礼拝説教

あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい


2025年07月14日

*本文:コロサイ人への手紙 3章1-17節
 
†パウロは、《コロサイ1章》でキリスト論について深く教え、《2章》ではキリストと共に生きる新しい生活について力強く語りました。続けて、《3章》に目を向けてみましょう。

「こういうわけで、あなたがたがキリストとともによみがえらされたのなら…」(コロサイ3:1a)

罪から救われることは、死の世界から生命へと移されることと同義です。パウロは、救われた者たちに「上にあるものを求めなさい」と勧めました。この「上にあるもの」が意味するところを理解するために、私たちはエペソ人への手紙6章に目を向ける必要があります。そこでパウロは、私たちの戦いが血肉に対するものではないと語っています。「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(エペソ 6:12) この御言葉の中に、「上にあるもの」を理解する上で極めて重要な真理が含まれているのです。

人々は「世界観」を持って生きています。この広大な世界には人知を超える神秘が無数に存在するため、人々は絶えず「この世界とは一体何なのか」「その根源的な構造はどのようになっているのか」という深遠な問いを心の内に抱き続けています。そして、この世界の究極の真実を知ろうと、真理を探し求めるのです。聖書は、この世界が神様の創造による壮大な作品であると教えています。神様が造られた世界の構造には、天があり、地があります。それゆえに、私たちはこの「天」が持つ本質的な意味を、正しく理解しなければならないのです。しかし、科学が急速に進歩するにつれて、この「天」という霊的な概念を理解することが、人々にとって次第に困難になっていきました。その結果、人々の心から信仰も失われていったのです。これは、人々が聖書の真理を深く理解していなかったことに起因するのです。

2千年前、使徒はすでに私たちに驚くべき世界観を示してくれました。それによって、私たちは世界の本質を正確に理解することができるようになったのです。聖書の世界観によれば、この世界には地と天が存在します。まず「地」とは、私たちが今立っているこの場所です。しかし、この地上の世界以外にもう一つの世界、すなわち「天」が存在するのです。それは超越的な世界であり、私たちの生に大きな影響を与えています。パウロは《第二コリント12章》で「第三の天」について語りました。「私はキリストにある一人の人を知っています。この人は十四年前に、第三の天にまで引き上げられました。肉体のままであったのか、私は知りません。肉体を離れてであったのか、それも知りません。神がご存じです。」(IIコリント 12:2) ここから、三つの天が存在することが分かります。第一の天は、鳥が飛翔する大気の空間です。第二の天は、太陽と月と星々が存在する宇宙の空間です。そしてその彼方に、神様がおられる天(Heaven)があり、パウロはそこを第三の天と呼んだのです。

パウロは《エペソ書》でこのように語っています。「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(エペソ 6:12) ここでパウロは、第三の天に存在する霊的な世界について語っているのです。この「支配、力」という表現は、《コロサイ2:15》でも用いられています。「様々な支配と権威の武装を解除し、それらをキリストの凱旋の行列に捕虜として加えて、さらしものにされました。」(コロサイ 2:15) この「支配と権威」は天に存在する霊的な秩序と組織を意味する言葉なのです。私たちが生きているこの世界には、私たちに影響を及ぼし、誘惑する霊的な力が存在しています。パウロはこれを「空中の権威を持つ支配者(the ruler of the kingdom of the air)」と表現しました。「かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。」(エペソ 2:2)

では、天の御国(霊的世界)はどのような構造を持っているのでしょうか。そこには霊的な存在があり、それらは位階(Hierarchy)と組織を形成しています。本来、御使いたちは神様に仕える霊として創造されました(ヘブル 1:14)。しかし、その仕える霊の一部が、天の座に上ろうとして自らを高めることで、変質してしまったのです。《ユダの手紙》にには、自分の領分を守らず、自分のいるべき場所を捨てた御使いたちの存在について記されています(ユダ 1:6)。《ヨハネの黙示録》にには、さらに詳しい記述があります。高慢の罪に陥り、神様の定められた霊的秩序から逸脱した群れがあり、彼らは天から追放されたのです。驚くべきことに、その数は三分の一にも及びました。「その尾は天の星の三分の一を引き寄せて、それらを地に投げ落とした。また竜は、子を産もうとしている女の前に立ち、産んだら、その子を食べてしまおうとしていた。」(黙示録 12:4) このように多くの天使の群れが離反したのですから、実に恐ろしいことです。

