礼拝説教

パウロのキリスト論


2025年06月02日

*本文:コロサイ人への手紙1章9-23節

†今日の神様の御言葉は、《コロサイ人への手紙1章》の後半を見ていきたいと思います。まず、《コロサイ書9-14節》を見ます。ここには、パウロがコロサイの教会に寄せた深い祈りと願いが記されています。

「こういうわけで、私たちもそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。…」(コロサイ 1:9a)
パウロはコロサイの教会のために、途切れることなく祈り続けました。その祈りの内容について、私たちは明確に理解することができます。

「…どうか、あなたがたが、あらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころについての知識に満たされますように。」(コロサイ 1:9 b)
パウロは「神のみこころについての知識に満たされますように」と祈りました。私たちにとって、神のみこころを知ることは極めて重要です。

《マタイの福音書7章》の黄金律において、イエス様は次のように語られています。「21 わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。22 その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』23 しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』」(マタイ7:21-23) このように、神様の御心を知り、それを実践することは私たちの信仰生活の核心です。そうでなければ、どれほど多くの働きをしていても、最後にイエス様から「わたしはおまえたちを全く知らない。わたしから離れて行け」と言われることになるでしょう。
パウロが教会のために祈った「あらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころについての知識に満たされますように」という祈りには、深い意味があります。神様の御心があるからこそ、私たちには希望があるのです。そのため、私たちの教会は常に神様の御心を求めて祈り続ける必要があります。私たちが多くの働きをしていますが、最も重要なのは神様の御心を知り、昼夜を問わずそれを黙想することです。私たちは「神のみこころについての知識に満たされ」るように全力を尽くさなければなりません。

「また、主にふさわしく歩み、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる良いわざのうちに実を結び、神を知ることにおいて成長しますように。」(コロサイ1:10)
パウロは、信徒たちのために三つの具体的な願いを込めて祈っています。第一に「主にふさわしく歩み、あらゆる点で主に喜ばれること」、第二に「あらゆる良いわざのうちに実を結ぶこと」、そして第三に「神を知ることにおいて成長すること」です。

「神の栄光の支配により、あらゆる力をもって強くされ、どんなことにも忍耐し、寛容でいられますように。」(コロサイ1:11 )
パウロは「あらゆる力をもって強くされ、どんなことにも忍耐し、寛容でいられますように」と祈っています。イエス様は、良い地に蒔かれた種とは、忍耐して実を結ぶ者であると教えられました(ルカ8:15)。一人の魂が天国の民として実を結ぶまでには、長い忍耐が必要です。私たちは苦難と逆境を乗り越えながら、着実に成長していかなければなりません。使徒パウロのこれらの勧めと祈りは、今日の教会が真摯に受け止めるべき言葉です。その一つひとつを深く味わうとき、そこに込められた深い霊的な知恵を見出すことができます。これらの言葉は、私たちの生活における最優先事項とされるべきものです。私たちが日々の働きをする際、何を優先するかが極めて重要です。この祈りの言葉を基礎として、自分の働きを吟味し、方向づけていく必要があります。優先順位を誤ると、私たちは混乱に陥り、信仰が揺らいでしまう恐れがあります。このように、パウロの祈りの言葉は私たちにとって貴重な指針となります。彼は、自分の宣教ネットワークにある全ての教会がこのような姿に成長するようにと、絶えず祈り続けたのです。

「また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格をあなたがたに与えてくださった御父に、喜びをもって感謝をささげることができますように。」(コロサイ1:12)
パウロは「神に感謝しなさい」と教えています。では、私たちは何に感謝すべきでしょうか。パウロの言葉によれば、「光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格をあなたがたに与えてくださった御父に、喜びをもって感謝をささげることができますように」とあります。

