2025年09月29日
*本文:テサロニケ人への手紙 第一 4章13-18節
†今日は《第一テサロニケ4章13節から18節》に焦点を当てます。この箇所は「終末論」に関する重要な教えが含まれています。終末論はキリスト論、救済論と並んで、キリスト教神学の三大柱として位置づけられる重要な教理です。「終末論」を意味する英語の"eschatology"は、ギリシャ語の「エスカトス(ἔσχατος, eschatos)」(最後の、究極の)と「ロゴス(λόγος, logos)」(言葉、学問)が組み合わさった言葉です。つまり、終末論とは歴史の最終段階についての教理を意味します。この教理では「キリストの再臨」や「最後の審判」といった重大なテーマを扱います。終末論は歴史に関わる教理であり、私たちはこれについて正確で健全な理解を持つ必要があります。
パウロの終末論は《第一・第二テサロニケ人への手紙》において特に多く言及されています。歴史の終末についての教えがまた聖書のどこにあるかというと、《ヨハネの黙示録》にあります。聖書の全体構造を見渡すと、旧約聖書は「五経」(トーラー)から始まり、続いて「歴史書」、「知恵書」と続き、最後に「預言書」が置かれています。このパターンは新約聖書にも反映されています。「四福音書」は旧約のトーラーに相当し、「使徒の働き」は歴史書に相当します。続く「書簡」群は信仰の知恵と実践を教えるものであり、パウロ書簡を中心に、ヤコブ、ペテロ、ヨハネ、ユダの手紙が含まれます。そして新約聖書の締めくくりとして、「ヨハネの黙示録」が置かれています。これは、歴史の完成と神の国の完全な実現についての壮大なビジョンを描いた書です。
イエス様の終末に関する教えは、《マタイ24~25章》、《マルコ13章》、そして《ルカ17章と21章》に記されています。これらの章は「小黙示録」と呼ばれ、終わりの時について、イエス様が語った言葉が詳細に記録されています。一方、ヨハネの黙示録は、終末に関する様々な問いに答えを提供するために書かれた書です。このヨハネの黙示録を深く学ぶことで、信仰において豊かで新たな世界が開かれるでしょう。
皆さん、パウロの手紙に特に注目すべき理由があります。これらの書簡は信仰を論理的に説明する弁証書なのです。《ローマ書》をはじめ、《第一・第二コリント書》に至るまで、パウロの書簡は私たちの疑問に多くの答えを提供してくれます。《第一・第二コリント書》は、コリントの信徒たちが信仰について抱いた疑問に、使徒パウロが一つひとつ丁寧に回答した文書です。コリントは思索(しさく)と哲学が盛(さか)んな都市だったため、信徒たちの中には様々な疑問が生じていました。そこで使徒パウロが信仰について弁証したということです。私たちの信仰において、このような弁証の姿勢は欠かせません。使徒ペテロが教えたように、「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。」(Ⅰペテロ3:15)という言葉を実践すべきなのです。
歴史についての問いかけはどれほど深遠で本質的なものでしょうか。人は歴史の流れの中に生まれ、その流れの中で人生を歩み、やがて歴史の一部として死を迎えます。そのため、この歴史という大きな船がどこへ向かっているのか、未来はどのようなものなのかという問いに、人々が強い関心を寄せるのは当然のことです。私たちは個人の救いだけでなく、人類全体の行く末についても深く考えずにはいられないのです。
実は、聖書は全体として歴史を語る書物です。それは創造の始まりから、歴史の展開過程、そして最終的な結末に至るまでを包括的に描き出しています。聖書が示す歴史観は、春夏秋冬が無意味に繰り返される循環論的なものではありません。キリスト教の歴史観は、明確な始まりと終わりを持つ直線的なものです。神様は最初に完璧な楽園(Paradise)を創造されましたが、人間の堕落によってそれは失楽園(lost paradise)となりました。聖書は、この歴史の流れの中で、原初の世界が回復される時が必ず訪れると教えています。ユダヤの民はこの特別な時を「主の日」と呼びました。この決定的な一日が到来するという信念が、ユダヤ人たちの終末理解の核心でした。
テサロニケ教会は、激しい迫害と苦難の中にあっても、信仰の灯火を守り続けようと懸命に戦い抜いた教会です。彼らは特に、迫害によって命を落とした信徒たちの魂が、キリストの再臨の際にどうなるのかという切実な疑問を抱えていました。テサロニケの信徒たちの状況があまりにも心配だったパウロは、テモテを派遣し、帰還したテモテを通じて「この問題について教えてほしい」という彼らの願いを知ったのです。今日の聖書箇所は、まさにこの問いへのパウロの回答なのです。当時最高のラビであり学者であった使徒パウロが、一つひとつ丁寧に答えを記したのです。
