2025年03月17日
「その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります」
*日付: 2025年3月16日, 主日礼拝
*本文: ヨハネの福音書14章1-21節
†先週は《ヨハネの福音書13章》を見ましたので、今日は《14章》を見ていこうと思います。四旬節(受難節)になると教会が重い雰囲気になります。色で表現するなら黒だと言えるでしょう。しかし、暗い雰囲気であっても、その中に流れる深い愛があります。それを皆さんがしっかりと掴んでいってください。
《ヨハネの福音書14章》の直前、《13章》の最後の部分にはイエス様とペテロの問答(もんどう)があります。皆さんにはその部分をよく見てほしいと思います。私たちの中にもペテロのような根拠(こんきょ)のない勇気があります。イエス様は「鶏が鳴(な)くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います」(ヨハネ13:38)とペテロにおっしゃいましたが、のちにその言葉の通りになりました。このことが《ルカの福音書》にも記されているのですが、ルカだけが記録した非常に核心的な言葉があります。一緒に見てみましょう。「しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直(なお)ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ 22:32)イエス様はここで次のように仰ったのです。「あなたは恐れのゆえにこの道を行くことはできず、倒(たお)れてしまうことだろう。しかし、たとえそうなったとしても、再び膝(ひざ)を立てて立ち直ったなら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」この箇所は私たちが必ず見るべき部分です。たとえ弟子が倒れることになったとしても、そこからどう立ち上がれば良いのかということまで、驚くほど細やかに気にかけておられるのです。
多くの人が十字架の道、主の弟子の道を歩もうとする時、初めは根拠のない自信に満ちた姿でその第一歩を踏み出すのですが、途中で疲れ果て、座り込んでしまうことが多いのです。だからこそ、私たちがイエス・キリストの愛を深く知り、簡単に揺るがされることのない者にならねばなりません。主はどのようにしてゴルゴダの丘への道のりを、揺るがされることなく最後まで直進することができたのか。この四旬節の期間にしっかりと黙想し、学んでみてください。
「あなたがたは心を騒(さわ)がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(ヨハネ 14:1)
本文を見ると、弟子たちの間に動揺(どうよう)があったことが感じられます。彼らはイエス様がどこへ行くのか知りませんでした。イエス様が歩まれる十字架の道がどのような道なのか知りませんでした。弟子とはどのような者を指して言うのでしょうか。それは、師(し)が行く道に従う者のことです。彼らは師であるイエス様に従順して、その道を同行する者たちになるべきでした。しかしそれができませんでした。というのも、彼らの中に心配があったのです。使徒パウロは「悲しみには二つがある」と言いました。「神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」(Ⅱコリント 7:10) 有益な悲しみ(神のみこころに添(そ)った悲しみ)があり、無益な悲しみ(世の悲しみ)があると言いました。
今日の本文である《ヨハネの福音書14章1節》における心配とはどのような心配でしょうか。ここでの心配は無益な悲しみ(世の悲しみ)ではありません。この告別説教は、イエス様が歴史を変えるほどの極めて重要なお言葉を続けて話しておられるという側面もありますが、まずは弟子たちを励ますために話されたものでした。闇夜に光がより明るく輝くように、暗く、重い悲しみの中でイエス様の慰めはより美しく輝いています。イエス様はご自身の死を目前(もくぜん)にしていながら、むしろ弟子たちに対して「あなたがたは心を騒(さわ)がしてはなりません」と慰めの言葉を語られたのです。そして「神を信じ、またわたしを信じなさい」とおっしゃいました。「信仰こそが艱難(かんなん)と逆境と苦難を乗り越えることができる力なのだ」とおっしゃったのです。
「わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。」(ヨハネ 14:2)
イエス様は住まいを備えるために父の家へと行くのだとおっしゃいました。これは天国を意味します。ある人は「住まい」が天国を意味するのではないと主張しますし、また「天国などない」と言い張(は)る人も少なくありません。しかし、それは聖書の教えとは非常に異なるものです。聖書は主が神の右の座におられると言っています。天国は確かに存在するものです。そして、信じる者は死後に天国に行くのです。それが私たちの人生の道です。神様が私たち一人ひとりに生命を与えてくださることによって、私たちはこの地に生まれてきます。そして、すべての人はそれぞれの生涯を生き、最後には死を迎えます。英語では人が死んだことを「passed away(通り過ぎた)」と表現します。人生はまるで風が通り過ぎるように、あっという間に通り過ぎるものです。私たち人間の生を「生老病死(しょうろうびょうし)」という四文字(よんもじ)で説明することができます。 1)生まれること、 2)老(お)いること、 3) 病(や)むこと、 4) 死ぬことです。
