礼拝説教

主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった


2025年05月26日

*本文: 使徒の働き 2章 43-47節

†《使徒2章》には、「教会とは何か、どのような教会であるべきか」という本質的な問いについて記されています。教会はキリストの体であり、天の御国の礎です。また、教会は聖徒たちが共に集(つど)い、交わりを持ち、愛を分かち合う、この世界で最も美しい共同体なのです。世には数多くの、そして多様な教会が存在しています。その中にあって、私たちの教会はどのような教会なのでしょうか。私たちはどのような教会を築(きず)き上げているのでしょうか。

《マタイ福音書2章》でイエス様がおっしゃいました。「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」(マタイ 7:21) 主は、たとえ御名によって預言者の役目(やくめ)を果(は)たし、多くの権能を行ったとしても、神の御心に従わなかった者は不法を行った者だと言われました。それゆえに、私たちは主が望まれる教会の理想的な原型(げんけい)(Archetype)を、絶えず心に留めていなければなりません。私たちの教会が病(や)み、誤った道を歩むならば、そこに連(つら)なる私たちの生き方と家庭もまた、病み、誤った道へと進んでしまうのです。したがって、私たちがどのような教会を目指して建て上げていくのかということは、極めて重要な問いなのです。
 今日もなお、世界中で多くの教会が建てられ、また閉じられています。しかし、その本質的な意味を深く見つめるとき、教会は《マタイの福音書16章》が語るように、「天国の鍵を持つところ」なのです(マタイ 16:19)。私たちは、天の御国の鍵という比類のない権威が教会に託(たく)されているという、この驚くべき事実を覚えて生きなければなりません。
教会は、主イエス・キリストご自身によって建てられました。それゆえに、よみの門も決して打ち勝つことはできないのです。「そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。」(マタイ 16:18) この教会には天の御国への扉があり、その扉を開く鍵があるのです。その鍵によって、私たちは天の御国への道を歩むことができます。まさに、その天の御国の鍵を託されているところが「教会」なのです。この事実は、教会がいかに重要な存在であるかを私たちに示しています。そして、私たちがどの教会に連なるかという選択は、永遠の命に関わる重大な決断となります。私たちはキリストの体である教会の一員(いちいん)として、主が望まれる教会の真の姿を絶えず追い求めながら、信仰の道を歩んでいかなければならないのです。

《使徒2章》には、聖霊様によって建てられた最初の教会が登場します。聖霊様が力強く働かれ、生き生きと動かれた時に形作られた教会です。ここに初めて、教会の原型(げんけい)が示されたのです。私たちはこの教会の姿を見つめながら、絶えず自分自身の姿を省(かえり)みなければなりません。そして、私たちがこのような教会に連(つら)なっているのか、また、このような教会を築(きず)き上げているのかを、真摯(しんし)に問い直さなければならないのです。《使徒2章》に記された教会は、聖霊様の教会であり、初代教会の姿です。そこでは、神の御霊が共におられ、美しく驚くべき歴史が引き起こされていました。その始まりは、こう記されています。

「すべての人に恐れが生じ」(使徒 2:43a)
教会とは、救われた者たちが心を一つにして集(つど)い、神様を礼拝する聖なる場所です。教会において最も本質的なことは、礼拝をささげることだからです。
私たちはキリスト教の三大教理、すなわちキリスト論(Christology)、救済論(Soteriology)、終末論(Eschatology)が正しく理解されているかを、常に吟味(ぎんみ)しなければなりません。その中でも最も重要なのは「救済論」と言えるでしょう。救済論においては、「義認」と「聖化」を深く理解するべきです。しかし、それは決して難解なものではありません。実際、《ローマ書》はこの教理を驚くほど明確に示しています。私たちは、「救いは行いによるのか、それとも信仰によるのか」という本質的な問いに対し、確かな理解を持たなければなりません。
そして、歴史とその未来について扱(あつか)うのが「終末論」です。この終末論と密接に結びついているのが教会論(Ecclesiology)です。"Ecclesia"(エクレシア、ἐκκλησία)とは、「召(め)された人々の集(あつ)まり、共同体(きょうどうたい)」を意味し、教会を指す言葉です。つまり、教会とはこの世にあって神様に召し出された者たちの聖なる共同体なのです。