「まず強い者を縛り上げるのでなければ、強い者の家に入って家財を奪い取ることが、どうしてできるでしょうか。縛り上げれば、その家を略奪できます」(マタイ 12:29)とイエス様は語られました。この「強い者を縛り上げる」とは、霊的な力を縛り上げることを意味します。祈りに携わる者は、この霊的世界の現実をよく理解しなければなりません。人々を霊的な鎖で縛り付けている背後の強い者、すなわち霊的な力を捕らえることによってのみ、私たちは誘惑と攻撃と干渉というあらゆる霊的な束縛から真の解放を経験することができるのです。

《コロサイ3章》の内容を理解するためには、まず《2章の最後の節》に目を向ける必要があります。

「これらの定めは、人間の好き勝手な礼拝、自己卑下、肉体の苦行のゆえに知恵のあることのように見えますが、何の価値もなく、肉を満足させるだけです。」(コロサイ2:23)

この言葉は、ギリシャ哲学に見られる過度な禁欲主義から距離を置くように諭しています。私たちは既にキリストを知り、救いを得て、新しい命と天国への希望を持つ者とされました。それゆえに、私たちは「上にあるもの」を求めながら日々を歩んでいくべきなのです。

「1b …上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。2 上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。」(コロサイ3:1b-2)

「上にあるもの」には二つの意味が込められています。第一に、この地上のすべてに打ち勝ち、天に昇られ、神の御座の右側に座しておられる勝利者キリストを表しています。第二に、主イエスの昇天後に私たちに遣わされた聖霊を指しています。このように「上にあるもの」とは、勝利者キリストと聖霊を意味します。すなわち三位一体を表現しているのです。私たちクリスチャンは、魔術や神秘主義に惑わされて悪しき霊を呼び出したり、追い求めたりするのではなく、ただ上にあるものだけを慕い求めるべきなのです。これは極めて重要な教えといえます。

主はこの地上に来られ、勝利のうちに天に昇られ、神の右側に座しておられます。これは「天の御座」を表し、この「御座」は権威と統治の象徴です。すなわち、主が天地を支配する権威をもって、この世界と歴史の全てを治めておられるということを示しています。パウロは私たちに、天の御座に座しておられる主だけを仰ぎ見るように勧めています。そして、上にあるものを常に思い巡らし、地上のものに心を奪われてはならないと教えているのです。

「あなたがたはすでに死んでいて、あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのです。」(コロサイ3:3)

私たちは、罪に対して死に、恵みと愛によって生かされた者たちです。パウロはここで「キリストとともに神様のうちに隠されている」と語っています。これは、私たちが義とされ、御子の地位を得ながらも、その地位が世の目からは覆い隠されているという意味です。言い換えれば、救われた者たちの姿が、外見上は世の人々と何ら変わらないものとして映るということです。「義認」とは地位の変化を指します。私たちは罪に支配された世界の中にありながら、恵みによって選び出され、義とされ、その地位が変えられて神様の子とされました。しかし、サタンは私たちを誘惑する際、まさにこの子としてのアイデンティティという核心を激しく揺さぶろうとします。なぜなら、私たちのアイデンティティが世の目からは隠されているからです。イエス様が三つの試練を受けられた際も、サタンの放った鋭い短剣のような攻撃は「あなたが神の子なら」という言葉でした。しかし、私たちは既に神の子とされています。この真理こそが、私たちの内に隠された最も力強い武器となるのです。

