礼拝説教

兄弟たち。その時と時期については、あなたがたに書き送る必要はありません。


2025年10月06日

*本文:テサロニケ人への手紙 第一 5章1-11節

†《第一テサロニケ人への手紙5章》から御言葉を分かち合います。

「1 兄弟たち。その時と時期については、あなたがたに書き送る必要はありません。2 主の日は、盗人が夜やって来るように来ることを、あなたがた自身よく知っているからです。」(Iテサロニケ 5:1-2)

テサロニケ教会は終末への強い意識を持つ共同体でした。彼らは主の再臨が間近であるという確信のもとに生活し、キリストがいつ戻られるかについて常に思いを巡らせ、熱心に議論していました。彼らの生き方は日常の事柄に埋没するのではなく、主の来臨を心から待ち望み、切実な祈りをささげることに特徴がありました。多くの迫害と困難に直面し、偽りの教えが教会内に蔓延する中、彼らは主の再臨の日を熱望していました。それは、主が戻られて彼らの願いに応え、苦しみから解放してくださるという希望に支えられていたのです。彼らの信仰は主の再臨を中心に据えたものでした。初代教会全体が、昇天された主がまもなく戻られるという期待感の中で生きていたのです。

《ヨハネによる福音書》は四つの福音書の中で最後に記された書で、本来は《20章》で完結しています。しかし、その後に《21章》が追加されました。この章には宣教と牧会に関する重要な教えが含まれていますが、実はこの章が加えられた最も重要な目的は、テサロニケ教会が抱いていたような問いや関心事に対する答えを提供することだったと考えられます。ペテロがイエス様にヨハネの将来について尋ねた際、イエス様は明確な答えを与えられました。「…わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」(ヨハネ 21:22b) 《マタイの福音書》においても、イエス様は弟子たちに対して「一つの町で人々があなたがたを迫害するなら、別の町へ逃げなさい。まことに、あなたがたに言います。人の子が来るときまでに、あなたがたがイスラエルの町々を巡り終えることは、決してありません」(マタイ10:23)と語られました。イスラエルは地理的に小さな地域でしたが、それでもすべての町を回り切る前に人の子が来るという表現は、再臨が非常に間近に迫っているという印象を与えるものでした。この約束は、昇天された主がまもなく戻られるという期待を抱かせ、初代教会の信徒たちに計り知れない希望と慰めをもたらしました。日々の迫害と苦難の中で生きていた彼らにとって、この約束は特別な意味を持っていました。現在の生活がどれほど困難で苦しくとも、主が再び来られて彼らのすべての問題を解決してくださるという確信が、彼らの心に力と忍耐をもたらしたのです。

《第一•第二テサロニケの手紙》は内容に違いがありますが、両書簡の最も重要な目的は、終末に関する問いについて使徒パウロが回答することでした。この点において、これらの手紙は極めて重要な意義を持っています。

「兄弟たち。その時と時期については、あなたがたに書き送る必要はありません。」(Iテサロニケ 5:1)

テサロニケ教会では、歴史と終末についての黙想と議論が既に十分になされていました。そのため、使徒パウロが時と時期について改めて書き送る必要がないほどだったのです。彼らはこれ以上議論する必要がないほど、時と時期について豊かな理解を持っていたのです。

この聖句における「時」はギリシャ語で「クロノス」(Chronos)、「時期」は「カイロス」(Kairos)です。ギリシャ人は時間を量的な時間(Chronos)と質的な時間(Kairos)という二つの概念で理解していました。クロノスは、クロノメーター(精密時計)やクロノロジー(年代記)という言葉の語源となっているように、測定可能な量的時間を意味します。一方、量的な時間の流れの中で突然訪れる質的な変化の瞬間をカイロスと呼びました。つまり、カイロスは質的な意味を持つ特別な時間なのです。

例えば、未婚の人が日々、誰にでも等しく流れる量的な時間(クロノス)の中で生活しています。しかし、その人が結婚するとき、その特別な日こそがカイロスなのです。彼にとって「その日」は、人生が一変する質的に全く異なる時となります。

聖書の歴史観は、東洋の循環論的歴史観と対比される独特の直線的歴史観を持っています。東洋の伝統的理解では、春夏秋冬が繰り返されるように歴史も循環すると考えられてきました。この循環論的歴史観には自由があります。しかし聖書によれば、歴史には明確な始まりがあり、必ず終わりが存在します。この歴史の終焉に、主イエス・キリストが再び来られるのです。聖書ではこの時を「ヤハウェの日」、「主の日」、「イエス・キリストの日」と呼んでいます。イエス・キリストは既にこの地上に来られ、人類の救いのための働きをすべて成し遂げられました。そして復活し、天に昇られたのです。さらに重要なことに、主は天に昇られた後も、必ず再び地上に戻って来られることを約束されました。この再臨の日こそが、カイロス(質的に全く異なる時)なのです。

