2025年10月12日
*本文:テサロニケ人への手紙 第一 5章12-28節
†今日の聖書箇所では、テサロニケ教会に送られた最初の手紙の結びの言葉を読みました。この内容は使徒がテサロニケの信徒たちに向けた心からの勧めと最後の挨拶です。この教会は、天に昇られた主の再臨を熱心に待ち望みながら生きる共同体でした。使徒はこの手紙の最後の部分に、「主との再会を待つ間、彼らがどのように生きるべきか」についての尊い教えを残しています。
「ですからあなたがたは、現に行っているとおり、互いに励まし合い、互いを高め合いなさい。」(Iテサロニケ 5:11)
前回お話ししたように、これは格別の賞賛に値するものでした。彼らはかつて指導者不在の状態で過ごしていました。パウロとシラス、そしてテモテがこの教会を開拓した後、激しい迫害が起こり、この手紙が記された当時、主要な指導者たちは皆この教会を離れざるを得ない状況でした。時折テモテが教会を訪れ、勧めや慰めの言葉を伝えることはありましたが、彼自身もまた教会を離れる必要がありました。それにもかかわらず、彼らは互いに支え励まし合い、共に成長しながら信仰生活を送っていたのです。
この章の結びにおいて、使徒はこのように言っています。「この手紙をすべての兄弟たちに読んで聞かせるよう、私は主によって堅く命じます。」(Ⅰテサロニケ5:27)これはすべての家庭教会においてこの手紙を声に出して読み伝えるようにという指示です。使徒はこのような切実な思いを込めて、この手紙を記したのです。特に11節の言葉を心に刻んでください。「今、皆さんがしているように、さらに互いに励まし合い、互いに高め合いながら生きてください。」使徒はクリスチャンがこの言葉を繰り返し読み、深く心に留めることを強く望んでいるのです。
「兄弟たち、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人たちを重んじ、」(Iテサロニケ 5:12)
ここで「私たち」と言及されているのは、テサロニケ教会を開拓した3人の指導者たちを指します。「あなたがた」はテサロニケ教会に集う信徒たちのことです。「お願いします」という表現は、「心からの願い」を意味します。「あなたがたを指導し、訓戒している人たち」とは、教会内のリーダーたちを指しています。テサロニケ教会の中にもリーダーが存在していたということです。家庭を拠点とした小規模な教会でありながらも、その中には指導者が置かれていたのです。
「5:12b あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人たちを重んじ、」教会のリーダーとは、何よりもまず「労苦する」者たちです。陰で汗を流し、「名もなく、光もなく」奉仕に身を献げる人々です。私たちの教会にも、このような献身的なリーダーが存在します。彼らは夜を徹して働き、誰もが避けたがる厄介な任務を引き受け、羊の群れを守り育てるために休むことなく奮闘しています。また、教会のリーダーは羊の群れを「指導する」使命を持っています。さらに、彼らは「訓戒する」役割も担っています。訓戒するとは、聖徒たちの中にある善悪を見分け、必要な時には正しい方向へと導くために戒めることを意味します。使徒はテサロニケの信徒たちに、このようなリーダーたちを「重んじなさい」と強く勧めました。「重んじる」とは、リーダーたちが背負う労苦と苦悩、そして聖徒への深い愛情をしっかりと理解し、心から敬意を表することです。彼らを心から尊敬しなさいという命令なのです。
「その働きのゆえに、愛をもって、この上ない尊敬を払いなさい。また、お互いに平和を保ちなさい。」(Iテサロニケ 5:13)
パウロは「愛をもって、この上ない尊敬を払いなさい」と話しています。皆さんは日常生活の中で、何を最も大切にしているでしょうか。多くの方は、家族を何よりも大切にするでしょう。または、親しい友人を最優先することもあるでしょう。しかし使徒は、こうした大切な人々よりも、教会を導く指導者たちをさらに重んじなさいと教えているのです。さらに「お互いに平和を保ちなさい」と続けています。皆さん、互いに和やかな関係を築き、その関係を保ち続けてください。和睦こそが、私たちの信仰生活において最も重要な徳目の一つなのです。
「兄弟たち、あなたがたに勧めます。…」(Iテサロニケ 5:14a)
ここで使徒は「再び」、勧めますと言っています。《13節》が教会内のリーダーたち、すなわち先頭に立つ人々への勧めだったのに対し、《14節》は後方(こうほう)に位置する人々への勧めへと移っています。彼らは迷い出た羊のような存在です。最後尾で歩み、あるいは遅れをとっている人々です。ここからは、そのような人々に対する具体的な指針が示されているのです。
「…怠惰(たいだ)な者を諭し、小心な者を励まし、弱い者の世話をし、すべての人に対して寛容でありなさい。」(Iテサロニケ 5:14b)
