礼拝説教

終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ


2025年06月08日

*本文: 使徒の働き2章1-12節、17-18節、44-47節

†今日は聖霊降臨のペンテコステです。ですから、聖霊について学ばなければなりません。主は「聖霊を受けなさい」と言われました。そして、私たちは聖霊の力によって生きなければならないという話をよく聞きます。ですから、聖霊について深く理解する必要があります。聖霊について理解するためにはどうしたらいいでしょうか。まずは、ここから解いてみましょう。神様がおられますが、人間にとって神様はいと高きところにおられるお方です。"Up there God"です。ですから、人間は神様を見ることも、近くでお会いすることもできません。聖書の語る神様は目に見えない神様です。もし目に見える神であればそれは偶像です。木や石で作られた像はすべて偶像です。目に見えるものはすべて有限、制限的存在です。それは永遠のものではありません。
では、聖書が語る神様はどのようなお方ですか。私たちが信じる神様はどのようにお会いすることができ、どのようにその方のことを知ることができるでしょうか。私たちの神様は語られるお方です。御言葉を聞くことで神様と出会い、神様のことを知ることができます。伝道者の書5章には次のような御言葉があります。「神の前では、軽々しく 心焦ってことばを出すな。神は天におられ、あなたは地にいるからだ。だから、ことばを少なくせよ。」(伝道者5:2)。神様はいと高きところにおられ、私たちに語られます。そして、私たちはそれを聞かなければなりません。
目と耳では役割が全く違います。目は、私が何かを見るので、見る私が主体になります。耳は、誰かが話すことを聞きます。それは聞く私が対象になることです。私たちが信じる神様は決して人間の対象になることはありません。私が何かを見るとすれば、その見えるものは対象になります。そして、見る私は主体になります。神様は決して私たちの目に見える方ではありません。神様は決して私たちに見られる方ではありません。神様は決して対象化される方ではありません。神様はどのようなお方ですか。神様は常におられるお方です。神様は一度現れては消える方ではありません。神様はモーセにご自分について、「わたしは『わたしはある』という者である。(出エジプト3:14)」と説明されました。神は自ら存在され、いついかなる時も私たちの上におられるお方です。そして、私たちに語られます。私たちはその御言葉を通してのみ、そのお方を見ることができるのです。
それならば、人間の問題は何でしょうか。私たちの先祖が神様を失ったということです。先祖とは誰でしょうか。系図を遡っていくと、私たちの先祖は<アダム>です。アダムが神様との関係が断絶されたことによって、すべての人間は神様を失いました。人間が神様から離れたことによって、人間は神のことばを聞かなくなってしまいました。ですから、そのとき、神様はどうすべきだったのでしょうか。人間を一掃して、すべて造りなおせば良かったのかもしれません。しかし、神様はそうなさいませんでした。神様はご自分を知らない人間のために、御子を遣わしてくださいました。その御子が「イエス」です。その名前は「(ヤハウェは)救う、救い」という意味です。イエス様がこの地に来られるべき理由は、それはその名前のとおり、この世を救うために来られたのです。イエス様は救い主です。