2千年前、「神の子」という称号は、ローマ皇帝やその皇子に対して用いられる言葉でした。そのため、当時において「神の子」という表現を公に掲げることは、容易ならざる事でした。しかし、私たちの救われた者としてのアイデンティティは、まさに神の子なのです。神の子としての地位は隠された特権であり、私たちは子としての権威を持つ者とされています。

「あなたがたのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに栄光のうちに現れます。」(コロサイ3:4)
復活の時と裁きの時が来ます。キリストの顕現は、裁きの時を意味します。歴史は全てを決算する審判の時へと確実に進んでいるのです。それは、羊飼いが羊と山羊を区別し、農夫が麦と毒麦を選り分けるように、主が正しく裁かれる時となるのです。

「ですから、地にあるからだの部分、…殺してしまいなさい。」(コロサイ3: 5a)

私たちの戦いは、目に見える血肉に対するものではなく、天にある悪しき霊に対するものであることが明らかにされました。それゆえパウロは、地上のことに心を奪われず、地にある肉の部分を徹底的に殺すように勧めているのです。私たちは確かに救いに与りましたが、なお救われる前の古い習慣を引きずっています。そのため、罪の衣を脱ぎ捨て、聖化の過程を歩まねばなりません。救いとは、義とされ、聖化されていく道のりなのです。私たちは神の子とされましたが、まだ古い衣をまとったままの状態にあります。ですから、この古い衣を脱ぎ捨て、新しい衣に着替える必要があるのです。パウロはこの過程を、あいまいな表現を避け、極めて論理的かつ整然と説き明かしています。私たちが十分に理解できるように、まさに最高の教師としての力量を示しているのです。

《5節》の「地にあるからだの部分を殺してしまいなさい」(コロサイ3:5)という表現は、非常に鋭い衝撃を与える言葉です。これは、徹底的な決別を迫る強い表現なのです。「罪に対して死んだ者..だと、認めなさい」(ローマ6:11)、また「あらゆる形の悪から離れなさい」(Ⅰテサロニケ5:22)というように、聖書は繰り返しこの真理を語っています。この「殺してしまいなさい」という強い表現は、より穏やかな言葉で言い換えれば、「脱ぎ捨てなさい」という意味を持っているのです。

「…すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。」(コロサイ3:5b)

ここには、私たちが清算すべき罪のリストが詳細に記されています。これらの罪は、六つに分類することも、また貪欲を偶像礼拝として捉えれば五つに整理することもできます。さらに大きな枠組みでは、淫らな行いと貪欲という二つの範疇に集約されます。この世における性的な誘惑の数々は、主の民を汚し、洗脳し、惑わす「蛇の文化」と呼ぶべきものです。それは誘惑の文化であり、世の様々な文化が私たちを罪へと引き込もうとします。その根底には常に性的な誘惑が潜んでいるのです。私たちはこの「蛇の文化」との断固たる決別を迫られているのです。

聖書は罪について、極めて明確かつ具体的な教えを示しています。罪の本質的な原因や根源、そして誘惑の主体である悪魔について、詳細な説明を与えているのです。パウロは私たちの内にある様々な罪を取り上げていますが、その中でも性的な罪を特に重要な問題として指摘しています。性的な誘惑は、まるで蛇のように私たちを巧みに絡め取り、その罠へと引き込もうとするのです。

《5節》の罪のリストを見ると、「淫らな行い」は性的な誘惑と欲望の行為を指し、「汚れ」はより広義の不当な罪を総称しています。また情欲は、他者のものを我が物にしようとする欲望を意味しています。十戒において「姦淫してはならない」とは愛を奪ってはならないという戒めであり、「殺してはならない」とは命を奪ってはならないという戒めです。そして「盗んではならない」とは、物質を奪ってはならないという戒めなのです。これらすべての罪は欲望から生まれます。悪しき欲もまた、他者を欺いて強引に奪い取り、自分のものにしようとする貪欲から生じているのです。そしてこのような貪欲は、最終的に偶像崇拝へと至るのです。

