2025年10月26日
*本文:テサロニケ人への手紙 第二 2章 1-2節
†《テサロニケ人への手紙 第一》は《全5章》、《テサロニケ人への手紙 第二》は《全3章》から成り立っています。両書を合わせても《わずか8章》にすぎません。この事実に着目すると、「なぜこれらを一通の手紙にまとめなかったのか」と疑問を抱く方もいるかもしれません。しかし、テサロニケ前書の結びに目を向けてみると、使徒の愛に満ちた勧告と、心温まる挨拶によって、手紙全体が麗しく締めくくられていることがわかります。このような完結した書簡のあとに、なおもテサロニケ後書が送られたということは、使徒が改めて対応しなければならない新たな状況が生じたことを意味しているのです。
このような背景から、多くの研究者が、第一の手紙と第二の手紙のあいだにどれほどの期間があったのかに関心を寄せ、さまざまな考察を重ねてきました。しかし残念ながら、その期間を特定できるような正確な記録は残されていません。けれども、私たちが明確に知ることのできるのは、第二の手紙が書かれざるを得なかった理由があったという点です。いったい、テサロニケ教会では何が起こっていたのでしょうか。
第一の手紙が届けられた後、教会内では主の再臨に関してさまざまな意見や憶測が飛び交うようになりました。言い換えれば、再臨に対する希望やその解釈において多様な理論が出現し、結果として教会に混乱が広がっていったのです。こうした状況を受けて、使徒パウロは教会の誤解と混乱を正すために、第二の手紙を送ることを決断しました。《第二テサロニケ2章》には、当時教会の中で何が起こっていたのかを垣間見ることができる重要な記述があります。使徒はまず《1章》において、テサロニケ教会の信仰と忍耐を称賛し、彼らに対する誇りを述べています。そして《2章》に進むと、彼が第二の手紙を記すに至った理由が、次のような明確な言葉で語られているのです。
「さて兄弟たちよ。私たちの主イエス・キリストが再び来られることと、私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いすることがあります。」(Ⅱテサロニケ 2:1)
ここで使徒パウロが語っているのは、「携挙(けいきょ)(rapture)」に関することです。実は、彼はすでに、キリストの再臨と聖徒の携挙について、テサロニケの信徒たちに詳細に説明していました(Ⅱテサロニケ 1:10参照)。それゆえ、信徒たちはその教えを信じ、そのまま受け入れていればよかったはずです。ところが現実には、多くの人々がこの教えについて勝手に語り始め、まさに「玉石混交」といった状態が広がっていきました。その結果として、かつて使徒に称賛されていたあの麗しい教会の中に、混乱が生じ始めてしまったのです。
キリスト教には「三大教理」と呼ばれる、三つの中心的な教えがあります。第一は、キリスト論(Christology)です。これは「イエスとは誰か?」という問いに答える教理であり、4世紀から5世紀にかけて開かれたニカイア公会議およびカルケドン公会議を通じて体系化されました。その結論は、「イエス・キリストは真の神(Vere Deus)であり、同時に真の人(Vere Homo)である」という信仰告白に集約されます。第二は、救済論(Soteriology)です。これは「人はどのように救われるのか?」という問いに答える教理で、宗教改革の時代、ルターやカルヴァンを中心とする改革派教会(Reformed Church)によって明確にされました。私たちの教会も、この改革派教会の信仰告白に基づいて誕生し、その伝統に連なっています。第三は、終末論(Eschatology)です。これは「歴史の終わりに何が起こるのか?」というテーマを扱う教理であり、聖書が教えていることをそのまま素直に受け取る姿勢が求められます。終末論における最も重要な二つの問いは以下の通りです。1)キリストはいつ再臨されるのか?2)キリストはどのように再臨されるのか?これらの問いに対する答えは、すでにイエスご自身の教えと、使徒たちによる書簡の中に明確に示されています。しかし、これらをそのまま信じずに、必要以上に複雑な解釈を加えたり、極端に解釈してしまうと、教会に混乱をもたらす危険性が生じます。
