2025年04月01日
*日付: 2025年3月30日, 主日礼拝
*場所: 大阪エペソ長老教会
*說敎: 張サムエル牧師
*本文: ヨハネの福音書15書18-16書7節
“18 もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。19 もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。20 しもべはその主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。もし彼らがわたしのことばを守ったなら、あなたがたのことばをも守ります。21 しかし彼らは、わたしの名のゆえに、あなたがたに対してそれらのことをみな行ないます。それは彼らがわたしを遣わした方を知らないからです。22 もしわたしが来て彼らに話さなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。しかし今では、その罪について弁解の余地はありません。23 わたしを憎んでいる者は、わたしの父をも憎んでいるのです。24 もしわたしが、ほかのだれも行なったことのないわざを、彼らの間で行なわなかったのなら、彼らには罪がなかったでしょう。しかし今、彼らはわたしをも、わたしの父をも見て、そのうえで憎んだのです。25 これは、『彼らは理由なしにわたしを憎んだ』と彼らの律法に書かれていることばが成就するためです。26 わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。27 あなたがたもあかしするのです。初めからわたしといっしょにいたからです。”
“1 これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです。2 人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。事実、あなたがたを殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます。3 彼らがこういうことを行なうのは、父をもわたしをも知らないからです。 4 しかし、わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、その時が来れば、わたしがそれについて話したことを、あなたがたが思い出すためです。わたしが初めからこれらのことをあなたがたに話さなかったのは、わたしがあなたがたといっしょにいたからです。5 しかし今わたしは、わたしを遣わした方のもとに行こうとしています。しかし、あなたがたのうちには、ひとりとして、どこに行くのですかと尋ねる者がありません。6 かえって、わたしがこれらのことをあなたがたに話したために、あなたがたの心は悲しみでいっぱいになっています。7 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。”
†先週は《ヨハネの福音書15章17節》まで見ました。今日は続けて《18節》から見ていきますが、その前に、前の部分をもう少し見たいと思います。今、私たちはイエス様の告別説教を見ています。この説教を通して、イエス様は私たちが必ず悟ることを願われた真理、私たちに教えることを願われた核心的な真理をお語りになりました。決して変わることのないもの、それが真理です。昔のギリシャの人々は真理を見い出すことを望んでいました。彼らは移り行く世界に不変の真理があると信じ、それを探し求めました。ディオゲネスという哲学者は、真昼に行灯を持って、真理を探ろうとアテナイ通りを歩き回ったそうです。それほど多くの人々が真理を知ろうとしました。では、その真理とは何でしょうか。それは何かの理論なのでしょうか。そして、それはどこに書かれているのでしょうか。もし真理があるなら、シンプルであればあるほど良いでしょう。イエス様は「私が真理であり」と仰いました(ヨハネ14:6)。この御言葉を私たちがしっかりと記憶し、心に留める必要があります。
また、《15章》前半において、イエス様は「私たちが主と一つになるとき、豊かな実を結ぶことになる」という真理を教えてくださいました。 「ぶどうの木と枝の比喩」を通して、私たちがイエス様といつも愛の中で一つになるべきだと仰いました。神様は天におられ、神の御子も今や天にあげられようとしていると仰いました。それでも、私たちが主と一つになれば豊かな実を結ぶようになると仰いました。そして、私たちが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられるということでした。