まず、「怠惰な者を諭し」という言葉に注目しましょう。「怠惰な者」とは、軍隊の行進において隊列から脱落し、遠く後方に取り残された兵士たちのような存在です。つまり、教会の中で目的もなくさまよい、正しい道から逸れ、働くことを避ける人々(IIテサロニケ3:10)を指しています。彼らを「諭す」とは、単に叱責することではなく、彼らの内に眠る情熱とを呼び覚まし、再び立ち上がる勇気を与えることを意味します。次に、「小心な者を励まし」という勧めがあります。これは心が萎縮し、恐れに支配されている人々に対する深い「慰め(Comfort)」と力強い「励まし(Encourage)」の必要性を説いています。さらに、「弱い者の世話をし」と続きます。多くの人は、思考が負の方向に傾くと、希望を失い、心が沈み込んでしまいます。希望が消えることを「失望」と呼び、心が奈落へと沈むことを「落胆」と表現します。なぜこのような状態に陥るのでしょうか。こうした人々は、かつては希望に満ち溢れていた時期があったはずです。しかし今は、信仰の炎が弱まったり、考えが正しい方向から外れてしまった理由があるのでしょう。これはまさに「ベルはひざまずき、ネボはかがむ」(イザヤ46:1)という御言葉が示す姿と重なります。
主の道を歩む者は誰しも、人生における浮き沈みを経験します。私たちの信仰において真に重要なのは、危機的瞬間に自分自身をどう律するかということです。そのような時、誰が私たちの助けとなるでしょうか。苦境に陥った人の手をしっかりと握り、心を慰め、新たな勇気を注ぎ込んでくれる存在が不可欠です。皆さんも、そのような支え手として生きてください。
そして、弱い立場にある人々、群れの後方で歩む人々を支える際に忘れてはならない大切な心構えがあります。パウロは「すべての人に対して寛容でありなさい」と教えています。この使徒の勧めを心に留めてください。誰かを支える時、容易に投げ出さず、簡単に諦めることなく、使徒の教えのとおり「寛容さ」を持ち続けなければなりません。種まきのたとえを思い起こしてみましょう。蒔かれた種が芽吹き、成長し、豊かな実りをもたらすまでには、深い忍耐が必要だと教えられています(ルカ8:15)。同様に、私たちも寛容さをもって待つ姿勢が求められるのです。人生は誰にとっても浮き沈みの連続です。ある人は歩んできた道を突然捨て、全く別の方向へと進み始めることもあります。主の羊の群れもまた例外ではありません。彼らが道に迷い、本来の進路から外れることがあります。また、彼らの内に理由の見えない怒りや不満が渦巻くこともあるでしょう。そのような時こそ、《ヨナ書》を開いて読んでください。ヨナの姿には、私たち宣教に携わる者の姿が映し出されています。
「だれも、悪に対して悪を返さないように気をつけ、互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うように努めなさい。」(Iテサロニケ 5:15)
私たちメンバーの中に悪を行う者が現れた時、最も重要なのはその悪行が継続しないよう適切に対応することです。イエス様は黄金律の中で「あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい」(マタイ5:39)と教えられました。右の頬を打つという行為は、手の甲で打つことを意味し、ユダヤの文化において最も侮辱的な振る舞いとされていました。つまりこの御言葉は、たとえ最大の侮辱を受けたとしても、さらに左の頬をも差し出す心の広さを持ちなさいという教えなのです。さらにイエス様は「あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい」(マタイ5:41)と諭されました。また、イエス様は「あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません」(マタイ 5:20)とも言われました。この言葉は、私たち信仰者の生き方が、単に律法を形式的に守ることに終始する人々よりも優れていなければ、天の御国の民としてふさわしくないことを示しています。
律法では「目には目。歯には歯。手には手。足には足」という応報の原則が示されています(出エジプト 21:23-25)。これは受けた害悪と同等の仕返しをすることで、公平な正義を実現するという考え方です。しかし使徒パウロは、このような応報の連鎖を断ち切り、「悪を悪で返さないように」と私たちに勧めています。これはローマ12章の教えと同じ勧告です。「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行うように心がけなさい。」(ローマ12:17) そして、最終的には「悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい」(ローマ12:21)と力強く宣言しています。使徒が残した真に美しい勧めです。私たちもこの貴重な御言葉を心に刻み、日々の生活の中で実践していかなければなりません。
