2025年01月19日
“あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています”
*本文: ピリピ人への手紙1章1-11節
†今日からは、パウロの獄中書簡の一つである《ピリピ人への手紙》を詳しく見ていきたいと思います。パウロの獄中書簡(ごくちゅうしょかん)は、<エペソ>、<ピリピ>、<コロサイ>、<ピレモン>の四つの手紙から成り立っています。これらの中で執筆順序(しっぴつじゅんじょ)としては、《コロサイ人への手紙》が最初に書かれましたが、聖書における配列(はいれつ)では、<エペソ>、<ピリピ>、<コロサイ>の順となっています。ピリピ教会の特徴として、パウロが直接伝道を行った教会であることが挙げられます。これは、彼が直接伝道しなかったコロサイ教会とは異なる重要な点です。
ピリピ書は紀元(きげん)62年頃に書かれたと考えられています。ピリピという都市への伝道の詳細(しょうさい)は、《使徒の働き16章》に記されています。この手紙が書かれた背景(はいけい)について少し見てみましょう。パウロがローマに連行(れんこう)され、投獄(とうごく)されたという知らせを聞いたピリピの信徒たちは、彼の身を案(あん)じたことでしょう。しかし興味深いことに、パウロは自身の境遇(きょうぐう)よりも、むしろ自分を案じる信徒たちのことを心配したのです。この手紙は、他の獄中書簡と同様、当時のキリストの教会を慰め、励ますために書かれました。ここには、使徒パウロと彼が開拓した教会の聖徒たちとの間に育(はぐく)まれた、深く強固(きょうこ)な愛の絆(きずな)が鮮(あざ)やかに描(か)き出されています。
ピリピの信徒たちは、パウロの投獄の知らせに大きな衝撃(しょうげき)を受けました。彼らは、パウロが凱旋将軍(がいせんしょうぐん)のようにローマに堂々と入城(にゅうじょう)し、力強く福音を宣べ伝えているものと期待していたからです。実際、パウロ自身もローマ書で語っていたように、福音が当時の地の果(は)てとされるイスパニア(スペイン)にまで届くと信じていました。しかし、彼が監禁(かんきん)されたという知らせが届いたのです。ローマとピリピの間には、途方(とほう)もない距離が横(よこ)たわっていました。マケドニアの主要都市であったピリピは、ローマから約2000キロも離れており、最短ルートでも1800キロほどの距離がありました。当時の移動手段(いどうしゅだん)では、最も急いだとしても40日ほどを要(よう)する行程(こうてい)でした。幸いにも、パウロが収監(しゅうかん)された環境(かんきょう)は比較(ひかく)的緩(ゆる)やかなものでした。《使徒の働き28章》に記されているように、パウロは人々と面会し、福音を教えることもできました。いわば軟禁(なんきん)状態に近い環境でした。ただし、「私はこの福音のために、鎖(くさり)につながれながらも使節(しせつ)の務(つと)めを果たしています」(エペソ 6:20)という彼の言葉から、実際には鎖で拘束(こうそく)されていたことがわかります。
この悲報(ひほう)を受けたピリピの教会は、即座(そくざ)に行動を起こしました。彼らは教会員の中からエパフロディトを選び、パウロの必要を満たすための資金(しきん)と物資(ぶっし)を託(たく)して送り出しました。パウロは後に彼について、「私の兄弟、同労者(どうろうしゃ)、戦友(せんゆう)であり、あなたがたの使者(ししゃ)で、私の必要に仕えてくれたエパフロディト」(ピリピ 2:25)と高く評価(ひょうか)しています。この出来事からは、初代教会における深い愛と強い絆(きずな)、そして交わりの実態(じったい)を見ることができます。パウロは、この《ピリピ書》をエパフロディトに託して送り返しました。《ピリピ書2章》では、パウロの二人の親(した)しい同労者についての言及があります。パウロはテモテを近いうちに派遣(はけん)する意向(いこう)を示しながらも、まずはエパフロディトを急いで送り返すことを告(つ)げています。
それでは、《ピリピ書》を見ていきましょう。
「キリスト・イエスのしもべである、パウロとテモテから、ピリピにいる、キリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、ならびに監督たちと執事たちへ」(ピリピ 1:1)
