2025年05月19日
*本文:コロサイ人への手紙1章1-8節
†今日からコロサイ人への手紙の講解を始めたいと思います。《コロサイ書》は、一見、気軽に読めそうに思えるかもしれません。しかし実際には、その内容を正しく理解することは容易ではありません。その難しさは、1章の学びを始めた時点で、皆さんも実感することになるでしょう。ただし、この書簡の理解を深めることには大きな価値があります。なぜなら、コロサイ書の理解を深めることは、イエス様をより深く知ることへとつながるからです。それほどまでに、この書簡は重要な意味を持っています。
《コロサイ書》は、パウロの獄中書簡(ごくちゅうしょかん)の一つです。獄中書簡は全部で4つありますが、その中で《コロサイ書》は《エペソ書》と対を成す手紙であり、実は獄中書簡の中で最も早く記された書簡です。しかし実際の配列では、《エペソ書》が獄中書簡の最初に置かれています。これは、エペソ教会が小アジアの7つの教会の中で最も重要な位置を占めていたためです。エペソ教会がこれほどの重要性を持つに至った背景には、いくつかの重要な要因があります。まず、使徒パウロが最も長期にわたって奉仕した教会であり、大きなリバイバルが起こった場所でもありました。さらに、優れた教会指導者たちを輩出し、真理についての深い思索と議論が行われた教会としても知られています。教会の伝承によれば、新約聖書の編纂もこのエペソ教会で行われたとされています。つまり、聖書は突然天から降ってきたものではなく、エペソ教会という場所で編纂作業が行われたのです。このような重要性を持つエペソ教会への手紙であるがゆえに、《エペソ書》が《コロサイ書》よりも前に配置されることになったのです。とはいえ、《コロサイ書》が獄中書簡の中で最も早く書かれたという事実は、この手紙の重要性を物語っています。このことは私たちが常に心に留めておくべき点です。
他の書簡と同様に、《コロサイ書》も公教会に宛てて送られました。公教会に送られた手紙は通常、伝達者によって会衆の前で読み上げられ、集まった聖徒たちがそれを聞きながら共に黙想しました。現代を生きる私たちも、使徒から伝えられた福音、すなわち人類を贖われた驚くべき恵みについての深い教えを、繰り返し学んでいます。この聖書の一節一節には非常に深い意味が込められています。使徒パウロは当時最高の知識人の一人であったからこそ、彼の手紙は極めて体系的で論理的な構成となっているのです。
それでは、私たちはこの聖書にどのように近づくべきでしょうか。最も効果的な方法は、まず聖書の御言葉を全て暗記することです。そして、暗記した御言葉を一つずつ丁寧に反芻していく必要があります。この反芻の過程は、牛の消化の仕組みに例えることができます。牛には四つの胃があり、昼間に食べた草を一旦それらの胃に全て収めます。そして夜になると、その草を再び取り出して、じっくりと時間をかけて噛み返すのです。これを「刻み込み」と呼びます。これが「反芻(はんすう)」です。聖書の御言葉も、このような反芻の過程を必要とします。これは一度で理解したり、消化したりできるものではありません。特にパウロの手紙においては、一節一節が深い意味を持っています。
ですから、改めて強調しますが、この御言葉は全て暗記することが最善の方法なのです。たとえ最初は解釈ができなくても、まずは無条件に暗記することで、その深遠な言葉自体が私たちの記憶に刻まれます。そうすることで、私たちは徐々にその御言葉の意味を理解するようになっていくのです。そして、暗記した御言葉を一つずつ取り出し、じっくりと反芻していく必要があります。
コロサイは非常に小規模な都市で、パウロから教えを受けたエパフラスによって開拓された地でした。この手紙を読むと、パウロが極めて難解で深遠なテーマを扱っていることが分かります。なぜ、このような小さな都市の教会に、パウロはこれほど難しいテーマを教えたのでしょうか。
この疑問に答えるために、まず当時の初代教会を取り巻く時代背景を見てみましょう。当時の世界には、ヘブライ人の住むユダヤの地があり、そこから三日月状(みかづきじょう)に、アンテオケ、コンスタンティノープル、ローマへと続くグレコ・ローマ(Greco-Roman、グリース·ローマ)文明圏が広がっていました。このローマ帝国は、当時最高の文明を誇っていました。その領域には、彼らが培ってきた時代精神、最高の思想や哲学、そして彼らが真理だと信じる宗教的信念が遍在していました。人々は、こうした深遠なテーマについて活発に議論を交わしながら暮らしていたのです。そのような時代に、パレスチナから驚くべき話が広まり始めました。それは全く新しい教え、新しい信仰でした。突如として現れたこの新しい宗教、新しい集団は、自らの知識を誇り、それを議論の題材としていた当時の知識人たちに大きな衝撃を与えました。