教会の歴史を振り返ると、教会が常に《ローマ人への手紙》や《ガラテヤ人への手紙》に告白されている通りに、「救い」について正しく信じてきたわけではないことがわかります。つまり、「信仰によって救われる」という聖書の真理に、教会自身の伝統を加えてしまったのです。その結果、神様は預言者イザヤを通してこう告げられました。「おまえの銀は、銀かすになり、良い酒も水で割ってある」(イザヤ 1:22)。これは、純粋で貴いものが、混ぜ物によって価値を失ってしまったことを象徴しています。私たちに求められているのは、使徒たちを通して与えられた純粋で正しい救いの教えを、そのまま信じることです。歴史を見れば、そうする時、教会はいつも本来の姿を取り戻し、回復されてきたのです。
私たちは、聖書が明確に語る完全な教理、すなわちキリスト論と救済論を、そのまま信じ、従う者たちです。たとえば、もしローマ書が「義認」だけを語り、「聖化」についてまったく触れていなかったならば、信仰において多くの論争や混乱が起きていたことでしょう。しかし実際には、ローマ書は、救いに関する完全で体系的な教えを私たちに示してくれています。さらに、ガラテヤ書も、「人の魂が真に自由になれるのは、信仰のみ(Sola Fide)、恵みのみ(Sola Gratia)によってである」と、はっきりと語っています。この福音の教えに、人間的な制度を加えたり、極端な解釈を施したりするならば、教会も信徒も、まったく異なる方向に進んでしまいます。そうなれば、それはもはや主に属するものではなく、別物となってしまう危険すらあるのです。
「正統 (Orthodox)」という言葉はラテン語に由来し、「正しい」という意味の“Ortho-”と、「教義」を意味する“-Dox”が組み合わさって成り立っています。すなわち、「正統」とは「正しい教義」を意味する言葉です。教会において“Orthodox”という語が指し示すのは、改革派教会 (Reformed Church) です。14世紀後半、イギリスのジョン・ウィクリフやチェコのヤン・フスといった信仰の改革者たちが登場し、その流れはやがて、マルティン・ルター、フルドリッヒ・ツヴィングリ、ジャン・カルヴァン、ジョン・ノックスといった改革派の偉大な指導者たちへと受け継がれていきました。彼らは、聖書に立ち返り、その真理を回復することを通して、福音の本質に基づく真の救いと教会のあるべき姿を教えてくれました。その働きの結果として、今日私たちが属している教会は、正しい救いに関する信仰告白の上にしっかりと立つことができているのです。そして、今私たちが礼拝をささげているこの神殿も、改革 (Reform) の歩みを経て、まさに美しい改革派教会 (Reformed Church) として築き上げられたものです。
だからこそ、私たちは終末論についても、聖書を通して正確かつ深く学ばなければなりません。では、聖書の中で終末論に関する最も確かな教えはどこにあるのでしょうか。それは、イエス様ご自身が直接語られた教えにあります。このことは聖霊論においても同様です。イエス様が「告別説教」の中で語られた御言葉こそが、聖霊についての最も正確な教えです。私たちはこれまで、四旬節のたびに『十字架の道』という本が出版されるほど、救済論について深く黙想し、学び、研究してきました。しかし、今年の四旬節において私たちが終末論を取り上げるのは、説教の流れを途切れさせることなく、継続的に御言葉を取り扱いながら、聖書に基づく健全な教会形成をさらに前進させるという目的があるからです。
さて、改めて考えてみましょう。なぜ使徒パウロは、テサロニケの教会に第二の手紙を書かねばならなかったのでしょうか。
「1さて兄弟たちよ。私たちの主イエス・キリストが再び来られることと、私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いすることがあります。2 霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。」(Ⅱテサロニケ 2:1-2)
この聖句が示しているように、パウロがこの第二の手紙を書かざるを得なかったのは、主の再臨と携挙に関して教会内に混乱が生じていたからです。誤った教えが教会の中に入り込み、真理が歪められていたのです。しかし使徒は、そのような混乱の中にあっても、感情的にならず、冷静かつ理路整然とした態度で問題に対処しています。