この手紙には、パウロの他の書簡に見られる「使徒となったパウロ」という自己紹介の言葉が含まれていません。これは、ピリピ教会がパウロの使徒性を全面的に受け入れていたことを示しています。ガラテヤ、アガヤ、アジアの諸(しょ)教会では、偽教師(にせきょうし)たちがパウロの使徒としての権威(けんい)に挑戦を続けていました(この詳細はガラテヤ書講解で見てきました。)しかし、ピリピ教会では、パウロの使徒性を特に強調する必要がないほど、彼に対する深い信頼と尊敬が確立していたのです。
《使徒の働き16章》には、パウロのピリピ伝道の出発点となった印象的(いんしょうてき)な場面が記されています。幻の中でマケドニアの人が現れ、「渡って来て、私たちを助けてほしい」とパウロに懇願(こんがん)しました。「9 その夜、パウロは幻を見た。一人のマケドニア人が立って、『マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください』と懇願するのであった。10 パウロがこの幻を見たとき、私たちはただ(直)ちにマケドニアに渡ることにした。彼らに福音を宣べ伝えるために、神が私たちを召しておられるのだと確信したからである」(使徒 16:9-10)。この幻に現れた人物は、非常に大きな影響力(えいきょうりょく)を持つ人物だったように思われます。いったい誰だったのでしょうか?幻に現れた「マケドニア人」について、多くの研究者は歴史上最も著名(ちょめい)なマケドニア人であるアレキサンダー大王(Alexander the Great)ではないかと推測(すいそく)しています。アレキサンダー大王は、ローマ帝国以前のヘレニズム時代に、ヨーロッパに巨大な帝国を築(きず)き上げた傑出(けっしゅつ)した指導者でした。この幻を見たパウロは、神の導きに従ってマケドニアに渡り、ピリピでの伝道を開始(かいし)しました。ピリピという都市の名称(めいしょう)には、興味深い由来があります。アレキサンダー大王がこの地を征服(せいふく)した後、自身の父であるマケドニアの王、フィリップ2世(Phillip II)を記念してこの都市に「ピリピ」という名(な)を付けたのです。
パウロが最初にピリピを訪れた時、その都市にはユダヤ人がほとんどいませんでした。ユダヤ人の伝統では、成人男性が10人以上いれば会堂を建てることができましたが、ピリピにはその数さえ満たしていなかったため、会堂は存在しませんでした。一般的に、ユダヤ人は紀元後70年のディアスポラ(離散)によってヨーロッパ全域とアジアに散(ち)らばって暮らしていたため、各地に存在していたはずでした。しかし、ピリピは例外的にユダヤ人が極めて少ない都市でした。ユダヤ人には会堂がない場合、川辺(かわべ)で集会(しゅうかい)を持つという伝統がありました。それゆえ、パウロは川辺に向かい、そこでルディアと出会うことになったのでした。このルディアという名は、実は彼女の固有名詞(こゆうめいし)ではなく、現在のトルコ地域にあたるルディア地方の出身であることに由来していました。彼女は高価(こうか)な紫色(むらさきいろ)の布(ぬの)を扱う成功したビジネスウーマンでした。パウロはこの敬虔(けいけん)な女性との出会いを通じて、ヨーロッパでの宣教に新たな扉を開くことになりました。しかし、その道のりは決して平坦(へいたん)ではありませんでした。《使徒の働き16章》に記されているように、パウロとシラスは投獄され、苦難を経験しました。
それにもかかわらず、ピリピ教会ではパウロの使徒性について、いかなる論争も起こりませんでした。教会員(いん)たちはパウロへの全幅(ぜんぷく)の信頼と深い敬愛(けいあい)の念を持ち続けていたのです。その証拠として、ルディアをはじめとする信徒たちは、40日もの道のりを歩いてパウロに必要な物資(ぶっし)を届けました。パウロが後に記したように、この支援(しえん)は彼に大きな慰めをもたらしました。このような深い愛が初代教会の基礎となり、教会の発展と福音の広がりを支えていったのです。
「ピリピにいる、キリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、ならびに監督たちと執事たちへ」というパウロの手紙の書き出しからも、彼が常に信徒のことを第一に考えていたことが分かります。これは現代の教会への重要な示唆(しさ)を含んでいます。今日、愛が希薄化(きはくか)した教会では、しばしば権威主義だけが残っています。権威と権威主義は異なるものです。権威は必要かつ重要なものですが、権威主義は不要な階層構造(かいそうこうぞう)を生(う)み出し、位階制(いかいせい)(ヒエラルキー)による支配をもたらします。それは、まるで中身(なかみ)がなく、殻(から)だけが残っているようなものです。使徒は愛する聖徒たちにまず言及し、その後に聖徒に仕える監督や執事について記しました。