初代教会について、ルカは「すべての人に恐れが生じ」と記録しました。この「恐れ」(Awe)は、単なる恐怖心(きょうふしん)(Fear)を意味するものではありません。宗教学が教えるところによれば、真に深い信仰を持ち、本物の信心(しんじん)の世界に生きていることを証明する二つの要素が「恐れ」と「震(ふる)え」なのです。一人の人の内側に胸の奥底(おくそこ)から湧(わ)き上がる「震え」があるということは、実に美しい現実です。そして「恐れ」とは、聖なるものの前に立つ者の心の状態を意味します。モーセが燃える柴(しば)の中で神様に出会った時、彼は恐れに満たされました。その時、神様はモーセに「ここに近づいてはならない。あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である」と告げられました(出エジプト 3:5)。聖性(せいせい)(神聖(しんせい)な性質(せいしつ))とは、愛とは異なり、ある種(しゅ)の距離を要求します。この聖なる世界こそ、聖書が私たちに教える最も本質的な世界なのです。

根本的に、聖書は私たちに人生の悲劇性と悲観的な現実を語ります。しかし同時に、比類(ひるい)のない喜びと希望に満ちた世界をも示してくれています。これこそが神の御言葉であり、聖書の本質なのです。人は神様を知るようになると、聖なる恐れを持つようになります。そしてその恐れは、人に対する正しい恐れへと広がっていきます。人に対する恐れを持つようになると、互いに罪を犯さないように心を配(くば)り、相手に迷惑(めいわく)をかけたり重荷となることを避(さ)けるようになります。さらには、相手の重荷を自ら背負い、その痛みや困難をも共に担(にな)おうとする愛の心が芽生(めば)えるのです。教会の中ですべての人に恐れが生じたということは、彼らの内に聖性と敬虔(けいけん)さが宿(やど)っていたことを意味します。これこそが真の知恵の根源なのです(箴言(しんげん) 9:10)。

「…使徒たちによって多くの不思議としるしが行われていた。」(使徒 2:43b)
教会ほど超自然的な現象が豊かに現(あらわ)れる場所はありません。神様は数多くの不思議としるしを、教会を通して示してくださいました。初代教会では、それが日常的な出来事だったようです。人々が心を開き、永遠を慕(した)い求め、神の御国を切に望み、美しく変えられていきました。それだけでなく、教会内では数多くの癒(いや)しの御業が現れました。そして《44節》へと続きます。

「信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し」(使徒 2:44)
《ルカ9章》で、ルカは弟子道に関する主の教えを三つに集約しました。その教えは深遠な意味を持っています。その第一は「無所有」です。確かに、この地上を生きるすべての人々にとって「所有」は必要です。しかし、それは必要条件であっても、十分条件ではないのです。《使徒3章》では、かつて漁師であったペテロとヨハネがエルサレムの神殿に入る時、その門の前にいた生まれながらの足の不自由な人に、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(使徒 3:6)と告げました。また、弟子道の第一の言葉として、主イエスはこう言われました。「イエスは彼に言われた。『狐(きつね)には穴があり、空の鳥には巣(す)があるが、人の子には枕(まくら)するところもありません。』」(ルカ 9:58) これは、主に従おうとする者たちに、禅問答(ぜんもんどう)のように投げかけられた深い問いかけなのです。初代教会の信徒たちは、まさにこの精神に生きました。彼らは救いの確信の中に天の御国の希望と永遠の命の喜びが満ちあふれていました。そのため、何も所有していない者でありながら、すべてのものを所有している者のように生きたのです。彼らは所有の奴隷となることなく、それに縛(しば)られたり閉じ込められたりすることもなく、所有から真に解(と)き放(はな)たれた人々でした。

「一切の物を共有(きょうゆう)し、」(使徒 2:44b)
初代教会は、このように真の意味での共同体的な教会でした。では、今日の私たちの教会はどうでしょうか。本当の意味で共同体的な教会となっているでしょうか。それとも、共同体という外見(がいけん)だけを保持(ほじ)する教会になってしまっているのではないでしょうか。単なる名称(めいしょう)や形式を超えて、真に共同体としての本質を持った教会となっているでしょうか。共同体的な教会とは、生き方が同じであり、目指す方向が一つであり、所有への執着(しゅうちゃく)が克服(こくふく)された共同体です。確かに、それぞれが自分の生活をしながら、主日に集まって心を込めて神様を礼拝することも、大切な信仰の表現です。しかし、初代教会は、さらなる深みへと踏み出し、完全な調和の中で生きたのです。

