礼拝説教

神の聖霊を悲しませてはいけません


2024年11月17日

*日付: 2024年 11月17日, 主日礼拝
*本文: エペソ人への手紙4章25-32節

†今日も引き続き<エペソ人への手紙4章>を学んでいきます。前回は罪について見ました。ここで、イエス様が最後の告別説教で語られた罪についての教えを振り返ってみましょう。<ヨハネの福音書16章8節>には、こうあります。「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤(あやま)りを明らかになさいます。」さらに<9節>では、罪について具体的に説明されています。「罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。」イエス様は、罪の本質を簡潔(かんけつ)に一行(いっこう)で表現されました。これが告別説教であったため、詳細(しょうさい)な説明は控(ひか)えられたのでしょう。しかし、主はすでに罪について多くを教えられており、使徒パウロもまた、その手紙の中で罪について詳しく説明しています。<ローマ書1章29-31節>、、<ガラテヤ人への手紙5章19-21節>、<コロサイ人への手紙3章8-9節>、などを見ると、人間の堕落性と罪について具体的に述(の)べられています。

前回の学びでは、パウロが「新しい人を着なさい」と勧めていることを確認しました。<エペソ書4章22-24節>には、こうあります。「その教えとは、あなたがたの以前の生活について言えば、人を欺(あざむ)く情欲によって腐敗していく古い人を、あなたがたが脱ぎ捨てること、また、あなたがたが霊と心において新しくされ続け、真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着ることでした。」さらに、<Ⅱコリント書5章17節>では、「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」と語られています。これは、私たちがイエス様を信じることで、キリストにあって新しい被造物となる、すなわち新生(born-again)を経験することを意味しています。新しく生まれ変わり、新しい人となった私たちは、過去の自分とは異なるはずです。イエス様を知る前とは違う生き方をするべきなのです。使徒パウロは、その新しい人の具体的な生き方について教えています。

ですから、あなたがたは偽りを捨て、それぞれ隣人(りんじん)に対して真実を語りなさい。私たちは互いに、からだの一部分なのです」(エペソ 4:25)
「ですから」という言葉は、「新しい人になったのだから」という意味です。新しい人の生き方の第一の特徴(とくちょう)として、「真実を語りなさい」と勧められています。これは最も重要なことですから、最初に置かれています。この言葉は、偽りを言ってはいけないということです。私たちは真理を知った者たちです。真理を通して神の御子を知り、その御子を通して神を知るようになりました。真理の本体である神様を知る者として、私たちはどのように生きるべきでしょうか。偽りを捨てなければならないということです。 真実と偽りがあります。 その中で、偽りを捨てなければなりません。 「あらゆる形の悪から離れなさい。」(Ⅰテサロニケ5:22)。これは、小さな悪でさえもすべて捨てなければならないことを教えています。イエス様も「あなたがたの言うことばは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい」(マタイ 5:37)と言われました。クリスチャンの徳目の中で、偽りを捨てることは最も重要なものの一つです。「捨てる」という言葉には、私たちがそうする可能性が高いからこそ、完全に捨てよという強い勧めが込められています。私たちは古い習慣をすべて捨て去る必要があるのです。
現代では、あまりに偽りの証拠(しょうこ)が多く、人を欺くことが頻繁(ひんぱん)に起こっています。十戒の第九戒にある「あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない」という教えは、今日でも重要性を失っていません。使徒パウロがエペソ教会を教える際に、最も重要なこととしてこれを強調しているのは、そのためです。私たちクリスチャンは、世の人々から「あの人は信頼できる」と認められるような存在になるべきです。

