礼拝説教

上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。


2025年07月06日

*本文:コロサイ人への手紙2章20-3章4節

†今日は先週に引き続き<コロサイ人への手紙2章20節>から見ていきたいと思います。

「…この世のもろもろの霊から、…」(コロサイ2:20a)

「世のもろもろの霊」とは、この世の多くの思想や理論、哲学を指しています。これは「導く養育係」にたとえることができます。養育係とは、ユダヤ人の子どもを12歳まで学校へと送り届ける人のことです。この養育係は、ただ学校まで送り届けるだけであって、教師ではないのです。世の中の学問や主張、教えというものは、すべてこの養育係と同じような役割を果たすに過ぎません。律法主義的なものも、ユダヤ主義的なものも、同様なのです。

「20もしあなたがたがキリストとともに死んで、この世のもろもろの霊から離れたのなら、どうして、まだこの世に生きているかのように、21「つかむな、味わうな、さわるな」といった定めに縛られるのですか。22これらはすべて、使ったら消滅するものについての定めで、人間の戒めや教えによるものです。23これらの定めは、人間の好き勝手な礼拝、自己卑下、肉体の苦行のゆえに知恵のあることのように見えますが、何の価値もなく、肉を満足させるだけです。」(コロサイ 2:20-23)

パウロはコロサイの信徒に、この世のもろもろの霊のようなものに陥ってはならないと警告しています。それらは私たちにいかなる益ももたらさないというのです。私たちの信仰も同様の課題に直面しています。この世の哲学や理論がいかに魅力的に見えようとも、それらは私たちが受けた救いと永遠の命とは何の関係もないのです。たとえそれらが世界や歴史について語ったとしても、聖書が教えてくれる明確な世界観や歴史観には到底及ばないばかりか、そもそも私たちの救いとは全く関係がないものなのです。

《ルカの福音書9章》における、イエス様と従おうとする三人との対話の中で、主は「弟子とは誰なのか」「Leader(リーダー)とはどのような人なのか」を私たちに深く教えてくださっています。まず、イエス様に従おうとする人に語られた「人の子には枕するところもありません」という御言葉は、いったい何を意味するのでしょうか。この言葉は、イエス様がこの世のものを何一つ所有されなかったということを示しています。そこには、「金銭や所有、物質的なものに縛られない者こそが、真の弟子となることができる」という深い教えが込められているのです。
《マルコの福音書10章17-22節》にも、イエス様とある青年との重要な対話が記されています。「良い先生。永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか。」(マルコ 10:17) これに対してイエス様は、その青年に「あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そのうえで、わたしに従って来なさい。」(マルコ 10:21)と答えられました。これが、その青年の問いに対する主イエスの明確な結論でした。このように、弟子となることは決して容易な道ではありません。主の弟子となることを願う私たちは、主のこの弟子道に関する基本的な教えに真摯に耳を傾け、「私たちはどのようにしてこの御言葉に忠実に生きることができるのか」という問いを自らに投げかけ、それに応えられる人生を歩まなければならないのです。

《コロサイ書》の難解な教義を理解するために、今日は私たちの弟子道について最初に取り上げました。今、私たちは《コロサイ書》の序文(introduction)にあたる御言葉を学んでいます。聖書は精巧なマイクロチップのようなもので、詳細な解き明かしがなければ理解することが困難です。コロサイ書は重要な教理書の一つですが、その教理の中で、私たちが最初に理解しておくべき教理は何でしょうか。それは「イエスは誰なのか」という教理、すなわちキリスト論(Christology)です。このキリスト論の核心的な結論は、「イエスはまことの神 (vere deus)であり、まことの人(vere homo)である」ということです。皆さんがこの奥義を深く理解するには、相当の時間を要するかもしれません。いずれにせよ、「イエスは誰であるか」について最も明確に説明しているのが、《コロサイ書1章》なのです。使徒パウロがこのテーマをこの手紙の中で詳しく展開していることからも、コロサイ教会が豊かな知識と真理をめぐる議論が盛んな共同体であったことが分かります。