「私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように」(ピリピ 1:2)
この部分は本当に恵みに満ちています。私たちは、このパウロの正しい教えに立つ必要があります。パウロの書簡を見ると、彼の教えは君主神論に基づいていないことがわかります。神様を上に置き、その下にイエス・キリストを置くのではありません。パウロは「私たちの父なる神と主イエス・キリストから」と書いています。
これは挨拶の部分です。当時の手紙の書き方について考えてみましょう。ユダヤ人は「シャローム」(平和)という言葉を用(もち)いて、「平安があなたがたにありますように」と挨拶するのが一般的でした。しかしパウロは、「恵みによって平安を得ることを願う」との思いを込めて、「恵みと平安」(Grace & Peace)という言葉を用いました。実際、パウロは手紙の冒頭(ぼうとう)でも結びでも必ず「恵み」を強調し、教会と聖徒たちに対して常(つね)に恵みの重要性を説く優れた教師でした。
ここから、パウロは本題に入ります。
「3 私は、あなたがたのことを思うたびに、私の神に感謝しています。4 あなたがたすべてのために祈るたびに、いつも喜びをもって祈り、5 あなたがたが最初の日から今日まで、福音を伝えることにともに携(たずさ)わってきたことを感謝しています」(ピリピ 1:3-5)
使徒は、ピリピの信徒たちのことを思い出すたびに、神に感謝し、彼らのために祈るときにはいつも喜びをもって祈ったと語っています。その理由は何でしょうか。それは、彼らが最初の日から今日まで、福音を共に分かち合い、交わりを持ち続けてきたからです。「最初の日」とは、パウロがピリピの川辺(かわべ)で彼らと出会った日を指します。この出会いを通(つう)じて、主の恵みによって深い絆(きずな)が結ばれ、互いに兄弟姉妹として愛の交わりを持つようになりました。使徒の心には、その交わりに対する感謝と喜びが満ち溢れています。神様への感謝が溢れるとき、自然と喜びが伴うのです。この喜びこそが、救いを得た者の内にある喜びなのです。
「あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています」(ピリピ 1:6)
ここでパウロが言及する「良い働き」は、<11節>の「イエス・キリストによって与えられる義の実」と密接に関連しています。「義の実に満たされて、神の栄光と誉(ほま)れが現されますように」(ピリピ 1:11)という御言葉が示すように、良い働きは必然的に多くの義の実りをもたらすのです。
この「良い働き」の具体例(れい)を、《第二コリント人への手紙》<8章>と<9章>に見ることができます。ここには、マケドニアの聖徒たちによる犠牲的な献金の記録があります。特に、貧しい聖徒たちへの奉仕としての募金(ぼきん)活動が詳しく記されています。使徒パウロは、彼らの良い働きがもたらした義の実について、深い感謝と称賛(しょうさん)をもって語っています。「さて、兄弟たち。私たちは、マケドニアの諸(しょ)教会に与えられた神の恵みを…」(Ⅱコリント 8:1a)という箇所で言及されるマケドニアの諸教会は、アガヤ地方の北部(ほくぶ)に位置していました。ピリピを中心に、ネアボリ、アボロニア、テサロニケ、ベレヤなどの教会がありましたが、その中でもピリピ教会は最も重要な存在でした。彼らは、エルサレムで飢饉(ききん)が起きた際に、積極的(せっきょくてき)に募金(ぼきん)を行い、献金をしました。このことは《ローマ書15章》でも言及されています。ピリピ教会はその募金活動に非常に熱心に取り組(く)み、パウロは彼らを称賛しました。「彼らの満ちあふれる喜びと極度(きょくど)の貧しさは、苦しみによる激しい試練の中にあってもあふれ出て、惜(お)しみなく施(ほどこ)す富(とみ)となりました」(Ⅱコリント 8:2)。/ 「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです」(Ⅱコリント 8:9)。