礼拝説教

子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください


2025年04月13日

*日付: 2025年4月13日, 主日礼拝
*本文: ヨハネの福音書17書1-5節

†復活祭を1週間後に控(ひか)えています。この期間、私たちが告別説教を見てきました。誰かが遺言(ゆいごん)を残したとするなら、それは決して軽い問題ではありません。同様に、イエス様が最後の瞬間にお語りになったお言葉の中には、非常に大切な意味が込められています。《ヨハネの福音書13章》から《16章》にかけてイエス様の告別説教が記録されており、《17章》には告別の祈りが記録されています。告別の祈りには二つがあります。一つはゲッセマネの祈りであり、もう一つは十字架上での祈りです。しかし、《17章》の告別の祈りは、弟子たちと共に捧げた最後の祈りです。この祈りは、主が現代の教会のためにお捧げになった祈りであり、ひいては世界のためにお捧げになった祈りです。

主が最後に何を祈られたのか、その祈りの流れを私たちがよく知らなければなりません。この祈りは4つの段落から構成されています。

 《ヨハネの福音書の17章1-5節》までは「御子の従順を通して現される神様の栄光」についてです。この部分を読むと、イエス様がどのように生きられたのか、神様の御子イエス様はどのようなお方なのか、イエス様がどのような心をお持ちになり、どのように生きられたのかが分かります。この祈りを読むなら、私たちの考え、そして私たちの人生がイエス様とどれほどかけ離れたものであるかを知るようになります。しかし、私たちはこの部分を何度も読みながら、私たちが主のお考えとその人生に似ていこうとしなければなりません。「そうか、主はあのようにお考えになったのだ。あのような生き方をされたのだ。」私たちはまずそのことを悟り、それからそれに倣(なら)おうとしていく必要があります。
続く《6-19節》は「弟子たちにくださったお言葉」であり、その次の《20-24節》は「世のための祈り」です。私たちの宣教対象は全世界です。《ヨハネ3章16節》に「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。」とあります。ここで「世」に言及されています。信じる者たちの宣教の対象はこの世界です。神様の栄光がこの世界に満たさなければなりません。
終わりに《25-26節》は祈りの締(し)めくくりです。

今日は《1-5節》までの最初の部分を見てみましょう。

『これらのことを話してから、イエスは目を天に向けて言われた。「父よ、時が来ました。子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。』(ヨハネ 17:1)

「これらのことを話してから」のこれらのこととは何でしょうか。《ヨハネ13―16章》までを指しています。その言葉は次のように区分して見ることができます。第一に、最後の晩餐の場で、ユダが去っていくまでに仰った励ましの言葉があります。第二に、ユダが去って行った後、他の弟子たちだけが残ったその場所で仰った御言葉があります。第三に、御霊について、そして第四に弟子(私たち)たちが受ける苦難について仰いました。

 告別説教の最後の部分で、主は「苦難の中でも勇気を出しなさい」と仰いました。「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ16:33)キリスト教の歴史を見れば、いつの時代も苦難がありました。揺れ動(うご)く波のようです。短期的に見れば、悲劇もあり苦痛もあり、患難もあります。しかし、長期的な視角で見るなら、歴史は必ず勝利します。すでに主がこの世に勝利なさったからです。それゆえ、主は最後に「勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」と仰ったのです。
 「あなた方は苦難に遭(あ)い、人々から憎まれ、迫害を受けるだろう。しかし、それは栄光の日、新しい日の直前にやってくる苦難に他ならない」ということです。ユダヤ人はこのことを明確に理解していました。彼らは、現在の時代と新しい時代の間に必ず苦難が訪れることを知っていました。「あなたがたが今、直面している苦難は、あなたがたが数多くの預言書で読んだ苦難であることを覚えなさい。」これがイエス様のお言葉が意味することです。そして主は、「あなたがたは決して一人ではない」と強調なさいました。私たちが時に荒野(あらの)で孤独になることもあれば、刑務所(けいむしょ)で孤独になることもあり、処刑(しょけい)の場で一人置かれることもあります。しかし、主はそのような時こそ、神様が私たちと共におられ、聖霊が私たちと共におられる瞬間であることを忘れないようにとおっしゃいました。