先週の説教では、《ヨハネの福音書15章12節》の「新しい戒め」について話しました。新しい戒めが愛の戒めであること、そして、その戒めは黄金律の御言葉とも全てつながっていると言いました。イエス様はある理論を本に書いて残したり、ある教理体系を教えたのではありません。主の教えは次元が異なるものです。イエス様は人生において全てを現わされました。今、光(栄光)が暗闇の中で輝きを放つようになりましたが、その光こそが「十字架の道」でした。これは極めて逆説的です。八福の教えも見てください。すべて逆さまになっていませんか?世の中ではお金があれば幸いだとされますが、イエス様は貧しい者が幸いだと仰いました。この世では日々喜び楽しんで生きる者が幸いな者とされますが、主は嘆き悲しむ者が幸いだと言いました。力のある者がこの世では幸いだとされますが、主は平和をつくる者が幸いだと仰いました。これらはすべて思いがけない知らせです。より簡潔に言えば、とんでもない話です。しかし、これは実際には、全く新しい話でした。根本的に次元の異なるメッセージであり、教えでした。弟子たちはイエス様の人生、そしてその啓示的な出来事を見ながら、神様を見たと告白しています。神様の顕現を見、神様の愛を見、神様の真理を見るようになったということです。それを聞いただけではなく、目で見て、また手で触れた出来事を証言しているのです。
「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。14わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。」(ヨハネ15:13-14)
愛とは、友のためにいのちを捨てる事であると仰いました。いのちは最後の息です(韓国語訳聖書では、「いのち」を「喉息(のどいき)」と訳出)。最後の息というのは、喉の息のことです。生まれたばかりの赤ちゃんは下腹部で呼吸をします。そのため、息をするたびにお腹が膨らんだり、へこんだりします。人がだんだんと歳を重ねるにつれて、息をする時に動く部位が変わってきます。お腹から胸へ、胸から喉へと移動します。そして、死の直前には、全身の力が抜けて、喉だけを動かして息をするようになります。その最後の息がいのちです。「いのちを捨てる」という言葉は「最後の息まで尽くす」という意味です。最後のいのちを捨てること以上に大きな愛はありません。私たちは主が歩まれたこの十字架の道をどのように証ししなければならないでしょうか。十字架にまさる愛はないということを、私たちは証ししなければなりません。
人は誰でも自分のいのちに対して執着(しゅうちゃく)があります。その執着の深さには驚くべきものがあります。霊的な命も同じです。皆さんが伝道をする時、皆さんの中にキリストの愛を伝えようとする熱意があれば、自然と人々が皆さんに引き寄せられてくるでしょう。人の魂はいのちを得たいと願っています。神様が創造なさった人間の本性は、全て神様に向かうようになっています。たとえ、雲のようなものが神様と人間との間を遮っているとしても、人間には直観というものがあるのです。それゆえ人間は極点(非常事態)に達する時、誰もが神様を呼び求めるようになっています。人間の魂は真理を探し求めるようになっています。人間の魂は生きることを願っています。私たちがキリストの十字架の愛を伝えるなら、聴く人々の中に愛が開かれます。そうすると、人々は涙を流し、その心が開かれて、まるで磁石に引き寄せられるようにして教会にやって来るはずです。教会は、血潮の十字架の、胸が震える愛を語る場所です。私たちがその愛を証言するのです。
「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」(ヨハネ15:15)
イエス様の弟子たちは何を知っていたのでしょうか。彼らは神様を知っていたでしょう。神様の愛が何か分かったはずです。愛は力によって支配するものではなく、高い地位に上がるものでもありません。愛が強ければ強いほど、私たちは弱くなるのです。この世界はただ啓示の光を見た者だけが見ることができます。その光を見た者だけがこの御言葉を読む時、その意味を理解することができます。彼らは、なぜこの御言葉が語られたのかを知っています。皆さんは知ることができたでしょうか。これを知った瞬間、新しい世界が開かれるのです。これを価値観の転換、価値観の終末と言いいます。だからこそ、贖いの出来事(十字架の道)は最も深い苦痛でしたが、それが最も深い喜びになりました。どうすれば苦痛が喜びになりますか。痛みがあるのにどうして喜ぶことができるでしょうか。喜びはどこから来ますか?喜びは愛から来るものです。その痛みが喜びになるのは、その痛みが「愛の痛み」であるからです。私たちはイエス様の痛みが、私たちへの愛であったということを知るようになりました。しかし、当時の弟子たちはそのことに気づきませんでした。最後の説教の場面を見てください。弟子たちはその道を知ることができませんでした。イエス様が最後の道を歩んでおられるということを聞きながらも、よく理解ができなかったのではありませんか?私たちは、十字架の道が「神様の啓示」であることを知りました。それが「神様の顕現」であるということを知りました。私たちは、それを心で知り、信じるようになったのです。「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ 10:10)これはとても重要な御言葉です。私たちは心で愛を理解するようになるからです。
