2025年04月07日
*日付: 2025年4月6日, 主日礼拝
*本文: ヨハネの福音書16書7-21節
†四旬節を過ごしながら、私たちは告別説教を続けて見ています。今日は前回の説教に引き続いて、《ヨハネの福音書16章7節》から見ようと思います。
「しかし、わたしは真実を言います。…」(ヨハネ 16:7a)
「真実を言います」とは、イエス様が「私が真実をあなたたちに語っている」という意味です。なぜ、主がこのような言葉を仰るのかを理解するためには、この告別説教がどのような状況下で語られたのかをまずしっかりと理解しなければなりません。今はイエス様が弟子たちに語る最後の説教の時です。それゆえこの説教の重要性を特に強調する意味で「しかし、わたしは真実を言います」と仰ったのです。
「…わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。」(ヨハネ 16:7b)
《ヨハネ 16章》の重要な主題は「御霊に関すること」です。特に、御霊がなさったことが何かを物語っています。前の《14章》にも、主が御霊について簡潔(かんけつ)に説明してくださいました。「16 そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。17 この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。18 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。」(ヨハネ 14:16-18)御霊が私たちと共にいるので、私たちは決して一人ではありません。
多くの人が信仰の道を歩む中で孤独を経験します。苦難の中においては特にそうです。しかし、そのような時であればあるほど、私たちは一人ではないということを覚えなければなりません。天には主がおられますし、私たちの内には御霊が共におられることを忘れてはなりません。いかなる患乱(かんらん)や逆境、迫害の中でも、私たちはその事実を忘れてはなりません。
主の弟子たちが受けた迫害とは具体的にはどのようなものだったのでしょうか。一つは追放(ついほう)であり、もう一つは死刑(しけい)でした。この二つはイエス様も受けられた迫害でした。追放はユダヤ人達にとっては実に苦しいものでした。これは彼らにとって命のように大切であった、すべてのつながり、関係性からの根本的な断絶(だんぜつ)を意味していました。イエス様は弟子たちが追放され、殺されることまですべてご存知であったため、今彼らを慰めておられるのです。歴史的に見ても、迫害は信仰の道を歩んできたすべての人々が経験したものでした。真理を証言し、世とは異なる道を歩んできた主の民たちは皆、等(ひと)しく周囲(しゅうい)から憎まれ、迫害を受け、追い回(まわ)され、殺されました。そのような中で、あなたがたがどうあるべきか。イエス様は《16章》の結論部分において、「 勇気を出しなさい」と仰いました。この道を歩む中で、希望は潰(つい)え、すべてが失敗に終わったかのように見えるとしても、決してそうではありません。それゆえ、「勇気を出しなさい」ということです。「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ 16:33)イエス様は残酷(ざんこく)な苦痛の瞬間を迎える前に、弟子達に「この道は必ず通らなければならない道であり、あなたがたのための道なのだ。そして、たとえあなたがたが一人になったとしても、勇気を出しなさい」と仰っているのです。歴史的に見れば、数多くの殉教者がこの御言葉を心に刻んで、あらゆる逆境を乗り越え、勇気を出して前進してきました。私たちが《16章》を読みながら、主の慰めの声を同じく心に留めておくなら、私たちに近づいてくるいかなる災(わざわ)いや逆境をも克服(こくふく)することができるでしょう。
イエス様は、聖霊を私たちに送るために、ご自分が去らなければならないと言われました。ですから、イエス様は「わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益になる」と弟子たちに言われたのです。ところが、《マタイの福音書》の最終章である<28章>の御言葉において、主は「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(マタイ 28:20)とお語りになりました。それでは「去って行く」ということは何(なん)であり、同時(どうじ)に「いつも、あなたがたとともにいます」という約束は何でしょうか。相反(あいはん)するように見えるこの二つの箇所は、どのように調和(ちょうわ)できるのでしょうか。これは「イエス・キリストがこの地で弟子たちと共におられた時代は終わり、今や他の方(御霊)が来られて、あなたがたと共に歩んでくださるだろう」ということです。
それは新しい時代、より良い時代、御霊の時代の到来を意味します。それで「わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです」とイエス様は仰ったのです。では、その益とは何でしょうか。イエス様がこの地上で肉体をお持ちであった時は、人々はその時、その場所でしかイエス様に会うことはできませんでした。ある人がイエス様に会っている間は、別の人はイエス様に会うことができません。イエス様が世の中を統治なさる範囲(はんい)と人と接(せっ)する範囲が非常に制約(せいやく)されるからです。しかし、神様が遣わしてくださる御霊は、いかなる制限(せいげん)も受けることなく、誰もが会うことができます。このように私たちが御霊の時代を迎えるようになりました。御霊が私たちと共におられる新しい時代が到来したのです。それがまさに私たちにとって益になると、主は仰ったのです。