その衝撃の理由は、クリスチャンたちが単に霊的な熱意に満ちていただけでなく、全く異なる世界観と歴史観を持っていたからでした。彼らは非常に教義的で、強固な信念を持っていました。さらに重要なことに、その信念を単なる理論に留めず、実際の生活の中で体現していたのです。世俗的な基準では未熟と見なされるような人々が、当時の知識人たちを驚嘆させる言葉を語っていたのです。
《コロサイ書》は極めて難解な書簡です。そのため、私たちは安易な気持ちでこの書に向き合うべきではありません。同様に難解な書簡としてエペソ書がありますが、これはその思想と教えが、深さ、広さ、高さにおいて途方もなく大きく、広大な世界がその中に描かれているからです。コロサイ書もまた、それに匹敵する深さを持つ難しい書簡です。コロサイ教会の置かれていた状況を見てみると、エペソ教会と同様の問題を抱えていたことが分かります。ユダヤ教出身のクリスチャンの中から偽教師が現れ、福音の真理を歪めるような有害な主張をもって信徒たちの信仰を揺るがし、教会内に紛争を引き起こしたのです。このような状況の中で、パウロは「私たちの信仰とは何か」「私たちが信じるイエスとはどのような方なのか」を力強く証ししたのです。
この問題は、今日の私たちが置かれている時代の状況とも驚くほどよく似ています。私たちは、多種多様な思想が入り乱れ、何が真理であるのか見極めることが非常に難しい時代に生きています。このような混迷の時代において、私たちは自分たちが信じる福音について、また私たちが知るイエスについて、どれだけ明確かつ正確に語ることができるでしょうか。私たちが信じているイエス様とは、一体どのような方なのでしょうか。使徒パウロは《コロサイ書》において「イエス様はこのような方です」と明確に説明してくれました。これは彼の信仰告白でもありました。そして、この使徒による宣言こそが、キリスト教の真理として確立されていったのです。
《コロサイ書》を本格的に見ていきましょう。この書簡はA.D.62年頃に記されました。当時の歴史を振り返ると、A.D.70年、エルサレムは陥落し滅亡を迎え、その結果、ユダヤ人たちはディアスポラとして世界各地に離散することになります。コロサイ書が書かれたA.D.62年は、このエルサレム陥落を間近に控えた緊迫の時期でしたから、当時の社会がいかに混沌としていたか想像に難くありません。この手紙は次のような挨拶から始まります。
「神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロと、兄弟テモテから、」(コロサイ 1:1)
ここには二人の名前が記されています。パウロと、彼の同労者であるテモテです。パウロは自身の手紙にテモテの名を併記することで、彼との協力関係を示しています。この時、パウロはテモテと共にローマにいました。ただし、パウロは牢獄に拘束されている身でした。確かに、ある程度の自由は認められ、人と面会することもできる軟禁状態でしたが、それでも看守に繋がれ、鎖につながれた状態でした。コロサイ書は、このような状況下で記された使徒の手紙として、コロサイの教会に届けられたのです。
パウロは手紙の冒頭で、「皆さん、こんにちは、お元気ですか」という一般的な挨拶から始めるのではなく、まず自己の身分を明らかにします。《エペソ書1章》と同様に、彼は使徒としての自己のアイデンティティについて、まず語っているのです。「あなたは誰ですか?」これがアイデンティティ(identity)の問いです。私たちのアイデンティティが揺らぐと、私たちの人生も漂流してしまいます。また、アイデンティティが崩れると、私たちのあらゆる建設的な試みも空しいものとなってしまいます。なぜなら、他のものをいくら積み重ねても、土台となる自己が崩れてしまうからです。では、パウロのアイデンティティとは何だったのでしょうか。それは「私は神の御心によって使徒となった者である」という明確なものでした。
なぜパウロはこのような説明をする必要があったのでしょうか。それは、初代教会内にパウロの使徒性を巡る論争があったからです。パウロは、自分が使徒となったのは神の御心によるものだということを、ここで改めて強調しています。これは、教会に入り込んでいた偽教師たちに対する明確な自己宣言なのです。このようにパウロは自己のアイデンティティを明確に示しました。私たち一人ひとりにも、このような明確な自己認識が必要です。教会には教会としてのアイデンティティがあり、指導者には指導者としての、信徒には信徒としてのアイデンティティがあります。それぞれが固有のアイデンティティを持っているのです。私たちは自己のアイデンティティについて自問自答し、そして他者に対して自分のアイデンティティを明確に語ることができるようにならなければなりません。