この祈りの中で用いられている重要な動詞に注目してみましょう。「神のみこころについての知識に満たされますように」(be filled with the knowledge of his will)(9節)、「実を結び」(bearing fruit)(10節)、「どんなことにも忍耐し」(have endurance)(11節)、「聖徒の相続分にあずかる資格を与えてくださったこと」(live a life worthy)(12節)、そして「喜びをもって感謝をささげることができますように」(giving thanks) (12節)です。この祈りは、私たちが持つべき感謝の理由を明確に示しています。私たちはこれらの恵みを常に覚え、感謝の心を持ち続けるべきです。なぜなら、私たちの内には数え切れないほどの感謝すべき理由が与えられているからです。使徒パウロは、私たちがこれらの恵みを心に刻み、感謝に満ちた生活を送ることができるように祈っているのです。

「御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」(コロサイ1:13)
この御言葉は救いについて語っています。神様は私たちを暗闇の力から救い出してくださいました。これこそが「救い」の本質です。世の多くの人々の中から、神様は私たちを予知予定によって選び分け、救い出してくださいました。私たちは罪深い世という暗闇の力の支配下にありましたが、神様は私たちをそこから救い出し、愛する御子のご支配のもとへと移してくださったのです。神様は私たちの額に印を押し、私たちを天国の民として、神の国の一員としてくださいました。

「この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」(コロサイ1:14)
使徒が私たちに教えているのは、この救いの出来事を絶えず心に留めて生きなさい、ということです。これは私たちの人生で起きた最も重大な出来事なのです。しかし私たちは、世俗の流れに身を任せ、この救いの恵みを忘れて生きてしまうことが少なくありません。どれほど多くの活動や働きに携わっていても、この救いの出来事を私たちの人生の中心に据えておく必要があります。使徒は、私たちが、この尊い救いの喜びを心から味わい、それを与えてくださった神様への感謝に満たされて日々を歩むことができるようにと祈っています。

次の15節からは、教理的な内容になっています。コロサイ教会は、パウロが直接伝道して開拓した教会ではありませんが、文脈から判断すると、教会内でキリスト論に関する議論が生じていたと考えられます。キリスト教には3つの重要な教理があります。それは、キリスト論 (Christology)、救済論 (Soteriology)、終末論 (Eschatology) です。これらは教会が最も深い関心を寄せる3つのテーマであり、私たちはこれらについて明確な理解を持って信仰生活を送る必要があります。これら3つの核心的な教理を深く理解することで、キリスト教の本質をより明確に把握することができます。第一のキリスト論は、「イエス・キリストとは誰か」という根本的な問いを探求します。第二の救済論は、「私たちに与えられた救いとは何か」という問いに焦点を当てます。そして第三の終末論は、歴史ついて考察するものです。
キリスト教の二千年の歴史において、教会が最初に直面した根本的な問いは「イエスとは誰か」でした。その最も簡潔な信仰告白が「イエスはキリストである」です。ここで「イエス」は固有名詞、「キリスト」は普通名詞であり、"Jesus Christ" は "Jesus as Christ" または "Jesus is Christ" の短縮形です。この「イエスはキリストである」という告白は、「イエスは救い主である」という深い意味を持っています。教会の歴史を振り返ると、「イエスとは誰か」という問いをめぐって数多くの論争と活発な議論が展開されました。この重要なキリスト論のテーマについて、教会は325年のニケア公会議において本格的な議論を行い、その立場を明確にしました。

パウロはコロサイの信徒たちに宛てて、キリスト論的な問いへの深遠な回答をこの手紙に記しています。注目すべきことに、キリスト論について最も優れた解釈は、エペソ書やローマ書ではなく、このコロサイ書の中に記されています。これが私の見解です。私たちがキリスト論について様々な議論をするとしても、最終的には必ずこのコロサイ書の御言葉に立ち返る必要があります。この聖書の御言葉をそのままの形で受け止めることこそが重要なのです。なぜなら、これは使徒自身の信仰告白であり、神様から託されたまじりけなき教えだからです。私たちには、使徒が伝えるこの教えを謙虚に受け止め、その真意を深く理解し、自分のものとしていく責任があります。
「イエスとは誰か」という使徒の教えの本質的な部分を見ていきましょう。前節では「この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです」(コロサイ 1:14)と語られています。ここでの「御子」とはイエス・キリストを指します。続く節からは、イエスについての詳細な説明が展開されていきます。コロサイ1章には、イエスの本質を表す複数の重要な定義が示されています。

