2024年11月27日
*日付: 2024年 11月24日, 主日礼拝
*本文: エペソ人への手紙5章1-2節
†今日は<エペソ人への手紙5章>を見たいと思います。
「ですから、愛されている子どもらしく、神に倣(なら)う者となりなさい」(エペソ 5:1)
ここでの冒頭(ぼうとう)は「ですから」で始まります。これは前の部分(エペソ4:25-32)に続く内容です。パウロは先に、私たちが新しい人となり、生き方が変えられることで、多くの人の模範(もはん)となるよう勧めました。そして、その勧めに続いて、私たちが神様に倣(なら)う者、すなわち神様に似る者となるべきだと説(と)きます。なぜなら、私たちは神様の愛を受けた子どもだからです。
パウロは「神に倣う者となりなさい」という勧めを、他(た)の手紙でも繰り返しています。「ですから、あなたがたに勧めます。私に倣う者となってください」(Ⅰコリント 4:16)。「私がキリストに倣う者であるように、あなたがたも私に倣う者でありなさい」(Ⅰコリント 11:1)。では、「倣う」とは何を意味するのでしょうか?それは、似ていくことです。つまり、私たちが神様に倣うとは、神様がなさったことを模倣(もほう)するということです。
イエス・キリストも<マタイの福音書5章48節>で「あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい」と教えられました。しかし、人間は神様が完全であるように完全であることができるのでしょうか?神様と人間の間には、永遠と時間という質的な違いがあります。この一見不可能に思える課題に対する答えは、「愛されている子どもらしく」という言葉にあります。使徒パウロは、私たちが神様に倣う方法を<エペソ書5章2節>前半で示(しめ)しています。
「また、愛のうちに歩みなさい。キリストも私たちを愛して、…」(エペソ 5:2a)
つまり、神に倣う方法は、イエス・キリストが私たちを愛したように、私たちも互いに愛することなのです。私たちは直接的に神様の愛を理解することはできません。しかし、御子イエス・キリストの愛を通して、神様の愛を知ることができるのです。そのため、祝祷(Ⅱコリント13:13)においても、イエス・キリストの恵みが最初に言及されます。イエス・キリストの恵みを通して、私たちは神様の愛を知ることができるからです。これこそが、イエス・キリストがこの地上に来られた理由です。ですから、キリスト教の神論はキリスト論の中にあるのです。なぜなら、イエス・キリストにあって神様を知ることができるからです。つまり、イエス・キリストは神様の啓示そのものなのです。
<ローマ書1章>によれば、神様は人間の中にご自身を知りうる証拠(しょうこ)となるものを入(い)れられたといいます。それは何でしょうか?それは人間の理性や良心です。
人間の理性は、結果には必ず原因(げんいん)があるという推論(すいろん)を可能にします。例えば、この礼拝堂が存在するのは、これをデザインした設計者(せっけいしゃ)がいるからです。このような推論ができるのが理性の働きです。同様に、私たちは造られた世界を眺(なが)めながら、この世界を造った方の存在を推論できるのではないでしょうか?もし創造者がいなければ、この世界は存在し得なかったのです。したがって、人間は神様の存在を否定することも、神様がいないという言い訳(わけ)をすることもできません。キリスト教が誕生する以前から、すでにギリシャでは神学という学問が存在していました。哲学が発達(はったつ)したギリシャでは、人間の最高の価値を理性に置いていました。そのギリシャ人が理性的に推論した結果、究極的(きゅうきょくてき)には神様が存在するしかないという結論に至(いた)りました。人間の理性が神様の存在を推論するように導(みちび)いたのです。このため、ギリシャには神様について研究する神学が生まれました。しかし、理性には限界があります。理性は神様の存在を理解させることはできても、どんなに努力(どりょく)してもその神様がどのような方なのかを教えてくれることはできません。
また、人間の中には良心があります。良心は善を志向(しこう)しますが、人間が罪を犯すと、意志(いし)とは無関係に反応して不安を引き起こします。例えば、泥棒(どろぼう)や殺人を犯そうとする時、良心の呵責(かしゃく)が激(はげ)しくなり、生理的な反応として排泄(はいせつ)を促(うなが)すことがあります。そのため、重大犯罪(じゅうだいはんざい)の捜査(そうさ)では、警察が現場周辺(しゅうへん)の排泄物(はいせつぶつ)の痕跡(こんせき)を探すのです。このように、神様は人間の中にご自身を知りうる証拠(しょうこ)を備えてくださいました。しかし、たとえ神様の存在を認識できたとしても、その神様がどのような方であるかを知ることはできません。その神様の本質を知らせてくれるのが「啓示」です。神様は御子を通して自らを啓示されました。
今日私たちが学んでいる<エペソ書5章>はこう始まります。「ですから、愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい」(エペソ 5:1)。私たちは神様に愛されていると言いました。では、私たちがその愛を受けたということをどうやって知るのでしょうか?見えない神様が私たちを愛されたことをどのように知ることができるのでしょうか?この問いに答えられることが重要です。伝道とは、自分が悟ったことを弁証(べんしょう)することだからです。神様が私たちを愛されたことを、私たちはキリストが私たちを愛されたことを通して知ることができます。キリストの愛を通して、私たちは神様の愛を理解できるのです。そして、私たちがイエス様のように愛の人生を生きる時、私たちは神様に似るようになります。私たちと神様との関係は、愛を通して完全に完成されるのです。愛の応答(おうとう)を通して愛が完成され、愛の関係を通してお互いを知り合い、一つになるのです。