「コロサイにいる聖徒たち、キリストにある忠実な兄弟たちへ。」(コロサイ 1:2a)
パウロはこの手紙をコロサイにいる信徒に宛てて送っています。パウロは彼らのことを「聖徒」と呼んでいます。「聖徒」は英語では“saint”と表記され、そこには「聖なる」という重要な意味が込められています。つまり、聖徒とは世から区別された、聖なる者を意味するのです。
「私たちの父なる神から、恵みと平安があなたがたにありますように。」(コロサイ 1:2b)
パウロはどの手紙を書く際も、必ずこのような祝福の言葉で挨拶しました。これは私たちも見倣うべき姿勢でしょう。この手紙は公の教会に向けて書かれたものであるため、より公的な表現になっているのでしょう。
パウロは「恵みと平安」を祈り求めています。恵みが与えられる時、そこに平安が伴うのです。イエス様が私たちに与える平安は、世が与える平安とは本質的に異なります(ヨハネ 14:27)。この平安は、神の恵みをによってもたらされるものなのです。今日、多くの教会で「恵みと平安がありますように」という挨拶が交わされています。これは、パウロの挨拶の形式を受け継いだ美しい伝統となっています。私たちの間にもこのパウロの挨拶が浸透し、日常の会話や手紙を書く際にも、このような祝福の言葉を用いることができれば、どれほど素敵でしょうか。次の3節からは、手紙の本題へと入っていきます。
「私たちは、あなたがたのことを祈るときにいつも、…」(コロサイ 1:3a)
パウロは「あなたがたのためにいつも祈っていた」と語っています。初代教会の信徒たちは物理的には離れていましたが、心は近くにありました。この結びつきを支えた最も重要な要素が祈りでした。祈りは初代教会を一つに結び合わせる力となったのです。使徒パウロはそれを自ら実践しながら、「私はいつもあなたがたのために祈った」と語っています。この手紙は、彼が絶えず祈り、深く愛していた教会に向けて書かれたものです。私たちもまた、互いのために祈ることを欠かしてはなりません。なぜなら、私たちは主にあって兄弟姉妹となった者として、互いを忘れて生きることはできないからです。コロサイ教会は、パウロが直接伝道して教えた教会ではありませんでした。しかし、他の伝道者によって建てられたとはいえ、パウロの宣教ネットワークの中で、キリストにあって結ばれた教会だったのです。
「…私たちの主イエス・キリストの父なる神に感謝しています。」(コロサイ 1:3b)
パウロの心には、常に感謝が満ちていました。彼が具体的に何に感謝していたのかは、この後に続く文章で説明されています。では、私たちの心の中にも感謝の思いは満ちているでしょうか。感謝の心が私たちの内に豊かに満ちあふれるようになれば、日々の出来事を思い巡らすだけでも自然と感謝の念が湧いてきます。このような深い感謝が私たちの心を満たすとき、世俗的な思いが入り込む余地はなくなっていくことでしょう。
「キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対してあなたがたが抱いている愛について聞いたからです。」(コロサイ 1:4)
ここでパウロは、感謝する理由について語っています。エペソ書では歌う理由と祈る理由について語っていましたが、このコロサイ書では感謝する理由を3つ挙げています。
第一の理由は、コロサイの信徒たちの「信仰」に対する感謝です。コロサイの教会では、一人一人の信仰が堅固なものとなり、揺らぐことなく、崩れることもなく、しっかりと立っていました。使徒パウロは、教会と聖徒たちの堅固な信仰について深く感謝していると告白しています。
第二の理由は、すべての聖徒に対する「愛」への感謝です。コロサイ教会での出来事は、詳細に使徒のもとへと伝えられていました。誰が誰を助け、誰と誰が愛の交わりを持ったのか、彼らの愛に満ちた生活の様子が使徒の耳にまで届いていたことでしょう。当時は、すべての情報が人々の足によって運ばれる時代でした。今日のように交通や通信が発達していない時代に、パウロがいたローマはコロサイからはるか遠く離れた場所でした。しかし、そのような距離があっても、初代教会は互いの様子を伝え合いながら生きていたのです。パウロは、彼らの愛の実践についての知らせを聞くたびに、深い感謝の念に満たされました。
