礼拝説教

神のすべての武具を身に着けなさい


2024年12月23日

*日付: 2024年 12月22日, 主日礼拝
*場所: 大阪エペソ長老教会
*說敎: 張(ジャン)サムエル 牧師
*本文: エペソ人への手紙6章10-12節

†今日の神様の御言葉は<エペソ人への手紙6章10節>から見ます。

「終わりに言います。主にあって、その大能(だいのう)の力によって強められなさい」(エペソ 6:10)。
「終わりに」という言葉は、「ついに(Finally)」を意味します。ここから、パウロの教えは新たな方向性を示します。これまで彼は教義や倫理を説き、崇高(すうこう)な神の真理を日常(にちじょう)生活でいかに実践(じっせん)すべきかを教えてきました。しかし、<エペソ書>の最後の部分では、私たちの人生にとって極めて重要で緊急性の高い、異なる主題を取り上げています。

私たちは「霊的戦争」という言葉をよく耳にします。金曜祈祷会の意義は何でしょうか。なぜそれが重要なのでしょうか。この疑問(ぎもん)への答えが、今日の箇所に示されています。パウロは啓示の光に照らされた使徒です。 いなずま(稲妻)が一瞬(いっしゅん)で世界を照らすように、主は彼に真理のすべてを明らかにされました。そして今、彼は「見えない敵」について詳細(しょうさい)に説明しています。敵の構造と、それにどう立ち向かうべきかを明確に示しているのです。想像してみてください。戦いにおいて、一方が相手を完全に見通(みとお)せるのに対し、もう一方は何も見えないとしたら。勝敗(しょうはい)は明らかでしょう。だからこそ、敵を見極(みきわ)めることが極めて重要なのです。パウロは今、その見えない敵の実態(じったい)を私たちに明かしているのです。

皆さん、イエス様の天国のたとえ話の中で「毒麦(どくむぎ)のたとえ」を思い出してください。良い種が蒔(ま)かれても、その上に毒麦が蒔かれれば、成長は阻害(そがい)され、実を結ばなくなります。しもべたちが「誰が毒麦を蒔いたのか」と尋ねると、主人は「敵がしたことだ」と答えます。私たちの信仰にとって、この目に見えない敵とその勢力を理解することは非常に重要です。本来ならば一学期(がっき)をかけて教えるべきテーマですが、使徒パウロはここで敵について簡潔(かんけつ)かつ正確に説明しているのです。

では、私たちの真の敵は誰でしょうか。それは悪魔(あくま)、サタンです。<黙示録12章9節>には「悪魔とかサタンとか呼ばれる者、全世界を惑(まど)わす者が地に投げ落とされた」とあります。悪魔とサタンは同じです。この悪魔、サタンは目に見えません。神様や聖霊が目に見えないように、サタンも見えないのです。しかし、私たちはその働きを日々の生活の中で経験しています。様々な現象(げんしょう)を通して神様を感じるように、サタンの影響力(えいきょうりょく)も私たちは体験しているのです。
<ヨハネの福音書>には、サタンがユダに入ったことが記(しる)されています。「27 ユダがパン切れを受け取ると、そのとき、サタンが彼に入った。すると、イエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。」 / 30 ユダはパン切れを受けると、すぐに出て行った。時は夜であった」(ヨハネ 13:27, 30)。最後の晩餐の終わり頃、サタンがユダに入りました。そして、彼は主を離れ、闇の中に消えていきました。このようなことは今でも起こっています。神の民の目が覆(おお)われ、サタンがその心に入り込むのです。サタンは私たちを見ているのに、私たちはサタンを見ることができません。これが問題の本質なのです。

この使徒は、<エペソ書>の最後で「ついに(Finally)皆さんにお願いしたいことがある」と語り、重要なメッセージを伝えています。それでは、この内容を一つひとつ丁寧(ていねい)に見ていきましょう。