偶像の中で最も代表的なものは「マモン」(Mammon)です。モーセが神の御言葉を受けるために四十日の断食をしてシナイ山に登りました。彼が山から下りる前に、イスラエルの民は金の子牛を作り上げました。今日もなお、この貪欲を象徴するものが存在しています。その象徴的な例として、ニューヨークのウォール街入り口に設置された雄牛像(The Charging Bull)を挙げることができます。雄牛は伝統的に金融市場における「上げ相場」(bull market)を象徴する動物です。経済用語において上げ相場とは、経済が力強く、成長が持続する時期を意味します。しかし、人は神様を見失うと、物質の奴隷と化してしまいます。物質の奴隷となった人間は、他者のものを奪い取り、さらに多くを得ようとする欲望に支配されます。これこそが貪欲の本質なのです。

十戒の第十の戒めには「あなたの隣人の家を欲してはならない。あなたの隣人の妻、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを欲してはならない」と記されています。これは貪欲に関する戒めです。貪欲は人の心の内から湧き起こる罪なのです。貪欲に対する主の教えは、さらに厳格なものでした。例えば姦淫の場合、律法では実際の行為に及んだ時に罪として定められ、罰せられましたが、主は心の中に潜む罪こそがより重要であり、それを清算しなければならないと教えられました。「しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです」(マタイ5:28)。この言葉は、罪の本質が外面的な行為だけでなく、内なる心の問題であることを鋭く指摘しているのです。

「6 これらのために、神の怒りが不従順の子らの上に下ります。7 あなたがたも以前は、そのようなものの中に生き、そのような歩みをしていました。8 しかし今は、これらすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、ののしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを捨てなさい。9 互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは古い人をその行いとともに脱ぎ捨てて、」(コロサイ 3:6-9)

パウロは私たちが脱ぎ捨てるべき汚れた衣について、さらなる指摘を続けています。《ローマ3章》では、堕落した人間の口を「開いた墓」と表現しました。「彼らの喉は開いた墓。彼らはその舌で欺く。彼らの唇の下にはまむしの毒がある。」(ローマ3:13) 当時の墓は洞窟の形をしており、死体を納めた後、大きな石で封印していました。ここでいう「開いた墓」とは、その内部に死んだ骨が露わになった醜い状態を意味します。つまり、口を開くたびに邪悪な言葉を吐き、人を誹謗中傷し、傷つけ、破壊する罪人の姿が、まさに開かれた墓そのものだというのです。使徒ヤコブもまた「舌は火です。不義の世界です」(ヤコブ3:6)と語りました。私たちは、あらゆる不和を引き起こす悪しき言葉を徹底的に脱ぎ捨てなければならないのです。パウロはこのように、深い愛をもってコロサイの教会に教えを伝えているのです。

「新しい人を着たのです。新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされ続け、真の知識に至ります。」(コロサイ 3:10)

パウロはコロサイの信徒たちに、彼らが既に新しい衣を着せられた者たちであると語りかけました。この箇所を読んだ信徒たちは、おそらく自らの心を強く揺さぶられたことでしょう。ここまで私たちは、古い行いについて学んできました。その古い行いは、汚れた衣のようなものです。聖書において、衣は常に行いの象徴として用いられています。《黙示録19:8》に「その亜麻布とは、聖徒たちの正しい行いである」という言葉が示すように、衣は私たちの行いを表す重要な象徴なのです。

「そこには、ギリシア人もユダヤ人もなく、割礼のある者もない者も、未開の人も、スキタイ人も、奴隷も自由人もありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。」(コロサイ3:11)

救いには一切の差別がありません。聖霊は全ての肉体に、男女の別なく注がれました。キリストを知る高尚な知識を得ることにも、何の差別も存在しないのです。

「ですから、あなたがたは神様に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、…」(コロサイ3:12a)

