2025年01月06日
*本文: エペソ人への手紙6章17-24
†今日は<エペソ人への手紙>の最後の部分を見ようと思います。使徒パウロが「すべての武具を身につけなさい」と言いながら、6つの武具で武装するように勧めています。前回まで「真理の帯(おび)、正義の胸当て、足に平和の福音の備え、そして信仰の盾(たて)まで4つの武具を見ましたが、今日は残りの2つを見ようと思います。
「救いのかぶとをかぶり、…」(エペソ 6:17a)。
使徒パウロは次に「救いのかぶと」について語っています。戦いにおいて、かぶとは最も重要な防具(ぼうぐ)です。なぜなら、頭部(とうぶ)への一撃(いちげき)は致命的(ちめいてき)となるからです。体の他の部分も大切ですが、頭部の防御(ぼうぎょ)は生死(せいし)を分ける最も重要な要素(ようそ)となります。パウロはここで信仰(信仰の盾(たて))と救い(救いのかぶと)を並列(へいれつ)して語っています。このかぶとは希望を象徴するものです。<第一コリント人への手紙13章>でも、信仰と希望と愛が永遠のものとして並べて語られています。
古代の兵士たちは、全ての鎧(よろい)を身に着けた後、最後にかぶとを被(かぶ)りました。ですから、私たちにとっても、武具の中で最も重要で最後に身につけるべきものがかぶとなのです。これは単なる防具ではなく、サタン、悪魔の攻撃から私たちを守る霊的な防護膜(ぼうごまく)なのです。
救いのかぶとの意味をより深く理解するために、<ローマ書8章>を見てみましょう。「23 それだけでなく、御霊の初穂(はつほ)をいただいている私たち自身(じしん)も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。24 私たちは、この望みとともに救われたのです。目に見える望みは望みではありません。目で見ているものを、だれが望むでしょうか」(ローマ 8:23-24)。この御言葉は、救いが希望と密接(みっせつ)に結びついていることを教えています。ここでは「待ち望む」という表現が使われていますが、これは私たちの救いが「すでに(Already)」と「まだ(Not yet)」という二つの側面(そくめん)を持っていることを示しています。私たちはすでに義と認められ、恵みによって救われています。これが「すでに」の部分です。しかし、聖化(Sanctification)という側面は「まだ」の部分として残されています。エペソ書の冒頭(ぼうとう)で語られているように、私たちは信仰と知識において一つとなるべきだと言っています。そして、私たちがキリストの満ち満ちた身丈(みたけ)にまで達する日が来るのです。これが未来に向けた希望です。このように、私たちには既(すで)に受けた救いと、希望をもって待ち望む救いの両方(りょうほう)があります。だからこそ、私たちは希望という救いのかぶとを被(かぶ)る必要があるのです。<第一テサロニケ人への手紙>でも同様の教えが見られます。「しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛の胸当てを着(つ)け、救いの望みというかぶとをかぶり、身を慎(つつし)んでいましょう」(Ⅰテサロニケ 5:8)。ここでも注目すべきは信仰、希望、愛の三つが全て含まれていることです。これがパウロがテサロニケの聖徒たちに教えた「すべての武具(全身甲胄)」の本質なのです。
私たちは神様の統治と主権と力を信頼します。これが私たちの内にある信仰の本質です。戦いは誰のものでしょうか。ダビデは「この戦いは主の戦いだ」という確固(かっこ)たる信念を持っていました。全能の神様がこの戦いの勝敗(しょうはい)を決める主権者であることを、彼は深く信じていたのです。ダビデがゴリアテを倒(たお)したのは、単なる石投(な)げの技術や力によるものではありません。信仰の人が振り回したその石こそが信仰でした。この信仰の力によって、巨人ゴリアテは倒(たお)れたのです。
