礼拝説教

兄弟たち、あなたがたは、たゆまず良い働きをしなさい。


2025年11月17日

*本文:テサロニケ人への手紙 第二 2章4-3章18節

「この者は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して、傲慢にふるまい、ついには、神殿に座り込み、自分こそは神であると宣言するのです。」(Ⅱテサロニケ2:4、新国際訳、新共同訳)
大患難の時には、悪しき支配者が現れて教会を滅ぼし、自分こそが神であると主張すると言われています。歴史上、数多くの支配者がそのようにしてきました。支配者たちはいつもキリストを信じる信仰を恐れ、信じる者たちを滅ぼそうとしてきました。そして、自分こそは神だと主張しました。
そのような時に、主のこの預言の御言葉を覚える者たちは決して信仰がくじけることはなかったでしょうし、絶望することもなかったでしょう。なぜなら、御言葉のうちに「夜が深まるほど、夜明けが近づいているのだ」という希望を見いだしたからです。だからこそ、使徒はこの手紙を通して信徒たちに次のように言うのです。「皆さん、大患難が訪れたとしても、歴史はその患難によって終わることはありません。それが歴史の終わりではありません。むしろ、希望の始まりです。夜明けが近づいたのです。ですから、この二つを覚えてください。第一に、誤った教えに惑わされないこと。第二に、どんな時にも希望を失わないことです。
使徒はこう言っています。「もし、ある者が聖霊の恵みを受けたことを再臨だと解釈したことを、あなたがたが受け入れ、歴史の終末に関する大いなる預言をあなたがたが希薄し、取り除いてしまうなら、あなたがたは分別を失ったのです(Ⅱテサロニケ2章2節節)」と。
終末について、▲《マタイ13章》のような楽観的な見方であれ、▲《マタイ24章》の大患難論のような悲観的な見方であれ、いずれにしても結論は同じです。すなわち、主が終わりの日の審判主となって世を裁き、正義を明らかにし、新しい世界を開かれるということです。この偉大な預言を私たちは大切にしなければなりません。《第一テサロニケ5章20節》の「預言を軽んじてはいけません」という御言葉にある「預言」は、まさにこの終末に関する預言を指しているのです。使徒はそれを軽んじないようにと勧めています。
私たちが「大きな信仰」あるいは「美しい信仰」を持つとは、何を意味するのでしょうか。それは、この預言の教えに従って「最終的な勝利」を信じることです。つまり、主が来られてすべてを裁かれる「最後の審判の日が必ず来る」ということ、そして「みこころが天で行われるように、地でも行われること」(マタイ6:10)を確信して生きることです。私たちがこの預言を固く握って生きるとき、どんな状況にあっても揺らがされることなく、絶望することなくいられます。たとえどんな悪しき独裁者が現れて悪を行い、世界を混乱させたとしても、患難と迫害によって恐ろしいことが全世界に満ちたとしても、それが終わりではないということです。夜明けが近づいているのです。

「まだわたしがあなたがたのもとにいたとき、これらのことを繰り返し語っていたのを思い出しませんか。」(Ⅱテサロニケ2:5、新国際訳、新共同訳)
この箇所から、パウロがテサロニケにいたときに終末論について繰り返し教えていたことがうかがえます。それなのに、なぜそれを覚えず混乱に陥っているのかと、パウロは信徒たちを叱責しています。私たちも使徒が持っているこの終末論に対する明確な理解を繰り返し黙想し、心の奥深くに刻んで生きるならば、どんな患難や迫害にも倒されることはないでしょう。

「今、彼を抑えているものがあることは、あなたがたも知っているとおりです。それは、定められた時に彼が現れるためなのです。」(Ⅱテサロニケ2:6、新国際訳、新共同訳)
「彼」とは大患難を引き起こす者を指します。この御言葉については、ヨハネの黙示録の注解をするときに詳しくお話しします。「抑えている」という表現は少し理解しにくいかもしれません。しかし、とても簡単に理解することもできます。大患難論を語る人は「全能なる神が悪の勢力を一気に取り除き、一掃することはできないのか」と問いかけます。これに対するヨハネの黙示録に基づく答えは、「大患難は、全能なる神が悪の勢力を一時的に解き放たれることにすぎない」ということです。

「7不法の秘密の力は既に働いています。ただそれは、今のところ抑えている者が、取り除かれるまでのことです。8 その時が来ると、不法の者が現れますが、主イエスは彼を御自分の口から吐く息で殺し、来られるときの御姿の輝かしい光で滅ぼしてしまわれます。」(Ⅱテサロニケ2:7-8、新国際訳、新共同訳)
悪しき者による大患難は、神が抑えておられたものを一時的に解き放たれることによって起こるにすぎないということです。では、なぜ神はそれを解き放ち、患難を許されるのでしょうか。それは、神がさらに大いなる逆転の御業を成されるためです。患難は決して患難で終わるものではありません。「ですから皆さん、悪しき者たちによって悲惨な患難と試練、迫害があっても、希望を失わないでください。患難は一時的なもので、やがて過ぎ去るものです。そして最終的には、神がより大いなる逆転の歴史を成してくださるのです。」――これこそが、使徒がテサロニケの信徒たちに伝えたかったメッセージなのです。