「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい」(エペソ 6:10)。
パウロは私たちが強められる方法を2つ教えています。1つ目は主の内にあることによって、2つ目は主の大能の力によって、です。パウロの目から見れば、エペソの聖徒たちは目に見えない敵であるサタンを知らないがゆえに、彼らのことを心配し、不安に思っていたのでしょう。だからこそ、彼らが強められる方法を教えているのです。
「あなたがたはいつも主の内にとどまりなさい」というパウロの教えは、私たちが完全になり、安全になるための鍵(かぎ)です。主の内にとどまる時、私たちはサタンとの霊的な戦いに勝利することができるのです。このことは<詩篇18篇2節>でも語られています。「主はわが巌(いわお)、わが砦(とりで)、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾(たて)、わが救いの角(つの)、わがやぐら」(詩篇 18:2)。同様の告白が<サムエル記第二>にも見られます。「1 主がダビデを、すべての敵の手、特にサウルの手から救い出された日に、彼はこの歌のことばを主に歌った。2 彼は言った。「主よ、わが巌(いわお)、わが砦(とりで)、わが救い主よ、3 身を避ける、わが岩なる神よ。わが盾(たて)、わが救いの角(つの)、わがやぐら、わが逃(のが)れ場(ば)、わが救い主、あなたは私を暴虐(ぼうぎゃく)から救われます。」(Ⅱサムエル 22:1-3)。これはダビデの勝利の歌であり、主が彼の逃(のが)れ場(ば)であり、砦(とりで)であることを宣言しています。ですから、私たちは主の中に住まわなければなりません。私たちの信仰が安全であるのは、私たちが主の内に住む時なのです。
第二に、パウロは私たちが主の大能の力によって強められることを挙げています。主こそが力の源泉(げんせん)なのです。私たちは主の助けを借りて力を得、主の力によって強められなければなりません。これは単に私たちが強くなるべきだという勧めではなく、主の力に頼(たよ)るべきだという教えです。

では、主の力とは具体的に何を指すのでしょうか。<エペソ書6章11節>で、パウロはこう説明しています。

「悪魔の策略(さくりゃく)に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具(ぶぐ)を身に着けなさい」(エペソ 6:11)。
ここで重要なのは、サタンには策略(詭計(きけい))があるという点です。「策略」とは計画を立てるという意味です。サタンは狡猾(こうかつ)で邪悪(じゃあく)な存在です。このサタンに対抗するために、私たちは神のすべての武具(全身甲冑(ぜんしんかっちゅう))を身に着ける必要があります。軍隊の将軍が兜(かぶと)をかぶり、鎧(よろい)を着て、あらゆる武器で身を武装(ぶそう)するように、私たちも霊的な武装をしなければなりません。ここで言う「神のすべての武具」は、物理的な剣(けん)や兜(かぶと)、鎧(よろい)ではありません。それは神様が与えてくださる霊的な装備(そうび)を指しています。私たちは御言葉を学び、その教えに従って生きるべきです。それが私たちの着るべき「新しい衣(ころも)」なのです。古い習慣を脱ぎ捨て、神様が与えてくださる「神のすべての武具」で武装しなければなりません。

「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです」(エペソ 6:12)。
ここでパウロは、私たちの人生が格闘(かくとう)であることを示唆(しさ)しています。旧約聖書のヤコブがヤボクの渡しで神の使いと格闘したように、私たちも霊的な格闘を経験します。ヤコブはその戦いに勝ち、「イスラエル」、すなわち「あなたが勝ったからだ」という意味の名前を授けられました。では、彼が経験したその格闘とはどんなものでしょうか。それは、彼の本当の意志——兄弟との和解や故郷への帰還(きかん)の願い——を確認するためのものでした。だからこそ、神の御使いが現れ、彼を妨(さまた)げて格闘を挑(いど)んだのです。では、神の御使いは誰が勝つことを望んだのでしょうか。ヤコブが勝つことを望んだのです。同様に、私たちも人生において神の御使いと格闘する時があります。

パウロが「私たちの格闘は血肉(けつにく)に対するものではなく」と言うとき、彼は私たちの戦いが目に見える敵に対するものではないことを強調しています。サタンは戦いを通して私たちを縛(しば)ろうとしますが、この戦いは霊的な次元(じげん)で行われるのです。古代の戦争では、敗者(はいしゃ)はすべてを奪われ、捕虜(ほりょ)となりました。そのため、戦争の結果は人々の運命を左右(さゆう)する重大事(じゅうだいじ)でした。愛する家族や財産(ざいさん)を守れるか、それとも失うかという岐路(きろ)に立たされていたからです。戦争に勝つと、使者(ししゃ)が勝利の知らせを伝えるために走りました。これが、今日のオリンピックマラソンの由来となっています。オリンピックでは、マラソンで勝った者に月桂冠(げっけいかん)が贈(おく)られます。この勝利の知らせをギリシャ語で「ユアンゲリオン」(εὐαγγέλιον, euangélion)、ラテン語で「エヴァンゲリウム」(Evangelium)といい、その意味は「良い知らせ」(good news)です。私たちが使う「福音」(Gospel, good news )は、この勝利の知らせ(Evangelium)から来ています。なぜなら、私たちが伝える知らせは「主が勝利した」という知らせだからです。サタンがこの世界を支配していましたが、キリストはサタンを完全に打ち負(ま)かしました。だからこそ、この「良い知らせ」を私たちは伝えているのです。福音はまさに「勝利の知らせ」なのです。<エペソ書1:20>には、この意味が深く込められています。「この大能の力を神はキリストのうちに働(はたら)かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着(つ)かせて」(エペソ 1:20)。これは、イエス様が地上で完全な勝利を収(おさ)め、その後天に昇り、神様の右側に座(すわ)っておられるということです。この事実は、パウロの証言の中で極めて重要なポイントです。なぜパウロがこの点を強調しているのか、私たちはその意図(いと)をしっかり理解する必要があります。

