2025年02月10日
*日付: 2025年2月9日, 主日礼拝
*本文: ピリピ人への手紙2章5-11節
「5 キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱(いだ)きなさい。6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、7 ご自分を空(むな)しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。10 それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝(ひざ)をかがめ、11 すべての舌が、『イエス・キリストは主です』と告白して、父なる神に栄光を帰(き)するためです。」(ピリピ2:5-11)
†今日私たちが見ようとする「ピリピ人への手紙2章5-11節」は、福音とは何かをよく説明してくれている箇所です。キリスト教の三大教理を挙げるなら、「キリスト論」、「救済論」、「終末論」です。これに「教会論」を加えると、四大教理になります。この四大教理は二つずつペアにできます。キリスト論と救済論、終末論と教会論、このように組み合わせることができます。私たちが神学という言葉を使いますが、神学とは信仰について論理的に説明する学問です。神学はまず神論を語らねばなりませんが、キリスト教の神論には神様についての説明がありません。神様の属性(ぞくせい)、神様についての理解、黙想はすべてキリスト論に帰属(きぞく)しています。世の中には多くの神々がありますが、その中で私たちはどのような神様を信じているのでしょうか。私たちはキリストによって啓示された神様を信じています。ですから、キリスト教の神論は、キリスト・イエスを通して啓示された神様を説明します。これは《第二コリント人への手紙13章13節》の祝祷で、「主イエス・キリスト」が「神」より前に置かれているのと同じ理屈(りくつ)です。祝祷では主イエス・キリストの恵みが先に語られ、それを通して現された神様の愛の力が語られます。これがどれほど正確な言葉か分かりません。
私たちは Jesus Christ (イエス・キリスト)と呼びます。Jesus (イエス)は固有名詞で、キリスト(Christ)は普通名詞です。もともとは「Jesus as Christ」(キリストとしてのイエス)という言葉から、「as」を省(はぶ)いてそう呼ばれるようになりました。キリストはギリシア語ではクリストス(Christos)で、「油注がれた者」という意味です。旧約聖書を見ると、ダビデとサウルは油を注がれて王になりました。キリストは王のような祭司(さいし)として世界を救う者です。へブル語ではメシア(מָשִׁיחַ)と言います。
では、なぜイエスがキリストなのでしょうか。当初(とうしょ)は「イエス」と「キリスト」の間に間隔(かんかく)がありました。なぜイエスはキリストなのかを説明するのが神学です。そして私たちが宣教するとき、このことを弁証しなければなりません。イエス様の時代、「王は神の子だ」というのは一般的な言葉でした。王は神様が立てられたという認識が普遍(ふへん)的でした。伝統的に、なぜイエスはキリストなのかという問いに対して、その方は神の御子だからキリストなのだと答えられてきました。今日私たちが読んでいる《ピリピ人への手紙2章5節から11節》には、「キリストは神の御姿である方であり、神の御子であり、神の右の座に着いておられたのに、この地に来られた」と説明します。キリストの始まりが「上から」のものであるということです。これを「上からのキリスト論(Christology from above)」と言います。次の箇所はそれを説明しています。
「5 キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱(いだ)きなさい。6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、」(ピリピ2:5-7)
神の御子は「上から」この地に来られたということです。「上からのキリスト」を語っています。では、神の御子はなぜこの地に来られたのでしょうか。人間が罪から自由になることができないので、人間の罪を洗い流すために来られました。また、人間は天国を失いました。だから、主は私たちを永遠の故郷に導くために来られました。これが主が来られた理由であり、私たちに主が必要な理由です。
使徒パウロがここで強調しようとしたことは何でしょうか。それは「下からのキリスト論」です。当時、ローマ帝国の時代に人々が認識していた神は全能の神でした。しかし、ローマの真っ只中で使徒が語る神の御子は、そのような神ではありませんでした。使徒は、その神の御子がどのように生きられたかを語っています。その御子は自らを低くし、ご自分を空しくし、死にまで従われました。キリストの謙遜な生が、高慢な罪の世界を裁きました。そして、キリストはすべての名にまさる名を与えられました。神の御子は低くなられたことで高く上げられました。これが「下からのキリスト論(Christology from below)」です。次の箇所はそれを説明しています。
「7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。」(ピリピ2:7-9)
イエス様は自らを低くされましたが、神はこの方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。これが「下からのキリスト(Christ from below)」です。