「怒っても、罪を犯してはなりません」(エペソ 4:26a)
二つ目の教えは、「怒っても、罪を犯してはならない」というものです。これは興味深い教えです。なぜなら、山上の説教(山上の垂訓)では「怒るな」と言われていたからです。しかし、ここでは怒ること自体は認められており、ただし、それが罪につながってはいけないと教えられています。怒り(憤(いきどお)り)には、「義憤(ぎふん)」と呼ばれるものがあります。これは正しいことに対する正当な怒りのことです。義に飢(う)え渇(かわ)く者は、この義憤(ぎふん)を持っています。イエス様の中にもこのような怒りがありました。例えば、神殿を清められた時の怒りは義憤でした。私たちにも、この罪深い世界を見て「この不義な世の中は本当に変えなければならない」と沸(わ)き立つ義憤が必要なのです。
パウロは、私たちにも憤(いきどお)りがあることを認(みと)めています。それは当然のことです。私たちには怒りで震(ふる)えるような憤りがあります。実は、神様も怒られます。「神の怒り」という表現は、神様の大きな怒りを意味しています。パウロはローマ書で、最初に愛の神ではなく、怒りの神について教えました。これは驚くべき教えです。なぜ、パウロは怒りの神を先に教えたのでしょうか。それは、怒りの神を知らないと、神の愛を深く理解することができないからです。神様は、罪に満ちた世界と人間に対して長い間怒りを我慢しておられます。しかし、それだけではなく、神様はそのような私たちを憐れみ、救ってくださったのです。これこそが、偉大な神の愛なのです。私たちはこの世界を深く理解しなければなりません。実際、罪の中に生きる私たちを見て、神様は怒らざるを得ないのです。今、使徒は「あなたの中に怒りがあるでしょう。それは理解できます。しかし、怒っても罪を犯してはなりません」と教えています。神様も私たちを見て怒っておられますが、同時に愛の心で私たちを抱きしめ、命の道を開いて下さり、救いの手を差し伸(しん)べてくださったのではないでしょうか。同様に、私たちも怒りを感じても、それによって罪を犯してはいけないのです。

多くの人は怒りのために崩壊(ほうかい)します。より正確に言えば、理由のない怒りのために崩壊するのです。聖書にはこの例として、カインの物語があります。カインは神様に怒りました。なぜなら、神様が弟(おとうと)アベルのいけにえだけを受け入れたことに憤慨(ふんがい)したからです。しかし、神様はカインに「お前が怒る理由は何なのか。お前の怒りには理由がないのではないか」と問われました。考えてみれば、もし神様が彼の家族のいけにえを全く受け入れなかったら、それこそより深刻(しんこく)な問題ではなかったでしょうか?その場合、救いへの道が閉(と)ざされていたかもしれません。弟のいけにえだけでも受け入れられたということは、彼の家族に救いの道が開かれたことを意味します。ですから、喜ぶべきことではないでしょうか?神様がそうされたことには深い意味があります。カインは、アベルを通して自分もいけにえを献げることができたはずです。しかし、カインはその理由を深く考えずに怒ってしまいました。そして最終的に、弟を殺すという取り返しのつかない罪を犯してしまいました。

最近、10代の若者の中には「怒り調節障害(ちょうせつしょうがい)」を抱(かか)える人がいます。しかし、神の御言葉を知れば、この怒りを調節することができます。神の御言葉を知ると、人は広さ、長さ、高さ、深さにおいて成長できるのです。「その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人知(じんち)を超えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神の満ちあふれる豊かさにまで満たされますように」(エペソ 3:19)。神の御言葉は、私たちにあらゆる面で広く、長く、高く、深くなる力を与え、すべての事柄(ことがら)の意味を素早(すばや)く理解できるようにし、自己をコントロールする能力を授けてくれます。
カインがアベルを殺したのは、怒りにとらわれたからです。神様はカインに「なぜ怒っているのか。罪が戸口(とぐち)で待ち伏(ぶ)せている。罪はお前を恋い慕(した)うが、お前はそれを治(おさ)めなければならない」と警告(けいこく)しました。しかし、カインはその罪を制御(せいぎょ)できず、むしろそれに従ってしまい、弟を殺して人類史上(じんるいしじょう)初めての殺人者(さつじんしゃ)となりました。人間の中にある憎しみや憤(いきどお)りはすべて、<怒り>から始まります。しかし、イエス様を信じる人々は人生が深くなり、視野(しや)が広がった人々です。物事(ものごと)を偏狭(へんきょう)に見ず、深く理解することで怒りにとらわれることがなくなり、むしろそれを治めることができるのです。カインに対する神様の言葉(「罪を治めなさい」)が、どれほど深い意味を持つかを理解する必要があります。「怒っても罪を犯してはならない」という言葉は、言い換えれば、「よく我慢しなさい。そして、あなたの怒りの意味を深く考え、自分自身を治めなさい」という教えなのです。
パウロは常(つね)に、このような倫理を私たちに教えてくれます。高尚(こうしょう)な教理を説(と)くだけでなく、私たちが実際に行うべきことを丁寧(ていねい)に示(しめ)してくれるのです。教理と倫理は常に調和(ちょうわ)しなければなりません。真理は私たちの生活に適用(てきよう)され、実践(じっせん)を通(つう)じて現れるべきものです。だからこそ、パウロは高尚な教理を教えた後に、必ず倫理を教えるのです。