 パウロの世界観を理解するために、<コリント人への手紙 第二 12章>を見てみましょう。「1 私は誇らずにはいられません。誇っても無益ですが、主の幻と啓示の話に入りましょう。 2 私はキリストにある一人の人を知っています。この人は十四年前に、第三の天にまで引き上げられました。肉体のままであったのか、私は知りません。肉体を離れてであったのか、それも知りません。神がご存じです」(IIコリント 12:1-2)。ここでパウロは「第三の天」について言及しています。では、第三の天とはどこを指しているのでしょうか? 第三の天があるなら、第一の天と第二の天も存在するはずです。それぞれを見ていきましょう。第一の天は、私たちが目にする空、鳥が飛んでいる空(sky)です。第二の天は、その上に広がる空、つまり太陽や月、星々(ほしぼし)がある宇宙(universe)です。そして第三の天は、そのさらに上にある別次元の空を指しています。これはユダヤ人が持っていた世界観であり、ユダヤ人の中でも敬虔(けいけん)な信者(しんじゃ)であったパウロも同様の世界観を持っていました。パウロの証言によれば、この第三の天でキリストとサタンの間に激しい戦いがあり、キリストが勝利を収(おさ)めたということです。

 では、サタンはどのようにして存在するようになったのでしょうか。この問いに対する答えを、私たちは聖書から見出すことができます。<創世記>によると、神様は世界のすべてのものを創造し、その最後に人間という 創造の傑作品(けっさくひん)を美しく造られました。しかし、人間を造る前に、神は天使を創造されました。そして、その天使の一部が堕落しました。その堕落した天使こそがサタンです。<ヨハネの黙示録12章>には、サタンが天から追い出されたことが記されています。「こうして、その大きな竜、すなわち、古い蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれる者、全世界を惑(まど)わす者が地に投(な)げ落(お)とされた。また、彼の使いたちも彼とともに投げ落とされた」(黙示録 12:9)。「投げ落とされた」という表現は、非常に的確(てきかく)です。神は罪を犯した天使たちを容赦(ようしゃ)なく天から追放(ついほう)したのです。 その天使が、悪魔、サタンと呼ばれる者です。サタンは大きな竜であり、古い蛇とも呼ばれます。この「古い蛇」とは、エデンの園でアダムとエバを惑(まど)わした蛇のことです。これがサタンであり、目に見えない敵です。そして、この敵こそが最も恐るべき存在です。
 天使たちが天から追放された理由について、聖書は明確な説明を与えています。<ユダの手紙1章6節>にはこう記されています。「またイエスは、自分の領分(りょうぶん)を守らずに自分のいるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の鎖(くさり)につないで暗闇の下に閉じ込められました。」(ユダ1:6)天使の罪とは、自分の領分(りょうぶん)を守らず、本来いるべき場所を捨てたことです。つまり、これは「高慢」です。天使たちは高ぶり、自分の役割を放棄(ほうき)したのです。この罪については、<イザヤ書14章>と<エゼキエル書28章>にさらに詳しく記されています。
「12 明(あ)けの明星(みょうじょう)、暁(あかつき)の子よ。どうしておまえは天から落ちたのか。国々を打ち破(やぶ)った者よ。どうしておまえは地に切り倒(たお)されたのか。13 おまえは心の中で言った。『私は天に上(のぼ)ろう。神の星々のはるか上に私の王座(おうざ)を上げ、北の果(は)てにある会合(かいごう)の山で座に着こう。14 密雲(みつうん)の頂(いただき)に上(のぼ)り、いと高き方のようになろう。』15 だが、おまえはよみに落とされ、穴の底(そこ)に落とされる」(イザヤ 14:12-15)。
2「人の子よ、ツロの君主に言え。神である主はこう言われる。あなたの心は高ぶり、『私は神だ。海の真ん中で神の座に着いている』と言った。あなたは自分の心を神のように見なしたが、あなたは人であって、神ではない。3 あなたはダニエルよりも知恵があり、どんな秘密もあなたに隠されていない。4 あなたは自分の知恵と英知によって富を築(きず)き、金や銀を宝物倉(たからものくら)に蓄(たくわ)えた。 5 商(あきな)いに多くの知恵を使って富を増(ま)し、あなたの心は富のゆえに高ぶった。6 それゆえ、神である主はこう言う。あなたは自分の心を神の心のように見なした。7それゆえ、わたしは諸国(しょこく)の中で最も横暴(おうぼう)な他国人(たこくじん)を連れて来て、あなたを攻(せ)めさせる。あなたの知恵の麗(うるわ)しさに向かって彼らは剣を抜(ぬ)き、あなたのまばゆい輝きを汚し、8 あなたを滅びの穴に投(な)げ入(い)れる。あなたは海のただ中で刺し殺された者の死を遂(と)げる」(エゼキエル 28:2-8)。
ここで<イザヤ書14章>と<エゼキエル書28章>は、バビロン王とツロの王の高慢をサタン(ルシファー)の高慢に例えています。「私が天に上ろう」という言葉に、その高慢さが如実(にょじつ)に表れています。

