礼拝説教

キリストの再臨と主のみもとに集められることに関して


2025年11月10日

*本文:テサロニケ人への手紙 第二 2章 1-3節

†今日はキリスト教の三大教理のうち、『終末論』について詳しく見ていきます。歴史について、偉大な使徒パウロはどのように解釈したのか確認してみましょう。テサロニケ人への手紙の最も重要なメッセージは、「どんな状況にあっても絶望してはならない」ということです。たとえこの世に悪がはびこり、全世界を揺るがすような大混乱が起こったとしても、落胆したり、倒れたりしてはいけないのです。なぜなら、歴史はそこで終わるのではなく、主が再び来られ、その状況をすべて覆して(overturn)くださるからです。そうして歴史のグランドフィナーレ(Grand Finale)が訪れるのです。その時、主が再び来られ、すべての悪を裁かれます。《マタイ25章31-46節》のたとえ話で羊飼いが羊とやぎを分けるように、主は義人と罪人を分け、最後の審判をされます。使徒パウロは信徒たちに「このような荘厳な歴史に対する希望を抱き、預言の言葉を信じなさい」と勧めているのです。

最近、繰り返し話している淡白な教えがあります。「再臨(Second Coming)」という言葉は人間に適用して用いられる言葉ではありません。それは、ただ神の御子イエス・キリストにのみ適用される言葉です。ですから、特定の人物を指して「再臨」だと語る者がいるならば、決してそれを聞いてはならず、惑わされてはいけません。歴史上、多くの人々がそのような偽りに惑わされました。《第二テサロニケ2章》で使徒パウロが言おうとしているのは、「惑わされてはならない」ということです。
「再臨」の「再」は“Second”という意味です。“First”があってこそ、次に来る“Second”があります。つまり、「再臨(Second Coming)」という言葉は、「初臨(First Coming)」を前提にしています。使徒の働き1章には、主イエスの昇天の場面が記されています。昇天される主を見つめていた弟子たちに、二人の御使いがこう言いました。「あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」(使徒1:11)。つまり、主イエスは弟子たちが「見たのと同じ有様で」再び来られるということです。昇天された方が再び来られることは、歴史のグランドフィナーレ(Grand Finale)を意味します。この世でどんなことが起ころうとも、歴史は主がもたらされる勝利で締めくくられるということです。それこそが、使徒の中にある信仰であり、また信じる者たちにとっての「救いの望みというかぶと」(Ⅰテサロニケ5:8)です。テサロニケの信徒たちはあらゆる患難と迫害の中にありました。だからこそ、信徒たちにとっての唯一の望みは「天に上げられた主はいつ再び来られるのか」ということでした。

福音書は《ヨハネ20章》で終わりますが、その後《21章》が付け加えられました。当時、聖書を修正(改訂・追加)することは決して許されない雰囲気でした。それでもあえて一章が加えられたのは、当時の終末論的混乱に対する整理が切実に必要だったからです。それがヨハネの福音書21章です。一世紀が過ぎ、パウロをはじめとする使徒たちは皆死にました。そのような時に記されたのがヨハネ21章です。ペテロが主イエスに「主よ、このヨハネはどうなのですか」と尋ねました。これはヨハネの将来について尋ねた言葉ですが、それは主の再臨の時についての問いでもありました。なぜなら、当時の人々はヨハネが死ぬ前に主は再び来られると信じていたからです。しかし、主の答えは「それがあなたに何の関わりがありますか」というものでした。つまり、「それが起こるのはヨハネが死ぬ前かもしれないし、ヨハネの死後かもしれないが、それがあなたに何の関わりがあるのか」ということです。言い換えれば、「気にするな」ということです。これは「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。」(使徒1:11)と言った天使たちの言葉と通じるものです。つまり、「天ばかり見つめていてはいけない」ということです。
「再臨(Second Coming)」とは、「イエス・キリストの再臨」のことです。それ以外に他の何かがそこに入り込む余地はありません。この点において混乱があってはなりません。しかし、歴史上、多くの人々の間に混乱があったのは、「言葉の混同」が原因です。悪魔の誘惑はいつも「言葉の混同」から始まります。もう一度強調します。「再臨(Second Coming)」は、ただ「イエス・キリストにのみ」適用される言葉です。