「9不法の者は、サタンの働きによって現れ、あらゆる偽りの奇跡としるしと不思議な業とを行い、10そして、あらゆる不義を用いて、滅びていく人々を欺くのです。彼らが滅びるのは、自分たちの救いとなる真理を愛そうとしなかったからです。」(Ⅱテサロニケ2:9-10、新国際訳、新共同訳)
不法の者が現れて、奇跡としるしと不思議な業とを行うとあります。政治的にも大きな力を持ち、宗教的にも人々を大いに惑わす者が現れ、あらゆる悪質な欺きによって人々を滅ぼすということです。重要なのは、滅びていく人々は真理を受け入れず、真理を愛そうとしないために、救いを得られないという点です。《マタイ24章》で主は「11また、偽預言者が大勢現れて、多くの人を惑わします。12不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えます。13しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」(マタイ24:11–13)と言われました。ですから、大きな奇跡やしるしによって人々を惑わす者が勢いを増したとしても、私たちは決して絶望してはいけません。むしろそのような時こそ、私たちは最後まで耐え忍び、救いにあずかる者となるべきです。

「それで、神は彼らに惑わす力を送られ、その人たちは偽りを信じるようになります。」(Ⅱテサロニケ2:11、新国際訳、新共同訳)
滅び行く者たちは、その心が惑わされるためにそのようになります。惑わされた者たちには福音に覆いが掛けられます(Ⅱコリント4:3-4)。そして偽りを信じるようになります。しかし、そのような人々も最終的にどうなるのでしょうか。

「こうして、真理を信じないで不義を喜んでいた者は皆、裁かれるのです。」(Ⅱテサロニケ2:12、新国際訳、新共同訳)
不法の者も、不法の者によって真理を信じず、偽りを信じた者たちも、すべて裁かれるということです。では、それはいつ成されるのでしょうか。

「その時が来ると、不法の者が現れますが、主イエスは彼を御自分の口から吐く息で殺し、来られるときの御姿の輝かしい光で滅ぼしてしまわれます。」(Ⅱテサロニケ2:8、新国際訳、新共同訳)
「その時が来ると」とありますが、すなわち再臨の時です。主が再び来られて、悪しき者を滅ぼすだけでなく、すべての悪を裁いて一掃されるのです。歴史におけるこの大審判の一日が来るということです。この終末に現れるイエス様の姿はもはや子羊ではありません。獅子です。
キリストには対照的な二つの象徴があります。それは「鳩(はと)と鷲(わし)」、そして「子羊と獅子」です。ユダヤ人はダニエル書の預言をよく知っている人々でした。使徒パウロもユダヤ人のなかのユダヤ人として、キリストが天から大いなる戦車と天の軍勢を率いて、御使いのかしらのラッパの響きと共に、この世に審判の主として来られるという預言を信じていました。これが使徒の信仰です。その時、福音に覆いが掛けられている者たち、暗闇の中にいる者たちは皆、断罪されるのだと言います。「断罪」とは、法廷で裁きを受ける時、罪人の罪が確定し、罰を受けることを意味します。

本日の本文にはメッセージが二つあります。第一に、「混乱し、惑わされてはいけない」ということです。第二に、「絶望(あるいは落胆)してはいけない」ということです。信じる者たちが二千年もの間、絶望せずにいられたのは、主が私たちのために死んで復活し、昇天された後、この地に再び来られ、最後の審判の主としてこの世のすべての悪を裁かれることを信じていたからです。そして、その時に、歴史のグランドフィナーレ(Grand Finale)の幕を下ろし、主を信じる者たちは携挙(ラプチャー)される――その希望を持っていたからです。
「携挙(Rapture)」という言葉は、ギリシャ語では「四方から集める」という意味です(マタイ24:31)。英語で「四方」は four winds(四つの風)と訳されています。つまり、様々なところから人々が集められるということです。これは、天にいる者も地にいる者も、生きている者も死んだ者も、すべてよみがえって集められるという荘厳な場面です。私たちが生きている者だけでなく、死者の復活も信じるなら、第一テサロニケ4章の「空中で主と会う」という言葉も自然に理解できるようになります(Ⅰテサロニケ4:16–17)。この預言は単に空間的に理解しようとするよりも、この預言が私たちに伝えようとしている荘厳さと深い意味を理解しようとすることが大切です。なぜなら、生きている者と死んだ者、天にいる者と地にいる者がすべて一堂に会する場所は、この地上には存在しないからです。ワシントン記念塔(Washington Monument)がある場所も、モスクワの赤の広場(Kremlin and Red Square)も、アフリカの大草原(the African savanna)も、まったく足りないでしょう。ですから、「空中で主と会う」という表現には深い霊的な意味と荘厳なビジョンが込められているのです。
使徒はこう語っています。主の民が空中で主と会うその時、主を知らず、主の民を迫害していた者たちや、世の中で悪を行い、神に逆らっていた者たち、また愛が冷え、信仰を失った者たちはすべて滅ぼされ、裁きを受けることになるのです(Ⅱテサロニケ 2:12)。これが再臨の時に起こることだということです。ですから使徒は、テサロニケの信徒たちに対して次の二つを強く勧めています。▲このような真理と異なる解釈に惑わされてはならないこと。▲どんな困難な状況に置かれても、決して絶望してはならないこと。このようにして、信仰を堅く保つようにと語っています。