再び《マルコの福音書10章》の話に戻ります。 イエス様は金持ちの青年に、「持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えた後、初めて弟子になることができる」と語られました。これは、ルカの福音書9章に記されている弟子となるための第一の条件と同じです。つまり、弟子になるためには「すべてを捨てることができなければならない」というのです。このことは、マルコの福音書10章に立ち返って考えてみても、決して容易なことではありません。
アフリカには、猿を捕まえる方法があります。ひょうたんのようなものの中にバナナを入れ、その入り口には猿の手一つがやっと入る程度の小さな穴を開けておくのです。すると、猿は手を入れてバナナをつかみますが、バナナを握ったままでは手を抜くことができなくなります。しかし、猿はバナナを手放そうとはしません。その結果、猿は簡単に捕らえられてしまうのです。これは、私たちが持っているものを手放すことの難しさを象徴的に示しています。

《第二コリント人への手紙》には、「だます者のように見えても、真実であり」(IIコリント 6:8)という御言葉が記されています。さらに「貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持っていないようでも、すべてのものを持っています」(IIコリント 6:10)とも語られています。これは使徒パウロが自身の人生をどのように理解していたかを示す言葉です。クリスチャンの人生には、このように二つの側面があります。ですから、私たちは人生の一面だけを見るのではなく、もう一つの側面にも目を向けることができなければならないのです。
修行の厳格なある宗教では、信者に頭を丸坊主にして参禅を命じます。また、人の目が物欲を生むという考えから、修行者たちを文明から離れた深い山奥で生活させました。彼らが稀に山を下りる時は、編笠をかぶり、目を半開きにしたまま歩くことを求められました。その宗教は、目に見える一時的なものではなく、目に見えない永遠の真理、究極の真実を追い求めよと説いたのです。

「have動詞」が頻繁に用いられる英語の特徴について、ドイツ出身のユダヤ人哲学者で精神分析学者であるエーリッヒ・フロム(Erich Fromm)は興味深い指摘をしています。彼は人間の生活様式には二つの形があり、「所有様式」(having mode)から「存在様式」(being mode)へと変容する必要があると説きました。では、どのようにしてこの変容を成し遂げることができるのでしょうか。その鍵は、使徒パウロがコリントの信徒に宛てた手紙の中にある「何も持っていないようでも、すべてのものを持つ者」という言葉や「貧しいようでも、多くの人を富ませる者」という言葉の真意を深く理解することにあります。私の精神世界を最も豊かにしてくれたのは、イエス・キリストと使徒たちです。中でも、使徒パウロは間違いなく私に最大の豊かさをもたらしてくれました。それは、パウロ自身がすでに真の豊かさを持っていた人だったからです。このような豊かさを持つ者は、永遠のいのちをすでに得ている者と言えるでしょう。私たちの内に与えられた救いとは、まさにこのようなものなのです。

《マルコ10章》で、金持ちの青年は「永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか」と尋ねましたが、その本質的な答えとは何でしょうか。それは、私たちの心が真に豊かになることなのです。すでに心が豊かな人とは、すべてのものを所有している人なのです。
《マタイの福音書13章》の天国のたとえ話には、畑で宝を見つけた人が自分の所有物をすべて売って、その畑を買う話が記されています。それは、宝(キリスト)がもたらす満足と喜びを得た者にとって、この世の所有物がもはや重要でなくなるからです。今日の世界を見ると、人生の苦しみから逃れるために麻薬に手を出し、人生を破壊されてしまった魂が数多く存在します。共産党がキリスト教を攻撃する際、キリスト教を麻薬(アヘン)になぞらえて批判したのは、悲惨な現実の中にあっても、救われた者たちが喜びに満ちあふれているからでした。新生(born again)がもたらす喜びは、あまりにも強く、人の人生を根底から変えてしまうのです。 永遠の命を得た者の人生が、変わらずにいることなどありえません。使徒の働き3章には、生まれながらに歩けなかった人の手をペテロがつかんで立ち上がらせた記事があります。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう」(使徒 3:6)とペテロは言いました。ガリラヤの漁師たちには銀も金もありませんでした。しかし、銀や金よりもはるかに尊いものが彼らにはあったのです。そのために、彼らの心には喜びが溢れていたのです。これこそが「永遠のいのちを得た者」、「救われた者」が味わう人生の真の境地なのです。
ルカ9章で、イエス様に従おうとする最初の人との対話の中で、主は「人の子には枕するところもありません」と語られました。これは、「あなたはこのような厳しい道であることを理解した上で、なお従う覚悟があるのか」という深い問いかけだったのです。そして、二番目と三番目の従おうとする人たちに対する主の言葉は、二つの重要な真理を教えています。一つは、血縁や肉の情を超えた基準で主に従わねばならないということ。もう一つは、神の国への献身には、後ろを振り返ることのない断固たる決意が必要だということです。私たちがこの真理を心の底から悟るなら、この精神は私たちの魂に深く刻まれ、どのような困難に直面しても揺らぐことはないでしょう。

