礼拝説教

主にある親子関係


2024年12月15日

1「子どもたちよ。主にあって自分の両親に従いなさい。これは正しいことなのです。」2『あなたの父と母を敬(うやま)え。』これは約束を伴う第一の戒(いまし)めです。3「そうすれば、あなたは幸せになり、その土地であなたの日々は長く続く」という約束です。」4「父たちよ。自分の子どもたちを怒(おこ)らせてはいけません。むしろ、主の教育(きょういく)と訓戒(くんかい)によって育てなさい。」

使徒パウロは今、三つの関係について話しています。前回は一番目の<妻と夫の関係>を見ました。今日は二番目の<子どもと親の関係>を見て、水曜礼拝に三番目の<奴隷と主人の関係>を見ていきます。一般的には「夫と妻」、「親と子」、「主人と奴隷」という順番で呼びます。なぜなら、この世においては上下(じょうげ)関係がそのように定型化(ていけいか)されているからです。しかし、使徒パウロは逆に妻と子と奴隷を先に挙げています。これを通してこの使徒が非常に深いことを語ろうとしていることが分かります。これは「夕(ゆう)があり、朝があった。第一日」という聖書の御言葉に似ています。この世では太陽が昇る朝を一日の始まりと考えます。しかし、聖書は一日の始まりを夕方と見ます。なぜなら夕方が創造の始まりだからです。私たちがその意味を深く悟るなら、全く新しい世界が見えてくるでしょう。

前回見た箇所をもう少し見ていきます。「この奥義は偉大です…」(エペソ5:32a)。夫と妻の関係に偉大な奥義があるということです。この後に出てくる親子の関係、主人と奴隷の関係にも偉大な奥義があります。「最近は奴隷(slave)はいないではないか」と言ってこの御言葉を必要ないと考える人もいるかもしれませんが、これを深く読んでみると実に重要なことを学ぶことができます。とにかく、パウロは家庭の中で妻に、子に、奴隷にまず語りかけています。より正確に言うなら、お願いしています。「…妻もまた、自分の夫を敬(うやま)いなさい」(エペソ5:33b)。天の言葉はこのように違います。家庭の基礎(きそ)を築(きず)くのは誰でしょうか。家庭の始まりを開くのは誰でしょうか。妻(=女)であることを私たちは覚えるべきです。

 ここに「この奥義は偉大です」とありますが、この奥義とはどのような奥義でしょうか。これは<創世記2章24節>のことです。「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである」(創世記2:24)。離れていた一人の男性と一人の女性が一つとなり、一体になることが奥深い創造の奥義です。ですから私たちは美しい関係を成していかなければなりません。そのためにはどうすればよいでしょうか。聖霊に満たされるときにこれが可能になることを知らなければなりません。使徒は前の節(18節)で、酒に酔ってはならず、御霊に満たされなさいと言いました。これは愛の関係についての深い話をしているのです。この三つの関係はすべてどこに繋(つな)がるかというと、「御霊に満たされなさい」という御言葉につながります。私たちが聖霊に酔ってこそ、美しい関係を築(きず)いていくことができるのです。

今日は<親と子の関係>について見ていきましょう。

「子どもたちよ。主にあって自分の両親に従いなさい。これは正しいことなのです。」(エペソ6:1)
 ここに「正しいことなのです」とあります。なぜ使徒はこのように言うのでしょうか。「それは違うのではないか」と主張する人もいるでしょう。なぜ両親に従わなければならないのでしょうか。今日、私たちが生きている時代を見てください。あまりにも多くの家庭が破壊(はかい)され、家庭内(かていない)に多くの不和(ふわ)が見られます。家庭が崩壊(ほうかい)し、歪(ゆが)んだ関係があまりにも多くあります。悲惨(ひさん)な関係も非常に多いです。この使徒がそれを知らなかったでしょうか。彼は充分承知していました。言い表(あらわ)せないほどの歪(ゆが)んだ関係、悲惨な関係、痛(いた)ましい関係、涙(なみだ)するしかない悲しみと痛みに満ちた関係があるでしょう。家庭は天国の基礎石です。人間は家庭の中で愛の訓練を受けます。そこで私たちが天国の民として成長するのです。もちろん訓練される場所は家庭だけではありません。家庭以外に学校も、教会もあります。この三つが教育のトライアングルです。その中で家庭は最も基本となるものです。家庭が健全(けんぜん)でなければ、社会が健全になることはできません。ですから、家庭はとても大切です。