キリストは低くなられたことで世を裁かれました。では、なぜキリストが低くなられたことが裁きとなったのでしょうか。《イザヤ書14章》には、追放(ついほう)された明(あ)けの明星(みょうじょう)の罪を告発(こくはつ)することで、バビロンの王の高慢を告発し、彼への裁きを端(たん)的に表現しています。「…『私は天に上(のぼ)ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山で座に着こう」(イザヤ14:13b)。英語聖書を見ると《13節から14節》にかけて5回も“I(私)”という言葉が出てきます。私が高くなろうという意味の言葉が5回も出てきます。自ら高くなろうとした天使ルシファーが高慢になり堕落しました。《ヨハネの黙示録12章9節》には、天から大きな竜が投げ落とされたと書かれています。これは、悪魔を指します。「こうして、その大きな竜、すなわち、古い蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれる者、全世界を惑(まど)わす者が地に投げ落とされた。また、彼の使いたちも彼とともに投げ落とされた」(黙示録12:9)。サタンは全世界を惑わす者だとあります。このサタンを捕(と)らえなければなりません。人間が堕落した後、神様がどれほど長い間、忍耐してこられたのでしょうか。選民たちは、ヤハウェの日に主なる神様が火の戦車に乗って来て、瞬(またた)く間(ま)にすべて滅ぼされると信じていました。旧約聖書を見ると、ソドムとゴモラを二人の御使いたちが滅ぼしました。御使いの力もそれくらい凄(すさ)まじいものです。ならば、神の御子はどれほど大いなる力をお持ちでしょうか。しかし、勝利者なるキリストはどのような方法で悪を裁かれたのでしょうか。どのように人間の魂を解放されたのでしょうか。どのように罪と悪魔を裁かれたのでしょうか。使徒パウロはその方法をこの《ピりピ人への手紙》で語っています。キリストは自らを低くされました。その方の謙遜によってサタンの高慢を裁かれました。その謙遜の極致(きょくち)が十字架です。これは実(じつ)に涙ぐましい話です。
私たちが《ローマ書》を学ぶなかで、最も悲しく胸に迫(せま)って来た箇所が《ローマ書8章32節》でした。「私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜(お)しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵(めぐみ)んでくださらないことがあるでしょうか」(ローマ8:32)。神様がご自分の御子さえも渡されたということです。これが使徒の十字架理解です。これがどれほど深い世界なのか分かりません。この世界が皆さんの中に開かれなければなりません。そうすれば、皆さんの中に涙が流れるでしょう。キリスト教には数多くのイエス・キリストの聖像(せいぞう)があり、シンボルがあり、しるしがあります。しかし、主イエスと情感が通じ合い、心が通じるためには、この深い世界が開かれなければなりません。全能なる神様がどのようにこの地を裁かれたのですか。どのようにこの地を救われたのですか。このメッセージは、この地上の多くの宗教とは全く異なります。キリスト教はそのような宗教の一つではありません。キリスト教が知らせる神様は「全能の神」(Almighty God)ではありません。「Powerless God」(力のない神)です。当時、ローマ帝国の支配下にあったピリピは、神とされる皇帝が強力に支配していた都市でした。その都市の人々に、使徒パウロは神の御子がどのようにこの地に来られたかを伝えています。そのお方は低くなられました。低くなられたことで高く上げられたお方です。だからこそ、主は真のキリストになられたということをこの偉大な使徒は告白しています。主が真に低くなられることによって、高慢を裁く審判(しんぱん)の主となられたということです。だから、サタンに縛(しば)り付けられ、閉じ込められていた者たちを救われたということです。この使徒は短いながらも珠玉(しゅぎょく)の言葉でこの美しい告白をしています。この使徒の告白は非常によくまとめられています。知識が素晴らしく用いられるとき、このような告白ができます。「キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。」 この詩はとても美しいです。
福音は、罪人である人間に対するイエス・キリストの愛の物語です。主が命を尽くして人間を救われた美しい物語です。しかし、悲しい物語です。これが福音です。この物語は自らを低くされたことから始まっています。使徒は「あなたがたの間では、そのような心構(こころがま)えでいなさい」と言いました。そのような心構えでいれば、教会内に分裂が起こるはずはありません。このキリストの心をともに抱(だ)くところに教会が形成されます。そして、その心が交わるところに教会が支えられるのです。
「ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、」(ピリピ2:7)
キリストはご自分を空しくしたとあります。しかし、世の中はどうでしょうか。世の中は基本的にまず自らを満たそうとします。世の中はすべて他者のものを奪って自らを満たそうとします。だから十戒で、人のものを奪ってはならないと言われました。殺してはならないというのは、他(た)の人の命を奪ってはならないということです。姦淫してはならないというのは、他の人の愛を奪ってはならないということです。盗んではならないというのは、他の人の所有物を奪ってはならないということです。人間はどんどん他の人のものを奪おうとします。米(べい)99俵(たわら)を持つ者が1俵を持つ者のその1俵を奪って100俵を満たそうとするのがこの非情(ひじょう)な世の中です。