孔子(こうし)の弟子が死について話してほしいと言った時、孔子は次のように答えました。「生についても分からないのに、どうして死について話すことができようか。」 しかし、教会では死に対して明確に教えてくれます。死んで後、私たちはどうなるのかを教えてくれます。これを世界観と言います。この世界にはこの世(現世)があって、あの世(黄泉)があります。あの世とは天国のことですが、その天国への希望が私たちの生を完全に飲み込んだのです。主は今その天国のことをおっしゃるのです。
しかし、弟子の一人であるトマスが「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません」と言います。そして、ピリポも「主よ。私たちに父を見せてください」と言います。これらは極めて重要な記録です。弟子たちの弱さと足りなさを隠すことなく、真実に記録しておいた証言です。《マルコの福音書》にもマルコは自らの恥ずべき姿を率直(そっちょく)に書き残しました。イエス様を捕縛(ほばく)した兵士がマルコを捕らえようとした時、彼は恐怖(きょうふ)のあまり亜麻布(あまぬの )を脱ぎ捨てて、一糸(いっし)まとわぬ姿で逃(に)げたという出来事がありました。普通なら、そのような記録は残そうとはしないものです。もしトマスやピリポの質疑応答(しつぎおうとう)が記録されていなかったなら、おそらく《14章》はただ空虚(くうきょ)で奇妙なものになっていたことでしょう。皆さん、私たちはどうすればこのように偽りのない、正直(しょうじき)な人生を送ることができるのでしょうか? 虚飾(きょしょく)は私たちの真の姿を覆(おお)い隠し、私たちを分裂させます。しかし、ここ(14章)には、非常に透明(とうめい)かつ真実で率直な記録がなされています。トマスとピリポは自らの無知をさらけ出して、率直に尋ねました。私はトマスとピリポのその姿勢がとても素晴らしいと思います。そうではありませんか?彼らの率直な姿勢はとても美しいものです。
人生は儚(はかな)く、瞬(またた)く間に過ぎ去っていくものです。人生について旧約聖書は何と語っているでしょうか。人生は空しいものだとされています。これが《伝道者の書》に出てきます。《伝道者の書》は知恵書であり、《12の章》で構成されています。《伝道者の書》には「人間は誰もが死を迎える」と書かれています。それゆえ、生きているうちに神様を心に留めるようにと言いました。人間がどれほど強がってみても、またこの人生が永遠に続くかのようなふりをしてみても、すべては風塵(ふうじん)のように死んで消え去ってしまうのです。だからこそ、人が人生の空しさを悟った時、初めて真摯(しんし)な生き方ができるのです。人生が空しく消え去るということを知ること以上に重要な知恵がこの世のどこにあるでしょうか?結局すべての人生には終わりがあります。ですから、人生を長く生きれば生きるほど、「霊こそがすべて」との思いがますます強くなります。(霊こそがすべて。つまり、霊が一番大切だということです。霊だけが残るのです。)「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。」(ヨハネ 6:63) 肉は衰(おとろ)え、結局すべては消えて霊だけが残るのです。ですから、「霊こそがすべて」だと思うのです。そして、私は神様の御手の中に、神様の計画の中にすべてがあるのだと思いました。
「わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」(ヨハネ 14:3)
ところが、私たちがその道を行く前に、主が「私が先に行く」と約束なさいました。主が先に天国に行かれて、そこに私たちもおらせてくださるということです。天国に主がおられなければ、そこは天国ではありえないのです。イエス様は今、希望を語ってくださっています。そして、悲しんでいる人々を慰めてくださっています。
「わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら」これは主がそこに行かれ、天国を開かれたということを示しています。「また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」これは死が終わりではないということです。このことが私たちにどれだけ大きな希望を与えてくれるでしょうか。「死は終わりではない。」これこそ私たちがつかまなければならない最も重要な真理です。この深い世界を悟って、パウロが書き記したのが《第一コリント人への手紙15章》です。この章は復活の章(死者の復活)であり、珠玉(しゅぎょく)の章です。「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」(Ⅰコリント 15:55)使徒パウロは死を嘲弄(ちょうろう)します。死が終わりではないということです。死はこの世での旅路の終わりに過ぎず、私たちはその延長線上(えんちょうせんじょう)にある天国での人生を生きることになるのです。