 私たちは今、信仰の自由が許された地で生きています。しかし、その自由が奪われている人々は、この世界にいまだ数多く存在しています。今日の世界には、死の力に直面して、追い出され、引き裂かれ、恐れを抱(だ)いて生きている教会がまだたくさんあります。今でも、多くの教会が燃やされています。何千人もの教会のメンバーが火刑(かけい)に処(しょ)され、捕らえられ、殺されています。そのような迫害の真っ只中に置かれたクリスチャンがいるということを決して忘れてはなりません。さらに、私たちには彼らを守る責任があることも覚えておかねばなりません。
 最後の告別の説教で、主は悲惨な状況下にある人々に、神様の御子として慰めのお言葉を仰いました。「勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」これらは告別説教の最後の言葉です。主は話すべきことを余(あま)すところなくお話しになりました。

「イエスは目を天に向けて言われた」《ヨハネ11章》にも、これと似た場面があります。『そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。」』(ヨハネ11:41)ラザロを蘇生なさった時に、捧げられた祈りです。イエス様の祈りの焦点はいつもどこにあったでしょうか。天にありました。その祈りを聞かれる方は、いと高きところにおられる神様です。それゆえ天に向かって祈るのです。

 「父よ、時が来ました。」この「時」とは何を意味するのでしょうか。「救いの時」です。罪人を贖う時です。主のこの受難を通して、この十字架を通して、私たち罪人は救われるようになりました。その救いの時が来たということです。
 聖書には「時」について言及されている箇所が実にたくさんあります。『そこで、イエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも来ているのです。」』(ヨハネ7:6)主の時がまだ来ていないと仰った例はたくさんあります。これらは「救いの時」を指していました。しかし、イエスは「あなたがたの時」はいつもここに来ていると言われます。「あなたがたの時はいつでも来ている。」これは、神の御子のお言葉に従う時が今であることを意味します。あなたがたがなすべきことを今やりなさい。イエス様は今、そのように祈っておられるのです。
 そして、私たちはこの祈りに込められた主の従順を感じることができます。主は死にまで従われました。《ピリピ人への手紙2章》には、イエス様が死にまで従われたとあります。イエス様は従われることによって栄光の座に着座(ちゃくざ)されました。主のご生涯を一言(ひとこと)で言い表すとしたら、それは「従順」です。主は人類の救いに対する神様の御意志の前に完全に従われました。イエス様は「時が来た」とおっしゃりながら、従順の祈りを神様に捧げておられるのです。

「子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。」ここで「子の栄光を現わしてください」と仰いましたが、表面的には、非常に悲惨で悲劇的な十字架がイエス様の目前に迫(せま)っていました。主は翌日(よくじつ)逮捕(たいほ)され、十字架にかけられました。しかし、その瞬間、彼は十字架にかけられることは栄光であると仰いました。同じ表現が《ヨハネ13章》にもあります。これらは、ユダが主を裏切り、暗闇の中に消えて行った後にお語りになった言葉です。『ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今こそ人の子は栄光を受けました。また、神は人の子によって栄光をお受けになりました。」』(ヨハネ13:31)この「栄光」とは十字架に上げられることを指しています。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。」(ヨハネ3:14)ここでもまた、イエス様が十字架に上げられることが予告(よこく)されました。十字架につけられることは最も悲劇的な死ではありませんか?しかし、なぜ主はそれが栄光だと仰ったのでしょうか。それは、主が受難の意味を深く知っておられたからです。

 主がここで語っておられる栄光とは何でしょうか。光で満たされている状態を「栄光」と言います。しかし、十字架は実際はとても暗いものではないでしょうか。イエス様が言いようもないほどに引き裂かれ、惨(みじ)めにいばらの冠を被(かぶ)らされ、槍で刺され、苦痛を受けられた死の立場です。それは光とは程遠(ほどとお)い、真っ暗な場所です。では、そのような場所がどうして光に満ちた栄光の場となるのでしょうか?どうしてそのようなことがあるでしょうか。そこは、神様の御子が私たちの罪を贖われた場所だったからです。主が上げられたことは私たちのための贖いであり、その十字架は私たちの救いのためでした。それゆえ、十字架が栄光になるのです。私たちを罪から救うための神の御子の受難であったからこそ、その受難が栄光なのです。
 これはエマオに歩いて行った弟子たちが胸を熱くした理由でもあります。イエス様が律法と預言書を通してご自身の死について弟子たちに説明してくださった時、彼らの目が開かれました。その死が単なる死ではないということ、その死が失敗ではないということ、その死は私たちに永遠の命を与えるためのものであり、その死は勝利であったということ。その死は悲惨なものではなく、栄光あるものであったということを彼らは悟ったのです。そうして、彼らはキリストの受難に対する正しい理解を持つに至りました。
 皆さん、私たちもたくさんの苦難を経験します。そのような時、その苦難の意味を深く悟ることが非常に大切です。私たちが今いる場所に至るまでに、どれほど多くの受難があったことでしょうか。私たちがここまで来られたのは、主の十字架を見つめながら歩んで来たからです。もちろん主の十字架とは比較できません。しかし、重要なことは、私たちがその受難の意味を知って生きることです。私たちが歩む道がたとえ受難の道だとしても、私たちの使命を見失うことなく、また受難の意味を忘れることがなければ、私たちもその道が栄光の道だと悟ることでしょう。