教会には歴史を通じて神の御言葉を熱心に学ぶ伝統が根付いています。神の民とは、世とは異なり、昼夜を問わず神の御言葉に親しみ、その真理を探求する者たちです。この神聖な学びには、特に重要な三つの柱があります。それはキリスト論、救済論、そして終末論です。イエス・キリストの本質と私たちの救いについての理解ほど重要なものはありません。それゆえ、私たちはまずキリスト論と救済論の本質を知る必要があります。さらに、もう一つの核心的教理が終末論です。終末論は神の歴史とその完成について教えてくれるものです。テサロニケ教会はこの歴史観において非常に鋭い認識を持っていました。彼らは情熱的な信仰を持つだけでなく、時と時期については、さらなる解説が不要なほどに深い理解を持っていたのです。

《使徒の働き17章》から明らかなように、テサロニケ教会はわずか3週間という短期間で設立された特別な教会でした。パウロはこの3週間の期間、安息日に会堂で救いの深遠な教理と神の御旨について詳細に解き明かしました。その教えによって真理を受け入れた人々がキリストの弟子となりました。これにより教会が設立され、急速に発展していきました。この教会の信徒は来るべき終わりの時についての問いを抱えていました。彼らの間にはこれを切実に理解したいという願望があったため、パウロはコリントでその問いへの回答を手紙にしたため、テモテを通じて送りました。これが《第一テサロニケ人への手紙》でした。

今日、終末論をめぐっては複数の重要な解釈が存在します。前千年王国説(Premillennialism)、後千年王国説(Postmillennialism)、無千年王国説(Amillennialism)など、異なる学説が広く議論されています。同様に、当時のテサロニケ教会の信徒たちも、主の再臨の時期について様々な疑問を抱えていました。

《第一使徒の働き1章》には、天に昇られたイエス様について「天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります」と記されています(使徒1:11)。歴史において、この昇天されたイエス様がいつ再び来られるかという問いほど重要なものはないでしょう。主がこの地上に来られたことは歴史上最も重要な出来事であり、救いの歴史を完成させ、復活・昇天された後、主が再び来られること以上に重要な事柄はありません。他の教会ではこの問いへの関心が薄れ、日常に埋もれてしまった一方で、テサロニケ教会はそうではありませんでした。この教会は再臨の問題について非常に熱心な関心を持ち続けていました。彼らは主の来臨の時期や、この問いをどう理解すべきかについて多くの関心を寄せていました。テモテがテサロニケ教会を慰めるために訪問した際、信徒たちはこれらの問いに対する明確な答えを切望していたのです。

信仰における疑問があれば、それを記録し、理解できるまで問い続けることが大切です。使徒パウロがエペソに滞在していた際、コリント教会の会衆は彼らの信仰生活における様々な課題について丁寧に質問を寄せました。それらの問いに一つひとつ回答を示したものが《第一コリント人への手紙》です。この手紙が現代の私たちの信仰生活にもたらす価値は計り知れません。コリント教会の信徒たちの疑問に留まらず、この手紙は二千年にわたる教会の歩みの中で明確な指針を与え続けているのです。もしコリント教会が勇気を持って問いかけていなければ、二千年もの間、教会は明確な答えのないまま歩み続けることになったでしょう。彼らが先駆けて問いを投げかけ、パウロがそれに回答したからこそ、現代の私たちにまでその智慧と導きが受け継がれているのです。

「兄弟たち。その時と時期については、あなたがたに書き送る必要はありません。」(Iテサロニケ 5:1)

テサロニケ教会は、時と時期について、パウロがもはや書き送る必要がないほど深い理解を持っていました。現代の教会も、歴史と終末についてこれほどまでに明確に把握すべきです。なぜなら、今日の教会ではキリスト論や救済論よりも、むしろ終末に関する主題において混乱や問題が頻繁に生じるからです。教会から発せられる世を惑わす諸説の多くは、終末論に関連するものです。

しかし、テサロニケの信徒たちは、これらの重要テーマについて3週間にわたって綿密に議論し、その結果として問題を解決できたのです。使徒パウロがこのように認めるほどですから、彼らがいかに熱心に、また深く問答し、対話を重ねたかが想像できます。聖書にはこの過程の詳細は記されていませんが、手紙を読み解くことで当時の雰囲気を感じ取ることができます。彼らの最大の関心事は、主がいつ再臨されるのかという点でした。この問いにパウロが答えているのです。この教えは現代の私たちにとっても、非常に価値ある指針となります。