使徒パウロは<第一コリント13章>で愛についてこう語っています。「4 愛は寛容(かんよう)であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。5a 礼儀(れいぎ)に反することをせず…」(Ⅰコリント 13:4-5a)。このように愛の本質を説明した後、パウロは続けてこう語りました。「今、私たちは鏡にぼんやり映(うつ)るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります」(Ⅰコリント13:12)。ここでも「完全に」という言葉が使われています。では、私たちはどのようにして主を完全に知ることができるのでしょうか。それは、主が私を愛してくださったことを知り、その愛を持って私が主を愛する時です。そのとき、私たちは愛を完全に理解するようになるのです。イエス様がこの地上で教えられた最も重要なことは、神様が私たちを愛しておられるということです。これは驚くべき啓示です。それまで誰も語ることのなかった、私たちが一度も聞いたことのない真理です。様々な神々が存在するこの世界に、神の御子が来られ、創造主である神様が愛なる方であり、その方が私たち一人ひとりを愛していることを明らかにしてくださいました。さらに、その神様が私たちを先に愛してくださったことをはっきりと示してくださいました。
では、さらに深く考えてみましょう。私たちを愛された主の愛とは、一体どのようなものなのでしょうか?私たちがその愛を知ってこそ、その愛の中で生きることができるのではないでしょうか?キリストが私たちを愛された、その愛の本質を次の箇所が教えてくれます。
「…私たちのために、ご自分を神へのささげ物、またいけにえとし、芳(こう)ばしい香りを献げてくださいました」(エペソ 5:2b)
主は私たちのためにご自身の命をささげ物とされたのです。この愛は、私たちのために死なれた愛です。<ローマ書5章8節>も同じことを語っています。「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます」(ローマ 5:8)主が私たちのために死なれたことによって、神様の愛が確証(かくしょう)されたのです。私たちの罪の代価を、イエス・キリストが代わりに払って死なれたのです。イスラエルの民は、自分たちの罪を代わりに背負って殺される動物の祭祀(さいし)を「犠牲(Sacrifice)」と呼びました。罪の代価を代わりに払って死ぬ行為が「犠牲」だからです。イエス・キリストは私たちの罪のために「犠牲」となられたのです。そうして主が美しいいけにえとなられたのです。
私たちはどのようにして神様に倣う者となることができるでしょうか。絶対者であり、永遠者(えいえんしゃ)であられる神様を、私たちは直接見ることも、完全に知ることもできません。しかし、その方の御子イエス・キリストを通して、私たちは神様がどのような方であるかを知るようになりました。命さえもすべて差し出された、その愛こそが神様の愛だったのです。今や、私たちはこの愛を通して神様を見ることができるようになりました。したがって、私たちがキリストの愛に従って愛の道を歩むことが、まさに神様に倣うことになるのです。
イエス様は「芳ばしい香りのささげ物」として表現されています。なぜささげ物(いけにえ)が必要だったのでしょうか。それは、人間が罪を犯したことで、神様の御前に出ることができなくなったからです。人間は罪により神様との関係が断(た)たれ、義なる神様に近づくことができなくなったのです。罪を犯した人間が神様に会うためには、必ず罰を受ける必要があります。罪には必ず罰が伴うのです。罪を犯しても罰を受けなければ、不義が支配する世界となり、公平と正義が失われてしまいます。ですから、旧約聖書の時代には、動物の血を流すことで人間が「私を受け入れてください」と神様に進み出ることが許されました。これが「犠牲」と呼ばれるものです。
しかし、イエス・キリストが来られ、ご自身の命を差し出し、その血を流すことで完全なささげ物となってくださいました。罪なきイエス様が、傷のない芳(こう)ばしい香りのいけにえとなられたのです。元々、人間と神様は敵対関係にありました。互いに背を向けた敵同士(どうし)だったのです。しかし、イエス・キリストが和解のささげ物(もの)となられたことで、今や神様と人間は顔と顔を合わせる関係へと回復され、和解が成立したのです。イエス様が、神様の御前に私たちが進み出る道を開いてくださったのです。これは非常に法的な出来事です。そのため、サタンでさえもこの和解を無効(むこう)にすることはできません。