「御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。」(コロサイ 1:15)
使徒はまず、イエスを「神のかたち」と定義しました。これは、イエスに対する理解の中で最も重要なポイントです。なぜなら、誰も神を見ることができないからです。聖書によれば、神様は見えないお方であり、その存在は私たちの目には隠されています。《イザヤ書》では、神様について次のように告白されています。「イスラエルの神、救い主よ。まことに、あなたはご自分を隠す神です。」(イザヤ 45:15) 《第一テモテへの手紙》でも、「死ぬことがない唯一の方、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれ一人見たことがなく、見ることもできない方。この方に誉れと永遠の支配がありますように。アーメン」(Iテモテ 6:16)と記されています。このように、神様は人間の目では捉えることのできない存在なのです。
目に見える神は真の神ではありません。それは単なる偽りにすぎません。物質的な形を持つものを神とすることは、根本的な誤りです。目に見える神々は全て偶像であり、人の手による木彫りや石像を神とする考えが誤りであることは明白です。使徒パウロは「ご存じのとおり、あなたがたが異教徒であったときには、誘われるまま、ものを言えない偶像のところに引かれて行きました」(Iコリント 12:2)と語り、異邦人が誇る神々を批判しました。このパウロの指摘は真理を突いています。
なぜ神様は目に見えない形で存在するのでしょうか。それは神様が有限な存在ではないからです。目に見える形を持つということは、すでに有限な存在となることを意味し、また人間の認識対象となることを意味します。しかし神様は、有限でもなく、人間の認識対象ともなり得ない存在です。このことは、第一テモテ6章16節の使徒の言葉が深い洞察を持って語っているとおりです。超越的な存在である神様は、決して人間の目で捉えることはできないのです。使徒パウロの神様についての理解は驚くべき深さを持っています。ガラテヤ書における彼の使徒職についての説明からも明らかなように、神様は優れた使徒を選ばれました。
では、目に見えない神様を、私たちはどのようにして知ることができるのでしょうか。それは神の御言葉を聞くことを通してです。私たちが神様を知るのは、「見る」ことによってではなく、「聞く」ことによってなのです。見ることは私が主体となる行為であるのに対し、聞くことは私が対象となる行為です。私たちは神様に祈りますが、神様はその祈りに応えて言葉をかけてくださいます。この神の御言葉に耳を傾けるとき、私たちは神様を知ることができるのです。

私たちの目には見えない神様について、使徒パウロは「イエスは神のかたち」であると証言しています。ヨハネの福音書14章でイエス様は「わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか」(ヨハネ 14:9)と語られました。この御子は、目に見えない神様が目に見える姿で現れた方です。つまり、目に見えない神様が御子を通して降臨されたのです。それはまさに、鷲が天空から舞い降りてくるかのようです。ヨハネの福音書は、天から鷲のごとく降臨された御子について証言しています。ヨハネの黙示録4章には四つの生き物—獅子、雄牛、人間、鷲—が登場します(黙示録 4:7)。これらは四つの福音書を象徴しており、獅子はマタイ、雄牛はマルコ、人間はルカ、そして鷲はヨハネの福音書を表しています。鷲が天から降り立つように、神のかたちである御子がこの地上に来られたのです。