今日の本文である《18節》から読もうと思います。この部分は、《ヨハネの福音書15章18節》から《16章6節》までまとめて見ると良いでしょう。
「18 もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。19 もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。」(ヨハネ15:18-19)
イエス様は世があなたがたを憎むと仰いました。世が私たちを憎む理由は、まず世がイエス様を憎むからです。イエス様は今、十字架の苦難の道を歩む前に、これから起こることについて話しておられます。
イエス様の弟子たちが真理を悟ったとしても、主が直面しておられた現実には、真理に反対する世の王と世の統治者たちがいました。ですから、イエス様には弟子たちに伝えるべきことがたくさんありましたが、例えとして伝えることしかできなかったのです。「これらのことを、わたしはあなたがたにたとえで話しました。もはやたとえでは話さないで、父についてはっきりと告げる時が来ます。」(ヨハネ 16:25)
私たちは今、自由のある場所で信仰を持つことができています。私たちは自由という価値を擁護します。そして、あらゆる自由の中で第一の自由は信仰の自由です。しかし、いまだにこの地には、信仰の自由がない国が数多く存在します。世は180度異なる価値観で動いているため、私たちが新しい法に従って生きるようになれば、世の人々が私たちを憎みます。私たちには新しい世界がやって来て、新しい真理が王としての役割を果たす世界の民になりましたが、世の人々は私たちの行く道に対してどのように反応するのでしょうか。最初は憎み、その次に迫害します。真理の道を歩む者は、狭い道を歩くことになっています。山上の垂訓を見ると、これらのことが全て記録されています。実に全てが凝縮された教えです。八福の教えの最後の教えが何でしょうか。義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからだと言われています。「この地においては、あなたがたは迫害されるが、天における報いは大きい。だから、喜びなさい」と仰いました。 これは、真理を放棄することなく、あなたがたに臨んだその世界を決して諦めることなく、その道を歩みなさい、という意味です。
そして、その道を歩いていく時、あなたがたは決して孤独ではないと仰いました。その道を歩むことのできる力はどこから来るのでしょうか。一つ目は真理であり、二つ目は愛です。それを誰が与えてくれますか?助け主である聖霊が来られて私たちを導き、守ってくださると仰いました。それゆえ、絶望してはならない、ということです。憎まれても諦めてはいけません。憎しみについてはこれ以上解釈しなくとも、皆さんはよく理解していることでしょう。 なぜなら、私たちは実に多くの迫害を受けた教会だからです。最近は、迫害がありますか? 世からの迫害以上に、教会内における迫害がより多く、より深刻です。プロテスタントでは宗教改革期に、どれほど多くの人々が迫害を受け、命を奪われたでしょうか。教会の中にいることがより残酷であり、悲惨でした。ヨセフもまた、実の兄弟たちから憎まれたのではありませんか?彼は11番目の末っ子でしたが、父親が長子に与えるそでつきの長服を彼に着せたことが、兄弟たちの憎しみを買う発端となりました。私たちもまた、なぜ迫害を受けるのでしょうか。主が私たちを選び出されたからです(19節)。選ばれた者は愛された者であり、愛を知る者です。それゆえ憎まれることになるのです。私たちは選ばれました。何のために選ばれたのでしょうか。それは、狭い道を行きなさい、という選びであったのです。
神様はヨナを選択されたように、私たちを選択されたのです。私たちが主を選んだのではなく、主が私たちを選択なさったという事実を逃さずに、必ず掴まえていかなければなりません。
世のすべての文化と象徴は偉大さを追求することに関するものです。しかし、私たちは宮殿を作るつもりは全くありません。私たちの強みはどこにあるでしょうか。私たちの心はどこにあるのでしょうか。それは謙虚さにあります。弱さにあります。私たちの心は、四旬節の期間にさらに低くなり、より弱くなります。だから、この世界を悟ることになるのです。このような心なしに成し遂げられたものは全て、砂上の楼閣のようなものです。山上の垂訓の最後の部分では、砂の上に自分の家を建てる者にならないようにと述べられています。結局は全て倒されてしまうからです。すべて風のように消えてしまうからです。「あなたたちが探す真理がここにある。移り行く世界において不変の真理がここにある。 あなたがたが進むべき道がここにある。あなたがたの生きる道と命はここにある。これを見なさい!」主は最後の説教でそのことを仰っているのです。この道だけが永遠であり、この道だけが生きる道なのです。
