2025年03月10日
*日付: 2025年3月9日, 主日礼拝
*本文: ヨハネの福音書13章1節
「さて、過越(すぎこし)の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。」(ヨハネ 13:1)
†今日は四旬節における最初の主日礼拝です。《ルカの福音書24章》には、エマオという村に帰郷(ききょう)する弟子たちが、その道中でイエス様に出会い、彼らの目が開かれた出来事が記録されています。初めは彼らの目がさえぎられていて、そのお方がイエス様であることが分かりませんでした。そのような中で、共に食卓に着かれ、イエス様がパンを裂かれた瞬間、彼らの目が開かれて、イエス様だと分かるようになりました(ルカ 24:30-31)。この出来事はルカの福音書だけに記録されている非常に重要な出来事でした。
「13 ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余(あま)り離れたエマオという村に行く途中であった。14 そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。15 話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。16 しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。」(ルカ 24:13-16)
この二人の弟子は、イエス様と長い時間同行(どうこう)しながらも、イエス様であることが分かりませんでした。これが私たちの話かもしれません。私たちもイエス様と長い時間同行しましたが、イエス様を正しく知っていると言えるでしょうか。私たちは長い期間教会に通い、イエス様を信じてきましたが、イエス様と私との間にこのような隔たりがあるかもしれません。しかし、パンが裂かれた時に二人の弟子の目が開かれ、イエス様のことが分かるようになったこの出来事が、私たちにも同様に起こらなければならないでしょう。パンが裂かれることは受難を象徴します。私たちがイエス様の受難の意味を正しく理解する時、私たちの目が開かれ、イエス様を正しく見ることができるのです。そして「目が開き」という賛美歌の告白が私たちの告白となるのです。
《第ニコリント人への手紙4章》を見ると、滅びる人々の場合には福音に覆(おお)いが掛かっていると言います。 「3それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々の場合に、おおいが掛かっているのです。4その場合、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。」(Ⅱコリント4:3-4)教会が十字架の意味をよく知らなければなりません。十字架におおいが掛けられてしまってはなりません。サタンが不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのだと言いました。教会はキリストの栄光の光が輝く場所です。「栄光」とは、光が燦然(さんぜん)と輝く状態のことです。教会は満ち足りた光の中にある教会であるべきです。しかし、今では光を失ってしまった教会が数多く存在します。西洋(せいよう)には築(ちく)100年、中には築200年にもなる雄大で美しい教会があります。ところが、それらの教会から光が失われ、今では観光地となってしまいました。そこを訪問すると、悲しみが込み上げてきます。なぜこうなってしまったのか、その原因を探(さぐ)ろうともせず、リバイバルの再来(さいらい)を夢見る人もいません。ヨーロッパにある多くの教会の扉が閉じられ、売り渡されてしまいました。多くの素晴らしい教会が失われてしまいました。これが今日の教会の現実です。
日本の教会はどうですか?クリスチャンの数はまだ少ないです。 そして、ほとんどの若者は宗教から遠ざかっています。このような日本の現実を変えることができるのは福音しかなく、その福音を伝える責任は私たちにあることを肝(きも)に銘(めい)じなければなりません。
四旬節になると、私たちはイエス・キリストの受難の意味を黙想しなければなりません。私たちがその受難の意味を知る時、イエス・キリストをよりよく知ることになるからです。キリストの受難は、別の言葉でいえばキリストの死です。だから、四旬節の期間、私たちはキリストの死の意味を正確に知ることに焦点(しょうてん)を合わせなければなりません。