「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤(あやま)りを明らかになさいます。」(ヨハネ 16:8)
この箇所で、イエス様は「御霊がなさること」について直接お語りになりました。御霊は、まず第一に罪について、第二に義について、そして、第三に裁きについて世にその誤(あやま)りを認めさせます(叱責する・非難する〈韓国語訳/KJV〉)。ここで「誤りを明らかになさる」という表現が使用されています。この言葉には、法廷において罪を明らかにするという意味があります。それは罪人が自らの罪を悟るまで徹底(てってい)的に真実を追求(ついきゅう)し、その事実を確かなものとすることです。御霊がそのようなことをなさるということです。
「罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。」(ヨハネ 16:9)
まず、御霊が罪について世にその誤りを認めさせると言いました。この尋問(じんもん)が最も重要です。私たちの罪とはどのような罪でしょうか。イエス様を信じないことが罪だと言います。世の人々は、「放(ほう)っておいてくれ。私は私の道を行く」(Let it be, My way )と言います。「なぜ神様が私を選択するのですか?」 「なぜ私にキリストを信じなければならない義務があるのですか?」と言います。御霊はまさにその世界を非難し、咎(とが)めるということです。私たちが 主を信じなければならないことを知らせてくださり、信じないことが罪であることを知らせてくださるということです。
なぜ私たちが主を信じなければならないのでしょうか。なぜ私たちに主が必要なのでしょうか。この問題は、私たちの信仰の弁証の中で最も基本的なものです。《ローマ書1章》の最後の部分に、この問題に対する答えが記されています。第一に、神様の御前において、なぜ私たちが罪人であるのか? 第二に、なぜ私たちに主が必要なのか? 神様の御前において私たちが罪人である理由は、私たちが神様の存在を認めず、代わりに他の偶像を崇拝して、神様に感謝することも、栄光を帰することもしないからです。 そして、私たちに主が必要な理由は、罪人が受けるべきものは死刑しかないからです。死刑は何かというと、永遠の刑罰です。では、永遠の刑罰とは何でしょうか。それは地獄に閉じ込められることです。 罪人は結局すべて地獄に行くことになっています。それゆえ、私たちが地獄に行くことがないように、私たちにはイエス様が必要なのです。
人間がこの地上で王座(おうざ)に着(つ)き、どれほどの富貴利達(ふうきりたつ)を享受(きょうじゅ)したとしても、結局彼の最期(さいご)は地獄なのです。聖書はこの究極の世界について語っています。したがって、事は食べて生きるといった単純な問題ではありません。罪の中に置かれている人間は、宿命的に永遠の刑罰に定められているのです。私たちがこの宿命をいかに克服(こくふく)するのか。いかに罪を捨て去り、自由を得て永遠の祝福の世界に行けるかが鍵です。その世界こそが神の御国です。それゆえ、求道者(きゅうどうしゃ)がイエス様に投げかけた問いが、「どうすれば神の国を見ることができるか?」というものでした。
私たちがその国をどのようにして見る事ができるのでしょうか。そのためには、私たちがまず自らの罪を認め、それを告白して悔い改めなければなりません。そこで、御霊が私たちのもとに来られ、まず最初に私たちの罪についてその誤りを認めさせ、私たちに罪を悟らせるのです。それゆえ、御霊の働きが起こる場所では、必然的に人々が罪を自ら告白し、悔い改めるということが起こります。
それでは、私たちが告白し、悔い改めるべき罪とは何でしょうか。永遠の死に定められていた人間を救うべくこの地に来られた救い主を信じなかったことです。イエス様を信じるか信じないのかは選択の問題ではありません。私たちは当然主を信じなければならないのです。それゆえ私たちは救いを受けなければなりません。
イエス様は救いについて全てを私たちに教えてくださいましたが、それをより明確に悟らせてくださるお方が御霊です。この地にいる人間が主の御前に立ち返る時、そこには必ず御霊の働きがあります。人が自らの罪を告白し、悔い改め、激しく泣き叫びます。御霊が私たちの心を揺(ゆ)さぶり、凍(こお)りついた心を溶(と)かし、罪を知らしめ、間違った考えを直してくださいます。これを御霊の内なる証といいます。
「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。」(ヨハネ 16:10)
第二に御霊がなさることは、私たちに義について知らせてくださるということです。ここで言う義とは何でしょうか。「わたしが父のもとに行くこと」が「義」であると仰います。この言葉は何でしょうか。実に解釈が難しい部分です。イエス様が父のもとに行くということは、主が死なれることを意味します。イエス様が神様のもとから来られ、今また神様のもとへと戻られるのです。イエス様は罪深い世界に生まれ、弟子(私たち)たちを愛し、私たちのために命を差し出され、今は父の御元にお戻(もど)りになるのです。《ヨハネの福音書》の後半を見ると、主は「完了した」と仰り、それから息(いき)を引き取られました。ご自分の命を捧げて人間を罪から救われた驚くべき主の愛の行為が、まさに「義」です。これは石の上に刻まれた律法とは異なります。これは律法の完成です。そしてこれが「神の義」です。つまり、神様が罪人である人間に向かって施(ほどこ)してくださった神聖で高尚(こうしょう)な御業なのです。