しかし、誰かから憎まれることは苦しいことです。それゆえ、私たちはイエス様を眺めければなりません。 「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。…」(へブル12:2a)私たちは主が受けた憎しみを考えなければなりません。そうする時、私たちは勝つことができます。この道が世とは違う道であるため、世は私たちを憎むことでしょう。それでも、この道は見知らぬ道ではありません。私たちに見せてくださった、昔からの通り道、幸いに至る道です。「主はこう仰せられる。「四つ辻に立って見渡し、昔からの通り道、幸いの道はどこにあるかを尋ね、それを歩んで、あなたがたのいこいを見いだせ。しかし、彼らは『そこを歩まない』と言った。…」(エレミヤ書6:16a) その道は狭くて、細く、そこを通る人が少ない道です。しかし、私たちはその道を見つけたのです。
「20 しもべはその主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。もし彼らがわたしのことばを守ったなら、あなたがたのことばをも守ります。21 しかし彼らは、わたしの名のゆえに、あなたがたに対してそれらのことをみな行ないます。それは彼らがわたしを遣わした方を知らないからです。」(ヨハネ 15:20-21)
歴史的に見て、どれほど多くの人が迫害を受けて、命を奪われたか分かりません。この御言葉は歴史的な慰めです。2000年の長い歳月を通して、どれだけ多くの人々が苦しみの中でこの御言葉を読んだのか分かりません。そして、主が受けられたこの迫害を思い起こしました。今日の世界においても、このように迫害を受ける国がたくさんあります。自由をすでに得た者たちは、いまだに迫害を受けている人々のことを覚えて、彼らを守り、彼らを慰める責任があります。彼らの涙をぬぐい、苦痛に苛まれるその心を慰める責任があるのです。
「22 もしわたが来て彼らに話さなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。けれども今では、彼の罪について弁解の余地はありません。23 わたしを憎んでいる者は、わたしの父をも憎んでいるのです。24 もしわたしが、ほかのだれも行なったことのないわざを、彼らの間で行なわなかったのなら、彼らには罪がなかったでしょう。しかし今、彼らはわたしをも、わたしの父をも見て、そのうえで憎んだのです。25 これは、『彼らは理由なしにわたしを憎んだ』と彼らの律法に書かれていることばが成就するためです。」(ヨハネ15:22–25)
この御言葉は詩編からの引用です。「偽り者の、私の敵を、私のことで喜ばせないでください。ゆえもなく私を憎む人々が目くばせしないようにしてください。」(詩35:19)「ゆえなく私を憎む者は私の髪の毛よりも多く、私を滅ぼそうとする者、偽り者の私の敵は強いのです。それで、私は盗まなかった物をも返さなければならないのですか。」(詩69:4)憎しみの理由は何ですか? 憎しみには理由がありません。原因がありません。根拠がありません。すでに記録された御言葉にそのようにあります。私たちには理由と根拠のない迫害、そして苦痛の日々があることでしょう。しかし、十字架の道を歩むあなたがたのために、このようにすでに聖書に御言葉を書き留めたのではないか、ということです。彼らが私たちを憎むのには理由がないのです。
「26 わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。27 あなたがたもあかしするのです。初めからわたしといっしょにいたからです。」(ヨハネ15:26–27)
ここから御霊について語られます。イエス様が十字架の上でお亡くなりになり、その後は何がどうなるのでしょうか。御霊が来られるのです。
「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです。」(ヨハネ16:1)
多くの人々は迫害を受けるとつまずきます。それゆえ、イエス様は私たちがつまずかないようにと、この御言葉を前もって話されたのです。かつては、私たちの教会に人がやって来たら、少なくとも3年は経たなければ正式なメンバーとして認められませんでした。そして、私たちの教会は毎年教会暦に従って生きるので、四旬節の期間に必ず教えなければならないことを教えました。主の御言葉は真理の道であり、諦められない道です。神様が私たちを選択して私たちに義の道を歩かせました。この道は真の道ですから、絶対に諦めることはできません。そして、主が私たちにつまずかないようにと教えてくださいました。私たちがこの四旬節の期間、この御言葉を聞くたびに、より強くなります。 その理由は、私たちがいのちの道について、そして私たちの人生について、より一層深い悟りを得るためです。この期間は自己認識が明確に確立される期間になります。