イスラエルの民が抱(かか)えていた最大の問題は何だったのでしょうか。それは、絶えずエジプトを懐(なつ)かしむ心でした。約束の地を見据(みす)えることができない彼らの姿勢が問題だったのです。私たちが出エジプトの物語を読むとき、そこに信仰の道を歩む私たち自身の姿を見ることができます。彼らは希望を完全に失ってしまいました。これが最も深刻(しんこく)な問題だったのです。私たちが希望を失った時こそ、サタンは攻(せ)め込んできます。「あなたには未来がない。あなたの進む道は間違っている。あなたたちの夢は虚(むな)しい」と、サタンはささやくのです。
パウロの偉大な手紙は、常に現在の状況を私たちに知らせ、私たちが向かうべき方向を示してくれます。そして今の立ち位置を明確にしてくれます。さらに、私たちを慰めてくれます。最も重要な慰めは、「私がどこに立ち、どこへ向かい、なぜその方向(ほうこう)を見据(みす)えているのか」を教えてくれることです。これこそが希望なのです。使徒ペテロは「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明(べんめい)できる用意をしていなさい」と語っています(Ⅰペテロ 3:15)。私たちが勝利を得るためには、希望を失わず、カナンの地を見据え続けなければなりません。正しい方向性が極めて重要なのです。<ヨハネの福音書21章>には、一晩中漁(ひとばんじゅうりょう)をしても一匹も捕(と)れなかった弟子たちの話が記(しる)されています。しかし、イエス様が「船の右側に網(あみ)を打(う)ちなさい」と正しい方向を示されると、網が裂(さ)けるほどの魚が捕れたのです。このように、方向性が決定的に重要なのです。私たちにも、進むべき方向を常に示してくれる存在が必要です。
<ヘブル人への手紙11章>の信仰の章には、「さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです」(ヘブル 11:1)という御言葉があります。ここでいう「望んでいること」とは未来のことです。私たちは既に救われていますが、なお希望に向かって歩み続けているのです。私たちには過去があり、現在があり、そして未来があります。「すでに」と「まだ」の間に生きる私たちが希望を失わないのは、信仰があるからです。信仰は、望んでいることを今日において確実(かくじつ)なものとします。言い換えれば、信仰とは未来の事柄(ことがら)を今日に先取りする力なのです。未来に起こることを今日の現実として私たちの前に持ってくる——それが信仰の力なのです。
サタンは私たちの内にある希望を揺(ゆ)るがし、混乱(こんらん)させ、正しい方向から逸(そ)らそうとします。しかし、希望を確かなものとすることができるのは信仰です。信仰とは、未来のことを既に実現したものとして信じることです。私たちの天国への希望がまさにそうです。私たちは希望の中で救われたのであり、そこに信仰と希望の密接な繋(つな)がりがあるのです。
ですから、皆さん、信仰の盾(たて)と救いのかぶとを身に着けましょう。どのような状況に直面しても、将来への希望を失わず、主を見上げ続けましょう。<ヘブル書12章>が「イエスから目を離さないでいなさい」と教えているように、人生に苦難(くなん)や患難(かんなん)が訪(おとず)れても、天国と神の国への希望を持ち続けましょう。皆さんの人生は、カナの婚礼(こんれい)のように、日に日により良いぶどう酒をもたらすでしょう。たとえサタンが私たちの希望を覆(おお)い隠そうとしても、私たちは希望というかぶとをかぶって、この霊的な戦いに立ち向かわなければなりません。
「…御霊の剣(つるぎ)、すなわち神のことばを取りなさい」(エペソ 6:17b)