しかし、キリストはこの地に来られ、この世のために大いなる御業(みわざ)をなされました。この使徒はそれを語っています。キリストは本来神の御姿であられるお方でした。キリストは神の御子です。しかし、そのキリストがご自分を空しくし、低くなられ、仕える者の姿をとられました。それによって、自分のいるべき所を捨てた御使いたちの高慢を裁かれたのです。考えてみてください。召使(めしつか)いが高くなろうとしたのです。召使いがその家の息子を支配するあり得ない世になりました。この悪魔に対する裁きはどうなりますか。この教えは非常に深いです。私たちがこの教えとこの世界を深く知る必要があります。私たちはどのような生き方に倣(なら)うべきでしょうか。私たちは何を見つめなければならないでしょうか。私たちは神の御子を見つめ、その人生に倣うべきです。
神の御子は神の身分であり、神の右の座に着いておられましたが、神と等(ひと)しくあることに固執(こしつ)しようとは思わず、かえってご自分を低くされました。福音はここから始まります。キリストが受肉(じゅにく)(Incarnation)されました。神の御子が人としての姿をもってこの罪深い世界に介入(かいにゅう)して来られたその場所は、馬小屋(うまごや)でした。王が出現したその場所は飼葉桶(かいばおけ)でした。主が罪深い現実に降りて来られました。使徒はこれを「自己無化(じこむか)」と呼びました。そして「自己無化」はギリシア語で「ケノーシス」(κένωσις)です。使徒はこの主の愛の人生、この真理を伝えているのです。
《ピリピ人への手紙2章5節から11節》は、私たちが本当によく読み、パン裂(さ)きをし、賛美した箇所です。これは「メシア賛歌(さんか)」です。「キリストにささげる賛歌」です。これは母親が幼い子どもたちに暗唱(あんしょう)させるべき節です。これを暗記させると、子どもが成長するにつれて福音のエッセンスを知るようになります。イエスはすべての名にまさる名です。イエス様は低くなられたことで、高く上げられたお方です。《ローマ書5章8節》の御言葉にあるように、私たちがまだ罪人であったとき、罪なき神の御子が私たちを罪から救うために自らを低くされたのです。これを別の言葉で、「恵み」「神の愛」と言います。これがこの世の愛とは違う神の愛です。これこそが神様がその御子を差し出された神の愛です。《ローマ書4章25節:主イエスは死に渡され》が胸に迫(せま)ってくると、堪(た)えきれない涙と悲しみが溢れ、眠れなくなります。私たち一人ひとりの命を救うために、神様がその御子を渡されました。これこそが「神の愛」です。
「自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。」(ピリピ2:8)
聖ヨハネは、最後の晩餐でイエスはご自分の者たちを最後まで愛されたと書きました(ヨハネ13:1)。そして、泥(どろ)だらけの弟子たちの足を一人ひとり洗ってくださいました。そのように主は自らを低くされました。そして、主は死に至るまで従順されました。従順とは何でしょうか。《ローマ書5章》には、「一人の従順によって多くの人が義人とされるのです」と書かれています。主は従順されることによって、罪悪の世界に陥っている人間を救われました。
キリストの愛がとどまるところはどこにでも十字架が掲(かか)げられています。私たちはその深い世界を知るようになりました。だから私たちはその血潮の十字架、尊い十字架、その愛を伝えるために集まっています。主を通して来るべき世界を私たちが待ち望みながら、その世界のために私たちは献身して生きているのです。
「それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝(ひざ)をかがめ、」(ピリピ2:10)
これが私たちが見つめて生きている主の御業であり、またこれからも私たちが見るようになる主の御業です。
「すべての舌が『イエス・キリストは主です』と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。」(ピリピ2:11)
イエス・キリストは真に低くなることで高く上げられたお方です。ですから、イエス・キリストの御名とその人生と人格など、すべてが称賛(しょうさん)に値(あたい)するということです。イエス・キリストは賛美されるにふさわしい神の御子となられたということです。すべての人がイエス・キリストを主と認めようになるでしょう。そして、父なる神様に栄光を帰するようになったということです。私たちは今日、この使徒がささげた美しい詩、主にささげた賛歌を読みました。使徒は歴史を貫(つらぬ)く救いの物語、罪深い世界を救った物語を、このように一つの詩にまとめています。私たちがこの詩をいつも心で黙想し、その歌を歌いながら、力強く、大胆に前に進んでいきましょう。お祈りします。Ω
The steadfast love of the Lord never ceases His mercies never come to an end They are new every...
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