「眠っている人たちについては、兄弟たち、あなたがたに知らずにいてほしくありません。…」(Ⅰテサロニケ 4:13a)
パウロは彼らの問いに対して、「そうだ、これは必ず知っておくべき重要な真理だ」と伝えています。彼はユダヤ人の信仰世界に長年存在してきた疑問に、明確な解答を与えようとしているのです。ここで「眠った人たち」とは「死んだ者たち」を表す婉曲表現です。ユダヤ人の伝統では、亡くなった人々を「眠った人たち」と表現することが一般的でした。特に信仰の英雄たちについて「死んだ」と言うことは不敬であると考えられ、代わりに「眠っている」という言葉が用いられました。ユダヤ人たちは、神様の前で価値ある生涯を送った人々の旅路が死によって完全に終わるとは考えられなかったのです。彼らにとって、そのような人の死は終わりではなく一時的な休息、つまり「眠り」だったのです。
アメリカの著名な将軍(ダグラスマッカーサー)はその退任の辞で次のような不朽の言葉を残しました。「 老兵は死なない。ただ消えるだけだ。(Old soldiers never die--they just fade away.)」国家のために献身した勇士たちは決して真の意味で死ぬことはなく、私たちの心の中に永遠に生き続けるのです。国際儀礼の場面を見ても、一国の指導者が外国を訪問する際、最初に訪れるのはしばしば国立墓地であり、無名戦士の墓に花を手向けます。これは国を守るために命を捧げた人々への深い敬意の表明なのです。
テサロニケの信徒たちの心には、切実な問いがありました。「主のために迫害を受け、苦難の中で命を落とした者たちはどうなるのでしょうか?」これは彼らが直面していた現実的な問題でした。悲しみと痛みに満ちた人生を送り、迫害の中で息絶えた魂の行方について、彼らは真剣に問うていたのです。
皆さん、これは非常に難解なテーマです。聖書を単なる人間の著作と見なし、神様の永遠不変の啓示とは考えない人々がいます。彼らは聖書の中の難解な箇所、特に超自然的な事柄について記された部分を見て、「なぜこのような理解しがたい、非現実的な話が記されているのか」と疑問を呈し、それらの箇所を切り捨ててしまうのです。しかし、それは聖書の根幹をなすメッセージそのものを排除することになります。こうした姿勢は、聖書の豊かで力強いメッセージを貧弱なものへと変質させてしまうのです。
テサロニケの信徒たちは、信仰のために命を落とした仲間たちの行く末について、熱心に尋ねていました。なんと素晴らしい教会でしょう。ピリピとテサロニケはローマ帝国の東の辺境に位置する地域です。しかし、この辺境の地の人々が福音に触れ、歴史の意味や人生の深遠な真理について思索を巡らせていたのです。彼らの心が変えられ、このような崇高な問いを投げかけるようになったことは驚くべきことです。
使徒パウロは「眠っている人たちについては、兄弟たち、あなたがたに知らずにいてほしくありません。」と述べています。そして続く章では「兄弟たち。その時と時期については、あなたがたに書き送る必要はありません。」(Ⅰテサロニケ 5:1)と記しています。パウロはこれらの終末に関する真理を、信徒たちがしっかりと理解することが重要だと強調しているのです。
「あなたがたが、望みのない他の人々のように悲しまないためです。」(Ⅰテサロニケ 4:13b)
「望みのない他の人々」、つまり世の人々は、死がすべての終わりだと考えています。だからこそ、彼らには真の希望がありません。私たちの信仰、そして愛と同様に、私たちの希望とは何でしょうか。使徒パウロは今、復活の希望について語っています。これは世の人々が持ち得なかった世界観です。復活の希望は、キリストを信じる者だけが持つ世界観なのです。
「悲しまないためです。」復活の希望が私たちの涙を拭い去るのです。この希望に生きる者は、真の意味で悲しむことができません。復活された主イエスは、墓の前で泣いていたマグダラのマリアに「なぜ泣いているのですか」と優しく問いかけられました(ヨハネ 20:15)。これはなんと美しい場面でしょう。世の人々は死の前で絶望し、嘆き悲しみます。しかし、私たち信仰者の内には、悲しみと悲劇と涙を超越した世界があるのです。
「イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです。」(Ⅰテサロニケ 4:14)