今この使徒はまず子どもたちに語りかけます。「主にあって自分の両親に従いなさい。これは正しいことなのです」と。なぜ両親に従うことが正しいことなのでしょうか。この世には従うことのできないような親もいます。ひどい親もたくさんいます。ですからパウロは「主にあって」と書いているのです。「主にあって」という言葉が示しているのは、これを語りかけている第一次的な対象(たいしょう)がこの世の家庭ではないということです。使徒は、この世の家庭には、無条件に従うことができない親がいることをよく知っているのです。
うすると、この使徒の言葉が簡単な言葉ではないことが分かります。不健全な家庭、不健全な子どもたちがあまりにも多いです。そのような家庭の子どもたちが教会にたくさん来ます。ですから、使徒は何を教えているのでしょうか。「子どもたちよ。主にあって自分の両親を愛しなさい」と言っているのです。この「主にあって」という言葉には「主が私たちに教えられたように、主が私たちに接(せっ)してくださったように」そのように生きなさいという意味が込められています。皆さんは「罪の増(ま)し加(くわ)わるところに、恵みも満ちあふれました」という言葉を覚えているでしょう。私たちは「主にあって自分の親を敬(うやま)うことは正しいことなのです」と言うこの使徒の言葉をよく覚えておくべきです。病(や)んでいる社会と家庭を癒(い)やし、回復させる力はどこにあるのでしょうか。それは愛にあります。愛によって人は癒(いや)されるのです。

聖書に登場するアブラハムのことを見てください。アブラハムは信仰の先祖です。聖書にはアブラハムの父がどんな人だったのかという正確な記録はありません。彼の父の名は「テラ」と記されています。教会の伝承(でんしょう)に基づく推測(すいそく)によるとアブラハムの父は偶像を売る人だったと言われています。しかし、偶像を売る人物の子どもから、どうして信仰の人が生まれたのでしょうか。それは非常に難しいことです。しかし、私たちはこう解釈することができます。アブラハムは困難(こんなん)であればあるほど、より一層(いっそう)神様に対する信仰を立てたということです。自分の父が半面(はんめん)教師になったのです。だから偶像を売る父がアブラハムの躓(つまづ)きとはならず、かえって彼に「私から新しい歴史を描いていこう」と固い決心をさせることになったのです。アブラハムは「私は御言葉に従い、信仰によって生きる人生を歩もう」と決意(けつい)したのでしょう。アブラハムには偶像を売る親を持たない人よりも、深い人生に対する理解があったのでしょう。