「主の日は、盗人が夜やって来るように来ることを、あなたがた自身よく知っているからです。」(Iテサロニケ 5:2)

この節で注目すべきは、テサロニケの信徒たちがすでにこの教えを受けていたという点です。パウロは彼らが明確な理解と認識を持って生きていたことを再確認しています。使徒パウロはテサロニケの信徒たちに、主は「盗人のように来る」と教えました。これは、突然、予告なしに訪れるという意味です。ですから、その時期について無益な議論を重ねる必要はないのです。

《マタイ24章》、《ルカ17章》、《マルコ13章》は「小黙示録」と呼ばれ、そこには終末についての御言葉が記されています。《マタイ24章36節》で、イエスは明確に「その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」と宣言されました。注目すべきは、御子であるイエスご自身さえも再臨の日を知らないと明言されたことです。この事実は、再臨の日に関するあらゆる推測や議論が無益であることを示しています。しかし歴史を通じて、この問題について奇妙な理論や教説が現れ、実りなき論争が繰り広げられてきました。主はただ「父だけが知っておられる」と断言されたのです。この真理を私たちは心に深く刻むべきでしょう。

イエス様はこの聖句の直前で、いちじくの木からの教訓について語られました。「いちじくの木から教訓を学びなさい。枝が柔らかになって葉が出て来ると、夏が近いことが分かります。同じように、これらのことをすべて見たら、あなたがたは人の子が戸口まで近づいていることを知りなさい。」(マタイ 24:32-33) この教えは共観福音書の《マルコ13章28-31節》、《ルカ21章29-33節》にも記されています。再臨の時と時期は誰も知り得ませんが、いちじくの木の教訓を学ぶようにとイエス様は命じられました。春になると木々に芽が吹き、桜が咲きます。そして夏が近づくと、いちじくの木は葉を広げます。人々はこれを見て、夏の訪れを悟ります。同様に、時代のしるしを見極めることで、私たちは「キリストの季節」が近いことを知る時があるのです。このようなしるしが現れたら、気を緩めることなく主の来臨の時を意識して生きるよう、イエス様は教えられました。終末論に関する議論において、私たちはすでにイエス様の御言葉を通して明確な指針を与えられています。したがって、再臨の日付を特定し計算しようとする試みは、本質的に無益な行為なのです。

そして、主の再臨に関して、さらに決定的な教えがマタイの福音書に記されています。「御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。」(マタイ 24:14) イエス様は、天の御国の福音が地の果てまで届くとき、再び来られると約束されました。これは「水が海を覆うように、神を知る知識が全地に満ちる日」に主が来られるという預言の成就です。福音を伝える人々はこの御言葉を確信として抱き、福音を宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってこの日は「ヤハウェの日」であり、クリスチャンにとっては「イエス・キリストの日」、「主の降臨の日」です。福音が地の最も遠い場所まで伝わるとき、その日が到来するのです。これこそがイエス・キリストご自身が教えられた、再臨に関する明確な指針です。

《マタイ24章》に続き、《25章》においてもマタイはイエス様が時と時期について語られた言葉を精緻に記録しています。かつて取税人だったマタイがイエス様の弟子となり、税金を徹底的に徴収するように、イエス様の言葉と教えを細心の注意を払って集め、師の伝記として記録しました。これが《マタイの福音書》です。福音書の中で最初に執筆されたのはマルコの福音書ですが、《マタイの福音書》が正典の最初に位置づけられた理由は、それがユダヤ人向けの福音書であったためでもあり、また取税人であったマタイが山上の説教や黄金律をはじめとするイエス様の珠玉の言葉を驚くほど丹念に収集し記録したからです。

《マタイ25章》に記された「十人の娘のたとえ」と「タラントのたとえ」を熟読すると、終わりの時と時期について明確な理解が得られます。また、私たちが日常生活の中で終末の問題についてどのような理解と姿勢を持つべきかを教えてくれます。「タラントのたとえ」から学べる教訓は、他国へ旅立った主人が帰還して精算する終末の時が必ず訪れるということです。したがって、私たちは熱心に働いて富を増やし、主人から称賛される者とならなければなりません。悪しき怠け者のしもべではなく、善良で忠実なしもべとなるべきなのです。一方、「十人の娘のたとえ」が教える教訓は、花婿の到来を待つ娘たちがともしびを絶やさないよう準備しなければならないように、私たちもつねに目を覚まして準備していなければならないということです。これらのたとえを深く学び理解すれば、主の再臨に先立って、私たちがいかに人生を整え、備えるべきかを知ることができます。