使徒パウロは希望に満ちた世界について語っています。テサロニケの信徒たちは、主の再臨が間近に迫っていると信じて日々を過ごしていました。ヨハネ21章でイエス様がペテロの将来について語られた際、ペテロはヨハネを指して「では、この人はどうなるのですか」と尋ねました(ヨハネ 21:21)。この問いかけは、「ヨハネが生きている間にイエス様が再び来られる」という信仰が弟子たちの心にあったからこそ生まれたものです。イエス様ご自身も「あなたがたがイスラエルの町々を巡り終わらないうちに、人の子が来るでしょう」と語られました(マタイ 10:23)。このように初代教会の信徒たちは、主の差し迫った再臨を心に留めて生活していたのです。
パウロは、イエス様が再臨される時に何が起こるのかを明らかにしています。神様が亡くなった信徒たちを生き返らせ、イエスと共に連れて来られるというのです。どうしてそのようなことが可能なのでしょうか。使徒は「主が復活されたのだから、死んだ者たちも復活するのは当然のことだ」と断言します。「…死よ、おまえのとげはどこにあるのか」(Ⅰコリント 15:55b)。人はみな死の前に力を失います。しかし、主の内に生き、主のために生きた人々は、主と共に必ず復活するのです。そして、主が再び来られる時、彼らは皆、主と共にやってくるのです。これが使徒パウロの揺るぎない信仰です。聖徒たちは死んだのではなく、ただ眠っているだけであり、いつの日か再びよみがえるのです。
映画「指輪物語」(The Lord of the Rings)には、最後の戦いで命を落とした勇者たちが甦り、究極の勝利を共に祝うという感動的な場面があります。まさにこのように、終わりの日に主が再臨される時、主にあって眠りについた者たちを皆、ともに連れて来られるのです。「神様は彼と一緒に連れて来られる。」なんと心震える約束でしょう。
主が復活されたからこそ、私たちも主に従って復活するのです。主の復活は私たちの復活の保証なのです。主は再び生き返った者たちを皆、連れて来られます。
「私たちは主のことばによって、あなたがたに伝えます。生きている私たちは、主の来臨まで残っているなら、眠った人たちより先になることは決してありません。」(Ⅰテサロニケ 4:15)
ここでの「私たち」とは、パウロ、シラス、テモテの三人を指しています。彼らが伝えようとしているのは、生きて主の再臨を迎える者だけが栄光を受けるのではなく、主のために生き、既に亡くなった者たち—無念のうちに散った者たち、名もなく消えていった者たちも—同じく栄光にあずかるということです。使徒は「あなたがたが、彼らより先に栄光を受けることはない」と断言しています。すべての信仰者が共に主の栄光に包まれるという約束なのです。これはまさに希望と慰めに満ちた御言葉です。愛する者との別れを涙で悼んだ多くの人々に、希望を与える驚くべき宣言です。
続く節で、使徒パウロはこの出来事がどのように起こるのかを説明しています。《5章》も同様に、「時」に関する教えです。このような出来事がどのような状況の中で実現するのかを明らかにしています。これが原初的な終末論の核心なのです。
「すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、」(Ⅰテサロニケ 4:16)
主の再臨の時、三つの荘厳な出来事が同時に起こると描写されています。「号令」と「御使いのかしらの声」と「神のラッパの響き」です。これらは一斉に天から鳴り響くのです。この「号令」とは、おそらく「起き上がれ!」という命令であると考えられます。ピリピ、テサロニケ、コリントなどの都市はローマ帝国の辺境に位置していたため、多くの兵士が駐留していました。《使徒の働き》には、パウロがコリントで天幕作りの仕事をしていたことが記されています(使徒 18:3)。これらの都市ではスポーツ競技も頻繁に行われ、宗教的集会も多く開かれ、特に兵舎が数多く存在していたため、天幕の需要が高かったのです。軍隊では、ラッパの音が鳴ると眠っていた兵士たちが一斉に起き上がります。この御言葉にはそのような情景が重ねられています。神のラッパが鳴り響く時、主の来臨と死者たちの復活という驚くべき出来事が同時に起こるのです。
主が天から来臨される時、既に亡くなった信徒たちを皆連れて来られ、地上に生き残っていた者たちと出会わせてくださるのです。使徒パウロは実質的に「あなたがたが切に慕う主に会うだけでなく、あなたがたが恋しく思う愛する者たち全員とも再会することになる」と告げているのです。これこそが歴史の壮大なフィナーレです。アルファがあればオメガがあるように、歴史に始まりがあれば必ず終わりがあるのです。そして歴史の完成は、このように栄光に満ち、感動に溢れたものとなるのです。これを信じる信仰こそが、私たちの希望の核心なのです。
「それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」(Ⅰテサロニケ 4:17)
キリストにあって眠った人々がまず最初に復活し、その後に生き残っている信徒たちも彼らと共に雲の中へと引き上げられると述べられています。この箇所を非現実的だとして切り捨てようとする人々もいます。彼らはこの部分を解釈しようともしません。しかし、終末論を失った教会には力がありません。歴史の完成に対するビジョンを欠いた教会には、真の力が宿らないのです。
私たちはいま、この息をのむような場面について読んでいます。生き残った者たちが引き上げられ、「空中」で主に出会うと記されています。この「空中」とはどこを指すのでしょうか。エペソ2章2節にも「空中」という言葉が登場します。「かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。」(エペソ 2:2) ユダヤ人は、天は三層構造になっていると考えました。まず地上の世界の天(sky)があり、その上に「空中」の領域が広がり、さらにその上に神の御座がある天国が位置すると理解されていました。興味深いことに、その中間領域である「空中」は悪魔が支配していると考えられていました。この悪魔が信仰者たちを惑わし、操り、罪へと誘惑するのです。だからこそ、使徒パウロは悪魔を「空中の権威を持つ支配者」と表現したのです。「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(エペソ 6:12) ここでの「支配、力、この暗闇の世界の支配者たち」とは、堕落した天使たちの世界と悪しき霊的存在を指しています。 これは、霊的な世界の統治と権勢があるということです。
「雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。」これが使徒パウロの描く確信に満ちた世界です。「空中で主と会う」という表現には、どのような意味が込められているのでしょうか。「空中」とは悪魔の本拠地であり、権力の中心です。主がこの悪魔の本陣を打ち破られたという宣言なのです。福音は敵の陣地を崩し、城壁を打ち倒し、高くそびえる塔までも征服する力を持っています。「私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神のために要塞を打ち倒す力があるものです。」(Ⅱコリント 10:4) 主が最後の敵である悪魔を完全に打ち負かし、空中を支配下に置くことによって、主の栄光がそこに輝き渡るのです。
この御言葉をアニメのような空想的現象として理解する人もいるでしょう。人間がはじめは地上を這いずり回り、後には空を飛び交うようになり、空中で主と出会うという具合に。しかし、パウロが伝えようとしているのは、そのような表面的な描写ではありません。パウロが語っているのは、悪魔の本拠地が打ち破られ、征服された後、その勝利の場で私たちが主と出会うということです。悪の力が完全に打ち負かされた場所で、私たちは栄光の主と対面するのです。これが「空中で主と会う」という言葉の真意です。これはなんと荘厳で壮麗な光景でしょうか。勝利の日が必ずや訪れるのです。
使徒パウロの言葉は《使徒の1章11節》と結びついています。「あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」(使徒 1:11)教会はなんと完璧な歴史的記録を保持していることでしょうか。キリストの初臨は、この地上の飼い葉桶への来臨という自己を無にされた出来事(ケノーシス)でした。キリストは罪に満ちた世界に介入し、死に、復活し、そして天に昇られたのです。第一コリント15章をご覧ください。「3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、4 また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、5 また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中にはすでに眠った人も何人かいますが、大多数は今なお生き残っています。7 その後、キリストはヤコブに現れ、それからすべての使徒たちに現れました。