では、神様はいかにして降臨されたのでしょうか。これを説明するのが、キリスト教の三位一体論です。キリスト教は、ユダヤ教やイスラム教が信じるような単一神教ではなく、三位一体を信じています。使徒パウロは、この驚くべき三位一体の神について語っているのです。イスラム教は、偶像をすべて退け、唯一神アッラーという超越的存在を信仰しています。しかし、この信仰には限界があります。それは、神様と人間との関係性を十分に説明できていないことです。一方、三位一体信仰は、神様が御子を通して人間の中に自らを現されたという告白なのです。神様は御子として地上に降臨される前に、人類を準備されました。選民を選び、彼らに神の住まいである幕屋と神殿を建てさせたのです。この選ばれた民への訓練過程を経た後、神様は真の神殿である御子をこの地に遣わされたのです。イエスは、父なる神の姿を最も完全に表す御子です。父を最もよく示すのは誰でしょうか。それは息子です。このように、三位一体論は論理的一貫性を持ち、極めて合理的に理解できる教理なのです。

さて、ここまで三位一体について、特に御子が来られた理由について説明をしてきました。では、なぜ聖霊が私たちに必要なのでしょうか。イエス・キリストは十字架の死と復活、そして昇天を通して、私たちに救いの道を開かれました。しかし、それだけでは終わりませんでした。イエス様は私たちを孤児のように見捨てることなく、聖霊を送ってくださったのです。このことについて、ヨハネの福音書には次のように記されています。「16 そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。17 この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。18 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。」(ヨハネ14:16-18) 《ヨハネ14章》で語られた説教には、「わたしの父の家には住む所がたくさんあります」(14:2)という希望に満ちた美しい言葉や、「死ぬことがない唯一の方、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれ一人見たことがなく、見ることもできない方。この方に誉れと永遠の支配がありますように。アーメン」(16:7)という荘厳な御言葉が記されています。イエス様は告別説教の各章で、来たるべき聖霊について詳しく説かれました。聖霊は、主の御名を呼ぶすべての人を教え、導き、守る方です。「主の御名を呼び求める者はみな救われる」(使徒 2:21)という約束の通り、聖霊は私たちの救いの保証として与えられたのです。
簡潔ではありますが、私たちが日々信仰し、告白し、伝道している三位一体なる神について説明してみました。御父、御子、聖霊という三位一体は、神の愛の究極的な表現であり、これ以上の完全な説明は存在しません。三位一体は、神様の深遠かつ完全な世界を私たちに示しています。それゆえに、私たち教会は聖書の教えに従い、三位一体の真理を十分に理解し、堅く信じる者たちでなければなりません。

「…すべての造られたものより先に生まれた方です」(コロサイ 1:15b)。
第二に、使徒は、イエス様を「すべての造られたものより先に生まれた方」と定義しています。この表現は、イエス様がこの世界の創造以前から存在しておられたことを意味します。この教義は「キリストの先在(Pre-existence of Christ)」と呼ばれています。この教義をめぐって、教会内では歴史的に多くの論争が起こりました。その一つが様態論(Modalism)です。これは、唯一なる神が時代に応じて御父、御子、聖霊という異なる様態(mode)で現れるという理論ですが、これは誤った解釈です。また、「イエスは神である」という主張に対しては、「マリアの受胎は神の受胎を意味するのか」という神学的問いが提起されました。一方、「イエスは人間である」という主張には、「被造物である人間がいかにして人類を救済できるのか」という反論が起こりました。
しかし、教会内で起こった数々の論争は、使徒の手紙の権威には及びません。神様は優れた使徒を選び、彼の知性を照らし、この手紙を記させ、私たちに伝えるようになさいました。そのため、すべての論争はこの聖句で終止符を打たなければなりません。使徒は神様から特別な使命を与えられた存在です。それゆえ、誰もが「使徒」を名乗ることはできません。振り返ってみれば、コロサイ教会での論争は、神の光を受けた使徒により「イエスとは誰か」という根本的な問いへの明確な説明をもたらしたという点で、私たちにとって有益な出来事となりました。使徒による説明は十分なものであるはずですが、それにもかかわらず、教会内では今なお教義をめぐる争いが絶えず、時には迫害や流血にまで至る悲しい事態が続いています。この事実を皆さんと共有する理由は、まさにそこにあります。

「なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。」(コロサイ 1:16)
キリストの先在とは、創造以前から存在しておられたことを意味します。しかし、この教義については歴史的に多くの論争がありました。反対者たちは次のような疑問を投げかけました。「創造以前から存在しておられたのなら、突然降りてきたというのはどういうことなのか? もともと形のない存在だったのに、どのように存在し得たのか? また、降りてきた方の本質とは何なのか?」こうした議論や混乱は、使徒パウロが語った信仰告白を十分に理解していなかったことが原因であると言えます。パウロは自らの信仰を具体的に説明し、キリストの先在について明確に語りました。私たちは、この使徒の説明を正しく理解することが必要なのです。
それでは、「すべての造られたものより先に生まれた」「万物は御子によって造られ」という聖句の意味を、《ピリピ書》の記述(きじゅつ)に基づいて見ていくことにしましょう。キリスト論には大きく分けて2つの視点があります。それが1)「上からのキリスト論」と2)「下からのキリスト論」です。「上からのキリスト論」は、イエス様が地上に来られた時から神の御子であり、キリストであったと主張します。
一方、「下からのキリスト論」は、イエス様が地上で他者のために生き、人類の救いを成し遂げ、自らを低くして高められた結果としてキリストとなったと説きます。《ピリピ書》は、この後者の視点から説明しています。「6 キリストは、神の御姿であられるのに神としてのあり方を捨てられないとは考えず、7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。10 それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、11 すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。」(ピリピ 2:6-11)これは感動的な説明です。こうして、主に「すべての名にまさる名」が与えられたということです。まさに素晴らしい言葉です。「十字架の死にまで従われました。」イエス様は自らを空しくし、死に至るまで従順であられました。その結果、「この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました」と聖書は語ります。主は、自らを低くし、すべてをささげることによって、神様により高く上げられました。神様はイエス様に「すべての名にまさる名」を与えられたのです。「すべての名」とは「すべての万物」を意味します。使徒パウロが頻繁(ひんぱん)に引用する《詩篇の8章6節》には「あなたの御手のわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました」と記されています。主は万物の統治者であり、支配者です。自らを低くすることで高められ、すべての名にまさる名を授けられました。万物を足下に置き、あらゆるものの上(above all)に君臨される方なのです。イエス様は目に見えるものだけでなく、「天と地にあるすべてのもの..見えるものも見えないもの」(コロサイ 1:16)をその足元に置く方です。《エペソ書》で学んだように、この支配は霊的世界の階層にまで及びます。

「王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。」(コロサイ 1:16)
すべての被造物は御子のものであり、その方に従わなければならないのです。なぜなら、その名がすべての名にまさるからです。イエス様が「すべての名にまさる名」を持つ正当性は、宇宙の創造主である神の御子としての本質に由来します。パウロはこれを「相続人」と「神の右側におられる方」という二つの重要な概念で強調しています。イエス様は復活、昇天後、神様の右に座し、その卓越した地位、資格、名、そして実質的な権威を神様から直接受けられました。多くの兄弟の中の長子として、イエス様は「すべての造られたものより先に生まれた方」なのです。これはパウロが自身を「月足らずで生まれた使徒」と表現したことと同じ文脈で理解できます。

「なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。」(コロサイ 1:16)
イエス様がすべての権力者の上に立ち、すべての被造物が御子のためにあるという解釈は、聖書に多くの予表的事例を見出すことができます。エフライムとマナセ、エサウとヤコブ、そしてダビデの物語がその例です。特に創世記のヨセフの物語は象徴的です。
同じように、神様はイエス様を「長男」として立てられました。この世界を創造された創造主であり、この世界の主である神様が、イエス様を万物の一番上に立てられたのです。そこには絶対的な正当性があります。創造主としての神様の権威に基づいて、イエス様が万物の主とされました。「そのようなことがあり得るのか」という疑問に対して、神の歴史はその数え切れない実例を示しています。