「13しかし、主に愛されている兄弟たち。私たちはあなたがたのことについて、いつも神に感謝しなければなりません。神が、御霊による聖別と、真理に対する信仰によって、あなたがたを初穂として救いに選ばれたからです。14そのために神は、私たちの福音によってあなたがたを召し、私たちの主イエス・キリストの栄光にあずからせてくださいました。」(Ⅱテサロニケ2:13-14)
終わりの日に滅ぼされ、裁きを受ける者たちとは異なり、私たちは主があらかじめ選び、真理を信じるようにしてくださり、救いにあずかる者とされたのです。そのため、主は福音によって私たちを召し、ついにはイエス・キリストの栄光にあずからせてくださるのです。使徒は、このことを私たちがいつも感謝すべきだと言っています。

「ですから兄弟たち。堅く立って、語ったことばであれ手紙であれ、私たちから学んだ教えをしっかりと守りなさい。」(Ⅱテサロニケ2:15)
無益な偽の手紙に惑わされず、欺く言葉に騙されることなく、この手紙に書かれた教えの上に堅く立ちなさい、ということです。

「16どうか、私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神、すなわち、私たちを愛し、永遠の慰めとすばらしい望みを恵みによって与えてくださった方ご自身が、17あなたがたの心を慰め、強めて、あらゆる良いわざとことばに進ませてくださいますように。」(Ⅱテサロニケ2:16-17)
ここまでが《第二テサロニケ2章》の御言葉です。

使徒は続けて、信徒たちに対して自分の願いを語ります。
「1最後に兄弟たち、私たちのために祈ってください。主のことばが、あなたがたのところと同じように速やかに広まり、尊ばれるように。2また、私たちが、ひねくれた悪人どもから救い出されるように祈ってください。すべての人に信仰があるわけではないからです。」(Ⅱテサロニケ3:1-2)
「すべての人に信仰があるわけではないからです」というのは、私たちが持っている信仰はとても大切で特別な恵みだという意味です。

「3しかし、主は真実な方です。あなたがたを強くし、悪い者から守ってくださいます。4私たちが命じることを、あなたがたは実行していますし、これからも実行してくれると、私たちは主にあって確信しています。5主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐に向けさせてくださいますように。」(Ⅱテサロニケ3:3-5)
このような勧めをした後、使徒が続けて勧めている内容は何でしょうか。大抵、終末論に夢中になっている人は現実を疎かにして生きることが多いです。浮かれて現実的なことを疎かにする場合が多いです。だから使徒はテサロニケの信徒たちに「冷静になりなさい(Cool Down または Come Down)」と、極めて現実的な勧めをしています。

《ヨハネ21章15-17節》には、イエス様とペテロの問答があります。主がペテロに「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と質問されたとき、ペテロは「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存知です」と答えました。この答えは、愛の章と言われる第一コリント13章の「私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります(Ⅰコリント13:12)」という御言葉と同じです。主が私を愛してくださったことで、私が主を愛することができるのです。結局、私たちの信仰は「愛」です。
ペテロの答えはとても胸に響きます。ペテロは鶏が鳴く前に三度も主を否認した弱い弟子でした。しかし、主は問答を通してペテロを回復させ、彼の使命を語られます。「あなたは私を愛しているのか。それならわたしの羊を飼いなさい。」「私の羊」とは主の羊です。羊を飼う者は、主の心で飼わなければならないということです。主が私たちにしてくださったように、私たちも自分たちに託された羊を養うべきだということです。《ヨハネ21章》には信じる者の二つの使命、すなわち宣教と牧会があります。これが終末を迎える聖徒たちに与えられた主の最後の教えです。
《ヨハネ21章》の後半で、主はペテロの未来の運命を預言し、「ヨハネはどうなるのですか(ヨハネ21:21)」というペテロの質問に対して、「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか(ヨハネ21:22)」と答えられました。これは、遅れている再臨について、主がいつ再び来られるのかと深い関心を持つ者たちに与えられた答えです。