「2『あなたの父と母を敬(うやま)え。』これは約束を伴う第一の戒(いまし)めです。3「そうすれば、あなたは幸せになり、その土地であなたの日々は長く続く」という約束です。」(エペソ6:2-3)
 父と母を敬いなさいと言います。「あなたの父と母を敬(うやま)え」という戒めは、十戒(じっかい)の第五戒です。しかし、なぜ使徒はこれを第一の戒めだと言ったのでしょうか。十戒を見ると、第一から第四までの戒めは神様と人間の関係における戒めです。そして、第五から第十までが人間同士(どうし)の関係における戒めです。ですから、人間同士の関係における第一の戒めが「あなたの父と母を敬(うやま)え」になります。そのような意味で使徒は、この戒めを第一の戒めだと言ったのかもしれません。そして「第一の戒め」というのは、それだけ重要な戒めだという意味もあります。また、使徒は「約束を伴う第一の戒め」だと言いました。この約束とは何でしょうか。「あなたの父と母を敬(うやま)え。あなたの神、主が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである」(出エジプト20:12)。ここをみると父と母を敬(うやま)うならあなたに与えようとしている土地で、あなたの日々が長く続くようになると仰(おほ)せられました。これはあなたの父と母を敬うなら、あなたのすることはすべてうまくいき、あらゆる祝福を与えられ、長生(ながい)きするであろうという意味です。この約束の祝福は神様が第一の戒めと第二の戒めの後にも語ってくださった祝福です。「3 あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。4 あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。5 それらを拝(おが)んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎(とが)を子に報い、三代、四代にまで及(およ)ぼし、6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施(ほどこ)すからである」(出エジプト20:3-6)。ここには神様の戒めを守る者には、恵みを千代にまで施(ほどこ)すとあります。十戒の第一戒(いちかい)は「わたし以外に、ほかの神があってはならない」、第二戒は「偶像を拝(おが)んではならない」です。この二つの戒めには深い関係があります。私たちがこの戒めをよく守れば、神様は私たちに祝福を与えてくださいますが、その祝福は非常に長きにわたるものだということです。その祝福は千代にまで及(およ)ぶほどの大きな祝福です。そして、「あなたの父と母を敬(うやま)え」と第五戒を語られた後、父と母を敬えばあなたがたは大いなる祝福を受けるようになると言われました。その祝福は非常に長きにわたり、あなたは長生きすることになると言われました。この祝福は神様が最初に戒めを与えてくださった時の約束と同じです。両親を敬(うやま)えば、最初の戒めをお与えになった時に約束された祝福を受けることになると使徒パウロは私たちに語っているのです。その約束の言葉を用いて私たちに説明してくれています。

父と母を敬(うやま)うとはどういうことか、子どもは親を見て学びます。私が自分の親を敬うなら、愛は上にあがります。しかし、私が両親を敬う姿を子どもが見て学ぶので、その愛は再び下に流(なが)れます。自分の親が敬う姿を見て、自分も同じように敬うようになるからです。「あなたの父と母を敬え」というこの御言葉はとても深いものです。
<マルコの福音書7章>には次のような言葉があります。ユダヤ人たちは神の言葉を誤(あやま)って解釈しました。「10 モーセは、『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない』と言いました。11 それなのに、あなたがたは、『もし人が、父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物は、コルバン(すなわち、ささげ物)です、と言うなら──』と言って、12 その人が、父または母のために、何もしないようにさせています。13 このようにしてあなたがたは、自分たちに伝えられた言い伝えによって、神のことばを無にしています。そして、これと同じようなことを、たくさん行っているのです。」14 イエスは再び群衆(ぐんしゅう)を呼び寄(よ)せて言われた。「みな、わたしの言うことを聞いて、悟りなさい。」(マルコ7:10-14)。皆さん、この御言葉を聞いて悟ってください。信仰生活をしているからと言って、私は神様の前にすべてを献げたからと言って、父と母を忘れて生きてはいけないということです。これはイエス様の御言葉です。
 しかし、今イエス様は「神様に献身しているからと言って、父や母に仕えることができないのは当然だと思ってはいけない」と言われます。よりまじめに心から親を敬(うやま)い、できる限り親に仕えるべきです。それが神様が与えてくださった戒めを私たちが真に深く理解することです。
 