続く《16節から18節》には、有名な御言葉が記されています。使徒は「これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(Ⅰテサロニケ5:18b)と宣言しながら、三つの重要な勧めを私たちに与えています。私たちクリスチャンは、常に「神の御心とは何か」を思い巡らし、それを追い求めて歩む者です。神の御心がどこにあるのか、その御心に沿って生きるとはどういう意味なのか—これらの問いは時に漠然としていても、私たちは絶えず神の御心を探し求め、それを明確に把握し、その導きのもとで生きる者たちなのです。使徒は、私たちに対する神の御心を次の三つの勧告で示しています。
第一は「いつも喜んでいなさい。」(Ⅰテサロニケ 5:16)、第二は「絶えず祈りなさい。」(Ⅰテサロニケ 5:17)、第三は「すべてのことにおいて感謝しなさい。…」(Ⅰテサロニケ 5:18a)です。
使徒がこれらの勧めを命令形で記したのは、私たちの内側にすでにそうすべき確かな理由があることを示唆しています。まず「いつも喜んでいなさい」という勧告について考えてみましょう。私たちが絶えず喜ぶべき理由とは何でしょうか。人は喜びに満たされると自然と歌い出します。同様に、感謝の心が溢れれば賛美の声を上げるものです。実は、私たちの内にはこのような喜びと感謝の源泉が明らかに存在するにもかかわらず、日常の忙しさや困難の中でそれを見失いがちです。聖書を深く学ぶと、「使徒がこのような理由によって、どんな状況でも喜び、歌いながら生きることができたのだ」という真理に気づかされます。その喜びの源について、私たちはすでにエペソ書で学んだことがあります。使徒が幾多の患難の中にあっても喜びを失わなかった理由、彼の人生がどれほど厳しい境遇に置かれても歌い続けることができた理由があるということです。
パウロは《エペソ1章3-14節》において、私たちが絶えず喜ぶべき理由、あるいは心から賛美すべき根拠を説明しています。皆さんの人生から笑みが消え去り、苦しみが押し寄せ、あるいは深い悲しみに沈む時、この聖句を開いて読んでみてください。そこで私たちの内に既に備えられている、深い喜びの源泉を再発見できれば、私たちを悩ませるすべての心配事や不安、悲しみの影は消え去っていくでしょう。
ここで注目すべきは、「喜んでいなさい」という勧めの前に「いつも(always)」という言葉が添えられていることです。同様に、祈りに関する勧めにも「絶えず(continually)」という言葉が、感謝についても「すべてのことにおいて(in all circumstances)」という表現が付されています。これらの修飾語が持つ意味は極めて重要です。私たちは一時的に喜ぶことなら容易にできます。一度の祈りを捧げることも、一度の感謝を表すことも難しくありません。しかし、ここで命じられているのは「いつも」喜び続けるということです。パウロはピリピの信徒たちにも「…いつも主にあって喜びなさい。」(ピリピ4:4a)と勧めました。これは勧めであり、明確な命令でもあるのです。
使徒は信徒たちに「絶えず祈りなさい」(Ⅰテサロニケ5:17)と勧めました。詩篇作者も「息のあるものはみな主をほめたたえよ。」(詩篇150:6)と歌っています。これは命ある限り、主への賛美を絶やすことなく生きよという呼びかけです。祈りにおいても、それが絶えず続けられてこそ真の祈りと呼べるでしょう。「常時」という表現があります。これはエリヤが七度祈った姿(I列王記 18:41-45)に見るように、あらゆる瞬間において祈ることを指します。なぜこれほどまでに祈りが重要なのでしょうか。それは私たちの人生が主と共に歩む人生であり、私たちの存在そのものが主にある存在だからです。したがって、人生のどの瞬間においても私たちの願いを主に申し上げること、これこそが真の祈りの姿です。別の言い方をすれば、常に主に依り頼みながら歩むということです。主は真実なお方であり、私たちのあらゆる祈りに耳を傾けてくださいます。主を求める者には必ず報いを与え、私たちが捧げた祈りをことごとく叶えてくださる方であることを、信仰をもって受け取らなければなりません。ですから、私たち信仰者は、エリヤのように七度でも祈りの応答を受けるまで祈り続けなければなりません。