聖書には、もう一人、怒りをコントロールできなかった人物がいます。それは<モーセ>です。モーセはヘブライ人でありながら、エジプトの王女(おうじょ)の子として育てられました。エジプトの宮廷(きゅうてい)で最も重要視(じゅうようし)されていた価値観は「力」、すなわち「暴力」でした。モーセはその環境(かんきょう)で育ち、それを学んだのです。成人(せいじん)したモーセは、ある日、エジプト人がヘブライ人を迫害しているのを見て、そのエジプト人を石で打(う)って殺してしまいます。ここからモーセの波乱万丈(はらんばんじょう)な人生が始まりました。神様はモーセをミディアンの荒野(あらの)へ逃(のが)れさせ、そこで羊飼いのイテロに出会いました。40年間羊を飼(か)うことでモーセの心は柔和(にゅうわ)になりました。聖書は「モーセという人は、地上の誰にもまさって柔和であった」(民数記 12:3)と証言しています。モーセは力と暴力ではなく、柔和に生きる人に変わったのです。怒りを表(おもて)に出すことは、荒々(あらあら)しい心を示すものです。かつてのモーセはそうでしたが、彼は今やこの世の誰とも比較(ひかく)できないほど柔和な人となり、神様はそのモーセに杖(つえ)を授(さず)け、イスラエルの民をエジプトから救う使命を託(たく)されました。モーセが柔和な心を持つようになったからこそ、神様は彼にその偉大な役割を任せたのです。
<八福の宣言>を見ると、イエス様は「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです」(マタイ 5:5)と教えられました。これは、柔和な者が土地を受け継ぐという意味です。これまでの世界では力によって土地を手に入れることが普通でしたが、イエス様は柔和さによって地を受け継ぐと宣言されました。ですから、私たち神の民は本当に柔和であり、忍耐強くなければなりません。むやみに怒らず、たとえ怒ることがあったとしても、罪を犯してはなりません。自己をよくコントロールしなければならないのです。では、どのように自己をコントロールすればよいのでしょうか? <ヘブル書12章2節>にはこう書(か)かれています。「信仰の創始者(そうししゃ)であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱(はずかし)めをものともせずに十字架を忍(しの)び、神の御座の右に着座(ちゃくざ)されたのです」(ヘブル 12:2)。イエス様は十字架上で長い時間、忍耐されました。その忍耐を思い起こし、私たちもイエス様を見つめることで、憤(いきどお)りを治められるようになるのです。

「憤(いきどお)ったままで日が暮(く)れるようであってはいけません」(エペソ 4:26b)
使徒パウロは、もし憤りが生じた場合、その日のうちにそれを解消するよう教えています。 使徒はとても丁寧(ていねい)に細(こま)かく教えてくれています。しかし、誰もが憤(いきどお)りを解消したいと願っているはずです。問題は、そうしたくてもできないことです。どうすれば憤りが解消されるのでしょうか?そのためには、私たちは偉大な愛を知る必要があります。神様が罪人である私たち人間を滅(ほろ)ぼすのではなく、なぜ愛し、救おうとされたのかを理解することが重要です。その深く偉大な愛を知れば、私たちの中の怒りも解消されるのです。ですから、私たちはイエス様を見つめ、福音をさらに深く学ばなければなりません。

