2024年12月09日
*本文: エペソ人への手紙5章22-23節
†今日学ぶ<エペソ書5章22節>からは、聖書の中でも難解な部分に入ります。夫と妻がどのように暮(く)らすべきかを教える箇所です。この部分は解釈(かいしゃく)が困難(こんなん)な面があります。人々が相談を求めてくる際、最も多いのが関係性の問題です。争いや葛藤(かっとう)のすべての問題は、関係性の問題に帰結(きけつ)します。関係というものが非常に難しいからです。ここでパウロは三つの関係について書いています。最初に夫婦の関係、次に親子の関係、最後に主人としもべの関係です。
当時の優れたラビが回心(かいしん)した後、自分の高慢をすべて捨ててイエスの弟子になりました。この使徒に人々はこの問題について尋ねてきたでしょう。そのため、使徒は自分が愛した教会にこの三つの関係について教えています。これは倫理の問題です。
「妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい」(エペソ 5:22)
ここで使徒は最初に妻に語りかけます。妻が先に出てくるので、題目をつけるなら「妻と夫」となるでしょう。この<22節>は<18節>と<21節>とつながっています。<18節>には「むしろ、御霊に満たされなさい」とあり、<21節>には「キリストを恐れて、互いに従い合いなさい」とあります。これは、御霊に満たされている人々の間には互いへの畏(おそ)れが生まれるという意味です。ここで重要なキーワードは「互いに」です。これは相互に、互いに従うということです。一方的に片方(かたほう)だけが従うのではありません。関係とは相関(そうかん)関係であり、やり取りする関係を意味します。つまり、双方向(そうほうこう)の関係です。愛の関係はお互いに顔を合わせる関係です。<第一コリント人への手紙13章>の愛の章でも「顔と顔を合わせる」とあります。愛の関係は相互関係なのです。使徒が教えようとしているのは、神の御霊に満たされなさいということです。そうすれば、あなた方は愛の関係になれると言います。愛はどこから来たのでしょうか。神からです。愛の神が愛の目的をもって人間を創造されました。創造は愛の創造だったことを聖書は教えています。人間は愛するとき喜びを感じます。聖書は「愛の中に留まりなさい。愛しなさい」と命じているように見えますが、本質的には人間は神の愛によって造られたので、愛に従って生きるときに喜びがあるからこそ、愛しなさいと言われたのです。
夫婦関係について語るとき、世界の多くの宗教の中で、キリスト教だけが夫婦関係を水平的、平等(びょうどう)に見ている。これは、クリスチャンとして誇るべき特徴(とくちょう)でしょう。キリスト教は女性についても革命(かくめい)的な視点を持っています。ユダヤ教では神の言葉は主に夫に伝達(でんたつ)され、女性は通路や後方(こうほう)で聞くか、男性から教えられる形式が一般的でした。しかし、キリスト教会では女性が男性より前に立つことが多々(たた)ありました。それが行き過ぎて<第一コリント人への手紙14章>では女性に自制(じせい)を求めるほどでした。キリスト教は他の宗教と異なり、女性解放の扉を開いたのです。2000年前は男性を女性より大切にする「男尊女卑(だんそんじょひ)の思想(しそう)」が強く、女性は男性の所有物(しょゆうぶつ)に過ぎませんでした。ユダヤ教やイスラム教においてはなおさらでした。
結婚式で祝辞(しゅくじ)としてよく言われる聖句は<箴言(しんげん)16章の1節と9節>です。箴言は知恵の書です。「人は心に計画を持つ。しかし、舌への答えは主から来る」(箴言 16:1)。私たちがどんなに飛び抜(ぬ)けた計画を立てても、その答えは主から来るのです。同じ内容が<9節>にもあります。「人は心に自分の道を思い巡(めぐ)らす。しかし、主が人の歩みを確かにされる」(箴言 16:9)。また、多くの祝辞(しゅくじ)で「天が定めた縁(えん)(天生緣分)」という主題が語られます。これは中国由来の概念(がいねん)で、天が生み出したパートナーシップを意味します。これは箴言の教えと通(つう)じるものがあります。夫婦は出会い、愛し合いますが、それは自らの意思(いし)によるものです。結婚誓約(せいやく)の際、自らの意思で誓(ちか)いを立てます。強制されての誓いは愛ではありません。愛は自由意思から生まれるものです。これがキリスト教の真理の核心(かくしん)です。神様と人間の愛の関係も同様に、相互の愛によって成り立ちます。人間が神様を拒めば、その関係は終わります。愛は相互(そうご)的なものなのです。私たちは互いに出会い、愛し合います。しかし、その出会いを導(みちび)き、愛し合う縁(えん)を結んでくれるのは誰でしょうか。それは天が私たちに与えてくれるものです。これこそが運命であり、あらかじめ定められた予定なのです。これが、予知予定です。
しかし、夫婦生活には衝突(しょうとつ)がつきものです。それぞれが異なる環境(かんきょう)で育ってきた二人が共に暮らせば、摩擦(まさつ)は避(さ)けられません。そのとき、二人は向き合うでしょうか、それとも背を向けるでしょうか。背を向けるのは容易ですが、そうして家庭が崩壊(ほうかい)する例(れい)も少なくありません。離婚率(りこんりつ)の上昇(じょうしょう)は、家庭が愛の巣(す)ではなく地獄と化(か)している現実を示(しめ)しています。家庭の没落(ぼつらく)は地獄です。では、このような危機(きき)をどう乗り越えるべきでしょうか。東洋(とうよう)の知恵は「夫婦は天が定めた縁」と説きます。箴言(しんげん)では「神が人の歩みを確かにされる」と言います。<箴言16章>は、私たちに貴重(きちょう)な知恵を与えてくれます。二人の出会いは自由意思によるものに見えても、その結びつきは予定されたものなのです。
夫婦が共に生きていく上で最も重要なのは、この予定を絶対的に信じることです。「別の選択もあったのでは?」と関係を相対化(そうたいか)してしまうとき、問題が生じます。「私たちの出会いは偶然ではなく必然だ。深い意味があるはずだ」と考えながら生きることが大切です。それは必然であり、天が定めた縁なのです。