 「子の栄光を現わしてください。」イエス様のこの言葉には、父に対する息子の深い慰めが込められています。イエス様は父なる神様の心の苦痛をすべて知っておられました。十字架は父が御子と一緒におられた場所でした。十字架につけられたのは御子でしたが、実際は神様もそこに共におられたのです。父が御子と共にその道を行かれたのです。ですから、御子の苦痛がまさに父の苦痛でした。それゆえ、イエス様は、苦痛の十字架を共に負われた父の苦痛を、今慰めておられるのです。その意味で「栄光」とは、神様に対する御子イエス・キリストの親密な慰めです。「父よ、この苦難の十字架は贖罪の十字架ではありませんか。これは栄光です。」イエス様はそのように祈られたのです。私たちがこの世界を理解することは極めて難しいでしょう。私たちがこの世界に深く入ることは容易ではありません。しかし、私たちがこの祈りの言葉を理解すればするほど、あまりに美しい世界を見ることができます。
 また、この祈りは、イエス様が苦難の中でどれほど雄々(おお)しくあられたかを示しています。《16章》の最後の部分で、イエス様は「勇気をだしなさい。」と弟子たちに勧(すす)められました。そう仰ったイエス様ご自身が何より勇気をだしました。そうして、やがて訪れる苦難と死を栄光だと雄々(おお)しく語られました。《1節》から《5節》において、主は栄光について続けて語っておられます。

イエス様はご自分が苦難をお受けになる時、神様が共におられることを知っておられました。だからこそ、イエス様は強く、勇敢(ゆうかん)であられたのです。イエス様はご自分が歩まれる道を栄光の道だと大胆に仰いました。この中には実に深い世界が込められています。このように、私たちも危機に瀕(ひん)する時、その道をたった一人で歩むのではないということを知らなければなりません。主と御霊が私たちの苦難の中に共におられるということを信じ、私たちも主のように勇気をだすべきです。私たちは毎年この部分を読みます。この言葉(祈り)は、苦難の中にいる私たちにいつも力を与えてくれますし、私たちが苦難の中で、どのようにして正しい姿勢を保(たも)つべきかを教えてくれます。

「子があなたの栄光を現すために」私たちは、人間の存在の目的は神様に栄光を捧げることだと学びました。今、私たちは神様の御子を通して、私たちの人生の究極的な目的が父の栄光を現すことだと改めて知りました。私たちもイエス様に見倣(みなら)って、父なる神様の栄光を現すことを人生の究極的な目標としなければなりません。

「あなたは子に、すべての人を支配する権威を下さいました。それは、あなたが下さったすべての人に、子が永遠のいのちを与えるためです。」(ヨハネ 17:2)

 イエス様はこのように祈られました。父が御子に権威を与えてくださったということです。権威は低いものではなく、高いものです。権威は上からのものです。それは治める力です。イエス様は、神様がその権威をご自分に与えてくださったのだと仰っています。私たちは、イエス様のお考えとその人生の中には、「すべてのものの根源(こんげん)は神様である」との認識が深く根付(ねづ)いていることを知るようになります。この地の権威も栄光もすべては万物の根源者である神様から出たものです。イエス様は、愛する弟子たち、そして永遠のいのちを父なる神様が与えてくださったこと、そしてまた、全ての人々を治める権威も与えてくださったことを語られています。後に続く箇所でも、これを繰り返して話しておられます。
 皆さん、私たちが子どもを育てる時、どのようなことを考えながら、彼らを育てるでしょうか。ただ私が産んだということで、私の子供だと考えるでしょうか。私の夫も妻も、神様が与えてくださったのです。また、私たちが子供を見る時も、神様が私に与えてくださった子供だと考えなければなりません。私たちが常にそのように考え、祈りながら、子供を育てることが正しいのです。