8 そして最後に、月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました。」(Ⅰコリント 15:3-8)使徒パウロは復活の証人について語っています。主の復活を目撃した数多くの証人が存在するのです。これは復活の揺るぎない証拠です。では、復活された主はどこへ行かれたのでしょうか。聖書は主が天に昇られたと記録しています。この昇天についての記録は、どれほど正確なものでしょうか。多くの宗教指導者の最期を見ると、「彼は山の中に入って姿を消した」などと曖昧に語られています。こうした説明は不可解ではないでしょうか。どの山に入ったというのでしょうか。また、もし主が復活した後に再び死んだとすれば、これもまた不可解なことではないでしょうか。ですから、私たちに伝えられた「昇天」という歴史的記録は極めて重要であり、驚くほど正確なものなのです。「見たのと同じ有様で、またおいでになります」。ここでの「見た」ことは「昇天」のことです。天に上げられた方が再び天から来られるという記録は、実に適切で正確な記録です。「見たのと同じ有様で、またおいでになります」という確信が使徒パウロの心の中にあったのです。
今日の説教のタイトルは「主の来臨と死者たちの復活」です。歴史の壮大なフィナーレとして、終わりの日に神の国が実現し、主が来られるのです。この主の来臨の時期に関しては、前千年説、後千年説、無千年説といった様々な神学的見解が存在します。これらの学説は黙示録20章1-6節に記された千年王国についての解釈から生まれたものです。しかし、私たちはこれまでこうした学説について学ぶことはしませんでした。皆さん、預言を私的に解釈しないでください。私的解釈はつまずきの原因となります(Ⅱペテロ 1:20)。
「あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」これは主の再臨についての極めて適切な理解です。主が御自身の国に来られることは、ごく自然なことではないでしょうか。テサロニケの信徒たちの主の御国についての質問が突飛でしょうか?そうではありません。そして彼らの問いに対する使徒パウロの回答が荒唐無稽でしょうか?決してそうではありません。これは真に適切な答えなのです。しかし、この教えがあまりにも非現実的だとして、この部分を覆い隠そうとする人々がいます。彼らは生命力に満ちた神の御言葉を無力化し、死んだ文字にしてしまうのです。聖書のこのメッセージを取り除くことは、極めて危険な行為です。
パウロの終末論を学ぶことを通して、私たちは荘厳な未来への確信と壮大な希望を得ることができます。「私たちは、この望みとともに救われたのです。…」(ローマ 8:24a) 私たちはこの希望に完全に飲み込まれているのです。終末論を重んじる教会とは、輝かしく美しい未来の世界に心を奪われた共同体なのです。歴史の行き着く先を見つめてください。私たちは今、言葉では言い表せないほど美しい世界を垣間見ているのです。これこそが使徒パウロの信仰でした。
「ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。」(Ⅰテサロニケ 4:18)
使徒パウロは、主の来臨と死者の復活という壮大なグランドフィナーレ、未来に訪れる栄光の日について力強く描き出しています。この主の来臨をギリシャ語で「パルシア(παρουσία, Parousia)」と呼びます。未来において、このパルシアの日が必ず到来するという確信が使徒の言葉の根底にあるのです。そして使徒パウロは「あなたがたは今、苦しみの中にあるか。勇気を出しなさい。私たちがいつまでも主と共にいることになるのだから、この言葉で互いに慰め合いなさい」と熱心に勧めています。教会とは、まさにこの希望によって互いを支え、励まし合う場所なのです。
使徒パウロは、主の来臨の日について語りましたが、それを聞いた人々は必然的にこのような問いを投げかけます。「主が来られることを私たちは理解しました。この真理を堅く信じています。しかし、主はいつ来られるのでしょうか?」この切実な問いに対して、使徒パウロは次のように答えています。「兄弟たち。その時と時期については、あなたがたに書き送る必要はありません。」(Ⅰテサロニケ 5:1)この重要な箇所については、次回の学びで詳しく見ていくことにしましょう。お祈りします。Ω
*本文:テサロニケ人への手紙 第一 5章12-28節 †今日の聖書箇所では、テサロニケ教会に送ら...
*本文:テサロニケ人への手紙 第一 5章1-11節 †《第一テサロニケ人への手紙5章》から御言葉を...