これまで行なってきた説教の中で、私たちは三つの世界観を見てきました。第一の世界観に立つ人々は、死後には何もないと考えるので、この地上生涯において名前を残すために生きようとします。第二の世界観に立つ人々は、輪廻(りんね)転生(てんせい)(reincarnation)を信じています。人間が成仏(じょうぶつ)するために修練する理由は、より良い場所で生まれることを願うからです。第三のものはキリスト教の世界観であり、死がすべての終わりではなく、私たち皆が最終的に入るべき父の家があるのだということを明確に教えてくれます。
「死が終わりではない。」この世界観を持って生きる人はとても大胆です。 そして、些細(ささい)なことにとらわれず、所有に縛(しば)られることもありません。私たちの先輩は修道僧(しゅうどうそう)のように生きてきました。日用の糧を食べ、服も二着(にちゃく)以上は持たずに、福音を宣べ伝えました。ところが、最近は人が少し変わりました。私たちにたくさんのことができるようになり、多くを持とうとする人々が出るようになりました。所有に対する貪欲(どんよく)が生じるようになりました。誘惑に負ければ映画ロード・オブ・ザ・リング(The Lord of the Rings)に登場するゴラム(Gollum)のようになってしまいます。ゴラムは最後には指輪を握(にぎ)りしめたまま溶岩(ようがん)に落ちて死んでしまいます。ユダも同じ道を辿(たど)りました。
「わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」(ヨハネ 14:4)
私たちは聖書の勉強をたくさんしましたので、この道についてよく知っています。人が何のために生きるべきであるかをわきまえています。この地上生涯は瞬間的なものであり、永遠なる世界での生を準備する過程に過ぎません。私たちには天国への圧倒的な希望があります。 私たちは天国の市民ですが、この地上生涯を旅人のように生きていくのです。主はこのような明確な世界観を人生の中で示されたので、主が天国についてお語りになった御言葉も、非常に正確で明確でした。
それゆえ、主はまず天国について明確にお語りになり、弟子たちを慰めました。普通であれば、自分が辛い時に人を慰めることができるでしょうか。主がおられたところには、死が目前に迫っていました。イエス様の死は想像を絶するものでした。ところが、主は明日捕らえられ、荊棘の道を歩まねばならない状況であっても、不安になっている弟子たちを慰められ、彼らに希望を持たせて、勇気づけてくださったのです。これが弟子たちへ向かう主の大いなる愛でした。《ヨハネの福音書13章》で最も重要なのは、「新しい戒めを与えましょう」という主の御言葉です。「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ 13:34)イエス様はそれまでとは全く違う次元の世界を切り開かれました。それは律法によって開かれた世界ではありませんでした。パウロはこのことについて「神の義が示されました。」(ローマ3:21)と表現しました。別の言い方をするなら「恵みの時代」が開かれたということです。恵みの時代に生かされている私たちは、福音の戒めを当然守らなければなりません。
『トマスはイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」』(ヨハネ 14:5)
トマスは実に素敵な弟子だと言えます。彼はイエス様の語られたことが理解できなかった時には、このように一つ一つ入念に尋ねました。イエス様が復活なさった時も、実際に自分の手で触れるまでは信じようとしませんでした。ある面では、私たちにも彼のような信仰が必要です。根拠のない、誤(あやま)った信仰のゆえに、ここぞというときに倒(たお)れたり逃げたりするのではなく、このように一つ一つ丁寧に確かめていくことが大切なのです。トマスが5節で投げかけた問いに対して、イエス様は次のようにお答えになりました。
「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ 14:6)
真理に至る道は「イエスのみ」です。「恵みのみ(Sola Gratia)、信仰のみ(Sola Fide)」とは、すなわちイエスのみであるということです。 神様に至る道も「イエスのみ」です。《マタイの福音書24章》を見ると、終わりの日には「そら、キリストがここにいる」とか、「そこにいる」と言って、信じる者を惑(まど)わすのだと警告しています。近年、世界が本当にそのようになっています。人々は真理に至る道がいくつもあると言います。それが多元(たげん)主義です。これは「キリストがここにいるとか、そこにいる」と言うことと同じです。多元主義者は、「絶対的な真理など存在しないのだから、我々はお互いに共存(きょうぞん)しなければならない」と主張します。しかし、私たちは「そうではない」と証言するべきです。「絶対的な真理はあるのだ。私たちが告白・証言する真理とは、イエスである」と。そのお方が私たちの道であり、真理であり、いのちなのです。ただ一つの道です。成熟(せいじゅく)したふりをする人々にとっては、この言葉が非常に独り善(よ)がりに聞こえるかも知れませんが、これが真実なのです。