最後に、使徒パウロは6番目の武具として「御霊の剣を取りなさい」と語っています。パウロは救いのかぶとと御霊の剣を対にしました。かぶとが防御的(ぼうぎょてき)な性質を持つのに対し、御霊の剣はより攻撃的(こうげきてき)な性質を持ちます。イエス様が最後の時に「あなたがたは上着を売って剣を買いなさい」と言われたことは、この武具の重要性を示しています。なぜ私たちに御霊の剣が必要なのでしょうか。それは、私たちが聖化(Sanctification)の道を自力(じりき)では歩めないからです。私たちには聖霊の助けが絶対に必要なのです。私たちの聖化の過程は、決して自分の力によってなされるものではありません。これは聖霊の力によってのみ可能となるのです。この地上で自分の能力によって完成に至ることができると主張するすべての教えは、偽りであり偽善(ぎぜん)です。人間は自分自身を救うことはできません。これを人間性への悲観的な解釈として非難する者もいるでしょうが、これこそが人間の本質を最も正確に表現した言葉なのです。
イエスは十字架への道を前にして、<ヨハネの福音書16章>でこう語られました。「しかし、わたしは真実(しんじつ)を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣(つか)わします」(ヨハネ 16:7)。これは「わたしが行けば、聖霊があなたがたに来られるので、わたしが行くことがあなたがたに有益(ゆうえき)である」という意味です。聖霊は真理の霊です。それゆえ、聖霊は私たちの内に来て、すべての真理を教えてくださいます。だからこそ、聖霊の剣は真理の剣なのです。聖霊は私たちにこの真理の剣を与えるだけでなく、私たちを一つに結び合わせ、主の愛を思い起こさせてくださいます。真理は鋭(するど)い剣であり、光です。どんな暗闇も光に打ち勝つことはできません。使徒パウロは、聖霊が私たちに真理の剣を与えてくださるがゆえに、私たちの勝利は確実(かくじつ)であると語っているのです。
これで、すべての武具(全身甲冑)を構成(こうせい)する6(む)つの武具すべてについての説明が終わりました。
「あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。」(エペソ 6:18)
皆さん、常時(じょうじ)の祈りをしてください。祈りには、時間を定めない「常時の祈り」と、決まった時間に行う「定時の祈り」の2つがあります。聖書は「あらゆる祈りと願いによって、御霊によっていつも祈りなさい」と教えています。そして、その祈りは自分のためだけでなく、すべての聖徒のためにもささげるべきだと説いています。
「また、私のためにも、私が口を開くときに語るべきことばが与えられて、福音の奥義を大胆に知らせることができるように、祈ってください。」(エペソ 6:19)
使徒は、「私のためにも祈ってください」とお願いしています。 そして、私が口を開くとき、語るべきことばを語れるように祈ってほしいと。パウロのこの祈りの要請(ようせい)には、2つの重要な焦点があります。1)ただ、主の福音の奥義を伝えることができるように。2)語るべきことを大胆に語ることができるように。
「私はこの福音のために、鎖(くさり)につながれながらも使節(しせつ)の務(つと)めを果たしています。宣べ伝える際、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。」(エペソ 6:20)
使徒は、自身が鎖につながれているにもかかわらず、大胆に福音を伝えるための祈りを求めています。閉じ込められた状況では、絶望に陥りがちです。しかし、パウロはその逆(ぎゃく)でした。彼は神の国の希望を失うことなく、より大胆に福音を宣べ伝えることを願い続けました。
次は<エペソ書>の最後の挨拶です。この挨拶をもって手紙が締めくくられます。
「私の様子(ようす)や私が何をしているかを、あなたがたにも分かってもらうために、…」(エペソ 6: 21a)
ここで使徒は、自分の状況や行動をエペソ教会に知らせたいと語っています。教会には三つの重要な要素(ようそ)、すなわちケリグマ(Kerygma:御言葉の宣布(せんぷ))、コイノニア(Koinonia:交わり)、ディアコニア(Diakonia:奉仕)があります。特に教会には交わりがあり、互いの事情を分かち合いながら生きることが極めて重要なのです。