私たちはこれを啓示的な出来事だと言います。「十字架につけられた神様(Crucified God)」です。前回、これが神様の顕現(けんげん)の方式だと説明しました。神様の御子の「贖い」という神秘的な方法を通して、神様が啓示されました。これはとても意外な知らせであり、意外な出来事でした。「 私の目を開いてください。私が目を留めるようにしてください。あなたのみおしえのうちにある奇(くす)しいことに。」(詩119:18)詩篇にあるように、これは実(じつ)に奇しい道でした。イエス様の人生そのものが神様の啓示でした。特に、十字架につけられたその瞬間こそが、神様が最も克明(こくめい)に私たちに啓示された極点(きょくてん)でした。弟子たちはそれをその目で見、耳で聞き、手で触ったと告白しました。
「さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。」 (ヨハネ16:11)
三つ目は裁きについて仰います。この世を支配する者がさばかれたと主は仰います。この世を支配する者とは誰でしょうか。最も高い地位に立つ者です。最も高くなった者が最も低くなるということです。イエス様の驚くべき啓示の出来事は、世の全ての価値観を裁き、砕(くだ)くものです。既存(きそん)の価値観をすべて覆(くつがえ)すものです。「あなたたちが王なのではない」ということです。真の王は平和の王であり、真実の王です。新しい世界は、銃(じゅう)と刀で支配する世界ではありません。聖霊様が世の王をすべて責(せ)め、明らかにされるということです。
「あなたがたに話すことはまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐えられません。」(ヨハネ 16:12)
イエス様には話すことが山のようにたくさんありました。しかし、その時の弟子たちには、それに耐える力がありませんでした。
「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。…」(ヨハネ16:13a)
「真理の御霊が来て、私たちを導いてください」という願いが、古くからユダヤ人の詩と預言の中にありました。そんな切実(せつじつ)な願いが彼らにはありました。
これは新しい願いではありません。あなたがたが長きにわたって待望していた真理が王となる世界、真理が治める美しい世界が今や来るのだとイエス様は仰っています。
御霊はどのようなお方でしょうか。より明確に定義するなら、「真理の御霊」です。 御霊が私たちを慰め、私たちに罪を悟らせ、私たちに愛を知らせます。御霊の使命には様々なものがありますが、その中で最も明確なものの一つは「真理の御霊」です。使徒ヨハネが《第一ヨハネの手紙》にもこのように書き記しました。
御霊は私たちを真理に導きます。他の言葉で言い換えるなら、真理の本体であるイエス様へと私たちを導いてくださいます。
「…13b 御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。14 御霊はわたしの栄光を現されます。わたしのものを受けて、あなたがたに伝えてくださるのです。」(ヨハネ 16:13b-14)
ここで語られていることは、イエス・キリストと御霊は一体だということです。神様とイエス様、そして御霊が三位一体です。それゆえ、私たちが孤独を感じる必要はありません。どのような弱さを抱(かか)えているとしても、人と距離を置いているとしても、絶対に皆さんは一人ではありません。どんな状況に置かれていても、御霊が皆さんと一緒におられることを忘れないでください。ですから、主はここで、すべての苦難と逆境を乗り越えなさいとの励ましの言葉を語っておられるのです。
「父が持っておられるものはすべて、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに伝えると言ったのです。」(ヨハネ 16:15)
この箇所も三位一体について話しています。 今、私たちは非常に重要な教理である三位一体について見ています。父(神様)と御子(イエス・キリスト)は一つです。 そして、キリストと御霊は一つです。これが三位一体です。
16 しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなりますが、またしばらくすると、わたしを見ます。」17 そこで、弟子たちのうちのある者たちは互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見る』、また『わたしは父のもとに行くからだ』と言われるのは、どういうことなのだろうか。」18 こうして、彼らは「しばらくすると、と言われるのは何のことだろうか。何を話しておられるのか私たちには分からない」と言った。(ヨハネ 16:16-18)