実は、神の国がどのように来るのかという根本的な教えについては、主イエスご自身がすでに、マタイ13章をはじめとする福音書のさまざまな箇所で、余すところなく教えてくださいました。たしかにヨハネの黙示録にも終末に関連する教えは記されていますが、それ以上に重要なのは、主ご自身が直接語られた御言葉、いわゆる「小黙示録」と呼ばれる教えです。黙示、預言、終末に起こる出来事について、キリストが直接語られた御言葉は、《マタイ24章》、《マルコ13章》、《ルカ17章》にしっかりと記録されています。ですから、私たちはこの御言葉のとおりに、素直に信じるべきなのです。
ある教会は、復活も昇天も信じていません。それらを取り除いたまま聖書を読み、聖書のメッセージを自分勝手に切り取り、自分の都合に合わせて解釈し、信じているのです。しかし、聖書は一点や一画すら、取り除いたり、付け加えたりしてはならない、神様からの完全な真理として私たちに与えられています。聖書は神様によって記された完全なる啓示であり、私たちはその記されたとおりの御言葉を信じ、素直に受け入れなければなりません。
主は死者の中からよみがえられました。そしてその後、40日間にわたり多くの人々にご自身の復活を現されたのです。このように明確に記されている歴史的な事実を、いったいどうして否定できるでしょうか。このように復活された主は、やがて昇天されました。それもまた、極めて正確に記録された出来事です。
もし主が復活されたあと、再び死なれたのだとしたら、それは他の宗教の創始者たちと何ら変わりありません。あるいは、主が復活された後にどこかへ消えてしまったというのなら、「いったいどこへ行かれたのか」という無数の疑問や議論が巻き起こっていたことでしょう。仮に主がヒマラヤのような山奥に入られたのだとしても、それを信じ受け入れるのは非常に困難です。しかしイエス様は、あらかじめこのように警告しておられました。「『そら、キリストがここにいる』とか、『そこにいる』とか言う者があっても、信じてはいけません。」(マタイ 24:23) ですから、「主が昇天された」という記録は、非常に正確で信頼できる証言なのです。さらに主は、昇天された後に再び来られると預言されました。
しかし、なぜ記録された完全な御言葉を信じない人がいるのでしょうか。その理由は明確です。聖書は二千年前の物語ですが、神の霊によって記された命の御言葉であり、欠点もなく、完全に正確な言葉です。私たちはそう信じるべきです。一方で、「聖書は人間が書いた本に過ぎない」「二千年前の神話のように脚色されている」と考える人たちもいます。彼らはそのため、聖書の一部を不要なものと見なし、また別の部分を空虚でつまらない話として、関心を持つ必要はないと考えます。結果として、彼らは聖書を取捨選択しながら読み、受け入れるべきだと主張するのです。さらに別のタイプの人々は、聖書を誤って解釈し、逆に過剰に信じ込むことがあります。私たちに求められているのは、イエス・キリストが教えられ、使徒たちを通して記された聖書の御言葉を、そのまま一切加減なく読み、そして信じることです。
私たちは、このことを丁寧に検証しなければなりません。主の昇天と再臨に関する記録は、非常に正確で、道理にかなっており、まことに正しいものです。聖書は、「福音が地の果てにまで宣べ伝えられるとき、主が再び来られる」と語っています (マタイ 24:14、使徒 1:8)。では、主が再び来られる理由とは何でしょうか。それは、公義によって裁きを行い、もはや悲しみも、嘆きも、苦しみもないように、すべての涙をその目からぬぐい取ってくださるためです (黙示録 21:4)。主は、そのような悲しみも苦しみもない、まったく新しい世界を私たちに開いてくださるのです。これこそが、聖書が私たちに与える希望なのです。
この「救いの望み」は、「かぶと」にたとえられています (Ⅰテサロニケ 5:8)。「かぶと」とは、戦いに臨む兵士の頭を敵の攻撃から守るためのものです。兵士が頭や心臓を攻撃されれば、命を落とすこともあります。だからこそ、「信仰の胸当て」と「望みのかぶと」によって、私たちの思いや心をしっかりと守る必要があるのです (Ⅰテサロニケ 5:8)。そうでなければ、敵の攻撃を受けたとき、私たちはすぐに倒れてしまうかもしれません。特に、私たちの思いに絶望が入り込まないように、「望みのかぶと」をしっかりとかぶることが大切です。