イエス様はこのように仰いました。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」(マルコ 10:45) イエス様は苦しむ人間を救おうと罪深い世界に来られ、ご自分の命を贖いのいけにえとしてささげられました。 四旬節はこのキリストの愛について理解を深めていく期間です。教会では毎年これを黙想しなければなりません。少なくとも3年間、3回は黙想すれば、キリストの死の意味が皆さんの中に深く染(し)み込むことになるでしょう。パウロは滅び行く人々に対して覆いが掛かっていると言いました(第2コリント4:3)。しかし、救われた人には、福音がはっきりと見えるようになります。救われた者である私たちは、イエス・キリストの死が何を意味するのかを明確に見て取る者とならなければなりません。
伝統的に教会はイエス様の死を「従順」と見てきました。神の御子が死の立場を避けようとすることなく、ゴルゴダの丘まで従順して行かれました。これがイエス様の死に対する伝統的な理解でした。しかし、その前に私たちが知るべきことは、私たちがイエス様を殺したという事実です。使徒の働きに記されたペテロの説教(使徒3:15)を見ると、「あなたがたがいのちの君を殺したのだ」と使徒ペテロが憤慨(ふんがい)して語る言葉があります。ここから私たちは、初代教会の使徒の中にあった十字架に対する理解と、その感情をうかがい知ることができます。初代教会の使徒たちは「神の御子がこの地に来られたのに、あなたがたがいのちの主を殺したのだ」ということを先に教えました。漢字では「殺(さつ)」と「死(し)」に対する区別が正確です。ペテロの説教では、人々が神様の御子を殺したのだと明確に告発しています。キリストが「死ぬことに定められていた」とは言っていません。「人間が悪の極みに達してキリストを殺してしまった。それによりキリストが血を流すようになり、苦しむようになった」ということを述べています。使徒ペテロは、そこにいた人々がキリストを殺したということを明確に語り、言いようのない程の重い罪の悔い改めを促(うなが)しました。そうしてこの説教を聞いた人たちは心を刺(さ)されました。 37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。(使徒 2:37-38) ペテロの説教を聞いていた人々は心を刺され、「私たちはどうしたらよいでしょうか」と尋ねました。そして彼らは悔い改めて、覆されました。これが初代教会の信者(しんじゃ)の中にあったイエス様の死に対する感情でした。
使徒パウロも次のように語りました。「私たちは、いつもイエスの死を身に帯(お)びています。それはまた、イエスのいのちが私たちの身に現れるためです。」(Ⅱコリント4:10)パウロは、私たちがイエスの死をその身に帯びて生きるのだと言いました。 私たちはイエスを殺してしまった。しかし、そのイエスが私たちを救ったことを覚えて生きているということです。
私たちがキリストの死を理解しようとする時、どこから始めるべきでしょうか。まずは「私たちがあのお方を殺したのだ」と認識することから始めなければなりません。私たちはキリストの死の中にある悲しみと恨(ハン)とをまず知るべきです。人々から殴(なぐ)られ、重い十字架を背負わされて最後にはその十字架にかけられたイエス様の苦しみを私たちが知らなければなりません。ゲッセマネで負(お)わされた肉体的苦痛よりもさらに深刻な心の苦しみ、霊的な苦痛があったことを私たちが知らなければなりません。私たちがこの世界を深く悟る時に、私たちに真の悔い改めが生まれ、主の心を慰めてさしあげることができるのです。 私たちがキリストの中にあるこの痛みと恨とをまず明(あ)かさなければならないのです。
キリストが殺されたということを私たちが知らねばならない理由は、それを知る時にこそキリストの従順の真の意味と価値とを知ることになるからです。イエス様は従順を通して「殺されること(殺)」を受け入れられました。ゲッセマネにおいて涙で祈り、「殺されること(殺)」を「死」として受け入れられたのです。これが主の従順でした。イエス様はご自分の命を私たちのための身の代金(しろきん)として捧げるために従順なさいました。そして、苦痛に耐えながら、ゴルゴダの丘まで一寸の揺らぎもなく従順の道を歩まれたのです。神様の前では従順であり、私たちにとっては限りない愛だったのです。