コロサイの信徒たちは、選民から見れば異邦人でした。しかしパウロは、愛すべきコロサイの信徒たちに、「あなたがたは異邦人でありながら、今や神様に選ばれた聖なる民となった」と語りかけています。11節と12節の言葉は密接につながっています。差別のない恵みによって、コロサイの信徒たちは救いに与り、神様に選ばれた聖なる民とされたのです。彼らは主の美徳を宣べ伝えるために「選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民」となったのです(Iペテロ 2:9)。

神様は選民イスラエルを選び、聖別し、愛し、育ててくださいました。今やコロサイの信徒たちも、そして私たちも同様に、神様に選ばれた民とされています。神様は私たちをも選び出し、責められるところのない者として聖別し、今もなお私たちを深い愛で包んでくださっているのです。

「…深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。」(コロサイ3:12b)

あなたがたは神様の選ばれた聖なる愛された者なのだから、新しい衣を身にまとうようにという勧めです。パウロは初めに五つの邪悪な行いを脱ぎ捨てるように命じ、その後でクリスチャンの五つの善き品性を身につけるように勧めています。クリスチャンのこれらの品性は、私たちがキリストに似た者とされる時に初めて持つことができるものです。キリストは私たちに対して、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を示してくださいました。これこそ主が私たちに示された心であり、私たちもまた主の心に倣って生きていくべきなのです。

深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容には、それぞれ辞書的な定義が存在します。しかしパウロが私たちに求めているのは、それらの言葉の字義的な意味を超えて、その本質的な意味を理解することです。主イエスが私たちに示してくださった世界を知る時、初めてこれらの善き性質の真の意味を理解できるようになるのです。パウロは、唯一の善き方である主の品性に倣って生きるようにと、私たちに呼びかけているのです。

「13 互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。14 そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。」(コロサイ3:13-14)

衣服は帯によって完全な姿となるように、聖徒の行いの中で最も完全な姿は、互いに忍耐し合い、赦し合うことにあります。そして、全ての行いの上に愛を加えて生きることが、キリストの品性に完全に倣うことなのです。愛は、衣服を完璧に結び合わせる帯のような働きをするのです。

「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのために、あなたがたも召されて一つのからだとなったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。」(コロサイ3:15)

ここで使徒が語る平和は、ローマの平和とは異なるものです。それは恵みによって実現する世界なのです。選民が歴史を通じて切に望み続けてきたのは、まさにこの真の平和の世界でした。私たちは平和の使徒であり、平和の民とされています。それゆえに、この平和に対して感謝する者とならなければなりません。パックス・ロマーナ(Pax Romana)の時代、ローマ帝国の民は野蛮な無秩序の世界ではなく、法と秩序ある文明化された世界に生きていることを誇りとし、ローマの平和を享受できることを大いなる恩恵として感謝していました。しかしパウロは、そのような力と支配による外面的な平和ではなく、キリストの内にある真の平和を享受する民こそが、真に感謝する者であるべきだとだと教えているのです。

「キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、…」(コロサイ3:16a)
私たちは絶えず霊的な養分を供給される必要があります。今の時代は、アモスの預言の通り「パンに飢えるのではなく、水に渇くのでもない。むしろ、主のことばを聞くことの飢饉の時代」となっています。多くの若者が方向を見失ってさまよう時代です。邪悪な文化と偽りの哲学、欺瞞に惑わされ、彷徨うこの時代にあって、主は私たちを救い出し、豊かな御言葉を与えてくださり、緑豊かな草原と安らかな水辺へと導いてくださいました。パウロはまた、この豊かな御言葉を互いに教え、忠告し合うようにと勧めています

「16b …詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。17 ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名において行いなさい。」(コロサイ 3:16b-17)

実は、使徒たちが私たちに示す最も崇高な人生の境地とは、感謝することなのです。パウロはコロサイの信徒たちに、真理と愛を深く悟り、日々感謝に満ちた生活を送るように諭しています。私たちも共に、この御言葉に従って歩む者となりましょう。お祈りします。Ω
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The steadfast love of the Lord never ceases His mercies never come to an end They are new every...

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