神様を知る道はイエスのみです。イエス様を通してのみ、私たちは神様を知ることができます。私たちが神様をどのようにして知ることができるのかを説明したのが「啓示論」です。神様が自らをオープンにして啓示なさる時、私たちが神様を知ることができます。その面で、イエス・キリストは神様の啓示だと言うことができます。また、キリストが誰であるかを説明する「キリスト論」があります。キリストとは誰でしょうか。そのお方は神様の啓示です。この途方(とほう)も無い、素晴らしいお言葉が、告別説教の最後の瞬間に、トマスの問いに答える形で語られたのです。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」もし、この御言葉が記録されていなかったとしたら、本当に大変なことになっていたでしょう。
《ヨハネの福音書》は第四の福音書です。福音書の中で最後に記録され、後ろに加(くわ)えられたものです。あまりにも切実な事情から、イエス様の死後1世紀が経過(けいか)してから、これを必ず読むようにと加えられたのです。どうしてこの書を加えたのでしょうか。それは、多元主義的(pluralistic)、多神教的なものを厳しく否定するためでした。多元主義者たちは、「Ultimate Reality(究極的実在(じつぞん))」を見出す道は一つではないと反論します。山頂(さんちょう)に至る道は様々ではないか、 なぜ一つの道しかないのかというのです。「各宗教がそれぞれの道を語ることは、それぞれが真理の一側面を語っていることであり、お互いに足りない部分を補(おぎな)うために、宗教間の交流と対話が必要なのだ。そうしてこそ我々は成熟(せいじゅく)することができる。それこそが知恵なのだ」と彼らは言います。しかし、それは十分かつ完全な福音に水を混ぜることにほかなりません。これに対して私たちは次のように告白します。「イエスのみ!」これこそ、私たちが神様の御前でなすべき告白ではないでしょうか?イエス様をおいて他にどのようにして神様を説明することができるでしょうか。しかし、私たちはこの告白を他者に強要(きょうよう)したりはしません。ただし、どちらが善い道なのかを人々に平和的に示(しめ)さなければなりません。信じない者はみな滅びるべきだと排他(はいた)的に言うのではありません。ただ、私たちに宣言されたこの御言葉の通りに「主よ。そのとおりです。主だけが道であり、真理であり、いのちであるからこそ、イエス様を通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」と私たちは告白するのです。
「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。」(ヨハネ 14:7)
イエス様を知ることで、私たちは神様を知るようになったということです。
『ピリポはイエスに言った。「主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」』(ヨハネ 14:8)
ここで、ピリポが神様を見せてくださいと言います。しかし、目で見られるものはすべて偶像であるということを、私たちは肝に銘(めい)じなければなりません。人が何かを見るということは、見る者が主体となります。見られるということは、それが対象化されることを意味します。神様は常に主体者の席に座り、私たちに語られるお方です。しかし、ピリポは「見せてください」と言いました。神様をどのように見せることができるでしょうか。もし神様が見えるとすれば、その神は十分かつ完全な存在ではありません。しかし、世にある偶像の宗教は、まず「これが私たちの神だ」と見せてくれるからこそ、それなりの説得力を持っています。しかし、それらは真の神ではありません。
『9 イエスは彼に言われた。「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。』(ヨハネ 14:9)
イエス様のこの御言葉は、「あなたは神様と御子である私との愛の関係を見たのではないか」ということです。
「 10 わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。 11 わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい。 12 まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」(ヨハネ 14:10-12)
これは後に主が《15章》でおっしゃる「愛にとどまっていなさい」という言葉と同じです。私たちはどうすれば主と連合できるのでしょうか。ぶどうの木と枝が一つであるように、私たちはどのようにして主と一つになれるのでしょうか。それは愛によってです。連合の秘訣(ひけつ)は愛です。どのような愛でしょうか。愛にもあらゆる種類の愛があります。《第一ヨハネの手紙》、《第ニヨハネの手紙》、そして《第三ヨハネの手紙》には、愛についてより詳しく書かれています。この三つは実に重要な書簡です。