「…愛する兄弟、主にある忠実(ちゅうじつ)な奉仕者であるティキコがすべてを知らせます。」(エペソ 6: 21b)
この箇所で言及されているティキコ(Τυχικός, Tychicus, トゥキコス)という人物は、パウロの信頼すべき同労者(どうろうしゃ)でした。実際、彼は監禁(かんきん)されていたパウロの手紙をエペソ教会に届(とど)けるという重要な役割を担(にな)った人物です。<使徒の働き20章>によると、彼はエルサレム教会への献金を携(たずさ)えて行った7人の地域(ちいき)代表の一人でした。特にエペソ教会のあるアジア地域において、最も信頼できる代表として選ばれた人物であり、パウロの忠実な友人(ゆうじん)であり護衛(ごえい)(escort)のような役割も果(は)たしました。彼は、パウロにとって大切な存在で、後に『第一テモテへの手紙』や『コロサイ人への手紙』も彼を通じて届けられています。ティキコの名前は、聖書の中で5回登場しています(使徒の働き20章4節、コロサイ書4章7-8節、第二テモテ4章12節、テトス書3章12節、エペソ書6章21節)。彼の名前の意味は「良(よ)き幸運(こううん)(good fortune)」であり、彼は投獄(とうごく)されていたパウロの状況を教会に伝え、多くの人々に喜びをもたらしました。パウロがこのように自分の状況を教会に伝えようとした姿勢は、現代の私たちの教会も見習うべき模範(もはん)といえるでしょう。
「ティキコをあなたがたのもとに遣わすのは、ほかでもなく、あなたがたが私たちの様子を知って、心に励(はげ)ましを受けるためです。」(エペソ 6: 22)
パウロがティキコを送った理由は、1)私たちの様子を知らせるため、2)あなたがたが励ましを受けるためだと語っています。しかし、鎖(くさり)につながれたパウロが、どうして自由な者を励ますことができるのでしょうか。それは、パウロの内に豊かな恵みと平安が満ちあふれていたからこそ可能だったのです。この恵みによって、彼には他者(たしゃ)を励ます力が満ちていました。「あなたがたが励ましを受けるため!」という言葉には、パウロの心が込められています。私たちもこの心を持ち、このような生き方を学ばなければなりません。私たちはカインのように自分の城を築(きず)いてその中に閉じこもるのではなく、キリストにあって互いの様子と事情を分かち合い、慰め合いながら生きていく必要があります。教会は、まさにそのような場所であるべきです。
皆さんはどのようにして、主の喜びを味わっているでしょうか。良い知らせとは、冷たい朝の水で喉を潤(うるお)すようなものであり、疲れた旅の兵士に伝えられる勝利の知らせのようなものです。私たちは互いに励まし合い、人生と働き、そして私たちの事情を分かち合いながら生きる必要があります。人生には喜びも、苦しみも、落胆することもありますが、それらをすべて分かち合いながら共に歩んでいくことが大切です。ティキコがいなければ、パウロの崇高(すうこう)な精神(せいしん)と美しい心、そして驚くべき救済論(きゅうさいろん)と教会論を基礎(きそ)づけるすべての知識、そしてこのエペソ書は、私たちに伝わることはなかったでしょう。私たちがこの手紙を読めることは、本当に幸いなことです。
「23 信仰に伴(ともな)う、平安と愛が、父なる神と主イエス・キリストから、兄弟たちにありますように。24 朽(く)ちることのない愛をもって私たちの主イエス・キリストを愛する、すべての人とともに、恵みがありますように。」(エペソ 6:23-24)
この最後の祈りは「恵み」で締めくくられていますが、まず「平安」について語られています。これは「恵みと平安(Grace & Peace)」という順序(じゅんじょ)に深い意味があります。真の平安は、神の恵みによってもたらされるものだからです。平安の中にいるパウロが、エペソ教会への最後の言葉として「愛する、すべての人とともに、恵みがありますように」と記して、この偉大な手紙は終わります。今年最初の主日礼拝のこの御言葉を胸に刻(きざ)み、力強く歩みましょう。お祈りします。Ω