聖書には、<カイン>や<モーセ>の他(ほか)にも、怒りのために躓(つまづ)いた人物が多く登場します。その中でも、特に<ヨナ>の例(れい)は非常に興味深いものです。<ヨナ書4章>では、ヨナが理由もなく怒った場面が描(か)かれています。まず、ヨナに何が起こったのでしょうか。神様はヨナに、ニネベの民が悪質な罪を犯しているため、神の裁きが下ることを告(つ)げ、彼らに悔い改めを促(うなが)すよう命じました。しかし、ヨナはその命令を拒(こば)み、タルシシュ行きの船に乗りました。その結果、激しい嵐に巻き込まれ、ヨナは海に投(な)げ込まれてしまいます。大きな魚に飲み込まれたヨナは、魚の腹の中で3日間悔い改めの祈りをささげました。神様はヨナを赦し、魚の口から彼を吐(は)き出させました。ヨナはニネベに行き、40日後に滅びが訪(おとず)れると警告しました。驚くべきことに、ニネベの王と民は全員が悔い改め、断食し、灰(はい)をかぶって祈りました。ところが、ヨナはこの結果に喜ぶどころか、怒りを覚(おぼ)えました。彼はニネベが裁きを受けて滅びることを望んでいたのです。しかし、神様が裁きを下さなかったため、ヨナの怒りは増(ま)しました。彼の怒りがどれほど理不尽(りふじん)でしょうか。そんな彼に神様は、唐胡麻(とうごま)の木を備えてくださいました。その木は暑い日差(ひざ)しから彼を守りました。ヨナは唐胡麻の木があることを非常に喜びましたが、次の日、神様は虫に命じてその木が枯(か)れるようにされました。すると、照(て)りつける日差しのゆえに、再びヨナは怒りました。そして、「私は生きているより死んだほうがましだ」と言い出す始末(しまつ)です。「すると神はヨナに言われた。『この唐胡麻のために、あなたは当然であるかのように怒るのか。』ヨナは言った。『私が死ぬほど怒るのは当然のことです』」(ヨナ 4:9)。ヨナはこうして理由のない怒りを爆発(ばくはつ)させたのです。そこで神様はこう言われました。 「10 主は言われた。『あなたは、自分で労(ろう)さず、育てもせず、一夜(いちや)で生(は)えて一夜で滅びたこの唐胡麻を惜(お)しんでいる。 11 ましてわたしは、この大きな都(みやこ)ニネベを惜しまないでいられるだろうか。そこには、右も左も分からない十二万人以上の人間と、数多くの家畜(かちく)がいるではないか』」(ヨナ 4:10-11)。神様はヨナに、唐胡麻が彼にとってどれほど貴重(きちょう)であったかを示(しめ)すことで、神様にとってご自身の民がどれほど貴重かを教えられました。
私たちが信仰の道を歩むとき、神様の前でどれほど理由のない怒りを抱(だ)いているかに気づいているでしょうか。皆さんの人生において、これを常に考えながら生きてください。私たちの怒りは、正当な理由がないものです。ヨナが怒っていた理由について、皆さんはどう思いますか?無意味な怒りだとは思いませんか?では、カインの怒りは理解できるでしょうか。たとえ怒ったとしても、罪を犯してはいけなかったのです。私たちも人生で怒りを覚(おぼ)えることがあるかもしれませんが、その怒りを罪に結びつけてはいけません。怒りを抱(かか)えても、日が暮(く)れるまでにはその怒りを解消しなければなりません。私たちが覚えておくべきは、神様が大きな怒りの中でも罪深い人間を見捨てず、愛をもって救ってくださったことです。その深い愛を黙想し、私たちも怒りを手放(てばな)し、心の中に抱(かか)え込まないようにしましょう。

キリスト教は恵みの宗教です。自分の力だけで自分を変えるのではなく、恵みによって自分を乗り越える力を得るのです。上から与えられる存在の勇気と力によって私たちは変わります。私たちは恵みを経験し、偉大な愛を知った者たちです。それゆえ、怒りを削(そ)ぎ落(お)とすことができるのです。

「悪魔に機会を与えないようにしなさい」(エペソ 4:27)
なぜ、「憤(いきどお)ったままで日が暮れるようであってはいけない」と言われているのでしょうか?それは、怒りを通して悪魔に機会を与えてしまうからです。怒りを抱(かか)えると感情をコントロールできなくなり、そこに悪魔が入り込む余地が生まれるのです。使徒は、そのような隙(すき)を与えないように警告(けいこく)しています。