「15b …すべての造られたものより先に生まれた方です。16 なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。17 御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。18 また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられました。」(コロサイ 1:15a-18)
この聖句の引照箇所はたくさんあります。
「わたしのためにわたしが形造ったこの民は、わたしの栄誉を宣べ伝える。」(イザヤ 43:21)
「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。」(ヨハネ 1:3)
「この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。神は御子を万物の相続者と定め、御子によって世界を造られました。」(ヘブル 1:2)
「イエスは彼らに言われた。『まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。』」(ヨハネ 8:58)
「父よ、今、あなたご自身が御前でわたしの栄光を現してください。世界が始まる前に一緒に持っていたあの栄光を。」(ヨハネ 17:5)
「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」(Iコリント 15:20)
「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」(イザヤ 9:6)
「また、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことも、知っています。私たちは真実な方のうちに、その御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。」(Iヨハネ 5:20)
「また、ラオディキアにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、確かで真実な証人、神による創造の源である方がこう言われる──。」(黙示録 3:14)
「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」(黙示録 22:13)
キリストは最初であり最後、始めであり終わりと称されています。キリストが最初とされるのは、神様が長子として立てられたからです。これが「上からのキリスト論」の核心です。一方、「下からのキリスト論」は、キリストが自己を空しくし、十字架の死に至るまで従順であることで救い主となられたことを説きます。つまり、神様によって立てられただけではなく、御父の御言葉への従順と自己犠牲によって救い主としての地位が確証されたのです。そして復活によって、キリストであることを明らかにし、眠った者たちの初穂となられました。

神の降臨とイエスによる万物の創造を理解するために、私たちは《ヨハネ1章1節》に立ち返る必要があります。この聖句は、これらの深遠な真理を解き明かす鍵となります。「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ1:1)「初めに誰がおられたのか」という問いに対し、ヨハネの福音書は「ことば」であると答えます。この第四福音書は、他の共観福音書より約100年後に書かれたものであり、イエス様についての理解をより完全なものにするために記されました。ヨハネの福音書はこう始まります。「初めにことばがあった。」そして、「ことばは神とともにあった」と記されています。この「ことば」が神と共におられたとは、一体どういう意味なのでしょうか?何が創造以前から存在していたのでしょうか? 答えは「ことば」です。この「ことば」は、ギリシャ語で「ロゴス (λόγος, logos)」、中国語(漢字)では「道 (dao)」と訳されています。これは、この世界が創造される前から、理(ことわり)、法則が存在していたことを示しています。この世界は偶然の産物ではなく、緻密な法則と計画に基づいて創造されました。大気圏を少しでも外れると、生命は生存できません。また、地上では人間と植物が酸素と二酸化炭素の循環を通じて互いを支え合っています。この循環が崩れれば、人間は生きていけなくなるのです。神様は時間と空間、そして自然界のすべてを完璧な秩序のもとに創造されました。この世界を支配する理と法則こそが、ギリシャ語で「ロゴス」、中国語(漢字)で「道」と呼ばれる「ことば」です。創造の初めから存在したこの「ことば」が、目に見える形となって現れたのです。これこそが創造の本質なのです。