今使徒パウロは「子どもたちよ」と呼びかけ、父と母を敬(うやま)うように言っています。子どもたちが両親を敬うとき、神様からの祝福が注がれます。その祝福は千代にまで及(およ)びます。夫を敬う偉大な妻を通して偉大な愛の家庭が建てられるように、父と母を敬う子どもたちによってその家が千代にまで祝福されるのです。これはとても深いことです。「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである」(出エジプト20:12)。この偉大な祝福の約束が誰にかかっているのでしょうか。「子どもたち」にかかっています。使徒パウロは今、これを思い起こさせています。神の言葉は真理です。この戒めは<出エジプト記20章12節>と<申命記5章16節>にあります。皆さんがこれをよく読んで、使徒が語っている世界を深く見てください。これがどれほど重要な戒めであるかを知ってください。祝福が千代にまで及ぶのですから、この戒めがどれほど重要でしょうか。父と母を敬(うやま)い、両親の言葉に従うべきです。もし私たちが敬うことができないような親を敬い、従うことのできないような親に従うならば、より偉大な世界を開くことができるでしょう。私たちの教会は皆教会の中で結婚し、子どもを産(う)み育(そだ)てているので、そういった難しさをあまり感じないかもしれません。しかし、教会は崩壊(ほうかい)した家庭、傷(きず)ついた人々、悲しみや痛みを抱(かか)えた者、苦しみの中にある者たちの避け所です。これからそのような人々がたくさん教会に集まってくるでしょう。私たちは使徒を通して神様が与えてくださったこの御言葉を深く心に刻んで生きますように願います。

「父たちよ。自分の子どもたちを怒(おこ)らせてはいけません。むしろ、主の教育(きょういく)と訓戒(くんかい)によって育てなさい。」(エペソ6:4)
次に「父たちよ」と言います。まず子どもたちに語り、次に父たちに語ります。何と言っているでしょうか。「自分の子どもたちを怒らせてはいけません」と。私たちは主の愛を知っている者たちです。ですから、主が私たちを育ててくださったように、子どもたちを愛をもって教えなさいということです。親が子どもたちを怒ってはいけません。そうすることで子どもたちを怒らせてはいません。

私たちの人生の基本的な関係は、主の愛と恵みの土台の上にあります。愛とは何かというと、恵みです。主は富(と)んでおられるお方でしたが、自ら貧しくなられたことによって私たちを富む者としてくださいました(Ⅱコリント8:9)。それが恵みです。主は愛することができない者をも愛されました。聖書にはベタニアのらい病人(びょうにん)(=ハンセン病)の家を訪(おとず)れたと書いてあります。ベタニアはオリーブの園の東側にあり、「貧しい者の家」という意味です。そして、らい病人たちがそこに住んでいました。主はベタニアのらい病人シモンの家に入られました。らい病人は誰からも遠(とお)ざけられ隔離(かくり)される人たちでした。主はそのような抱(だ)くことのできない者をも抱いてくださったのです。それが主の愛であり、主の恵みでした。

私たちが罪人であったとき、罪のない神の御子が私たちの罪を担(にな)ってくださいました。<ヨハネの福音書15章>の告別説教で、イエス様はご自分の中に喜びがあると言われました。「わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました」(ヨハネ15:11)。明日には十字架にかけられる深い悲しみと涙の立場で、主はご自分の中に満ち溢れる喜びについて話されました。その喜びとは一体何でしょうか。この世の人々が嬉々(きき)とする世俗(せぞく)的な自己満足の喜びでしょうか。決してそうではありません。では、どうして十字架の受難(じゅなん)が喜びとなりえるのでしょうか。主はご自分の受難によって、私たちのすべての罪の重荷(おもに)が下(お)ろされ自由を得ることができるから喜ばれたのです。これこそが愛です。自分のために生きるのではなく、相手のために生き、相手が喜ぶのを見て喜ぶこと、それが愛です。主の十字架の受難を通して偉大な救いの御業が開かれました。それが 愛であり、恵みです。その愛と恵みを通してこの喜びの世界が開かれたのです。

使徒は育と訓戒によって子どもたちを主の民としてよく育てなさいと語っています。この過程を通して子どもたちは美しく成長していきます。すべての訓育と訓戒は愛です。愛を通して子どもたちが主の民として成長できるように、親が子どもたちをよく育てることを願う使徒の思いがここに込められています。

私たちもこの使徒の勧めに従って、主にあって正しい<親子の関係>を築(きず)くように努力(どりょく)しましょう。祈りましょう。Ω


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