初代教会は、このように互いに交わりを持ち続ける教会だったのです。では、私たちはどうでしょうか。信仰の証しや愛の交わりという美しい知らせを、どれほど伝え、また聞きながら生きているでしょうか。そうした知らせに接したとき、私たちはどれほどの感謝を感じることができているでしょうか。パウロは、このような美しい知らせを聞くたびに、心からの感謝を献げたのです。
「それらは、あなたがたのために天に蓄(たくわ)えられている望みに基づくもので、…」(コロサイ 1:5a)
第三の感謝の理由は、信徒たちのために天に蓄えられている「望み」についてです。パウロはここで、「天に蓄えられている」という非常に印象的な表現を用いています。これは、現代の感覚で言えば、人々が安心のために銀行に大金(たいきん)を預(あず)けておくようなものでしょう。では、私たちは自分の希望をどこに置いているでしょうか。天に蓄えられた希望を思い巡らすとき、私たちは真の安心を得ることができるでしょうか。人の命は儚く、風のように過ぎ去り、最後には塵となって土に帰ります。しかし、クリスチャンには天国という確かな希望が与えられています。この天国の希望を黙想するたびに限りない喜びが湧き上がってくるのは、まさにこの確かさゆえなのです。
私たちには、帰るべき本当の故郷である天国が用意されています。初代教会は、聖霊様の働きに満ち、天国への希望に溢れた美しい共同体でした。そして、その初代教会の精神は、今なお川の流れのように私たちの生活の中に脈々と受け継がれているのです。
文章は、その人の人生と人格を映し出す鏡です。使徒パウロの中には常に感謝が満ちあふれていました。それは彼の人生と人格の美しさを如実に表しています。私たちは、使徒のような深い感謝の心が自分たちの内にあるのか、あるいは失われてしまっているのか、真摯に振り返る必要があります。また、使徒のように感謝すべき理由を心から実感して生きているか、そしてそれを互いに分かち合いながら歩んでいるかを、深く省みなければなりません。
「…あなたがたはこの望みのことを、あなたがたに届いた福音の真理のことばによって聞きました。」 (コロサイ 1:5b)
私たちが最も感謝すべきことの一つは、福音の真理を聞く機会が与えられたことです。皆さんは、福音を知ることができたことへの感謝、天国の望み、すなわち永遠の命を得たことへの感謝、そして救いへの感謝を持って日々を過ごしているでしょうか。もし私たちがこれらのことへの感謝を忘れ、あるいは感謝すべきことを見過ごして生きているなら、世の中の波に流されて生きるしかないでしょう。しかし、使徒パウロはこれらのことに対して徹底的な感謝の姿勢を持ち続けました。彼の人格は、まさに磨き上げられた宝石のようです。私たち一人ひとりも、また教会全体としても、使徒のこのような生き方に倣っていかなければなりません。
「この福音は、あなたがたが神の恵みを聞いて本当に理解したとき以来、世界中で起こっているように、あなたがたの間でも実を結び成長しています。」(コロサイ 1:6)
「あなたがたにまで伝えられたこの福音は、世界中至るところでそうであるように、あなたがたのところでも、神の恵みを聞いて真に悟った日から、実を結んで成長しています」(コロサイ 1:6)〈新共同訳〉
この箇所からは、使徒が非常に論理的で洗練された思考の持ち主であることがわかります。使徒は「あなたがたにまで伝えられたこの福音」という表現を用いていますが、これは福音が天から降ってきたものではないということを示しています。福音は人から人へと伝えられ、そうして私たちにまで届いたのです。
使徒は、福音が私たちに届くまでの過程について語っています。
その第一段階が「聞くこと」です。使徒が「この福音は、あなたがたが神の恵みを聞いて」と語っているように、私たちは最初に福音を耳にすることから始まりました。皆さんは、福音を初めて聞いた時のことを覚えていますか?その瞬間に人生が大きく変わった経験をお持ちではないでしょうか?「宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか」(ローマ10:14)とある通り、必ずや皆さんに福音を伝えた方がいたはずです。パウロはその人を通して「あなたがたはこの福音を聞いた」と語っているのです。
二番目は「悟ること」について語られています。「神の恵みを聞いて、真に悟った日から」とあるように、単に聞くだけでなく、深く悟ることが求められます。では、何を悟るべきでしょうか。それは神の恵みです。これは恵みの真理と呼ばれますが、私たちはこの真理を悟るために、深い黙想と真摯な学びを重ねなければなりません。祝福を願う祈福信仰も大切ですが、それだけに留まってはいけません。まず私たちは福音に耳を傾ける必要があります。「信仰は聞くことから始まる」(ローマ10:17)と言われているように、福音を聞いた後に恵みを悟らなければなりません。