マケドニアの教会は、経済的には恵まれていませんでした。しかし、彼らは裕福(ゆうふく)なコリント教会以上に、自分を無にする献身を示しました。この「自分を無にする」という行為は、単(たん)なる物質的な放棄(ほうき)を超えて、主の恵みを真に経験した者だけができる生き方を表(あらわ)しています。パウロは、マケドニア教会に与えられた驚くべき恵みについて証ししています。「神はあなたがたに、あらゆる恵みを溢れるほどに与えることができます。あなたがたがいつもすべてのことに満ち足り、良いわざにあふれるようになるためです」(Ⅱコリント 9:8)。ここでも「良いわざにあふれる」という表現が使われており、この良いわざが豊かな実を結んだことを示しています。「9『彼は貧しい人々に惜(お)しみなく分け与えた。彼の義は永遠にとどまる』と書かれているようにです。10 種(たね)蒔(ま)く人に種と食べるためのパンを与えてくださる方は、あなたがたの種を備え、増(ふ)やし、あなたがたの義の実を増し加(くわ)えてくださいます」(Ⅱコリント9:9-10)。神様は、貧しい者に恵みを与える人々に、義の実を増(ま)し加えてくださるのです。「11 あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、すべてを惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して神への感謝を生み出すのです。12 なぜなら、この奉仕の務(つと)めは、聖徒たちの欠乏(けつぼう)を満たすだけではなく、神に対する多くの感謝を通してますます豊かになるからです」(Ⅱコリント 9:11-12)。寛大(かんだい)な献金は、単に聖徒の欠乏(けつぼう)を補(おぎな)うだけでなく、自分たちが神様にどれだけ感謝しているかを示す行為でもあります。彼らの心には、感謝が溢れていたのです。このように、パウロはコリント教会に対して、マケドニアの諸(しょ)教会、特にピリピ教会の模範(もはん)的な献身を称賛しました。
ピリピ教会は、多くの苦難を経験した教会でした。当時、ローマはギリシャの勢力を打倒(うちたお)し、ローマ帝国を築(きず)きました。その支配力を強めるため、ローマは多くの退役(たいえき)軍人を辺境(へんきょう)の地であるピリピに送り込んだと歴史に記録されています。ローマ本土(ほんど)から約2000kmも離れた辺境の地であるピリピに、なぜ多くの退役軍人が移住(いじゅう)したのでしょうか。その理由は、ローマが彼らに対して特別な報酬(ほうしゅう)―ローマ市民権―を約束したからでした。この特権的な地位を求めて、膨大(ぼうだい)な数の退役軍人がピリピに移住することとなりました。軍人として国家(こっか)への忠誠心(ちゅうせいしん)が強い彼らは、ローマ皇帝(こうてい)とローマの神々を熱心に崇拝(すうはい)し、皇帝そのものを神として仕えていました。このような異教的環境(いきょうてきかんきょう)の中で福音を宣べ伝えることは、並々(なみなみ)ならぬ困難を伴いました。この歴史的背景があってこそ、ピリピ書の後半に「しかし、私たちの国籍は天にあります」(ピリピ 3:20)という重要な宣言が記されているのです。ピリピの信徒たちは、厳しい迫害と経済的困窮(こんきゅう)の中で生活していました。しかし、驚くべきことに、彼らは自らの貧しさにもかかわらず、神の恵みに満たされ、他の貧しい人々への奉仕に全力を尽くしたのです。使徒パウロは、彼らの献身を思い浮(う)かべるたびに、心から感謝の念を抱(だ)いていたのです。
「あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています」(ピリピ 1:6)
ここで言及される「キリスト・イエスの日」は、ユダヤ人の歴史観における重要な概念(がいねん)と結びついています。ユダヤ人は「エホバの日」という特別な歴史理解を持っていました。この日は、世の悪(あ)しきすべてが終わり、メシアが降臨し、新たな歴史が始まるとされる日です。このように、ユダヤ人は「メシアの日」、つまり「キリスト・イエスの日」を待望していたのです。これは「最後の日」、すなわち主が再臨(さいりん)される日であり、主の統治が完全に実現される日であり、神の御国が成就(じょうじゅ)する日でもあります(Ⅰコリント 3:13、Ⅰテサロニケ 5:4、Ⅰコリント 5:5、Ⅰテサロニケ 5:2、Ⅱテサロニケ 2:2)。このように使徒パウロは、ピリピの信徒たちの間で始まった良い働きが、このキリスト・イエスの日までに確実に完成に至ると確信していました。