今日は《ヨハネの福音書13章》を読んでみようと思います。この話は、主が手ぬぐいを取って腰にまとわれ、弟子たちの足を洗うところから始まります。その場で主はユダを最後まで取り戻そうとしました。《13章》は主の最後の晩餐の場面です。この晩餐の意味は何でしょうか。「世が私たちを殺そうとするとしても、あなたが私たちを殺してはならない」ということです。もし世があなたがたを殺すことがあっても、あなたがたの中から裏切り者が出てはならないということです。より正確に言えば、「あなたは裏切り者になってはならない」ということです。
《ヨハネの福音書13章》にはこれほどまでに深いメッセージがあります。死の霊がユダに入り込み、主を殺そうとしています。この罪悪の世界を支配する霊、この死の霊はサタンです。「サタンが私たちを殺すことはあっても、サタンが主を殺すことはあっても、あなたがそうしてはならない」ということです。それゆえ、最後の晩餐の席で、主は愛をもって最後までユダを取り戻そうとされました。しかし、ユダはパン切れを受け取って、結局は深い闇夜(やみよ)の中へと消えてゆきました(ヨハネ13:30)。ユダが出て行ったとき、イエス様は「今、人の子は栄光を受けた」と仰いました(ヨハネ 13:31)。最も濃(こ)い暗闇の中で、主は栄光について語られました。主はこの道が、決して曲(ま)げることも、埋(うず)もれさせてしまうこともできない愛の道であり、勝利の道であるということを弟子たちの前で祈られたのです。
「さて、過越(すぎこし)の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。」(ヨハネ 13:1)
主は弟子たちを最後まで愛されました。しかし、なぜユダは堕落したのでしょうか。どうして彼は愛する主を裏切ったのでしょうか。ユダは金入(かねい)れを担当していた者でした。紛(まぎ)れもなく彼は主が最も信頼していた一人でした。にも関わらず、どうしてユダはこれほどまでに醜悪(しゅうあく)になったのでしょうか。なぜ彼は主を捨てるようになったのでしょうか。ユダの裏切りが起こる前に、一人の女性が石膏(せっこう)の壺(つぼ)を割(わ)った出来事がありました(マタイ14章)。《ヨハネの福音書13章》には、サタンがユダに入ったと記されています。これは非常に正確な記録です。ユダはイエス様の愛を見ることができませんでした。しかし、この一人の女性はイエス様の愛を見ました。イエス様の愛はこの世の何にもまさって大切なものです。それゆえ、その女性は高価(こうか)なナルド油の入った尊い石膏(せっこう)の壺(つぼ)をイエス様のために割りました。なぜそのようにすることができたのでしょうか。それを割って捧げることは何を意味したのでしょうか。《13章》において、主は僕(しもべ)が来客(らいきゃく)の足を洗ってあげるように、弟子たちの足を洗われました。この女性もまた、石膏(せっこう)のつぼを割って主の足を洗ってさしあげたのです。
なぜ人は人を憎(にく)むのでしょうか。分かってみると、すべてお金(つまり物質(ぶっしつ))が原因で争いが生じます。しかし、物質の誘惑を乗り越えている人、そして愛を本当に理解している人は、お金を巡(めぐ)って人と争ったり、誘惑を受けるようなことはありません。私たちはイエス様のように物質の誘惑に打ち勝たなければなりません。
四旬節を過ごしながら、私たちの信仰はより堅実なものとなり、大きく変わることでしょう。私たちの教会も完全に変わることでしょう。イスラム教徒たちにはラマダーンの期間があります。彼らはその期間を通して大きく変わると言います。私たちクリスチャンはどうあるべきでしょうか。この四旬節の期間を通して、私たちの信仰が一層堅固になり、変えられなければなりません。
この四旬節の期間、私たちはユダについて見、私たちへ向かう主の愛について見ていこうとしています。そして、主が歩まれた十字架の道、ゴルゴダの丘に至(いた)って「すべて完了した」と言って息(いき)を引き取られるその瞬間までを一緒に見てみたいと思います。この四旬節をよく歩みましょう。私たちの教会は特別な教会です。私たちの教会には共同の体験がありました。そうして涙によって建てられた教会です。そのような誇りを持ちながら、この教会の伝統を再び取り戻し、新たにされる教会となることを願います。そして変質(へんしつ)することなく、主のまばゆいばかりの十字架の愛が息(いき)づいた、光り輝く教会となることを願います。Ω