2026年08月23日
*本文:ローマ書3章21-25節
ローマ人への手紙3章21節から26節は、福音の核心を最も鮮やかに示している箇所です。パウロは、それまで異邦人の罪、ユダヤ人の罪、そして全人類の罪を明らかにしてきました。人間はみな罪の下にあり、律法を通して自分の罪を知れば知るほど、逃れる道のない絶望の中に置かれていました。しかし21節で突然、「しかし今や」と語られます。これは暗闇から光へ、絶望から希望への大きな転換です。律法によっては得ることのできなかった「神の義」が、ついに明らかにされたのです。この義は突然現れたものではなく、律法と預言者、すなわち旧約聖書を通して長い間証しされ、神様の遠大なご計画の中で、時が満ちてイエス・キリストによって私たちにもたらされたものです。
この神の義は、イエス・キリストを信じるすべての人に与えられる義であり、そこには何の差別もありません。すべての人が罪を犯し、神の栄光を受けることができなくなりました。創造の初め、人間は神様と顔と顔を合わせ、神様の栄光の中に生きるように造られていました。しかし、アダムの堕落によって神様との関係が断ち切られ、全人類は罪と死の支配の下に置かれました。これが原罪です。一人のアダムによって罪と死が人類に入ったように、新しいアダムであるキリストによって義と命がもたらされました。私たちの深いところにある神様への不信と反逆の根が死に、キリストが私たちのうちに生きてくださること、これが新生であり、新しい命の始まりです。
パウロは、この救いを理解させるために三つの比喩を用いました。第一は「奴隷市場の比喩」です。「贖い」という言葉は、代価を支払って奴隷を自由にすることを意味する商業用語でした。私たちは罪の奴隷であり、自分の力ではそこから逃れることができませんでした。しかし、イエス・キリストがご自身の血によって代価を支払い、私たちを贖い、自由にしてくださいました。第二は「法廷の比喩」です。「義と認められる」という言葉は法廷用語であり、裁判官が無罪の判決を下すことを意味します。私たちは罪人でしたが、裁判官である神様が、キリストの贖いによって私たちを義と認めてくださったのです。私たちが何かの代価を支払ったのではありません。ただ恵みによって、価なしに義とされたのです。
第三は「祭祀の比喩」です。ユダヤ人は罪の赦しのために犠牲を献げ、その血によって贖罪がなされることをよく知っていました。しかし、旧約の犠牲は、やがて来られるキリストの犠牲を指し示すものでした。イエス・キリストは、私たちのために「血による宥めのささげ物」となられました。私たちが受けるべき刑罰を、主が代わりに受けてくださったのです。本来、罪人である私たちは神様の怒りと裁きの下にあり、死に至るしかありませんでした。しかし、キリストが私たちの罪を背負い、十字架で血を流されたことによって、神様と人間の敵対関係は終わり、和解の道が開かれました。贖罪とは、単に罰を免れることではありません。神様との壊れた関係が回復され、もう一度神様の子どもとして生きることができるようになることなのです。
ですから、救済論の核心は「信仰による義認」です。信仰とは、神様の恵みを受け取る通路です。二千年前、キリストが十字架で成し遂げられた救いの出来事を、今を生きる私たちが信仰によって受け取るのです。主はすでに勝利されました。キリストはアダムから続いてきた罪と死の連鎖を断ち切り、新しい命の歴史を始めてくださいました。ヨハネの福音書には、イエスを受け入れ、その名を信じる者には「神の子どもとなる特権」が与えられるとあります。救いとは、私たちが自分の努力によって神様のところまで登っていくことではありません。神様が先に私たちのところまで来られ、罪を赦し、受け入れ、子どもとしてくださった、その恵みを信じて受け取ることです。
ここで私たちは、「それでは、なぜイエスを受け入れなければ裁かれるのか」という問いについても考えなければなりません。それは、イエスを信じないことそのものが初めて人を滅びに至らせるのではなく、すでに人間が罪によって神様から離れ、死の状態に置かれているからです。すべての人は罪の下にあり、神様の怒りと裁きの下に置かれています。しかし神様は、この世をあまりにも愛されたので、ひとり子を与えてくださいました。人間が神様を裏切り、一方的に神様から離れたにもかかわらず、それでも神様は私たちを捨てませんでした。罪を問うだけで終わるのではなく、ご自身の御子を通して赦しと命の道を開いてくださったのです。
ですから、私たちが信じるということは、神様が私たちの罪を赦し、キリストによって私たちを受け入れてくださったことを信じ、その愛を受け入れることです。救いは私たちから始まるのではなく、神様から始まります。私たちの功績によるのではなく、ただ神様の愛と恵みによるものです。キリストの血によって罪の連鎖は断ち切られ、神様との和解の道が開かれました。主はすでに勝利され、私たちがもう一度神の栄光の中に立つ道を備えてくださいました。ですから私たちは、その驚くべき恵みを信仰によって受け取り、神様の子どもとして与えられた新しい命を生きる者となりたいと思います。