「人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。…」(ヨハネ16:2a)
私たちがこの御言葉を読む時、その正確なニュアンスはすぐには分かりません。ここでの追放は単に「この教会から出て行け」ということではありません。「この教会から去れと言われれば、別の教会に行く」というようなものではありません。ユダヤ教からの追放は、そのいのちの全てが断絶されることを意味します。それはある意味で、死よりも辛いものです。
皆さん、私たちが受ける迫害は一方的なものです。クリスチャンは迫害が受けるということを教会は教えなければなりません。しかし、最近は教会でこのことを教えていません。教会は迫害があるということを伝え、教えなければなりません。それでこそ、迫害を受けても、それに耐え抜いて打ち勝つことができます。なぜ私たちが迫害を受けたのですか? 私たちが世とは違うからです。私たちが世と同じなら、私たちを迫害するはずがありません。私たちが偽りの世界において真の道を歩む時、迫害を避けることはできません。そして、追放されるでしょう。
「…事実、あなたがたを殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます。」(ヨハネ16:2b)
これは誰についての話ですか? これは神殿の中での話です。ここで言う迫害は、教会の中で起こる迫害です。 前章(15章)で言及したように、「世は私たちを憎む」ということです。これは世の普遍的な価値観を示すものです。私たちは新しい真理の中に生きていますが、世は耳があっても聞くことができず、目があっても見ることができないので、私たちを憎みます。
そして、《2節》は教会の中で起こる迫害です。彼らは迫害しながら、自分は神に奉仕しているのだと考える、ということです。教会の中でこのようなことが起こることを主は知っておられたので、私たちに備えさせたのです。主はご自身が歩むことになる途方もない茨の道を前にしながら、この羊の群れに起こる未来の出来事を事前に話し、彼らを心配しながら、決して折れてはならないと勧告なさいました。彼らがつまずかないために主はそうなさったのです。
「3 彼らがこういうことを行なうのは、父をもわたしをも知らないからです。 4 しかし、わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、その時が来れば、わたしがそれについて話したことを、あなたがたが思い出すためです。わたしが初めからこれらのことをあなたがたに話さなかったのは、わたしがあなたがたといっしょにいたからです。 5 しかし今わたしは、わたしを遣わした方のもとに行こうとしています。しかし、あなたがたのうちには、ひとりとして、どこに行くのですかと尋ねる者がありません。 6 かえって、わたしがこれらのことをあなたがたに話したために、あなたがたの心は悲しみでいっぱいになっています。」(ヨハネ16:3–6)
この御言葉を読むと、主の道に沿って歩むというのが、このようなものであると分かるようになります。イエス様の中には喜びが満ちていした。「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。」(ヨハネ15:11)主は愛によって苦痛を飲み込み、それがかえって喜びになったのです。 しかし、弟子たちの中には不安が満ちていました。
「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。」(ヨハネ16:7)
この「真実」という言葉が重要ですから、そこに下線を引いてください。イエス様はご自分が去って行かれる時、助け主である聖霊が遣わされると仰いました。そして、そのことが私達にとって実に有益なことであると仰るのです。これからどのような時代が開かれるのでしょうか。聖霊の時代が幕を開けるのです。教会が聖霊の力の中で生きる時、教会になることができます。そうすれば、私たちは聖霊の時代、恵みの時代に生きることができます。
主がご自分を無にし、低くなられ、服従され、私たちを贖い、復活して昇天なさることによって神様の啓示が成就されました。そして、その次に何が来るのでしょうか。聖霊の時代が開かれました。そうして使徒の働きが書かれるようになるのです。
私たちが迎えた聖霊の時代は、主のこの驚くべき愛の苦痛、悲しみ、涙、受難の十字架を通して開かれた世界です。今、主が去っていかれる瞬間です。胸に込み上げてくるものがあります。主は最後の瞬間まで、「あなたがたが孤独で大変でも、この道を歩まなければならない。 しかし、あなたがたを決して捨て置くことはしない。私は助け主なる聖霊をあなたがたに遣わす」と約束され、その道を歩いて行かれました。Ω