イエス様が十字架につけられる前に最後の説教をされましたが、何と語られましたか。「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。」(ヨハネ14:18)イエス様は死の道に向かいながらも、私たちを捨てて孤児にはしないと言われました。これはイエス様の<告別説教>の場面です。主はわたしが先に天国にあなたがたのための場所を用意しに行く、と弟子たちに言われました。「2 わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。3 わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」(ヨハネ14:2-3)主はこのように弟子たちを慰めてくださいました。そして、わたしが去って行っても助け主である聖霊を遣わすと約束されました。「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。」(ヨハネ16:7)「16 そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。17 この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。18 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。」(ヨハネ14:16-18)主が聖霊を遣わしてくださると言われました。
では、なぜ「聖霊」が私たちのところに来られなければならなのでしょうか。創世記を見ると、人は生きるものとなったと書かれています。「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。」(創世記2:7)本来堕落する前の人間には神の息が吹き込まれていました。ですから、人間は聖霊の宮(神殿)でした。しかし、人が堕落することによって聖霊がとどまることのできない存在になってしまい、肉にすぎない存在になってしまったのです。それで、《創世記6章》で「わたしの霊は、人のうちに永久にとどまることはない。人は肉にすぎないからだ。…(創世記6:3a)」と言われました。堕落の極みにある人間の姿をノアの時に見ることができます。婚姻が乱れ、世に罪が溢れていました。神の霊が人とともになかったので、人間はすべて肉にすぎないものとなりました。人は本来、神の霊がとどまる神の宮になるはずでしたが、そうできなくなったのです。
人間が神の宮になれなかったので、神様はモーセを通して幕屋を建てさせました。この幕屋は後にソロモンの神殿になります。神殿には庭と聖所と至聖所があります。至聖所は神様が臨在される場所です。人間にも肉と魂と霊があります。霊は神が臨在されるところです。《第一コリント3章と6章》を見ると、人間は神の宮であると書かれています。「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。」(Ⅰコリント3:16)「あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。」(Ⅰコリント6:19)人は本来、神の宮になるべきでした。そして、神様が人間のうちにおられ、人間と神様がともにあれば、人間同士はみな通じ合うようになったはずです。それは、私たちが携帯電話を使うときに基地局と繋がっていれば、互いに通じるのと同じです。しかし、人間が神の霊を失いました。しかし、時には神の御霊(聖霊)が特別な人に下って、その人に特別な働きをさせてくださいました。そのような事例が旧約聖書に見られます。神様が預言者に聖霊を注いでくださり、彼らを通して働かれました。
しかし、聖霊降臨祭に聖霊がすべての人に注がれたのです。しもべでもはしためでも、何の差別もなくすべての人が聖霊を受ける驚くべき時代が開かれました。イエス様が私たちを孤児のように捨ておかず、聖霊を遣わすと約束されたとおり、聖霊が来られたのです。私たちはイエス様を信じて救われた後、天国に行くその日までこの聖霊の助けをいただいて生きるようにしてくださいました。聖霊の油注ぎを受けて天国の民にふさわしい衣を着ることができるように、聖霊が私たちを助けてくださるのです。

今日はまさに聖霊が降った聖霊降臨祭です。聖霊降臨祭はもともと五旬節でした。五旬節をギリシア語で「ペンテコステ(Pentecost, πεντηκοστή, pentēkostē)」といいます。「ペンテ(Penta)」は数字の「5」を表す言葉です。「ペンテコステ(五旬節)」は過越の祭りの翌日から数えて50日目の日です。ユダヤ人の三大祭があります。一つ目は過越(すぎこし)の祭り、二つ目は五旬節(=七週の祭り、=初穂(はつほ)の祭り、刈り入れの祭り)、三つ目は仮庵(かりいお)の祭り(幕屋の祭り)です。五旬節は育てた小麦の収穫を神様に献げる感謝祭でした。仮庵の祭りはイスラエルの民が荒野で幕屋を建てて暮らしていたときに、神様が彼らとともにおられたことを覚えて神様に感謝をささげる期間です。五旬節はユダヤ人の三大祭の一つですから、キリスト教が新たに定めた祭りではありません。五旬節は今でもユダヤ人が行っている祭りです。その五旬節の日に、神様が聖霊を遣わしてくださったのです。

イエス様は復活され、地上に40日の間おられました。そのとき、主は何と言われましたか。「神様が遣わしてくださるから、聖霊を待ちなさい」と言われました。「4 使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。『エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。5 ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。』」(使徒1:4-5)すべての人に聖霊を注いでくださるということです。聖霊が来られることによって、私たちは孤独になることなく、聖霊の教えによって天国の民としてさらに聖なる姿へと変えられていくのです。
ここで「父の約束を待ちなさい」と言われました。この約束とは何でしょうか。これは《ヨエル書2章》の預言です。「28 その後、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、老人は夢を見、青年は幻を見る。29 その日わたしは、男奴隷にも女奴隷にも、わたしの霊を注ぐ。」(ヨエル2:28-29)神様がすべての人に神の霊を注いでくださいます。これは本当に驚くべき約束です。「しかし、主の御名を呼び求める者は みな救われる。主が言ったように、シオンの山、エルサレムには 逃れの者がいるからだ。生き残った者たちのうちに、主が呼び出す者がいる。」(ヨエル2:32)主の御名を呼び求める者はみな救われると言われました。この預言が使徒の働き2章にも出ています。この預言を使徒ペテロが引用して、五旬節の日に説教しました。ヨエル書2章23節を見てください。「シオンの子らよ。あなたがたの神、主にあって、楽しみ喜べ。主は、義のわざとして、初めの雨を与え、かつてのように、あなたがたに大雨を降らせ、初めの雨と後の雨を降らせてくださる。」(ヨエル2:23)神様が雨を降らせてくださいますが、初めの雨と後の雨があります。イスラエルでは農業をするときに、初めの雨と後の雨がありました。この二回の雨が降って、豊作になりました。これは農業をたとえに用いて、私たちの心の世界のことを教えておられます。人の霊にも聖霊の恵みが降り注がれます。初めの雨があり、後の雨があります。
《使徒の働き2章》を見ると、聖霊が注がれて一日に三千人ほどが伝道されました。「彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。」(使徒2:41)このように、終わりの日に後の雨が降るということです。また、聖霊の雨が降るのです。