枝(えだ)が木と分離してしまえば、何の実りもなく枯(か)れて死んでしまい、外に捨てられて燃やされてしまいます。では私たちが主と連合できる秘訣は何でしょうか。それは愛です。その愛はどこにありますか。《第一ヨハネの手紙4章》に「ここに愛があるのです」また「神が私たちを愛し」と記されています。私たちが先に神様を愛したのではなく、神様が先に私たちを愛することによって私たちにその愛が分かるようになったのです。 (Ⅰヨハネ 4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。/Ⅰヨハネ 4:19 私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。)《第一コリント13章》にも、「私が完全に知られているのと同じように」とあります。この言葉は「主が私を愛してくださったように」という意味です。主が私をすでに愛しておられたその愛を通して、私が主を知るようになり、主を愛するようになったのです。(Ⅰコリント 13:12 そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。)これが、愛の章(第一コリント13章)の最後の記述であり告白です。
「13 またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。14 あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。15 もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒(いまし)めを守るはずです。 16 そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。」(ヨハネ 14:13-16)
「わたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます」と主はおっしゃいました。この御言葉は16章と17章にも出てきます。助け主についてはもう少し後で見るようにします。私たちがどのようにして愛を行うことができるでしょうか。主がなされたことに倣って愛するのです。そのような面で四旬節が重要です。十字架に対する理解、血潮の十字架に対する理解が重要です。キリスト教は恵みの宗教だと言いますが、その理由を主は十字架を通してすべて示してくださいました。主が先に私たちを選び、私たちを愛し、刻印を押してくださいました。ですから、主はここで理想と希望を語っておられます。主がたとえ遠くに行かれるとしても、主が愛の中に留まっているということをおっしゃるのです。「いつも私があなたの中に留まり、あなたが私の中に留まるのだ」と。何をもってそれが可能となるのでしょうか。その奥義とは何でしょうか。それは「愛」です。この連帯の基礎は愛です。
《15節》にある戒めとはユダヤ人の戒めではありません。ユダヤ人にとってそれは命をかけて守らねばならないものでした。パウロは「新しい戒め」を「神の義」と表現しました。法(律法)の時代において、他の神の義(福音)が現れたのです。これが新しい戒めです。それをイエス様が私たちに見せてくださいました。その極点がイエス様の贖い(十字架)です。弟子たちはそれを見ることができなかったため、故郷に帰ろうとしました。しかし、エマオへ向かう途上において、弟子たちの目が開かれ、イエス様の死が私たちのための死であり、私たちのための血潮の十字架であったということを悟るようになったのです。
「18 わたしは、あなたがたを捨てて孤児(こじ)にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。19 あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。」(ヨハネ 14:18-19)
主は、弟子たちが孤児のように孤独に生きるようにはなさらないとおっしゃいました。「わたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり(16節)」「私たちに聖霊を与えてください」と祈ります。どなたが聖霊を送ってくださるのでしょうか。神様がお二人を送りました。一人は御子で、もう一人は聖霊です。それではなぜ聖霊を送ってくださったのでしょうか。私たちを孤児のようにさせてはならないとの思いからです。主がどれほど私たちを配慮(はいりょ)されたかが分かります。私たちはいつも聖霊の力に支(ささ)えられて生きています。御言葉の深い悟りも恵みも、すべて聖霊が開いて下さることで与えられるのです。私たちの知識ではこのような世界は絶対に開かれません。
「20 その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。21 わたしの戒めを保(たも)ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。」(ヨハネ 14:20-21)
主はこのような深い世界について語っておられます。私たちはどのようにして主と一つになれるでしょうか。私たちが愛をもって、主がおっしゃった戒めを守る時に一つになることができます。この深い御言葉に表された世界を知る時、私たちは霊においても、心においても一つになります。そのような美しい時が来るでしょう。「わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、わたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。」アーメン。Ω