この地上で生きる私たちは「すでに」と「まだ」(Already and Not Yet)の間にいます。結局、最後の審判の日、すなわち「主を知ることが、海をおおう水のように地に満ち、神の国が実現するその日(イザヤ11:9)」は必ず来るのです。この大いなる預言を信じる者がすべきことは何でしょうか。それは、ヨハネ21章に記された二つのテーマ、すなわち「宣教と牧会」という信じる者の使命です。このように使徒はテサロニケの信徒たちに壮大な歴史の未来を語りながらも、浮かれることなく、空虚なことに惑わされず、現実に立ち返るようにと勧めを続けています。

「6兄弟たち、私たちの主イエス・キリストの名によって命じます。怠惰な歩みをして、私たちから受け継いだ教えに従わない兄弟は、みな避けなさい。7どのように私たちを見習うべきか、あなたがた自身が知っているのです。あなたがたの間で、私たちは怠惰に暮らすことはなく、8人からただでもらったパンを食べることもしませんでした。むしろ、あなたがたのだれにも負担をかけないように、夜昼、労し苦しみながら働きました。」(Ⅱテサロニケ3:6-8)
このように教えるので、私たちは使徒を尊敬します。どんなに高尚に教え、どんなに偉大な預言の深い世界を語っても、使徒は必ず現実に引き戻し、信じる者たちの生活が乱れないように、信じる者たちが当然すべきことを教えています。これが使徒の愛であり、また使徒の偉大な教師としての素晴らしい点です。

「8人からただでもらったパンを食べることもしませんでした。むしろ、あなたがたのだれにも負担をかけないように、夜昼、労し苦しみながら働きました。9私たちに権利がなかったからではなく、あなたがたが私たちを見習うように、身をもって模範を示すためでした。」(Ⅱテサロニケ3:8-9)
使徒はテサロニケの信徒たちに「私たちがこのように生きたのだから、あなたがたもそのように生きてほしい」と勧めています。私たちは《使徒の働き20章》に記されているパウロがエペソ教会の長老たちに向けて語った最後の説教を何度も読みました。そこで使徒は、エペソ教会のために手が荒れるほど働き、教会の世話にならず、自分の必要を自分で賄ってきたと言います。エペソ教会のために使徒が三年間示したのは「謙遜と涙と献身」であったと説教しました。その献身とは、誰にも迷惑をかけず、一生懸命に現実的な生活を送ったことを意味します。使徒はそのように生活し、テサロニケの信徒たちにも身をもって模範を示し、それを見習って生きてほしいと勧めているのです。

「あなたがたのところにいたとき、働きたくない者は食べるな、と私たちは命じました。」(Ⅱテサロニケ3:10)
使徒自身がこのような厳格な倫理を持ち、信徒たちに模範となる生活をしました。そのように、信徒たちにも浮かれることなくこの地に足をしっかりつけて一生懸命働き、行くべき道を黙々と歩んでいくようにと勧めているのです。

「11ところが、あなたがたの中には、怠惰な歩みをしている人たち、何も仕事をせずにおせっかいばかり焼いている人たちがいると聞いています。12そのような人たちに、主イエス・キリストによって命じ、勧めます。落ち着いて仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。」(Ⅱテサロニケ3:11-12)
この御言葉は私たちに生きた真の糧となる大切な御言葉です。この御言葉を覚えて生きましょう。

「13兄弟たち、あなたがたは、たゆまず良い働きをしなさい。行ないなさい。14もし、この手紙に書いた私たちのことばに従わない者がいれば、そのような人には注意を払い、交際しないようにしなさい。その人が恥じ入るようになるためです。15しかし、敵とは見なさないで、兄弟として諭しなさい。」(Ⅱテサロニケ3:13-15)
そして使徒は祝福の言葉を述べます。

「16どうか、平和の主ご自身が、どんな時にも、どんな場合にも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。どうか、主があなたがたすべてとともにいてくださいますように。17私パウロが自分の手であいさつを記します。これは、私のどの手紙にもあるしるしです。このように私は書くのです。」(Ⅱテサロニケ3:16-17)
この手紙は使徒パウロが自分の手で書いた手紙です。テサロニケの手紙第一と第二の両方を直筆で書きました。これが偽物と本物を見分けるしるしだと言います。そして最後の挨拶です。

「私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたすべてとともにありますように。」(Ⅱテサロニケ3:18)

お祈ります。Ω

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