王冠を意味しますが、この栄冠が優勝者の頭に戴かれるのです。私たちに託された多くの務めの中で、最も重要なものは、この喜ばしい知らせを伝えることなのです。

「私たちはこのキリストを宣べ伝え、あらゆる知恵をもって、すべての人を諭し、すべての人を教えています。すべての人を、キリストにあって成熟した者として立たせるためです。」(コロサイ 1:28)
皆さんの第一の使命は「福音の伝道者」として、また第二の使命は「福音を教える者」として生きることです。私たちは一人ひとりに向き合い、個別に教えているでしょうか。私たちには、人々を丁寧に教え導き、彼らが霊的に成熟した者として立つことができるよう、全力を尽くす責任があります。使徒は、このような私たちの崇高な使命について明確に教えてくれています。どうか皆さんが、この使命に基づく自らのアイデンティティを常に心に留めて歩んでいくことを願っています。

「このために、私は自分のうちに力強く働くキリストの力によって、…」(コロサイ 1:29a)。
この力こそ、聖霊の力です。「もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません」(ローマ 8:9)。信じる者の内には神の霊が、キリストの霊が宿るのです。《第一コリント3章16節》と《6章19節》において、私たちは「神の宮」であり「聖霊の宮」と呼ばれています。使徒が力強く証ししているのは、まさに信じる者の内に聖霊が宿るということです。しかし一方で、《第二コリント13章5節》には、「あなたがたは、信仰に生きているかどうか、自分自身を試し、吟味しなさい。それとも、あなたがたは自分自身のことを、自分のうちにイエス・キリストがおられることを、自覚していないのですか。あなたがたが不適格な者なら別ですが」と記されています。これは、聖霊が内におられない者は、見捨てられた者であるという厳粛な警告なのです。

イエス様は告別の説教の《ヨハネの福音書14書2節》において、「わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか」と語られました。さらに、また《ヨハネの福音書16書7節》には「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします」と約束されました。主イエスは確かに神の霊を私たちに送ってくださると宣言されたのです。神様は天におられ、キリストは神の右の座におられますが、では私たちの内に来られる神の霊、キリストの霊とは一体何でしょうか。パウロはこれこそが「聖霊」であると、力強く教えているのです。
《ヨハネの福音書14章》で、主は「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。」(ヨハネ 14:18)と約束されました。この告別説教で語られた言葉は、「あなたがたに聖霊を与え、その聖霊があなたがたの中に内在して、あなたがたは聖霊の宮となる」という深い意味を持っているのです。信じる者は聖霊を受け、聖霊が内に宿っているのです。私たちはこの事実を決して忘れることなく、常に心に留めて生きていかなければなりません。信じる者は、たとえ一人でいても(決して)孤独ではありません。私たちの内には神の霊とキリストの霊が宿っているがゆえに、一人でいる時でさえ、罪を犯すことから守られるのです。聖霊は私たちの内で力強く働かれます。これこそが、神様が私たちに与えてくださった力であり、祝福であり、特権なのです。私たちは決して、孤児のように見捨てられた存在ではありません。聖霊が私たちの内におられ、常に共にいてくださるのです。

「このために、私は自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。」(コロサイ 1:29)
パウロは、聖霊の導きに従って力の限りを尽くして労苦を重ねました。今日、私たちは「パウロが教会でどのような働きをし、どのような心と志を持って生きたのか」を深く学んできました。使徒の歩みが皆さんに受け継がれ、その生き方が皆さんのものとなることを心から願っています。使徒の姿に倣って歩む者となりましょう。お祈りします。Ω

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The Steadfast Love of the Lord

The steadfast love of the Lord never ceases His mercies never come to an end They are new every...

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