今日は五旬節ですから、《使徒の働き2章》を見ます。
「五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。」(使徒2:1)
信じる者たちがここに集まっています。なぜ集まっていますか。《使徒の働き1章4-5節》にあるイエス様のお命じどおり、聖霊を待ちながら集まっていました。「4 使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。『エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。5 ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。』」(使徒1:4-5)

「1 五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。2 すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。3 また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。4 すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。」(使徒2:1-4)
天から聖霊の賜物が降りましたが、異言の賜物から降りました。なぜでしょうか。人間が舌で罪を犯したからです。だから、異言の賜物から始まりました。神の御霊が降り、舌から解いてくださいました。人々が異言を語りましたが、「それぞれ生まれた国のことば」を語りました。

「それなのに、私たちそれぞれが生まれた国のことばで話を聞くとは、いったいどうしたことか。」(使徒2:8)
そのため、様々な地域から来た人たちは驚きました。

「9 私たちは、パルティア人、メディア人、エラム人、またメソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントスとアジア、10 フリュギアとパンフィリア、エジプト、クレネに近いリビア地方などに住む者、また滞在中のローマ人で、11 ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレタ人とアラビア人もいる。それなのに、あの人たちが、私たちのことばで神の大きなみわざを語るのを聞くとは。」(使徒2:9-11)。
五旬節はユダヤ人にとってとても重要な祭りなので、エルサレムから100km以内にいる人はみな集まりました。ユダヤ人の祭りを守るためにエルサレムに集まったのですが、マルコの屋上の部屋で驚くべきことが起こりました。その屋上の部屋にいた120人が外に出て、様々な国のことばで祈ったのです。人々は「あの人たちは私たちそれぞれが生まれた国のことばを話している」と言いました。神様が新たな時代が到来したことを示されたのです。
この歴史的な一日は、神様がいにしえから約束してくださったことでした。その約束が成就したのです。しかし、この五旬節を迎えるにあたって私たちが忘れてはならないことがあります。イエス様が私たちの罪を担って死なれたことによって、イエス様を信じる者が救われました。私たちは主の贖いの血の代価によって立てられた主の民です。しかし、その主の民を通して神様は何をなさろうとしておられるのでしょうか。神様は世の初めからあった理想の世界を成そうとしておられるのです。そのためには何が必要でしょうか。すべての人に聖霊が臨まなければなりません。

なぜ聖霊が一人ひとりに臨まなければならないのでしょうか。教理的にこれを見てみましょう。私たちはイエス様を信じるとき、その信仰によって義と認められました(Justification)。信仰によって私たちは神の子となる特権をいただきます。神の子とされた私たちは天国に行くまで、神の子として養われ、教えられ、守られなければなりません。そして、天国に行くまでにきよく、聖なる者とならなければなりません。この過程を聖化(Santification)といいます。しかし、私たち人間の力によってはそれは不可能なことです。では、どうすればそれが可能になるのでしょうか。聖霊の力によって可能です。だから、私たちには聖霊が必要なのです。聖霊は贈り物だと言いました。「そこで、ペテロは彼らに言った。『それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」(使徒2:38)聖霊はあたたかいお母さんのように私たちを見守ってくださいます。原語で助け主というのは中性名詞です。男性でも女性でもありません。時にはお父さんのように大きな腕となり、時にはお母さんのようにあたたかく抱いてくださいます。時には優れた教師のように私たちに真理を教えてくださいます。イエス様は告別説教で、聖霊が来て真理を悟らせ、主の愛を思い起こさせてくださると言われました。「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ14:26)この過程を通して、聖霊は私たちを天国の民としてきよくしてくださいます。

「『神は言われる。終わりの日に、わたしは すべての人にわたしの霊を注ぐ。…」(使徒2:17a)
すべての人(upon all flesh/KJV, すべての肉体に/韓国語訳)とは何を指しているのでしょうか。人間のからだだけではなく、すべての肉です。私たちがキリストによって聖霊を受けると、人間に注がれた聖霊の祝福が溢れ流れてすべての万物までも祝福されます。すべての獣、家畜にまで驚くべき働きが起こります。宣教師たちが宣教地に開拓に出ていくと、実に驚くべき聖霊の働きが起こります。私たちはそういう証しをたびたび聞きます。