主は私たちのため「贖いの子羊(スケープゴート)」となられました。主は「殺された子羊」(Agnus Dei)となられたのです。イエス様が私たちのすべての罪を背負い、死によってその罪の代価をすべて払ってくださいました。代価を払うことを「贖い」と言います。「贖(しょく)」という漢字には「貝(かい)」の字が含まれていますが、貝は古代の貨幣(かへい)を表(あらわ)しています。市場で売買(ばいばい)をする際、必ず対価を支払います。その対価を払うことを贖うと言います。昔(むかし)の奴隷市場では、対価を払えば奴隷を買い、自由にすることができました。この対価を払う行為を別の言葉で「代贖(だいしょく)」とも呼びます。これは強制(きょうせい)でも違法(いほう)でもなく、非常に合法(ごうほう)的なものです。イエス様がご自身の血を流されることによって、その代価を払われ、私たちを贖(あがな)ってくれました。。つまり、「代贖」によって、私たちを自由にしてくださったのです。これは完全に合法的な行為なのです。
人間は罪を犯し、神様から離れてしまいました。自力(じりき)で神様のもとに戻ることも、その道を見つけることもできず、死後は永遠の刑罰(けいばつ)の世界、地獄に行く運命にありました。そこで、神様は人間を救うために御子をこの世に送られました。神様がこの世をこれほどまでに愛し、ひとり子を与えてくださったのです。使徒パウロは<ローマ書4章25節>で次のように語っています。「主イエスは、私たちの背(そむ)きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。」ここでは「死に渡され」と表現しています。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ 3:16)。ここで注目(ちゅうもく)すべきは、「ひとり子を送られた」ではなく「与えられた」と表現されていることです。福音書は「与えた」と表現し、パウロは「死に渡された」と表現しました。パウロは生涯をかけて律法を研究し、教えてきた人物でした。律法の世界では、罪を犯した者が罰を受けることで義が示されます。そんなパウロに、驚くべき真理が開示(かいじ)されたのです。それは、「イエス様が私たちの背きの罪のゆえに死に渡された」という事実でした。人間の罪は積(つ)み重(かさ)なるばかりで、誰もそれを取り除くことができませんでした。しかし、神の御子がこの世に来られ、その命を献げることによって、人間の罪を担(にな)ってくださったのです。これこそが贖いの出来事であり、パウロはその深遠な意味を悟ったのです。
ユダヤ人の伝統には、毎年行われる贖罪(しょくざい)日という重要な儀式がありました。この日、人々は一匹の羊(もしくはヤギ(山羊))に自分たちの罪を告白し、その罪を動物に転嫁しました。これが「贖罪の羊」(スケープゴート)です。罪を負(お)わされた羊は城門(じょうもん)の外に捨てられ、猛獣(もうじゅう)に噛(か)み殺(ころ)されました。この儀式は、羊の血によって人間の罪を取り除く象徴的な行為でした。つまり、命をもって命を救う儀式でした。言い換えるなら、死をもって死に打ち勝つ儀式だったのです。
しかし、神様は御子イエスを死に渡されたのです。十字架上でイエス様は「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」(我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか)と叫ばれました。これは、神様に見捨てられた悲痛(ひつう)な叫びでした。神様が御子を死に渡されたのです。これはあまりにも悲痛で、胸が締(し)め付けられるような出来事です。人は強い後悔(こうかい)や深い悲しみに襲(おそ)われると、胸が締め付けられるように感じるものです。イエス様が十字架につけられた時、3時間の暗闇が訪(おとず)れたと言われています。これは、神様の深い悲しみを表(あらわ)しているのでしょう。使徒パウロは、この悲劇的で驚くべき出来事が、私たち人間に罪の赦しと魂の自由をもたらしたと語っています。この救いは全く合法的なものであり、サタンでさえこれを無効(むこう)にすることはできません。
<ヘブル人への手紙>には、キリストの苦しみが記されています。「キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔(けいけん)のゆえに聞(き)き入れられました」(ヘブル 5:7)。ゲツセマネの園(えん)で、イエス様は「 アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯(さかずき)をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」(マルコ 14:36)と祈られました。イエス様は父なる神様の御心が「死に渡される」ことだとご存知でした。だからこそ、イエス様は死と苦しみの道を黙々(もくもく)と進まれたのです。祈りを終(お)えた後、「立ちなさい。さあ、行こう。」と言われ、十字架への道を揺(ゆ)るぎなく進まれたのです。「…ご自分を神へのささげ物、またいけにえとし、芳(こう)ばしい香りを献げてくださいました」(エペソ 5:2b)。主は私たちのために自らを捨て、香り高いささげ物となられたのです。これこそが、私たちが目にした真の愛であり、恵みの極(きわ)みです。これこそが、私たちが見た「愛」です。これを別の言葉で言えば「恵み」です。使徒パウロは、<エペソ書5章1-2節>で、キリストが私たちを愛してくださったように、私たちもその愛を実践(じっせん)して生きるべきだと教えています。 この使徒の勧めに従って、イエス様を倣う皆になりましょう。お祈りします。Ω