礼拝説教

機会を十分に活かしなさい


2024年12月02日

*日付: 2024年 12月1日, 主日礼拝
*本文: エペソ人への手紙5章15-21節

†「15 ですから、自分がどのように歩んでいるか、あなたがたは細(こま)かく注意を払いなさい。知恵のない者としてではなく、知恵のある者として、16a 機会を十分に活(い)かしなさい…」(エペソ 5:15-16a)
この「機会を十分に活かしなさい」という言葉には、非常に重要な意味がいくつか込められています。では、機会を十分に活かすとは、具体的に何を意味するのでしょうか。“Time is gold.” (時は金なり)という格言(かくげん)があります。人間は時間の中で生きており、それゆえに時間が貴重だということです。<伝道者の書1章2節>には「空(くう)の空。伝道者は言う。空の空。すべては空」とあります。「すべては空」という言葉は、時間があっという間(ま)に過ぎ去るという意味です。私たちは自問(じもん)する必要があります。「自分の人生は真に生きているのか、それとも単に死に向かって進んでいるだけなのか。」誰もが時間を使い果たせば、死が訪れます。死とは何でしょうか。それは全てが無に帰(き)することです。この観点から見れば、人生は悲劇的なものに映(うつ)るかもしれません。
しかし、私たちクリスチャンにとって、人生は決して悲劇ではありません。主が私たちの人生に新たな意味を与えてくださったからです。ある詩人(しじん)の表現を借(か)りれば、人生とは地上でのピクニックを存分(ぞんぶん)に楽しんだ後、父の家に帰るようなものです。人生を宴会(えんかい)に例えるなら、それは<カナの婚宴(こんえん)>のように、時が経(た)つにつれてますます良質なワインが振(ふ)る舞(ま)われるようなものです。なぜなら、イエス・キリストが私たちに永遠の命を約束し、天国の希望を与えてくださったからです。そのため、キリスト教における死は終わりではなく、新たな始まりを意味します。これは人生を見る視点を根本的に変えるものです。

とはいえ、誰もが避(さ)けられない死を前に、私たちはこの世で死後の世界への準備をしなければなりません。それはちょうど、胎児(たいじ)が母胎(ぼたい)の中で次の世界(この世)への準備をするようなものです。母胎と地上が全く異なる環境(かんきょう)です。羊水(ようすい)の中にいた胎児が空気中で呼吸(こきゅう)する赤ちゃんになるように、私たちも次の世という全く異なる世界に備える必要があるのです。次の世は永遠の存在である神様と共に過ごす永遠の世界です。この永遠の世界 での生活を、教義(きょうぎ)的には「永遠のいのち」と呼びます。これは死が存在しないことを意味します。もちろん、私たちの肉体は死にます。聖書は肉体を「地上の幕屋(まくや)」と表現しています(IIコリント 5:1)。それは衣服のように脱ぎ捨てられるものです。しかし、私たちには天にある永遠の家が用意されていると言いました(IIコリント 5:1)。<伝道の書12章>は、若いうちに神様を覚えることの重要性を説(と)いています。「土(つち)のちりは元あったように地に帰り、霊はこれを与えた神に帰る」(伝道者 12:7)とあります。このことを心に留(と)め、私たちは与えられた時間を大切にしなければなりません。時間が虚(むな)しく過ぎ去ることを認識しつつ、一瞬一瞬を意味あるものとして生きていく必要があるのです。

「機会を十分に活(い)かしなさい」という言葉は、英語の欽定訳(きんていやく)聖書(KJV)では「Redeeming」と訳されており、これは「贖う」、言い方を変えるなら「救い出す」という意味を持ちます。では、この言葉が示す真意(しんい)とは何でしょうか。イエス・キリストを信じる者たちは、この世に生きている間に主を知り、深遠な真理を悟りました。その真理によって私たちは救われたのです。しかし、それ以前の人生において、私たちは主と神の国にふさわしい生き方をすることができませんでした。数(かぞ)え切(き)れないほどの大切な時間を失ってしまったのです。ここで使徒が訴(うった)えかけているのは、失われたその時間を取り戻すことです。つまり、今ある時間を無駄(むだ)にせず、大切に使って過去の損失(そんしつ)を埋(う)め合わせるよう促(うなが)しているのです。私たちは正しい道から逸れてはなりません。<詩篇119篇105節>には「主の御言葉は私の足のともしび、私の道の光です」とあります。使徒はこの言葉を踏(ふ)まえ、世の中の風潮(ふうちょう)や誘惑に惑(まど)わされないよう警告しています。世俗的な生き方をしてきた私たちの古い習慣を脱ぎ捨て、キリストにある新しい衣(ころも)を着た新しい人として生まれ変わるべきだと説いているのです。このような意味において、「機会を十分に活かすべきだ」ということです。これこそが、現代を生きる私たちにとって最も重要な御言葉なのです。

「機会を十分に活かしなさい。悪い時代だからです」(エペソ 5:16)
この御言葉は、私たちに機会を最大限に活用するよう促(うなが)しています。その理由は、私たちが生きているのが悪い時代だからです。