「盗(ぬす)みをしている者は、もう盗んではいけません…」(エペソ 4: 28a)
盗みをしていた者がキリストの弟子になったのです。だからこそ、今はもう再び盗みをしてはいけないのです。十戒(じっかい)の第八戒(だいはちかい)は「盗んではならない」、第十戒(だいじっかい)は「欲(ほっ)してはならない」と教えています。私たちは、どれほど多くの形で「盗み」を犯しているか、深く黙想しなければなりません。盗みとは、他人の物をこっそり盗むことだけではありません。たとえば、他人が受け取るべきものを自分が横取(よこど)りすることや、本来別の用途(ようと)に使われるべき物資(ぶっし)を自分のために使うことも盗みです。聖書が語る盗みは非常に広範囲(こうはんい)です。聖書を学ぶ際には、観察(かんさつ)(Observation)と適用(てきよう)(Application)が重要です。聖書の言葉をよく観察し、深く掘(ほ)り下(さ)げた上で、それを自分自身にどう適用するかが重要なのです。

「…むしろ、困っている人に分け与えるため、自分の手で正しい仕事をし、労苦(ろうく)して働きなさい」(エペソ 4: 28 b)
これも倫理的で実践(じっせん)的な教えです。一生懸命汗を流して働き、善(よ)い行いをするように努(つと)めることが大切です。ですから使徒は、人生の模範(もはん)となるようにと勧めています。貧しくて助けが必要な人々を救済(きゅうさい)することに熱心な人であるべきだということです。<使徒の働き20章>では、パウロが告別の説教の中で、自らの人生について振り返っています。彼は自ら働いて生計(せいけい)を立て、困難にある人々を助けたと言っています。パウロは手足(てあし)が痛むほど働きました。そして、ミレトスの港(みなと)で、使徒はこの感動的な説教をしました。その後、パウロと長老たちは一緒にひざまずき、祈りました。この美しい場面が<使徒の働き20章>に記(しる)されています。
箴言(しんげん)の最後の章には、しっかりした妻について書かれています。賢い女性とは、勤勉(きんべん)な女性です。教会はキリストの花嫁(はなよめ)です。ですから、教会はここから人生の知恵を得て生きていかなければなりません。勤勉さは、教会が追求(ついきゅう)すべき重要な徳目です。私たちは常に勤勉に働くべきです。他人のものを奪(うば)うのではなく、むしろ他者を助け、他者に仕(つか)えて生きるように、幼い頃から訓練されなければなりません。

「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい」(エペソ 4:29)
悪い言葉を口にしてはいけないと言われています。私たちは言葉で徳を立てることができます。口から出る言葉で、聞く人に恵みを与えることもできますし、汚(きたな)い言葉や悪口で人を崩壊(ほうかい)させることもできます。ですから、私たちは言葉の訓練をしなければなりません。<ヤコブ書3章>には、言葉についての教訓(きょうくん)が詳しく書かれています。使徒ヤコブは、言葉に間違いがないようにと勧めています。「1 私の兄弟たち、多くの人が教師になってはいけません。あなたがたが知っているように、私たち教師は、より厳(きび)しいさばきを受けます。2 私たちはみな、多くの点で過(あやま)ちを犯すからです。もし、ことばで過ちを犯さない人がいたら、その人はからだ全体も制御(せいぎょ)できる完全な人です。3 馬を御(ぎょ)するためには、その口にくつわをはめれば、馬のからだ全体を思いどおりに動かすことができます。4 また船を見なさい。あのように大きくて、強風(きょうふう)を受けていても、ごく小さい舵(かじ)によって、舵を取る人の思いどおりのところへ導かれます。 5 同じように、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って自慢します。見なさい。あのように小さな火が、あのように大きな森を燃(も)やします。 6 舌は火です。不義の世界です。舌は私たちの諸器官(しょきかん)の中にあってからだ全体を汚(けが)し、人生の車輪(しゃりん)を燃やして、ゲヘナの火によって焼(や)かれます。」(ヤコブ 3:1-6)。人は言葉を間違えると、周りを敵に回し、人生を望まない方向に向かわせることになります。間違った言葉は、人々の間に不和(ふわ)をもたらします。言葉に間違いのない人こそ、完全な人と言えるのです。「舌は体全体を汚(けが)し、人生の車輪を燃やし、ゲヘナの火によって焼かれます」とありますが、これは舌の力をゲヘナの火に例えているのです。私たちが言葉で罪を犯すからこそ、ゲヘナでは舌の苦しみがあるのです。
イエス様のたとえ話に「金持ちとラザロの話」があります。この世で贅沢(ぜいたく)に暮(く)らした金持ちは地獄へ、乞食(こじき)として生きたラザロは天国へ行きました。地獄に落ちた金持ちはこう言います。「父アブラハムよ、私をあわれんでラザロをお送りください。ラザロが指先(ゆびさき)を水に浸(ひた)して私の舌を冷(ひ)やすようにしてください。私はこの炎(ほのお)の中で苦しくてたまりません」(ルカ 16:24)。このイエス様の言葉には深い意味が込められています。地獄での苦痛(くつう)の中で最も過酷(かこく)なのが舌の苦しみだということがわかります。そのため、私たちはこの世に生きている間、舌を制(せい)する訓練をしなければなりません。言葉で徳を築(きず)き上(あ)げるべきで、他人を傷つけてはいけません。言葉を乱用(らんよう)すれば、他人も自分も破滅(はめつ)してしまいます。舌は扱(あつか)いを誤(あやま)れば危険な道具(どうぐ)なのです。ですから、私たちは不適切(ふてきせつ)な言葉を口にしてはいけません。