「財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配(ぶんぱい)していた。」(使徒 2:45)
初代教会には、驚くべき「空(から)にすること」と「分かち合い」がありました。これは人類の歴史において、極めて特異(とくい)で革命的な変化だったのです。では、どのようにしてこのような世界が可能となったのでしょうか。それは、金銀を持たなくとも、物質(ぶっしつ)的な豊かさがなくとも、キリストにあってすべてのものを所有する者たちにのみ可能な、神の国の現実だったのです。私たちに与えられた救いも、まさにそのようなものでした。そして、初代教会の信徒たちの生き方もそうでした。彼らの内には少しの空虚(くうきょ)さもありませんでした。たとえ所有物を売り払い、それぞれの必要に応じてすべてを分け与えたとしても、彼らは少しも不足を感じることなく、霊的に満たされた思いをもって美しい人生を生きたのです。初代教会は、満ち足りた喜びが溢れる聖霊の教会であり、恵みの教会でした。これは世の価値観とは根本的に異なる世界です。教会とは、このように世とはまったく異なる、驚くべき新しい世界を目の当たりにできる場所なのです。

「そして、毎日心を一つにして宮に集まり、…」(使徒 2:46a)
熱心な教会では、多くの信徒たちが教会の近くに住み、日々教会で過ごすのが常でした。所有を乗り越えることは、単なるスローガンのようなもので達成できるものではありません。それは、ただ聖霊の力が彼らに臨み、その力によって変えられた信徒たちの人生から自然と生まれた実(みの)りだったのです。初代教会は、このように驚くべき美しさを持つ教会でした。私たちは、この初代教会の姿を常に仰(あお)ぎ見なければなりません。また、彼らのように、日々の集まりを大切にすることに励まなければならないのです。

初代教会の信徒たちは、主日だけでなく日々教会に集まることを喜びとしていました。彼らは教会を生活の中心に据(す)え、共に集まることに熱心でした。長老派教会は超越(ちょうえつ)の神様を賛美し、ペンテコステ派教会は内在する神様を賛美します。このように多様(たよう)な教会が様々な形で礼拝をささげていますが、真心(まごころ)から神様にささげるすべての礼拝には美しさがあります。しかし、信徒たちが次第(しだい)に教会から離れ、一週間に一度だけの礼拝となり、やがては完全に教会から足が遠(とお)のいていくという現実があるのです。教会が冷(ひ)えていく決定的な転換点は、共同体としての本質を見失い、礼拝を実用性と利便性(りべんせい)の観点から変質させ始めた時でした。
《ローマ書12章》には「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」(ローマ 12:1) この御言葉が示す世界は、真に偉大なものです。初代教会における私たちの信仰の先達(せんだつ)たちの生きたささげ物としての礼拝は、実に素晴らしいものでした。今日もなお、このような教会が数多く存在していることを感謝します。今日の教会が息(いき)づき、支(ささ)えられているのは、絶えず祈りを捧げ、心からの礼拝を献げ、豊かな霊性と満ち足りた喜びの中で生きる人々が、私たちに力を与え、教会の中心となってくれているからです。初代教会の姿は、まさにこのようでした。ルカを通して記録されたこの歴史は、私たちに深い真理に満ちた新しい世界を示してくれています。これこそが、私たちが常に目を留めるべき教会の本来の姿なのです。

「…家々でパンを裂き、」(使徒 2:46b)
「家々」という言葉は、ここでは「House Church」(家庭の教会)を意味しています。初代教会は壮麗(そうれい)な建物を持つ教会ではなく、その多くが家庭教会でした。彼らは家族のように家に集まって礼拝をささげたのです。しかし、その親密な交わりの中にも、聖なる恐れが存在していました。この光景(こうけい)を想像してみてください。初代教会の中でも、人々は深い親密さをもって共に過ごしましたが、それと同時に、彼らの間には明確な秩序(ちつじょ)と聖性が保(たも)たれていたのです。
彼らは家に集まってパンを裂(さ)き、共に食事をしました。この家という空間は聖餐(せいさん)(Sacrament)を行う神聖(しんせい)な場でした。カトリック教会もプロテスタント教会も聖餐礼拝でぶどう酒とパンを分かち合います。しかし、プロテスタント教会では目に見えるパン(Visible Bread)だけでなく、目に見えないパン(Invisible Bread)をいただくのです。この目に見えないパンとは、まさに神様の御言葉そのものです。この意味において、私たちは日々、霊的な聖餐を行なっているのです。
《ルカ24章》には、エマオへと向かう弟子たちが、主がパンを裂かれた時に目が開かれ、主を認識するようになったと記されています(ルカ 24:30-31)。教会生活において最も重要なことは、「パン裂き(Breaking Bread)」です。この「パンを裂く」という行為は、「目に見えないパン」を分かち合うことを意味しています。イエス様は「わたしは、天から下(くだ)って来た生けるパンです。」(ヨハネ 6:51)と宣言されました。パンを裂くことは、主が私たちを罪から救うために、ご自身のすべてを和解のいけにえとして献げてくださったことと同じ意味を持ちます。エマオの弟子たちがパンを裂いた時に主を認識することができた感動的な奇跡は、私たちが主の受難の意味を深く黙想する時、主を真に知ることができるという真理を示しているのです。教会とは、私たちのための主の犠牲と愛、すなわち恵みを絶えず黙想し、心に刻みながら生きていく場所です。初代教会の信徒たちが家でパンを裂いたという事実は、日常(にちじょう)的な交わりを超えた、極めて深い霊的な世界を表しています。それは、彼らが主の家で常に儀式を行うように、キリストの十字架を心から黙想していたことを意味するのです。