では、「望み」とは何でしょうか。それは、「主が再び来られる」という確かな事実です。主の再臨によって最後の審判が行われ、真の正義が完全に実現されるからです。この最後の審判には、個人的なものと歴史的(宇宙的)なものの二つがあります。個人的な審判とは、私たちの肉体が死んだ後、天の御国に入る前に裁きの座の前に立ち、個々の行いについて受ける審判を指します。同じように、歴史的(宇宙的)にも、神様が全人類と全世界を裁かれる「その日」があると、聖書ははっきりと教えています。なんと的確な表現でしょうか。そして、このような審判は、どうしても必要なものではないでしょうか。なぜなら、それはまるで農夫が収穫した穀物を脱穀し、良い実を主人の倉に収め、籾殻を火で焼き払うように、この地上で日々積み重ねられているあらゆる不義や不正、悪行に対して、最終的な裁きが下されなければ、本当の意味で正義が実現されないからです。ですから、その「裁きの日」は、必ずやって来なければならないのです。
テサロニケの教会は、この「望み」を持って生きていたがゆえに、大いに称賛されるにふさわしい教会でした。一方、現代に生きる私たちの信仰は、希望を失いがちであり、この世と妥協しながら生きる傾向が強くなっています。まさに、私たちはそのような時代のただ中に生きているのです。しかし、テサロニケの信徒たちは、「望みのかぶと」をしっかりとかぶり、妥協することなく、真実な信仰をもって生き抜いていたのです。
しかし今日、多くの教会が、キリストの復活と再臨に対する「望み」を失ってしまっています。その希望の灯は、すでに長い間にわたって消え去ってしまったのです。結果として、教会そのものの灯火もまた、消えてしまいました。その根本的な原因は、聖書の中に記された復活と再臨のメッセージを、人間が書いた神話的な記録だとみなすようになったことにあります。あるいは、その言葉を、現代ではほとんど使われなくなった「死語」のように受け取り、時代遅れのものとして扱ってしまっているのです。これは非常に危険な考え方です。
罪についても、聖書の教えそのままを受け入れようとしない人々がいます。パウロは《ローマ1章》において、何が罪であるのかを明確に記しています。ところが、その箇所を取り除こうとしたり、消し去ろうとする人々がいるのです。私たちは、そのような人々やその行いに対して、はっきりと戦わなければなりません。そして、どのような時代にあっても、聖書の教えそのものを忠実に守り、決して妥協してはならないのです。使徒は、《第二テサロニケ1章》において、聖書の教えをそのまま信じ、守り、妥協せずに生きていたテサロニケの信徒たちを称賛しています。彼らは使徒の教えに従い、イエス・キリストの再臨を待ち望みながら、信仰に堅く立ち続けていました。その姿は、まことに素晴らしいものでした。だからこそ、この教会に宛てられた手紙は、聖書の一部として記され、今日に至るまで私たちも読むことができるのです。使徒パウロは第二テサロニケ1章で、信徒たちにこう勧めています。「皆さんのその立派な信仰を保ち続けてください。そして、誤った解釈を語ったり、極端な信仰のかたちを押しつけようとする人々に出会ったときには、私が語ったことを思い出し、正しく理解し直してください」と。
さらにパウロは、《3章》において、信徒たちがバランスの取れた信仰生活を送ることができるよう、別の重要な助言を加えています。それは、「主の再臨に対する希望をしっかりと抱きながらも、決して浮つくことなく、日々の生活に立ち返り、自分に与えられた務めを一つひとつ着実に果たして生きなさい」という勧めです。また、使徒は、《第一テサロニケ5章》で、「時と時期については、すでに皆さんに教えてあります」と述べています。つまり、主がいつ、どのように来られるのかということについて、信徒にとって必要な情報はすでに十分に伝えた、というのです。ですから、「主がすぐに来られる」とか、「何月何日に来られる」といった、具体的な日時を示す偽りの言葉に惑わされてはならないのです。もしそれらの教えがあまりにも極端な方向へと流れてしまえば、そこには数多くの逆機能が生じてしまうのです。