「神の聖霊を悲しませてはいけません」(エペソ 4:30a)
聖霊を悲しませてはならないのです。聖霊は人格(じんかく)を持つ存在です。そのため、私たちが間違った生き方をすると、聖霊は私たちのために心を痛め、悲しんでおられるのです。

「あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印(しょういん)を押(お)されているのです」(エペソ 4:30b)
ここでいう「贖いの日」とは、神の国が到来(とうらい)するまでの期間を指(さ)します。私たちは、キリストの巨大なからだが建て上げられる救いの日を待ち望んでいます。その日のために、私たちは証印を押されているのです。証印を押されるということは、保証(ほしょう)を受けたということです。私たちが確かに救われた者であるという確約(かくやく)を受けたということです。私たちはそのような者なのですから、聖霊を悩ませたり、悲しませたりしてはいけません。

「無慈悲(むじひ)、憤(いきどお)り、怒り、怒号(どごう)、ののしりなどを、一切の悪意(あくい)とともに、すべて捨て去りなさい」(エペソ 4:31)
無慈悲を捨て去りなさいと言われています。無慈悲は蛇(へび)の毒のようなものです。そのような悪を捨て去るべきだということです。ここで使徒パウロは6(む)つのものを捨てるようにと言っています。1) 無慈悲、2) 憤り、3) 怒り、4) 怒号、5) ののしり、6) 一切の悪意。これらすべてを私たちの中から取り除かなければなりません。

「互いに親切にし、優(やさ)しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです」(エペソ 4:32)。
私たちは互いに憐れみ、親切にし、赦し合うよう求(もと)められています。これは、キリストが私たちを赦されたように、私たちも互いに赦し合うべきだという教えです。主の祈りにも「私たちの負(お)い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します」(マタイ 6:12)とあります。私たちはこの祈りの精神に基づいて日々を生きるべきなのです。この使徒の勧めを心に刻(きざ)み、互いに慈愛(じあい)深く、親切にし、赦し合いながら生きる神の民となりましょう。お祈りします。Ω

[祈り] 主よ、今日この美しい礼拝の時間に、私たちは深遠ながら高貴(こうき)であり、かつ賢明(けんめい)な使徒の言葉を共に学び、その奥深い意味を静かに思い巡(めぐ)らすことができました。この尊い教えを私たちの心の石碑(せきひ)に刻む機会をお与えくださり、感謝いたします。どうか、この使徒の勧めが私たちの人生にも十分に適用(てきよう)され、それによって私たちがキリストの美しさを体現(たいげん)する者となりますように。多くの人々の証しを得て、神様からも称賛(しょうさん)される尊きキリストの民として歩むことができますように。この祈りを、イエス・キリストの御名によっておささげいたします。アーメン。

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