「…喜びと真心をもって食事をともにし、」(使徒 2:46c)
これは食卓の交わり(Table Fellowship)を意味します。教会で共に食事をし、喜びを分かち合うことは、極めて重要な意味を持ちます。教会の本質的な機能の一つは、神の御言葉によってパンを裂くこと、すなわちケリグマ(Kerygma)です。そしてそれに続いて、必ず交わりが持たれなければなりません。それこそがコイノニア(Koinonia)なのです。
教会は共に集(あつ)まることに励み、常にパンを裂く場所でなければなりません。教会は、神の御言葉が絶えず宣べ伝えられ、その生ける御言葉が人々の心の中で力強く息づく聖なる場所でなければなりません。そこには常に、渇いた魂をもって御言葉に耳を傾(かたむ)ける人々が集い、彼らが罪の束縛(そくばく)から完全な自由を得て、まるで羽(はね)のように軽(かろ)やかになった魂の喜びと、心の深みから溢れ出る救いの感動をもって、心を一つにして賛美をささげる場所でなければならないのです。そして、この喜びを持つ者たちが、純粋(じゅんすい)な心で共に交わる場所、それが教会なのです。

「 神を賛美し、民全体から好意(こうい)を持たれていた。…」(使徒 2:47a)
初代教会には、絶えることのない賛美の歌がありました。私たちの人生の中に真の喜びが満ちあふれる時、自然と口ずさみながら歌うようになります。これは人間の本性なのです。初代教会の人々の中には神様の御言葉が宿(やど)り、愛の交わりが満ちていたからこそ、自然と賛美の歌が溢れ出たのです。彼らは心から神様を賛美しました。人間は、単に歌うように強制されても、真の賛美をささげることはできません。人間が本質的に変えられるのは、天から注がれる恵みによってのみ可能なことです。人間中心主義的なアプローチでは、人の心を根本的に変えることはできないのです。主が私たちに豊かに注がれた恵みによって変えられた人々の集まり、その共同体は、自(おの)ずとすべての民からの称賛(しょうさん)と好意(こうい)を得るようになります。初代教会はこのように生きたからこそ、世の人々からも深い尊敬を集めることができたのです。

「主は毎日、救われる人々を加(くわ)えて一つにしてくださった。」(使徒 2:47b)
人生における最も大きな喜びは、魂の救いです。多くの魂に永遠の命の福音を伝え、彼らが天の御国の希望の中で喜び踊る姿を目にすることは、この上(うえ)ない喜びなのです。救いは神の愛から生まれるものですから、必然的に深い喜びを伴います。救われた者の喜びを見て、私たちもまた心から喜ぶ―この世界こそが、天の御国の喜びなのです。初代教会、聖霊に満たされた教会の姿を新たに心に刻み、新しい世界へと踏み出していきましょう。多くの魂が宿(やど)る美しい教会を共に築(きず)き上げ、多くの人に称賛される教会となりますように。お祈りします。Ω

#
#
#

The Steadfast Love of the Lord

The steadfast love of the Lord never ceases His mercies never come to an end They are new every...

キリストにあって歩みなさい

2025年06月30日

*本文:コロサイ人への手紙2章6-19節 †今日は《コロサイ2章6節》からみことばを学んでいきまし...

このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。

2025年06月22日

*本文:コロサイ人への手紙2章1-5節 †今日の神様の御言葉は、《コロサイ人への手紙2章》を見たいと...

この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです

2025年06月15日

*本文:コロサイ人への手紙1章24-29節 †前の時間には、《コロサイ人への手紙1章23節》までを共に見...