「 あなたがたすべてについて、私がこのように考えるのは正しいことです。あなたがたはみな、私が投獄されているときも、福音を弁明し立証(りっしょう)しているときも、私とともに恵みにあずかった人たちであり、そのようなあなたがたを私は心に留めているからです」(ピリピ 1:7)
ここで使徒は、ピリピ教会の信徒たちを心から愛し、深く尊重(そんちょう)し、その働きに感謝しています。
「 私がキリスト・イエスの愛の心をもって、どんなにあなたがたすべてを慕(した)っているか、その証しをしてくださるのは神です」(ピリピ 1:8)
この御言葉において、使徒パウロはピリピ教会の信徒たちへの深い愛と感謝を表現しています。ここで使われている「愛の心」という言葉は深い愛情を表(あらわ)す言葉として使われています。つまりパウロは、最も深い彼らを愛していると語っているのです。パウロの特筆(とくひつ)すべき点は、彼が優れた神学者(真理・教理に精通した者)であっただけでなく、その真理を日常生活において実践(じっせん)した人物だったということです。これこそが初代(しょだい)教会の偉大さを表す特徴(とくちょう)の一つでした。初代教会は、愛の教えを単なる理論としてではなく、具体的な実践を通じて、より深い愛の世界を体験しながら生きていたのです。もし私たちの教会に献金や施(ほどこ)し、募金といった具体的な愛の実践が欠(か)けていたなら、この御言葉の真の意味を理解することはできなかったでしょう。教理と実践が乖離(かいり)してしまうとき、聖書の御言葉は私たちの心に深く響(ひび)かず、その本質的な意味も見えなくなってしまいます。ドイツの哲学者であるハイデガー(Martin Heidegger)は「言語は存在の家である」と語りました。これは、私たちがどのような生き方をしているかによって、発する言葉も変わるということです。例えば、《第二コリント人への手紙8章》を語る私たちが、主の恵みに従って生きるならば、私たちの言葉も変わっていくでしょう。言い換えれば、現代を生きる私たちが、聖書が語る恵みを同じように経験するとき、私たちの生活と聖書の生活に一致がもたらされるのです。そのとき初めて、聖書の御言葉は直接的な力を持って私たちに迫(せま)ってきて、聖書の御言葉が私たち自身の言葉となるのです。最も具体的な例として、私たちが主の苦難を実際に経験するとき、私たちは主の十字架の意味をより深く理解し、主の愛をより深く知るようになるのです。
「私はこう祈っています。あなたがたの愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり」(ピリピ 1:9)
<3節>から始まる使徒パウロの言葉は、すべて祈りの形を取っています。その中で、パウロは特に「私はこう祈っています」と強調して、信徒たちの愛がさらに豊かになるようにと願い、祈りをささげています。また、その愛が知識とあらゆる識別力によってますます深まるようにと祈っています。ここで興味深いのは、この手紙を届けた「エパフロディト」という兄弟の名前の意味が「愛らしい」であることです。聖書全体が愛の書物(しょもつ)であることを考えると、この名前には象徴的な意味があると言えるでしょう。より深い愛を理解し経験するためには、知識において豊かになることが必要です。ですから、聖書講解が重要です。私たちは知識と知恵を通して、より豊かな恵みと、愛の深さと広さを理解できるようになるのです。
「10 あなたがたが、大切なことを見分けることができますように。こうしてあなたがたが、キリストの日に備えて、純真(じゅんしん)で非難されるところのない者となり、11 イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神の栄光と誉(ほま)れが現(あらわ)されますように」(ピリピ 1:10-11)。
私たちが真理を知ると、至善が何であるかを見分けることができます。そうして、「キリストの日」への備えとして、聖(きよ)く、傷のない者となることができるのです。パウロはまた、イエス・キリストによって私たちが義の実を豊かに結び、それが神の栄光と誉れが現れることを祈っています。こうして彼はピリピ書の冒頭(ぼうとう)を祈りで満たしているのです。Ω