Born Again(新生)を経験した人は、決して揺らぐことがありません。この Born Againとは、死から生へと蘇ることを意味します。死んで生き返った命のみが、永遠の命となるのです。復活とは、まさにこのような深遠な世界を表しているのです。旧約時代、イスラエルの民が祭儀を行う際には、必ず供え物を屠って献げました。この時代において、命あるものを殺して献げることは、神様への供え物の最高の形でした。供え物を殺すという行為は、その供え物が神様にのみ完全に献げられることを象徴していたのです。そして、血を流して結ばれる契約は、最も強い結びつきを生む契約でした(血盟)。しかし、新約時代には、人間自身が聖なる、生けるささげ物として献げられなければならないのです。《ローマ12章1節》に「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい」とあります。 ここで「生きたささげ物」とは何を意味するのでしょうか。 それは、死んだのち再び生き返った命です。 これは完全に神様に献げられた人間です。 これは、イエス・キリストを通して開かれた世界です。 死の力を打ち破り、あらゆる悲劇を超越した命であり、まさに復活の命そのものなのです。パウロが彼の手紙の中で、最後まで情熱を込めて強調し続けたのは、まさにこの復活の信仰でした。「生きて信じるなら死なず、また死んだとしても生き返ることを信じるのか。死の力が完全に打ち破られたことを信じるのか。」この問いかけこそが、私たちの信仰の本領なのです。ここまでの説明をもとにコロサイ書を読むと、その深い意味が明らかになります。

これまでの説明を踏まえて《コロサイ書》を読むと、その深遠な意味が見えてきます。《コロサイ3章》を見てみましょう。

「こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、…」(コロサイ 3:1a)

私たちは罪人としてイエス・キリストとともに十字架につけられ、ともに死にました。そして、イエス・キリストとともによみがえらされ、新しい命をいただいたのです。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる」(ガラテヤ 2:20)という言葉は、単なる比喩ではありません。これは、キリスト教信仰の核心を表す重要な教義を示しているのです。この真理は、私たちの理解をはるかに超えた深い意味を持っています。この説明はとても正確で、本当に深いものです。

「…上にあるものを求めなさい。…」(コロサイ 3:1b)

ここで言う「上にあるもの」とは何でしょうか。それは、死から生き返った命が求める「心の豊かさ」、すなわち「恵み」のことです。クリスチャンは、「貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持っていないようでも、すべてのものを持っています」(IIコリント 6:10)という御言葉のように、すでに主の恵みによる豊かさを持っているからこそ、自らを空しくして貧しくなることができるのです。では、このような豊かさをすでに持つ者が、「地にあるもの」(世俗的なもの)を追い求めればよいのでしょうか。生活様式を変えることなく、所有欲に縛られ、あらゆるものを手に入れようとしながら、世的な繁栄と栄光を追い求めればよいのでしょうか。今、使徒パウロがコロサイの信徒に語る調子とニュアンスには、このような思いが込められています。「すでに永遠のいのちを得、救われ、真理を得た者たち、主によって満足を得た者たちが、どうして世のものを追い求めて生きることができるでしょうか」と。この言葉を伝える使徒の人生そのものが、その生き方を体現していました。私たちはすでにすべてのものを得ているがゆえに、常に上にあるものを慕って生きる高潔な魂(パウロ)の姿を、この節の中に見出すことができるのです。この使徒に倣って生きようとする者こそが、この時代の使徒(apostles)であり、弟子(disciples)であり、また私たちではないでしょうか。