 では、天使本来の役割とは何でしょうか。<ヘブル人への手紙1章14節>は、天使の本質的な役割を明確に示しています。「御使いはみな、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになる人々に仕えるために遣(つか)わされているのではありませんか」(ヘブル 1:14)。ここで天使は「奉仕する霊」、つまりしもべとして描(えが)かれています。神は天使をしもべとして創造されたのです。<ヘブル書1章>が書かれた重要な目的の一つは、人間、特にクリスチャンの立場が天使よりも上にあることを示すことでした。これは当時のヘブル人たちにとって、想像を超える世界だったのです。例えば、洗礼者ヨハネの誕生を告げるために天使長がザカリヤに現れた時、ザカリヤは恐れおののきました。なぜなら、天使は神の使いとして畏怖(いふ)の対象(たいしょう)だったからです。しかし、<ヘブル書1章>は、信仰者の中にある権威と価値、そして高貴(こうき)さが天使よりも上であることを教えています。

 神の創造の序列(じょれつ)において、天使は最初に「しもべ」として造られ、その後に人間が「神の子」として創造されました。しかし、一部の天使たちが自らの領分(りょうぶん)を離れ、罪を犯すことになりました。その天使たちが複数(ふくすう)いたことが<黙示録12章>に記されています。「3 また、別のしるしが天に現れた。見よ、炎(ほのお)のように赤い大きな竜。それは、七つの頭と十本の角(つの)を持ち、その頭に七つの王冠(おうかん)をかぶっていた。4 その尾(お)は天の星の三分の一を引き寄せて、それらを地に投げ落とした。また竜は、子を産(う)もうとしている女の前に立ち、産んだら、その子を食べてしまおうとしていた」(黙示録 12:3-4)。この記述(きじゅつ)から、神様が創造した天使の中で三分の一が罪を犯し、天から追放されたことがわかります。彼らは高慢になり、自分を高めようとした結果、追放されました。
キリスト教において、高慢は最も重大(じゅうだい)な罪の一つとされています。主イエスがサタンとの霊的戦いで打ち砕(くだ)いたのは、まさにこの高慢さでした。神の御子が地上に来られた最も重要な使命の一つは、この高慢の罪を裁くことでした。イエス様は自らを無にし、へりくだり、死に至るまで従順になることで、謙遜の極致(きょくち)を示されました。この謙遜こそが、高慢を打ち破る力となったのです。<ピリピ人への手紙2章>はこのことを明確に述べています。「6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従(したが)われました」(ピリピ 2:6-8)。高慢を裁いた究極の力は十字架でした。十字架は謙遜の極みであり、イエスはこの謙遜によって高慢に打ち勝ったのです。長い間この世界を支配してきたサタン、誘惑者(ゆうわくしゃ)であり告発者であり、神の民を蹂躙(じゅうりん)し奴隷にしてきた者を、主は打ち負かしたのです。今や私たちは神の子としての地位を回復しました。しかし、追放された奴隷である闇の勢力、蛇が再び私たちを支配しないよう、警戒(けいかい)しなければなりません。そのためには、闇の勢力と戦うための武具(ぶぐ)が必要です。私たちはこの武具を身に着け、サタンとの戦いに勝つだけでなく、サタンを縛(しば)り、捕(と)らえなければならないのです。お祈りします。Ω

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