現在、私たちは《第一テサロニケ人への手紙》の講解を通して終末論を学んでいます。終末には「個人の終末」と「歴史の終末」という二つの重要な側面があります。「個人の終末」とは人生と死に関するものです。言い換えれば、死を迎える前に来世をどのように準備し、生きるべきかという問いです。そして「歴史の終末」があります。これは極めて重要な問題です。歴史の流れの中で、終わりの時に教会はどのような姿勢で生きるべきかという内容です。パウロはテサロニケの信徒たちに「主の日は盗人のように来る」と述べました。しかし同時に、目覚めている者には盗人のように来ることはないという逆説的な真理も伝えています。私たちは、この使徒がテサロニケの信徒たちに与えた教えを今日の教会への御言葉として真摯に受け止め、熟読すべきでしょう。

「2 主の日は、盗人が夜やって来るように来ることを、あなたがた自身よく知っているからです。3 人々が「平和だ、安全だ」と言っているとき、妊婦に産みの苦しみが臨むように、突然の破滅が彼らを襲います。それを逃れることは決してできません。」(Iテサロニケ 5:2-3)

使徒は、妊婦に産みの苦しみが突然訪れるように、滅びも唐突に来ると警告しました。なぜこのような内容を強調したのでしょうか。それは、信仰生活において主の再臨について全く考慮しない人々が存在するからです。終末の教えが排除された教会も存在するのです。主の昇天も信じず、主の再臨も信じない教会があるということです。しかし、テサロニケ教会は主がまもなく来られるという約束を堅く信じた熱心な教会でした。私たちもそのような教会となる必要があります。

使徒は「主の日は、盗人が夜やって来るように来る」と言いました。人々がキリストの再臨をすっかり忘れ、「平和だ、安全だ」と安心している時、主が突然訪れるのです。ですから、信仰生活において緊張感を保つ姿勢が真に重要です。この点において、テサロニケ教会は模範となりました。そのため、パウロは《第一テサロニケ1章》でテサロニケ教会の信仰がすべての教会の模範となったと称賛したのです。

「しかし、兄弟たち。あなたがたは暗闇の中にいないので、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。」(Ⅰテサロニケ 5:4)
パウロはテサロニケの信徒たちに対して、その日が盗人のように来ることはないだろうと保証しています。彼らは主の日を熱心に待ち望み、常に目を覚ましている兄弟姉妹であり、賞賛に値する教会であったため、彼らにとってその日は盗人のような不意打ちとはならないのです。私たちの教会もテサロニケ教会のように、時に対する歴史的な認識を持ち、キリストの再臨について明確に理解して生きる教会とならなければなりません。使徒の称賛を受けたテサロニケ教会の信徒たちと同じ信仰の姿勢を学び、それに倣おうとするならば、この御言葉は私たちにとってどれほど貴重な導きとなることでしょうか。

「あなたがたはみな、光の子ども、…」(Ⅰテサロニケ 5:5a)

パウロはテサロニケ教会に向かって「あなたがたは皆、光の子ども」だと宣言しています。これは使徒がテサロニケ教会を誇りに思っている表れです。「光の子ども」という表現は、選ばれた者、神の御言葉の中に住む者を意味します。比喩的に言えば、光は真理を表し、光の子どもとは、世の人々が知らない神の言葉を知って生きる人々のことです。

「あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもなのです。私たちは夜の者、闇の者ではありません。」(Ⅰテサロニケ 5:5)

テサロニケ教会は称賛に値する共同体でした。賞賛される教会はきわめて貴重です。私たちはこの教会が称えられた理由を深く黙想し、その姿を見倣って生きていくべきでしょう。。彼らは「光の子ども、昼の子ども」だと形容されました。「昼の子ども」は「夜の者」との対比で語られています。彼らは世の闇の中に生きる者ではありませんでした。彼らは常に真理を求め、終末に関する問いにも関心を持ち、キリストの再臨について深い渇望を抱きながら生きていた教会でした。パウロはそのような彼らには、主の日が盗人のように不意に襲いかかることはないだろうと保証しているのです。

歴史を振り返ると、イエス様がこの地上に来られた時、本来準備されていたはずの民はその到来を認識できませんでした。当時の祭司や律法学者たちは、主の来臨を全く理解していなかったのです。それは真に暗闇の時代でした。

かえって、星を研究する異邦の賢者たちがその来臨を認識しました。東方の博士たちは星の動きから時と時期を読み取る占星術者でした。真理を教える立場にあった教師たちが気づかなかったにもかかわらず、これらの賢者たちは主の到来を見抜いたのです。私たちはこの歴史的事実を心に留めておくべきでしょう。