「さて兄弟たち。私たちの主イエス・キリストの来臨と、私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いします。」(Ⅱテサロニケ2:1)
ここに二つのことが書かれています。一つは「主イエス・キリストの来臨」、もう一つは「主のみもとに集められること」です。前者は再臨に関することで、後者は携挙(ラプチャー)に関することです。「来臨」はギリシャ語で「パルシア(παρουσία, Parousia)」といいます。神の国がどのように実現するのかについて、主が再び来られる時について、私たちは主イエスが直接教えられた御言葉から学んでいます。その日、その時がいつなのかは、誰も知らないと主イエスは言われました。天の御使いたちも、神の御子である主ご自身も知らず、ただ父なる神だけが知っておられると言われました(マタイ24:36)。「しかし、兄弟たち。あなたがたは暗闇の中にいないので、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。」(Ⅰテサロニケ5:4)また、《マルコ13章》で主イエスは「神の国はどのように来るのか」ということについて説明なさいました。そして、《マタイ28章》と使徒1章で主イエスは「大宣教命令(Great Commission)」を語られ、「あなたがたが地の果てまで福音を宣べ伝えると、終わりの日が来る」とも言われました(マタイ28:18–20、使徒1:8)
では、今日の《第二テサロニケ2章》で、使徒が語ろうとしていることは何でしょうか。それは、このように再臨について主ご自身の明確な教えがあるにもかかわらず、教会内に混乱が生じたということです。そのため、使徒は急いで二通目の手紙を書いてその混乱を整理し、もう一度正しい教えを伝える必要がありました。

それでは、教会内に具体的にどのような混乱が起こったのでしょうか。この混乱は、今日この時代にも同じように見られるものです。「主が再び来られる」という未来形ではなく、「主はすでに来られた」と完了形で話す者たちが現れました。しかし、「すでに来られた」と主張する人々の言葉は、真の「再臨(Second Coming)」についてのものではありません。すでに述べたように、「再臨」とはイエス・キリストが再び来られることだからです。そして、そのとき同時に起こるのが「携挙(Rapture)」です。この二つの問題について、教会が大きな混乱に陥ったのです。

再臨とは歴史の終わりに起こることです。それは世界と歴史の終末が訪れる時を意味しており、まだその時は来ていません。使徒が第二テサロニケ2章1節で言及している「イエス・キリストの来臨」は再臨(Second Coming)を指す言葉です。これはギリシャ語では「パルシア(παρουσία, Parousia)」です。この言葉は神の国がこの地に到来する「歴史の終末」を意味しています。

ところが、《第二テサロニケ2章2節》に書いてあるような再臨をめぐる混乱が教会内に起こったのです。
「霊によってであれ、ことばによってであれ、私たちから出たかのような手紙によってであれ、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いても、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。」(Ⅱテサロニケ 2:2)

これから理解を助けるために 新共同訳(NIV)を見ます。

「1さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストが来られることと、そのみもとにわたしたちが集められることについてお願いしたい。2霊や言葉によって、あるいは、わたしたちから書き送られたという手紙によって、主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい。」(Ⅱテサロニケ2:1-2、新国際訳、新共同訳)
「主(の日)はすでに来た」と完了形で話す人々の中には、聖霊の感動を受けたことを「主はすでに再び来られた」と解釈する者たちがいました。彼らの中に何に対する混乱(混同)があったのでしょうか。
彼らは「現在的キリスト」を話していたのです。この「現在的キリスト」には三つの理解があります。第一に、主の御言葉が宣べ伝えられる(ケリュグマ:Kerygma)とき、その御言葉を通して私たちが主に出会うということです。主はことばが人となられた方だからです(ヨハネ1:14)。第二に、私たちが互いに交わり(コイノニア:Koinonia)を持つとき、主は私たちのただ中におられるということです。つまり、私たちが主の愛で互いに愛し合うとき、主は私たちの間に臨在されるということです(Ⅰヨハネ4:12)。第三に、私たちが貧しい人々に対する献身や自己無化、奉仕(ディアコニア:Diakonia)を実践するとき、主は私たちの中におられるということです。これは、主イエスが《マタイ25章》の羊とやぎのたとえ話のなかで、「あなたがたが、これらの私の兄弟たち、しかも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです」(マタイ25:40)と言われた御言葉に基づいています。
しかし、このような「現在的キリスト」に関することが再臨を意味するわけではありません。また、聖霊の感動を受けたということも再臨そのものではありません。なぜなら、再臨は私たちを救うためにこの地に来られ、私たちの罪を担って十字架で死なれ、復活し、昇天されたイエス・キリストが再び来られることを指す言葉だからです。また、再臨は歴史のグランドフィナーレ(Grand Finale)、つまり荘厳な終末が来ることを意味しています。その終末は神の御子がこの地に来られ、あらゆる不義、迫害する力、悲劇的な状況を覆し(overturn)、裁かれることによって実現されます。そして、その終末と同時に新しい歴史が始まります。その新たな始まりの日を、「ヤハウェの日」あるいは「キリスト・イエスの日」(ピリピ1:6)といいます。
また、再臨について誤った理解を持つ者たちにはどのような部類の人々がいるでしょうか。《第二テサロニケ2章2節》には「言葉によって」という表現があります。国際版聖書(NIV)ではこれを”Report”(報告・うわさ話)と訳しています。つまり、ある人々が信徒たちのところに来て「こういう話を聞いた」「ああ言っていた」などと、正しくない情報を無分別に「報告(Report)」していたので、使徒パウロはそのような言葉によって混乱したり惑わされたりしないようにと、信徒たちに忠告しているのです。