「17b あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。18 その日わたしは、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると彼らは預言する。」(使徒2:17b-18)
聖霊の賜物がしもべにも、はしためにも注がれたということです。当時は奴隷がとても多く、奴隷の時代とも言えるほどでした。奴隷は主人の所有物でした。しかし、身分の格差がすべて撤廃され、聖霊がしもべにもはしためにも降りました。預言者ヨエルを通して神様が預言された約束が成就しました。ここで「注ぐ」という表現が使われています。アメリカンフットボールを見ると、優勝チームの監督にゲータレードを大量に注ぎかけます。そのように聖霊があのように手に負(お)えないほど注いでくださいます。私たちに聖霊の恵みを惜しみなく注いでくださるのです。
神様は御子を遣わし、聖霊を遣わしてくださることによって人間を天国に導く完全な道を開いてくださいました。これがキリスト教が信じる三位一体の神様です。父なる神様、子なる神様、聖霊なる神様が人間を完全に導いてくださるのです。

聖霊降臨祭は聖霊の時代が開かれた日です。この聖霊の働き(work)を通して神の国が訪れます。人の力では世界を変えることはできません。《ローマ書8章》に宇宙的な回復が語られていますが、聖霊の時代が開かれてこそ宇宙的な回復が始まります。そして神の国が訪れます。聖霊の力によってそれが可能になるのです。ですから、私たちは落胆する必要も、寂しい思いをする必要もありません。
また、イエス様はこのように言われました。「ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」(ルカ11:13)聖霊を求めなさいということです。そうすれば与えてくださいます。ですから、私たちは聖霊を求めるべきです。これを知るようになると、すべての精神病も治ります。私たちの救いが贈り物として与えられたように、聖霊も賜物として与えられるものです。主の名を呼び求める者に与えられるプレゼントです。ですから、私たちは幸せな主の民です。私たちは寂しくありません。天の都(天の城)に至るまで、聖霊様が私たちを守り、導いてくださいます。私たちの足りない部分も聖霊様がすべて満たしてくださいます。そして、私たちが悟ることができなかったこともすべて悟らせてくださいます。聖霊様は私たちに力を与え、健やかにしてくださり、きよくしてくださいます。そのような新たな時代が開かれたのです。

《使徒の働き2章》には聖霊降臨の記録とペテロの五旬節の説教があり、後半には教会の誕生について記されています。最初の教会の姿がここに出ています。この教会を形づくられた方は誰ですか。聖霊様です。ですから、今日は聖霊降臨祭でもありますが、教会が歴史のなかで誕生した日でもあります。教会は聖霊の共同体です。聖霊の力の下、聖霊の導きとご支配に従って生きる人々が集まったところが教会です。《使徒の働き2章》にはそのような教会の美しい姿が描かれています。一緒に読んでみましょう。

「すべての人に恐れが生じ、…」(使徒2:43a)
すべての人に神への恐れが生じました。これは恐怖とは違うものです。神様に対する畏敬の念です。

「43b …使徒たちによって多くの不思議としるしが行われていた。44 信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、45 財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。」(使徒2:43b-45)
人々が自分の所有を売って、貧しい人に分け与えたということです。なぜそうしたのでしょうか。彼らの中にイエス・キリストがいたからすでに満ち足りていて、それゆえ与えることができたのです。「すると、ペテロは言った。『金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。』」(使徒3:6)これはペテロが座り込んでいた物乞(ものご)いに語った言葉です。金銀はないが私にあるものがある、私はすでに豊かになったから、それを分けてあげようということです。イエス・キリストを得た者はすでに豊かにされた者です。だから、自分のものを差し出すことができるのです。

「46 そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、47 神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。」(使徒2:46-47)
教会の美しい姿をこのように描いています。私たちはこのような教会の姿に従っています。

今日私たちは教会が五旬節から始まったことを見ました。教会が五旬節に始まったということは、教会が聖霊の共同体であり、聖霊の力の下にあるということです。そして新しい世界が開かれたのです。今日、私たちがこの日を記念し、この日の意味を深く黙想することを願います。そして、聖霊の驚くべき恵みを思い起こしてください。聖霊様は私たちを天の都(天の城)へ導き、聖なる民としてきよめ、天国の民として印を押してくださいます。私たちがその聖霊の恵みにいつも感謝し、力強く前進する者たちになることを願います。お祈りします。Ω

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