「…そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。」(コロサイ 3:1c)

ここで「神の右の座」が象徴しているのは、キリストがすべてに勝利された後に得られた究極の栄光の座です。イエス様の地上生涯は、ベツレヘムの「馬小屋」から始まりました。その馬小屋から神の右の座に至るまでの道のりが、イエス・キリストの全生涯なのです。私たちはこの全体を「福音」と呼んでいます。
私たちが伝える福音は、数ある宗教的教えの一つではありません。神の御子が人間への愛ゆえにこの地上に来られ、完全に自らを低くし、空しくし、命さえもささげて私たちの罪を赦されたという壮大な物語です。そして死から復活し、昇天して神の右の座に着かれるまでの全過程、これこそが私たちの伝える福音なのです。この福音を伝えることこそが、今を生きる私たちに与えられた使命なのです。

「上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。」(コロサイ 3:2)

パウロは繰り返しこう語ります。「上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。」これは人生の様式(mode)に関わることであり、私たちの人生は、すでに「上にあるもの」に心を留めて生きるべき新しい存在とされているのです。しかし、私たちはなんと容易く世の虚しいものに心を奪われ、それがあたかも人生の価値を決定づけるかのように思い違いをして生きていることでしょう。「あなたがたの人生の様式を、天上のものを求めるものへと変えなさい!」と使徒は、力強く私たちに呼びかけているのです。

「あなたがたはすでに死んでいて、…」(コロサイ 3:3a)

これは、罪の中にあった古い私がキリストと共に十字架に釘付けにされた現実を語っているのです(ガラテヤ 2:20)。

「…あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのです。」(コロサイ 3:3b)

私たちの永遠の命は、最も安全な場所、すなわち神の御手の中に確かに隠されているのです。

「あなたがたのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに栄光のうちに現れます。」(コロサイ 3:4)

パウロは復活信仰について、ここで再び力強く教えています。この御言葉をより深く理解するために、私たちはヨハネの福音書のイエス様の御言葉に目を向けなければなりません。「25イエスは彼女に言われた。『わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。26また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか』」(ヨハネ 11:25-26)。私たちはこの信仰によって新しい命に生きる者とされ、永遠の命を受けました。そのため、死はもはや私たちを支配することはできません。たとえ肉体が死んでも、私たちは消え去ることはないのです。先ほどのコロサイ書の御言葉が語るように、私たちの命は神様のうちに確かに隠されているのです。そして、主が再び栄光のうちに現れる時、私たちも主とともに現れるのです。これこそが、私たちクリスチャンに与えられた尊い人生の真理なのです。

皆さん、どうか聖書を深く愛してください。聖書を常に身近に置き、大切な暗号を解き明かすように、熱心に学んでください。そうすれば、その中に隠された驚くべき真理の世界を発見し、喜びに満たされることでしょう。どうか真理によって、皆さんの人生に溢れるばかりの喜びが与えられますように。その喜びが皆さんの全存在を満たしますように。真理の中の真理、それは救いに関する御言葉です。その救いの究極の目的は、ヨハネの福音書の最後にこう記されています。「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」(ヨハネ 20:31) 私たちは、イエス・キリストによって永遠のいのちを得ることができるのです。皆さんはすでに永遠のいのちを得た者として、この喜びに満ちた世界を心ゆくまで味わってください。この世にあっては貧しい者のように見えるかもしれませんが、皆さんは真に豊かな者です。何も持っていないように見えても、実はすべてのものを所有している者なのです。このような豊かな人生を心から楽しむ皆さんとなりますように。Ω

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