「…あるいは、わたしたちから書き送られたという手紙によって、主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、」(Ⅱテサロニケ2:2b、新国際訳、新共同訳)
ここで言う「私たち」とはパウロ、シラス、テモテの三人を指しています。この手紙を書いたとき、この三人はコリントにいました。ところが、この三人が「主はすでに来られた」という内容の手紙を教会に送ったと騒ぐ者たちがいたようです。その手紙というのは「偽の手紙」だったのでしょう。
使徒パウロはこのような混乱した状況の中で流布された誤った教えや噂について、次のように述べています。「主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい。」(Ⅱテサロニケ2:2、新国際訳、新共同訳)分別を無くさず、理性をしっかりと用いて、▲主が今、私たちに臨在されているという「現在的キリスト」についての教えと、▲神の御子が大審判の主として再臨し、歴史の終末を実現されるという教えを正しく見分けなさいということです。この二つの教えを混同せず、混乱しないようにということです。

そして、《3節》では次のように言いました。
「だれがどのような手段を用いても、だまされてはいけません。」(Ⅱテサロニケ2:3a、新国際訳、新共同訳)
「現在的キリスト」についての教えを再臨だと言うような話、特定の人物を再臨したキリストだと言うような話に決して惑わされてはいけないということです。では、主はいつ来られるのでしょうか。再臨はいつ実現するのでしょうか。その問いに対して、使徒は次のように答えています。

「3b なぜなら、まず、神に対する反逆が起こり、不法の者、つまり、滅びの子が出現しなければならないからです。 4 この者は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して、傲慢にふるまい、ついには、神殿に座り込み、自分こそは神であると宣言するのです。」 (Ⅱテサロニケ3:3b-4, 新国際訳,新共同訳)
これは「反キリスト」のことです。そして「大患難の日が来る」ということが語られています。では、なぜ使徒はこのように話したのでしょうか。それは、主イエスがすでに語られた御言葉があるからです。「小黙示録」と呼ばれる《マルコ13章》、《ルカ17章》、《ルカ21章》、そしてマタイ24章に、再臨についてイエス様が直接説明された部分があります。
その中でも《マタイ24章》では、イエス様が「それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立っているのを見たら—読者はよく理解せよ—」(マタイ24:15)と、再臨の時を説明されました。これは、《ダニエル書9章27節》の預言の内容であり、この預言はイスラエルの民の中で実現しました。紀元前167年頃、ギリシャの支配者「アンティオコス・エピファネス4世」がユダヤ神殿を占拠し、踏みにじりました。彼は聖所をギリシャ人が信仰していたゼウス神の神殿に変えてしまいました。さらに、ユダヤ人が最も忌み嫌う豚の血を聖所に撒き、その豚を全焼のいけにえとしてゼウス神に献げさせました。さらには、祭壇の上に豚の頭を置き、ユダヤ人を嘲笑することまでしました。このあまりにもおぞましく、想像を絶する恥辱的なことがイスラエルの民の中で実際に起こったのです。その事件を目の当たりにして、ユダヤ人たちは「すべては終わった」と考えました。しかし、それが終わりではありませんでした。その後、しばらくの時が流れ、主がこの地に来られたのです。