「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなりますが」次の日が来れば、主は捕らえられてしまいます。主は十字架の道を行かれるのです。しかし、その事実を弟子たちは知りませんでした。「またしばらくすると、わたしを見ます」これはまもなく起こるイエス様の復活を語っているのです。しかし、弟子たちは復活について悟りもしませんでした。主はそのようなもどかしい雰囲気、状況の中で、最後の告別説教をお語りになったのです。
「イエスは、彼らが何かを尋ねたがっているのに気づいて、彼らに言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見る』と、わたしが言ったことについて、互いに論じ合っているのですか。」(ヨハネ 16:19)
イエス様は「弟子たちが質問したがっていることを知っていた」と記録されています。この箇所と併(あわ)せて読まなければならない箇所が《23節》です。
この時は、弟子たちが主の御言葉を理解できなかったので質問しました。しかし、その日には彼らは全てを理解し、それ以上主に何も尋ねないということです。その日とはどのような日でしょうか。十字架を背負って歩まれた、その苦難の深い意味を知る日です。その日には主に何も尋ねないということです。
四旬節になると、私たちは主の十字架を深く黙想します。そして、主を信じ、主に従いながら、最後まで主とともに歩んでいこうと心を定めるのです。《マルコの福音書》を見ると、マルコがイエス様が連行される現場を目撃したにもかかわらず、逃げ去ったことが記録されています。ペテロもイエス様を3度も否定して逃げました。では、私たちがイエス様の偉大な愛と十字架の道を深く理解したなら、その次に何をしなければなりませんか?主に同行しなければなりません。
使徒パウロは、《ガラテヤ人への手紙2章》に主と同行する世界を描(か)いています。主と共に十字架につけられ、主と共に生き返るという深い世界を告白しています。「19 しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。20 もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」(ガラテヤ 2:19-20)
「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜びます。あなたがたは悲しみます。しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。」(ヨハネ 16:20)
主は今、ご自分の受難について語っておられます。《ゼカリヤ書》には次のような言葉があります。「剣(つるぎ)よ、目覚(めざ)めよ。わたしの羊飼いに向かい、わたしの仲間に向かえ──万軍の主のことば──。羊飼いを打て。すると、羊の群(む)れは散(ち)らされて行き、わたしは、この手を小さい者たちに向ける。」(ゼカリヤ 13:7)このような苦難を前にして、主はこう仰っているのです。「あなたがたが御言葉をよく心に留め、あなたがたが決して一人ではないことを深く感じ、悟りなさい。そして勇気を出しなさい。あなたがたは一人ではない。神様があなたがたの側にいる。御霊があなたがたと共にいることを知りなさい。」
「主の日が来れば、苦難がある。」主はそのような苦難の時が来たということを言われたのです。新しい時代が来る前に、天と地が揺れ、太陽と月は光を失い、星は天から落ちると言いましたが、そのような時代が来たということです。そのすべてが新しい時代の到来に先立って起こる陣痛(じんつう)のようなものであり、私たちは苦難と苦痛を避けて通(つう)ることはできないということです。「それゆえ、私はこの道を歩むのだ」と主は言われたのです。
「女は子を産むとき、苦しみます。自分の時が来たからです。しかし、子を産んでしまうと、一人の人が世に生まれた喜びのために、その激しい痛みをもう覚えていません。」(ヨハネ 16:21)
あらゆる苦難の過程を経(へ)て何が来ますか。新しい時代が来ます。まるで女性が苦しみを通して我が子を産むように、新しい時代もそのような苦痛の過程を経て到来するのです。母親は陣痛を忍耐します。なぜその痛みに耐えることができるのでしょうか。子どもを産んだ後の喜びが比較(ひかく)にならないほど大きいからです。《ローマ人への手紙8章》に次のような御言葉があります。「今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。」(ローマ 8:18)栄光は苦難を飲み込みます。苦痛は喜びに飲み込まれます。現代と新時代の間にある期間は中間時代と呼ばれ、それは苦難の時代です。私たち聖徒は皆、人生の中でこのような苦難を経験します。この言葉は、当時のイエス様の弟子だけでなく、キリストに従って弟子の道を歩もうとする全ての者が経験する世界です。したがって、イエス・キリストに従う者は、この世界を深く理解していかなければなりません。これが真のクリスチャンになる過程です。
この四旬節の期間、この十字架の栄光を深く黙想し、主の苦難に参加する私たちになりましょう。お祈りいたします。Ω
The steadfast love of the Lord never ceases His mercies never come to an end They are new every...
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