パウロは《エペソ人への手紙1章15-23節》を通して、私たちが絶えず祈るべき明確な理由を示しています。この箇所では、私たちが主に何を祈るべきか、私たちの欠乏を満たし望みが叶えられるよう求める祈りの主題が何かを発見することができます。言い換えれば、私たちが休むことなく祈るべき理由と根拠と必要性、そして当然祈るべき主題がここに記されているということです。もし皆さんの祈りが阻まれ中断されるなら、人生に危機が訪れるかもしれません。なぜでしょうか。神様と人間の関係は人格と人格の関わりであり、祈りは私たちの呼吸に等しいものだからです。神様は私たちに常に語りかけておられ、人間は神様に常に祈り続けなければなりません。そして実際のところ、私たちのあらゆる祈りに対する答えは、神の御言葉の中にすべて備えられています。
そして使徒は「すべてのことにおいて感謝しなさい」と教えています。これは私たちの人生がいかなる状況に置かれようとも感謝して生きよという勧めです。この勧めを語るパウロ自身は、ピリピにおいて激しい患難と迫害を体験しました。彼の身体は足枷で固められ、鎖で繋がれ、牢獄に監禁されました。このような苦しい状況にあっても、パウロとシラスは賛美の歌を歌い続けました。その瞬間、神の全能の働きによって牢の扉が開かれ、すべての束縛から解き放たれるという驚くべき出来事が起こったのです。使徒が獄中にありながらも歌い続けることができた力の源は何だったのでしょうか。《使徒の働き16章》の御言葉を注意深く読んでください。そして、《第二コリント人への手紙11章》も併(あわ)せて読んでください。使徒以上の苦難の中で主の道を歩んだ者がいるでしょうか。いません。そのような極限の状況にありながら、今日の本文のような勧めを与える使徒の奥深い信仰の世界を黙想してみてください。皆さんの人生に大いなる慰めをもたらしてくれることでしょう。
「御霊を消してはいけません。」(Iテサロニケ 5:19)
「御霊」という言葉は「恵み」と置き換えて理解することができます。この恵みはいったいどこから注がれてくるのでしょうか。それは天の高きところからです。コロサイ人への手紙には「上にあるものを求めなさい」(コロサイ 3:1)との教えがあります。私たちが世の人々と根本において異なるのは、絶えることなく注がれる力の源が「上」にあるからです。《使徒2章》には「主の御名を呼び求める者はみな救われる」(使徒 2:21)という約束の御言葉が記されています。誰であっても上からの御霊を慕い求める者には、その御霊なる神が共に歩まれ、あらゆる苦難から救い出してくださるのです。だからこそパウロはテサロニケの信徒たちに向かって「御霊を消してはいけません」と勧告しているのです。
以前、私たちの教会はしばしば山中で修養会を開催していました。そこで神の御言葉が力強く宣べ伝えられ、その御言葉が参加者たちの心の奥深くまで染み渡ると、それはあたかも器に油が満ち溢れるかのような状態でした。そのため修養会が終わりを迎える最後の時に、次のようにお願いしたものです。「皆さん、受け取った聖霊の油を注ぎ出してしまうことのないようにしましょう。自分の身体を粗末に扱い、受け取った恵みを軽んじて流し去ってしまわないでください。その恵みを大切に保ち続けてください」と。
「預言を軽んじてはいけません。」(Iテサロニケ 5:20)
パウロは《第一コリント14章》において、異言で一万の言葉を語るよりも、理解できる心で五つの言葉を話す方が優れていると述べました(Ⅰコリント 14:19)。おそらくここには使徒による五つの重要な勧めが含まれていたのでしょう。預言はこの五つの勧めと同じ価値を持ちます。健全な教会においては預言が活発に働き、途絶えることがありません。なぜなら預言は私たちに未来への希望をもたらすからです。パウロは「救いの望みというかぶと」という表現を用いました。戦闘において、絶対に打撃を受けてはならない二つの部位は「胸部」と「頭部」です。そのため使徒は「義の胸当て」と「救いの希望というかぶと」を身に着けるよう勧めています(エペソ6:14,17 / Ⅰテサロニケ5:8)。このように健全な教会には必ず預言があります。この預言は、神様が特別に選び分けて立てられた「預言する者」を通じて与えられるのです。
世界宣教の拠点となり、出発点となったアンティオキア教会には、わずか二つのグループのみが存在していました。パウロとバルナバがこの教会から派遣された当時、そこには「預言者」と「教師」の二つの働きがありました。
イエスと使徒たちの時代において、エルサレムが聖なる都市と呼ばれたのには理由がありました。記録によれば、その小さな都市に一万人を超える祭司が住んでいたとされています。祭司の数があまりにも膨大であったため、彼らは24の組に分けられていました。ルカの福音書1章を学ぶ際にお話ししたことがあります。その大勢の祭司の中からくじ引きで選ばれた者のみが神殿に入ることを許されたのですが、選ばれた一人が洗礼者ヨハネの父ザカリヤでした。しかし、さらに驚くべき事実は、その数多くの祭司と同等の数の律法学者や教師がその都市にいたということです。