今、使徒がテサロニケの信徒たちに伝えようとしているのは、主が再び来られる再臨の時にも、このようなことが同じように起こるということです。イエス様はマタイ24章で、「わたしが再び来る時にも、世の中では多くの人がつまずき、主を裏切り、愛が冷える」と言われました。それだけではなく、「ダニエルが預言したように想像を絶する恐ろしいことも起こりうる」と言われました。使徒パウロは、主のその御言葉を信徒たちに思い起こさせながら、たとえそのようなことが起こったとしても、それが終わりなのではないと語っています。それはむしろ主が来られる時が近づいているというしるしにすぎないのです。これは多くの迫害と患難の中にある信徒たちにとって、何よりも大きな慰めとなるメッセージです。これが終末に関する理論の一つ、いわゆる「大患難論(The Great Tribulation Theory)」です。
終末に関するイエス様の教えにはマルコ13章だけでなく、《マタイ13章》もあります。神の国はからし種のようなもので、その始まりは風に飛ばされそうなほど小さくても、地に蒔かれると、やがて生長して大きな木になるとイエス様は語られました。また、神の国は三サトンの粉の中に入れられたパン種のようなもので、それがほんのわずかであっても、全世界を変えるほど大きな力を発揮します。そのように、「御国が来ますように」とある主の祈りのように、最終的に神の国は徐々にこの地に実現していくということです。そうすると、終わりの日が来て、主が再び来られるのです。これは非常に楽観的な終末論です。

かつて「旧ソ連(Union of Soviet Socialist Republics)」が社会主義で世界を赤く染めていた時代、数多くあった教会が一つ残らず壊されました。とても恐ろしい時代でした。そのようななか、地下で信仰を守っていたクリスチャンたちが残した記録があります。その記録によると、彼らにとって最も慰めとなった聖書の御言葉は、《マタイ24章》と《第二テサロニケ》だったといいます。その聖書箇所が直接的な慰めとなったのです。言葉では言い表せないほどの迫害と抑圧、患難の中にいる者たちに、その聖書箇所のどのような点が慰めとなったのでしょうか。それは、「主が来られて義人と悪人を分けて裁かれ、正義を実現される歴史におけるその日が必ず来る」というメッセージです。これこそが、信じる者たちの「救いの望みのかぶと」です。

私たちは今、終末論を学んでいます。終末に関しては、まず個人の終末があります。それは死です。しかし、この世界と宇宙の週末、すなわち歴史の終末はどのように来るのでしょうか。《マタイ13章》を根拠に、▲神の国が徐々に成長し、世界が変えられて終わりの日が来るという説、▲「大患難」が起こった後に終わりの日が来るという説などがありますが、その結論は同じです。主がこの地に再び来られ、すべてを裁き、新しい世界が開かれるその日、すなわち「主の日(The Day)」=歴史の終わりの日が来るということです。ですから、信じる者たちにとって「終末論」は、非常に大きな慰めと励ましとなるのです。

使徒パウロは、今テサロニケの信徒たちにそのような話をしているのです。パウロはダニエル書の内容を詳しく説明してはいません。「アンティオコス・エピファネス4世」に関する歴史的な出来事についても具体的に語ったわけではありませんでした。主イエスが直接語られた「大患難」に関する教えに非常に簡潔に触れながら、「その記録から考えても、まだその時は来ていないではないか」あるいは、「たとえその時が来たとしても、不義と悪に満ちたこの世を裁き、正義を明らかにし、新しい世界が来るその時はまだ残されているのではないか」と語っているのです。だからこそ、「主が語られた歴史の終わりに関する大いなる預言をよく思い起こしなさい。あなたがたは分別をなくさず、よく考えてみなさい」とパウロは勧めているのです。

「なぜなら、まず、神に対する反逆が起こり、不法の者、つまり、滅びの子が出現しなければならないからです。」(Ⅱテサロニケ2:3b、新国際訳、新共同訳)
こちらがマタイ24章の内容です。大患難の時に多くの人がつまずき、その愛が冷えていくということです。つまり、そのような時代に多くの人が絶望するのです。人々がどこにも希望を見いだすことができません。実に正しい解釈です。そのような患難の時にかえって希望を持つことができるのは私たちキリスト者だけです。主が与えてくださった復活と再臨の希望を持って、残りの一ヶ月を熱心に伝道し、信仰の道を歩んでいきましょう。お祈ります。Ω

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