もし皆さんが、多くの羊を導く牧者(shepherd)であるならば、信仰が極端な方向へと流れてしまわないよう、細心の注意を払わなければなりません。使徒パウロは、コリントの教会に宛てた手紙の冒頭で「神の愚かさ」について語りました」(Ⅰコリント 1:25)。それには深い理由があります。というのも、神の全能(Almighty)ばかりを強調しすぎると、信仰に副作用や問題が生じる危険があるからです。十字架は、人間の目には愚かに見えるかもしれません。しかしそれは、実は人間の知恵よりもはるかに優れた知恵であり、人間の力をはるかに超える神の力なのです」(Ⅰコリント 1:18、1:25)。神様はいつも、このように「十字架」を通してご自身を現され、そしてそのようにして私たちを救ってくださいます。神の救いの方法が、あの十字架のような方法であるという事実は、私たちが百回、千回と考え直しても、まさに「その通りだ」としか言いようのない、確かな真理なのです。
私たちは、全知全能の神 (Almighty God) を信じていないわけではありません。まるでそうではないかのように語る人もいますが、それは明らかに誤りです。神の全知全能は、私たちの信仰における基本的な理解のひとつです。神様はこの宇宙万物を創造された方であり、そればかりか、すべてを寸分の狂いもなく保っておられます。創造信仰の根本には、全知全能なる神への確固たる信頼が据えられています。しかし、この側面だけを過度に強調しすぎると、私たちは思いがけない落とし穴にはまってしまうことがあります。たとえば、「主の祈り (The Lord’s Prayer)」さえ祈らなくなってしまったり、「聖徒の堅忍 (Perseverance of the Saints)」の教えを誤って理解し、信仰生活を歪めてしまうことがあるのです。
カルヴァンの五大教義 (TULIP:全的堕落、無条件的選び、限定的贖罪、不可抗的恵み、聖徒の堅忍) の中に含まれている「聖徒の堅忍」は、「救われた者は、主によって最後まで支えられる」という力強い約束を指しています。しかし、この教えが極端に傾いたとき、どのような危険が生じるでしょうか。たとえば、コリントの教会が直面したように、「すべてのことが許されているが、すべてのことが益となるわけではない」(Ⅰコリント 6:12) という使徒の勧めを必要とする場面が現れます。救いによって得た自由が、逆に罪を軽視する口実となり、人々が平然と罪を犯すようになる危険があるのです。さらに深刻なのは、グノーシス主義 (Gnosticism) のような誤った教えに陥ることです。すなわち、「私は霊的にはすでに救われているのだから、肉体的にどれほど放蕩な生活を送っても、罪悪感を抱く必要はない」とする邪悪な思想へと流れてしまうのです。こうした考え方は、明らかに大きな誤りであり、信仰を根本から損なう危険をはらんでいます。
ですから、私たちの教会が常に健全であり続けるためには、聖書の教えから逸脱しないよう、注意深く歩むことが求められます。何よりも大切なのは、聖書が教えている通りに信じることです。先に述べたように、主ご自身が語られたマタイ25章のたとえ、いわゆる「タラントのたとえ」においては、「主人が旅立った」(マタイ 25:14) と記されています。そして、主人は後に帰って来て、タラントを預けたしもべたちがどのように働いたかを一人ひとり吟味し、公正な裁きを下されます。あるしもべには「悪くて怠け者だ」と厳しく叱責し、また別のしもべには「よくやった、忠実なしもべだ」と称賛されます。イエス様は、このように深遠な教えを、非常にわかりやすいたとえによって示してくださいました。そしてその教えは、知恵と悟りの霊である聖霊によって福音書記者たちに記録させ、今日の私たちにまで確かに伝えられているのです。このように明確な聖書の記録があるにもかかわらず、教会が主の再臨について混乱に陥ってしまっているのは、まさにその啓示の教えから逸れてしまっていることに原因があるのです。
使徒パウロが教会の信徒たちに繰り返し語っていたこと、それは「主を見つめなさい」という勧めでした。すなわち、私たちを救い、天に昇り、今や神の右の座におられるキリストを見上げなさい、ということです(コロサイ 3:1)。この「主を見つめる」とは、主ご自身が、私たちに直接、また使徒たちを通して与えてくださった、欠けのない正確な教えと高貴な真理の教義を、昼も夜も黙想しつつ、それに根ざして生きなさいという呼びかけなのです。
本日は《Ⅱテサロニケ》がどのような背景で書かれたのかについて学びました。何よりも聖書の言葉を正しく理解することが私たちの信仰生活において最も重要であることを忘れず、ますます聖書を愛し、毎日読んで御言葉をよく知る者となりましょう。お祈ります。Ω


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