私たちの教会にも、そのような人々がいます。律法を教える教師に相当する人々です。彼らは専任で働く奉仕者であり、私は400人ほどの書記官(あるいは律法学者、教法学者)を想像します。これらの人々は律法と福音を教える先生たちです。私たちはこのような人々を「教師」と呼んでいます。聖書教師(bible teacher)のことです。教会は、このような専任の教師を育成し、立てる責任があります。他の働き手がいなくても、預言する人と聖書を教える人は、教会に必ずいなければなりません。聖霊様が賜物を注いでくださり、そのような人を必ず立ててくださいます。
さらに、教会には使徒と預言者がいます。使徒は教会を指導する者であり、預言者は預言する者です。パウロはこの二者の関係について、「互いに従い合いなさい」と勧告しました(エペソ5:21)。両者は互いに従い合わなければなりません。使徒は預言によく耳を傾けなければなりません。そして、預言する者は使徒の指導をよく受け入れなければなりません。つまり、権威を持つ者の指導をよく受けて預言をしなければならないのです。このように、どの教会にも預言をする者がいます。これは、生きておられる主が必ず預言者を選んで立ててくださることを意味します。したがって、預言を軽んじることなく、大切にしなければなりません。
「軽んじる(蔑視)」という言葉には、預言を「見下す(look down)」という意味合いが込められています。これは預言に耳を傾けない姿勢を表しています。しかし、預言には真摯に向き合うべきです。なぜなら、そこには神様からの教えと明確な指針が示されているからです。使徒パウロは常に預言の声に注意深く耳を傾けました。現在も、私たちの将来について語ってくれる献身的な奉仕者たちが存在します。教会は彼らの言葉を軽視することなく、真剣に受け止めなければなりません。
「21 ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。22 あらゆる形の悪から離れなさい。」(Ⅰテサロニケ 5:21−22)
あらゆることを慎重に吟味し、価値あるものはしっかり保つこと。そして、あらゆる形の悪から完全に身を遠ざけることです。
「平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。」(Ⅰテサロニケ 5:23)
ここにはパウロ独自の人間観が表れています。これは人間の構成要素を三つに分ける人間観です。霊・魂・体という三つの要素から人間は成り立っているとする理解です。使徒は、主の再臨まで信徒たちの人生全体が責められるところのないものとして保たれることを願っています。
「24 あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。25 兄弟たち、私たちのためにも祈ってください。」(Iテサロニケ 5:24−25)
使徒は、祈りがどれほど大きな力を持つかを深く理解していました。彼自身が力を得られるのは、信仰の兄弟姉妹による祈りの支えがあるからです。だからこそ、パウロは祈りの協力を求めているのです。これこそが信仰共同体の麗しい姿です。《エペソ1章》と《コロサイ2章》においても、パウロは信徒たちを思い起こすたびに彼らのために祈り続けていると述べています(エペソ1:16 / コロサイ1:3,9)。私たちもまた、仲間の信徒を思い浮かべるたびに、彼らのために祈り続けるべきです。
「すべての兄弟たちに、聖なる口づけをもってあいさつをしなさい。」(Iテサロニケ 5:26)
パウロが用いた挨拶の方法には、当時のローマ文化の深い影響が見られます。グレコ・ローマ(Greco-Roman)世界では、親しい者同士が顔を合わせる際に頬に口づけをする習慣が一般的でした。この世俗的な挨拶の形式が、やがてキリスト教共同体に取り入られ、信仰者たちの間での「聖なる挨拶」として新たな意味を与えられたのです。パウロは手紙の中で明確「すべての兄弟たちに、あいさつをしなさい」と語っています。
「この手紙をすべての兄弟たちに読んで聞かせるよう、私は主によって堅く命じます。」(Iテサロニケ 5:27)
ユダヤ系信者、ギリシャ系信者、その他あらゆる民族的背景を持つ人々が集う各々の家庭教会において、この手紙が朗読され、すべての信仰者に共有されることを願っていたのです。
「私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたとともにありますように。」(Iテサロニケ 5:28)
このように、使徒パウロは主の恵みによって始まり、主の恵みによって手紙を締めくくります。私たちもこの使徒の励ましを深く心に刻み、一週間を主の恵みの中で過ごしましょう。 お祈りいたします。Ω
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