「ですから、愚かにならないで、主のみこころが何であるかを悟りなさい」(エペソ 5:17)
私たちクリスチャンは、主の御心をよく理解しています。なぜなら、神様の救いの計画を知っているからです。神様の定められた御心とは、すべての民を救い、神の国を実現することです。これは、世の人々には隠された秘密です。救いの真理とは何でしょうか。それは、この罪深い世界を救い、神の国を建設することです。世の人々は、耳があっても聞こえず、目があっても見えないのです。だからこそ、旧約聖書の結論はイエス・キリストであり、新約聖書の結論は神の国なのです。<使徒の働き28章>によると、パウロは神の国とイエス・キリストを大胆(だいたん)に宣べ伝えました。順序(じゅんじょ)を逆にしてイエス・キリストと神の国と言っても良いのですが、使徒パウロは非常に正確な人物であったため、神の国を先に置いたのです。神の国を実現することが神の御心であり、そのためにイエス・キリストが必要なのです。主がこの地に来られたのは、まさにこの神の国を成し遂げるためです。これが「奥義(おうぎ)」です。この奥義を、選ばれた私たちが知るようになりました。ですから、私たちは世の風潮(ふうちょう)や罪深い世界の誘惑に従って腐敗(ふはい)していく古い習慣に従うのではなく、常に主の御心を考え、それに従って生きていく必要があります。

「また、ぶどう酒に酔(よ)ってはいけません。そこには放蕩(ほうとう)があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい」(エペソ 5:18)
ここで使徒パウロは、二つの状態を対比しています。人はアルコールにも酔いますが、聖霊にも酔うことができるのです。<使徒の働き2章>によると、初代教会のペンテコステの日に、人々が聖霊に満たされた様子(ようす)は、酒に酔った者のようだったと記されています。世の中には、お酒に依存(いぞん)して生きている人が多くいます。なぜでしょうか。それは、生きることが苦痛だからです。あるいは、酒に酔わなければ自分の生活に向き合えないからかもしれません。しかし、使徒パウロは私たちがそのような人々とは異なることを強調しています。福音を知る者は、酒ではなく聖霊に酔って生きるべきだというのです。聖霊は上から受けるものです。だからこそ、使徒は「御霊に満たされなさい」と言いました。聖霊は贈り物のように受け取るものであり、それを受けると私たちの生活が変わります。

「詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい」(エペソ 5:19)
ここでは、詩、賛美、そして霊の歌(spiritual song)が挙(あ)げられています。詩は賛美詩を指し、賛美は私たちが歌う賛美歌のことです。詩を書き、そこに旋律(せんりつ)をつけて歌うのです。共同(きょうどう)体の聖徒たちは、自分たちの内なる喜びをこれらの方法で表現しながら生きてきました。音楽が重要である理由は、私たちが救われたことによる喜びを表現する手段(しゅだん)だからです。キリスト教は自分の力で救いを得る宗教ではありません。人間は自分の力では救いを達成(たっせい)することはできません。そのため、この世にある自分の力による救いを説く宗教の教えは、偽善(ぎぜん)や欺瞞(ぎまん)と見なすことができます。私たちは救われました。そして、その救いによって生まれ変わった感激(かんげき)が私たちの内にあります。だからこそ、感謝の念(ねん)が生まれるのです。その感謝を最もよく表現できるのが賛美です。「恵みと平安」が対(つい)をなすように、「感謝と賛美」も対をなすものです。<使徒の働き2章>によると、初代教会は毎日神様に感謝の賛美をささげていました。
音楽を担当する人々の重要性は、旧約聖書の時代から明らかです。祭司たちと同様に、聖歌隊(音楽を担当する人々)にも特別な衣服が与えられていました。これは、彼らが礼拝を執(と)り行う重要な役割を担(にな)っていたからです。礼拝は神様に捧げる最高の祭祀であり、賛美は雄牛(おうし)を献げるよりも良い香りの供(そな)え物とされています(詩編 69:30-31)。このことから、私たちは賛美の持つ貴重(きちょう)な価値を心に留めておく必要があります。「互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい」という言葉には、深い意味が込められています。ここで言う「心から」という表現と「互いに語り合い」という部分は、特に重要です。これは、一人が出てきて発表するような音楽を指しているのではありません。初代教会では、信徒たちが自分の中にある恵みと感謝、そして救いの感動を互いによく話し合い、分かち合っていたのです。使徒パウロは 「あなたがたの中にある感動と恵みと感謝を抑(おさ)えたり、隠したりしないでください。それを表現し、分かち合いながら生きてください」と言っているのです。初代教会の集会(しゅうかい)では、このように歌で感情を表現し、互いに語り合っていました。

「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい」(エペソ 5:20)
使徒パウロは、私たちにあらゆることに感謝するように言っています。賛美と感謝は密接に結びついています。感謝する人は自然と賛美をし、賛美することそのものが感謝の表現となります。そのため、生きた教会には必ず賛美があります。そこには救いの感動があるからこそ、歌が生まれるのです。歌と踊(おど)りがあるところ、そこに教会の共同体が存在するのです。

「キリストを恐れて、互いに従い合いなさい」(エペソ 5:21)
この御言葉は、神様に感謝する人は同時に他者(たしゃ)とも互いに従い合い、良好(りょうこう)な関係を築(きず)くべきことを教えています。さて、2024年の最後の月です。今月の最後まで機会を十分に活かし、聖霊の恵みの中で感謝し、一年をうまく締(し)めくくる大阪教会の聖徒たちでありますように願います。お祈りしましょう。Ω

#
#
#
#

The Steadfast Love of the Lord

The steadfast love of the Lord never ceases His mercies never come to an end They are new every...

「その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります」

2025年03月17日

*日付: 2025年3月16日, 主日礼拝 *本文: ヨハネの福音書14章1-21節 †先週は《ヨハネの福音書13章》...

“世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された”

2025年03月10日

*日付: 2025年3月9日, 主日礼拝 *本文: ヨハネの福音書13章1節 「さて、過越(すぎこし)の祭りの前の...

キリストの死と同じ状態になり、目標を目指して

2025年03月03日

*日付: 2025年3月2日, 主日礼拝 *本文: ピリピ人への手紙3章4-16節 †「知識は力なり」(Knowledge is...