一方、テサロニケ教会は主への熱烈な愛を持ち、主の来臨を切に願い求めていました。彼らは「マラナ・タ(Marana-tha)「主よ、来てください」という切実な願いを抱きながら生きる共同体でした。「これらのことを証しする方が言われる。『しかり、わたしはすぐに来る。』アーメン。主イエスよ、来てください。」(黙示録 22:20) 私たちの教会もそのような教会となることを願います。

「6 ですから、ほかの者たちのように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。7 眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うのです。」(Ⅰテサロニケ 5:6-7)

ここでの「ほかの者たち」とは、イエス様を信じない人々、すなわち救いの真理を知らず、歴史の時を理解していない人々を指しています。使徒は私たちに、彼らのように霊的な眠りに陥るのではなく、目を覚まして慎み深く生きるよう勧めています。私たちの教会も常に目覚めて、主の再臨を待ち望み、熱心に求める教会となりましょう。

「しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛の胸当てを着け、救いの望みというかぶとをかぶり、身を慎(つつし)んでいましょう。」(Ⅰテサロニケ 5:8)
ここでの「私たち」とは、パウロ、シラス、テモテ、そして誇るべきテサロニケ教会の信徒たちを指しています。彼らの連帯感は真に美しいものです。彼らは真理に対する確信を持ち、時代に対する明確な認識を備えていました。そのため、彼らの間には混乱がありませんでした。彼らは揺るぎない確信を持つだけでなく、勤勉に働き、誠実に生活していました。しかし、終末に関する認識を持ちながらも極端な解釈に走った一部の人々は、日常のすべてを放棄して過激な行動に出ました。パウロは、教会内のこうした極端な姿勢を正し、警告するためにこの手紙を記したのです。

戦場に立つ兵士が最も守るべきは、心臓と頭部です。胸当ては兵士の胸を、兜は頭を守ります。《エペソ6章》にあるように、霊的な戦いを続ける者たちにとって胸当ては「義の胸当て」です。キリストの「義」を深く知る者は、敵の剣が決して胸を貫くことはありません。また、希望のかぶとは頭を守ります。現実の困難に囚われず、常に主が示してくださった未来の希望を抱いて生きる人は、堅固な兜(かぶと)をかぶったようなものです。ここでパウロは「私たちはすでにこのようなキリストの兵士である」という誇り高い自覚を持って語っています。使徒は力強い言葉で宣言しています。

「神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです。」(Ⅰテサロニケ 5:9)

神様は人類が御怒りを受けることではなく、救われることを望んでおられると使徒は述べています。パウロが記したローマ書1章を見ると、パウロは冒頭から怒りの神様について語っています(ローマ 1:18)。《ローマ書》は福音を証しする最も重要な書です。この書の始めに、パウロは愛の神様について言及したのではありません。彼は神様を知らず、礼拝せず、栄光を帰さない者たちに臨む神の怒りについてまず述べました。ここで言及される「怒り」は、まさにその怒りを指しているのです。《ローマ書》を詳しく学べば、神の怒りが避けられない理由を明確に理解できるでしょう(ローマ 1:18-20)。しかし、ここで使徒は神様が私たちを立てて人を救うことを望んでおられると宣言しています。

「10 主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目を覚ましていても眠っていても、主とともに生きるようになるためです。11 ですからあなたがたは、現(げん)に行っているとおり、互いに励まし合い、互いを高め合いなさい。」(Iテサロニケ5:10-11)

アーメン。私たちは互いに励まし合い、高め合うべきです。励まし合いとは、兄弟姉妹を勇気づけ、力を与え、立ち上がらせることを意味します。決して仲間の信仰を貶めたり、落胆させたり、疲れさせたりしてはなりません。

ここで使徒は「あなたがたは、現に行っているとおり」と語りました。なんと素晴らしい表現でしょう。「私たちのするように」とは書かず、「あなたがたは、現に行っているとおり」と記しています。使徒は彼らを称えているのです。「称賛はクジラも踊らせる」という言葉があります。パウロはテサロニケ教会を心から愛していました。この称賛の言葉には、使徒の彼らへの深い愛が溢れています。パウロは、彼らが互いに励まし合い、高め合って生きていたことを称えています。使徒の称賛を受けたテサロニケ教会を見つめながら、私たちもこのような美しい教会となっていきましょう。また、「時と時期についてこれ以上書き送る必要はない」と言われるほど成熟(せいじゅく)したキリストの弟子たちとなりましょう。お祈りしましょう。Ω
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