それだけでなく、初めに神とともにあったその道が、私たちの前に現れたのです。それは、まるで鷲が天から舞い降りてくるように、道が天から地上へと降りてきたのです。中国語では、これを「道成人身」と表現します。「道(御言葉)が人としての体をまとって来た」という意味です。英語では‘incarnation’(受肉)と呼ばれるこの出来事により、永遠の真理が人の姿をまとって現れたのです。その方こそが、イエス・キリストです。イエス・キリストは神の御子であると同時に、神のことばそのものでもあります。初めにあったことばが、歴史上の実在の人として生まれたのです。このように見るとき、イエス様は真に人となられた神であり、完全な人間でもありました。イエスは御言葉に完全に従って生き、その約束をすべて成就し、ついにはことばそのものとなられたのです。
イエス様は《ヨハネの福音書》において、このように語られました。「30 それで、彼らはイエスに言った。『それでは、私たちが見てあなたを信じられるように、どんなしるしを行われるのですか。何をしてくださいますか。31 私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。「神は彼らに、食べ物として天からのパンを与えられた」と書いてあるとおりです。』32 それで、イエスは彼らに言われた。『まことに、まことに、あなたがたに言います。モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです。33 神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです。』34 そこで、彼らはイエスに言った。『主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください。』35 イエスは言われた。『わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。』」(ヨハネ 6.30-35) イエス様は、私たちの魂を養う「いのちのパン」であり、永遠に渇きを癒す「命の水」です。また、真理そのものが人となって現れた方でもあります。そして、この真理は初めから存在していました。だからこそ「すべての造られたものより先に生まれ、万物は御子によって造られた」という聖書の言葉が、この上なく自然で完全な表現であると私たちは理解しています。この真理の完全性と一貫性により、私たちには教義的な分裂や疑問は一切ありません。それは、あまりにも明快な事実だからです。これが私たちの揺るぎない信仰告白です。使徒たちの言葉には矛盾も不自然さもなく、むしろ驚くべき正確さと美しさを持っているのです。
「ことば」があり、「歴史的なイエス」があります。両者は、しばしば混同されますが、それは不要です。イエス様は御言葉に完全に従って生き、御言葉をすべて成就された方だからです。そのため、イエス様を「天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました」と言えるのです。なぜなら、イエス様は神の御子であり、救い主であり、すべてを成就された方だからです。主はこのように偉大なお方です。ですから今、皆さんも「御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています」(コロサイ 1:17)という御言葉の深い意味を理解されたことでしょう。

「また、御子はそのからだである教会のかしらです。…」(コロサイ 1:18a)
イエス様は教会のかしらであり、私たち信徒は枝として主につながっています。

「…御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられました。」(コロサイ1:18b)
これは主は復活され、眠っている者たちの初穂となられました。全人類が死の支配下にありましたが、キリストは復活によってその鎖を断ち切られました。キリストは復活の初穂となり、私たちもその後に続くのです。使徒パウロはこの真理を第二コリント人への手紙で次のように表現しています。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(IIコリント 5:17)これは、キリストが最初に復活し、それに続いて私たちもキリストにあって新しく造られた者として生まれ変わることを意味しているのです。

「なぜなら神は、ご自分の満ち満ちたものをすべて御子のうちに宿らせ、」(コロサイ1:19)
《コロサイ2章》には、この箇所と通じる深い真理が記されています。「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。」(コロサイ 2:9) すなわち、神の完全なご性質がイエス様の内に余すところなく満ちており、イエス様を通して神の本質が完全な形で表されているのです。

「その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることを良しとしてくださったからです。」(コロサイ 1:20)
神の御子は地上に来られ、ご自身を低くして罪人のために十字架で死なれました。その十字架を通して、神様に敵対していた人類を和解へと導かれたのです。主は私たちを救うだけでなく、神様との和解をも実現させました。「和解」とは、救いに続いて与えられる祝福です。救われた者は必然的に神様と和解した者となります。さらに、キリストにあって神様と和解した者は、兄弟との間でも和解を実現しなければなりません。これこそが、パウロの最後の手紙であるピレモンへの手紙の核心的なメッセージです。

「21 あなたがたも、かつては神から離れ、敵意を抱き、悪い行いの中にありましたが、22今は、神が御子の肉のからだにおいて、その死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。あなたがたを聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に立たせるためです」(コロサイ 1: 21-22)。
これは《エペソ2章》にも記されている真理です。神の御子イエスは私たちを救い、神様との和解をもたらされただけでなく、さらに私たちを聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として立たせようとされました。このような驚くべき恵みを与えてくださったのは、美しい御名をもつイエス様なのです。

「ただし、あなたがたは信仰に土台を据え、堅く立ち、聞いている福音の望みから外れることなく、信仰にとどまらなければなりません。この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられており、私パウロはそれに仕える者となりました。」(コロサイ 1:23)
お祈りします。Ω

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