もちろん、私たち一人ひとりの中に自由があります。神様が愛ゆえに私たちに自由意志を与えてくださいました。しかし、「これは私の自由だ」と主張しながら自分のパートナーを相対化してしまうなら、神の言葉は厳しく戒(いまし)めます。箴言は私たちに言います。「あなたがたが何をしようとも、お互いが愛し合うことも、その愛を超えている神のご計画があったこと、天が定めた縁があったことを知って生きていきなさい」と。この絶対的な真理が崩(くず)れるとき、私たちの人生に大きな災(わざわ)いが訪れるでしょう。反対に、天が定めた縁であることを一つひとつ見出しながら生きる人は、幸せな人生を送ることができます。二人が結ばれた理由を探求(たんきゅう)しながら生きる人こそが、真の幸福(こうふく)を得られるのです。この知恵の言葉に従って生きていきましょう。
パウロは「互いに従いなさい」と教えました。御霊に満たされた人々は互いに従い合います。従来(じゅうらい)の世界観では、しもべが主人に従うものでした。しかしパウロは、互いに従うことを説きました。これは主人もまた従うべきだという革命的な教えです。イエス・キリストは生涯を通(つう)じてこの教えを実践(じっせん)されました。弟子たちの足を洗い、さらには自らの命を献げて犠牲となられました。死に至るまで従順であられたのです。
「妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい」(エペソ 5:22)
パウロはまず妻に語りかけます。「妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。」これを聞いて夫たちは喜ぶかもしれません。しかし、なぜパウロは最初に妻に向けて話したのでしょうか。それは、愛の出発点が妻にあることを示しているのです。これは厳粛(げんしゅく)な言葉です。これを階級的に解釈してはいけません。妻がまず夫に対する尊敬(そんけい)の念を持つべきだということを説(と)いているのです。
「キリストが教会のかしらであり、ご自分がそのからだの救い主であるように、夫は妻のかしらなのです」(エペソ 5:23)
夫は妻のかしらであり、キリストは教会のかしらです。
「教会がキリストに従うように、妻もすべてにおいて夫に従いなさい。夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい」(エペソ 5:24-25)
ここで重要な転換(てんかん)があります。主は私たちのために命さえも献げてくださいました。私たちの罪を贖う限りない恵みを与えてくださったのです。その愛を受けた私たちは、今度は何をすべきでしょうか。夫を愛しなさいと教えられています。主を愛するように夫を愛すべきだと言われているのです。なぜそうすべきなのでしょうか。それは夫が家庭のかしらだからです。だからこそ、夫に対して尊敬の念を持ち、仕えるべきなのです。しかし、ここで重要なのは、愛の始まりは妻にあるということです。先に愛する者こそが偉大なのです。パウロはここで、その偉大な愛の始まりが妻にあることを教えているのです。
伝統的な教えでは、夫が妻を愛するべきだとされてきました。しかし、実は愛は夫からではなく、妻から始まるのです。妻が夫を尊敬し、彼をしっかりと立てるべきなのです。体の頭を例に考えてみましょう。頭がしっかりと立てられるべきです。同様に、家庭のかしらもよく立てられるべきです。聖書は夫を家庭のかしらとしています。したがって、妻は夫をよく立てる役割を担(にな)っているのです。教会が主をかしらとして仕えるように、妻は夫に接(せっ)する際、主に仕えるかのように接するべきです。
「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい」(エペソ 5:25)
ここで使徒パウロは「夫たちよ」と呼びかけています。主は私たちのためにすべてを献げ、自らを無にし、犠牲となってくださいました。夫たちは、この主の愛に倣うべきだと教えています。主の自己犠牲と謙遜、命をも尽(つ)くして示された限りない愛をもって私たちを愛されたように、夫たちよ、あなたの妻をそのように愛しなさい、と説いているのです。
「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり」(エペソ 5:26)
私たちがこのように生きていけば、私たちの人生は水で洗ったかのようにきよく聖なるものとなります。真理が偽りを焼(や)き尽くすように、私たちは御言葉によってきよめられ、聖なる姿へと変えられていくのです。
「27 ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。28 同様に夫たちも、自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する人は自分自身を愛しているのです。29 いまだかつて自分の身を憎んだ人はいません。むしろ、それを養(やしな)い育てます。キリストも教会に対してそのようになさるのです。30 私たちはキリストのからだの部分だからです。31 「それゆえ、男は父と母を離(はな)れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」32 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです」(エペソ 5:27-32)
<31節>は<創世記2章24節>の引用です。私たちはここでこの深遠な奥義を知ることになりました。これは隠された深い意味を持つ御言葉です。使徒パウロは、キリストと教会との関係のように、あなたがたも互いに尊敬し、愛し合って生きていくようにと教えているのです。
「それはそれとして、あなたがたもそれぞれ、自分の妻を自分と同じように愛しなさい。妻もまた、自分の夫を敬(うやま)いなさい」(エペソ 5:33)
お祈りします。Ω