使徒パウロもまた、福音を聞いた後に恵みを悟りました。パウロには回心の3日間とアラビアでの3年間があり、この時期は福音の真理を悟ろうと懸命に努めた時期でした。これを鳥(とり)のたとえで説明すると、卵の中の鳥が殻を破って出てくるようなものです。悟りとは、まさにその殻を破る瞬間なのです。人は悟りなくして本当の変化を得ることはできず、それまでと同じ生き方を繰り返すことになります。悟りを通して変えられることを、キリスト教では「新生(新しく生まれ変わること新生)」と呼びます。仏教においても類似の概念があり、それを得道と呼びます。仏教では修行中に大きな悟りを得た場所に寺院を建立することがありましたが、それは悟りの重要性を示す証しと言えるでしょう。
私たちは、どの器官で福音を聞くのでしょうか。それは「耳」です。では、信じる働きはどこで行われるのでしょうか。それは私たちの「心」です。キリスト教の真理は恵みの言葉であり、その本質は愛です。愛は頭で考えるものではなく、心から湧き出るものです。そのため、キリスト教の信仰もまた、頭で理解するのではなく、心で受け止めるものなのです。《ローマ書10章》に「心で信じて義と認められ」(ローマ 10:10)と記されているのは、まさにこの真理を表しています。これは驚くほどに正確な言葉です。私たちは心で信じるのです。恵みもまた心に届くので、心で信じるのです。贖いの十字架の恵みは、このように私たちの心の深みにまで届くものなのです。
では、「その愛が具体的に何なのか」という愛の本質を、私たちはどこで理解すればよいのでしょうか。それは「頭」、すなわち知性による理解を通してです。ヘブル人への手紙には「善と悪を見分ける感覚を経験によって訓練された大人のものです」(ヘブル 5:14)とあります。これは、教会が絶えず知性を用いて学びを深めていく必要があることを示しています。すなわち、信徒一人ひとりが恵みの意味を深く理解することが求められているのです。私たちは途上に生きる存在です。その恵みの意味を真に理解することで、私たちの信仰生活は日々新しく、より深く、より崇高なものへと変えられていきます。
パウロは情熱的な人物でしたが、彼の言葉は驚くほど冷静です。その文章は決して大雑把ではなく、極めて緻密に練り上げられています。ですから、私たちも神の御言葉を丹念に学びながら人生を歩むべきです。そして、日々の生活の中で恵みへの理解を深め、それを積み重ねていくことで、私たちの信仰は成熟へと導かれます。その結果、私たちの信仰は堅固なものとなり、移ろいやすい世の風潮に翻弄される葦のようにもはや生きることはなくなるのです。
三番目は「実を結ぶこと」です。「世界中で起こっているように、あなたがたの間でも実を結び成長しています。」すなわち、私たちが恵みを悟った後には、必然的に実を結ぶ段階が訪れるのです。使徒パウロは「あなたがたの中でと同じように、また全世界で実を結び、成長している」と語っています。神の恵みを理解した後に結ばれる実は、私たち個人の内にとどまらず、また私たちの家庭にとどまらず、全世界へと広がっていくのです。これこそが福音の持つ驚くべき力なのです。
ここには3つの重要な動詞が使われています。「聞く」、「悟る」、そして「実を結ぶ」です。私たちはこのような段階があることを知り、自らの信仰生活に当てはめて考える必要があります。そうすることで、この手紙が私たちに伝えようとしている本質的なメッセージ、教えようとしている真理を、より深く把握することができるのです。
「7 そういうものとして、あなたがたは私たちの同労のしもべ、愛するエパフラスから福音を学びました。彼は、あなたがたのためにキリストに忠実に仕える者であり、8 御霊によるあなたがたの愛を、私たちに知らせてくれた人です。」(コロサイ 1: 7-8)
パウロは、コロサイの教会がエパフラスから福音を学んだと語っています。そしてパウロは、コロサイの信徒たちに対して、エパフラスの誠実な働きを証しています。皆さんにも、このような福音のメッセンジャーが必ずいたはずです。皆さんに真理の道を示し、教えてくれた人がいたはずです。パウロがエパフラスのことを覚えて感謝し、証ししたように、皆さんもその人のことを心に留め、感謝をもって証ししてください。そうすることで、その証しを受けた人はより聖なる生活へと導かれ、さらに偉大な神の働きを担っていくことでしょう。
5月も半分が過ぎました。ペンテコステまでの残り期間、さらに御言葉をよく聞き、その御言葉の意味を深く刻み、それぞれの場所で豊かな実を結ぶことができますように。お祈りします。Ω