「すべての人を支配する権威を下さいました。それは、あなたが下さったすべての人に、子が永遠のいのちを与えるためです。」神様はなぜイエス様にすべての人を支配する権威を与えてくださいましたか。その理由をここで仰っています。イエス様は「永遠のいのちを与えるため」だと仰いました。ここに「永遠のいのち」という言葉が使われています。ところが、「永遠のいのち」という言葉は、この地上で適用できる言葉ではありません。この地上のすべての目に見える存在は、やがて衰(おとろ)え、死を迎えるからです。この地上のあらゆるものはすべて塵(ちり)のように消えます。では、永遠のいのちは誰に適用できる言葉でしょうか。それはただお一人、神様にのみ適用される言葉です。永遠のいのちの根源者は、神様だからです。
ただ神様だけが永遠なるお方です。イエス様の祈りを見ると、「ただ神様お一人が永遠のいのちをお持ちであり、永遠のいのちは永遠者から来る」と仰いました。ところが、神様がその永遠のいのちを私たちに与えるために御子に権威を与えてくださったと仰いました。人間が有限であるのに、どのようにして永遠のいのちを受けることができるでしょうか。それは永遠なる神様の中に私たちが生きる時、万物の根源であられる神様とつながる時です。そして、その時にのみ、私たちは私たちが受け取る永遠のいのちの意味を見出すことができるでしょう。

「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ 17:3)

 永遠者はただお一人です。その唯一のお方が真の神様です。では、私たちはどのようにして永遠のいのちを得ることができるでしょうか。イエス様は二つのことを知らなければならないと仰いました。第一に、唯一の真の神様を知ることです。そして第二に、神様がお遣わしになったイエス・キリストを知ることだと仰いました。イエス様は永遠の命であられる永遠なる神様から遣わされたお方です。私たちが神様とイエス様を知る時、永遠のいのちを得ることができます。
 では、知るとはどのような意味でしょうか。「知る」とは「愛する」ことを意味します。私たちが主を真に愛する時、主をよく知ることができます。逆(ぎゃく)に言えば、主をよく知ってこそ主をよく愛することができるのです。それゆえ私たちが神様とイエス様を知り、愛する時、私たちが永遠の命を得ることになるのです。これは実に深い意味を持っています。

「わたしが行うようにと、あなたが与えてくださったわざを成し遂げて、わたしは地上であなたの栄光を現しました。」(ヨハネ 17:4)

 この世において、御子が彼の人生のすべてを尽くして神様の栄光を現わしました。はじめてこの地で息をした瞬間から最後の息を引き取るまで、主の人生の一つの目的は永遠の神様の栄光を現わすことでした。弟子たちを育て、牧羊したすべてのことも、神様の栄光を現わすためでした。イエス様を通して神様がこの世に栄光を現わしました。

「父よ、今、あなたご自身が御前でわたしの栄光を現してください。世界が始まる前に一緒に持っていたあの栄光を。」(ヨハネ 17:5)

 イエス様は、世界が存在する前に、神様はすでに栄光をお持ちであったと仰っています。もともと神様はそのようなお方だったということです。それゆえ存在するすべてのものは、永遠なる神様を心と意志と魂を尽くして愛さなければならないのです。私たちは神様を知る必要があり、私たちは神様を愛するように創造されたのです。誰もが神様に向かっています。そのように神様の栄光を現すことが人生の目的なのです。神様の御子イエス様は、息が止まる最後の瞬間まで、その道を歩む決意(けつい)を告白されています。最後の瞬間まで神様に栄光を捧げさせてくださいと祈っておられます。これを見ながら、私たちは「あぁ、イエス様がこのように生きられたのだ。このようなお考えを持って、このような姿勢を持って人生を生きられたのだ!」ということが分かります。

私たちも、イエス様の最後の告別の祈りを通して明らかにされたイエス様の生き方を見習い、ただ神の栄光のために生きる私たちになりましょう。お祈りします。Ω
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