2026年09月06日
今回の礼拝では、ローマ人への手紙3章27~31節を通して、「人は何によって神様に受け入れられるのか」という、キリスト教の大切なテーマについて語られました。聖書は、人が自分の努力や善い行いを積み重ねることによって神様の前で正しい者になるのではなく、神様が与えてくださる恵みを信仰によって受け取ることで、神様との正しい関係に入ることができると教えています。そのため、人は自分の信仰や行いを誇るのではなく、まず神様の愛と恵みに目を向けることが大切だと語られました。
キリスト教では、このことを「ただ信仰によって」「ただ恵みによって」と表現します。私たちは完全な人間ではなく、誰もが失敗し、人を傷つけ、自分自身の弱さを抱えながら生きています。そのような私たちを、神様はイエス・キリストを通して赦し、もう一度受け入れてくださいます。キリストの十字架は、人間が自分の力で神様の愛を得るのではなく、神様のほうから私たちに近づき、救いの道を開いてくださったことを表しています。だからこそ、救いは人間の功績に対する報酬ではなく、神様から無償で与えられる恵みなのです。
歴史の中では、信仰にさまざまな条件や人間の功績を付け加えようとする考え方も生まれました。しかし、パウロは、救いに人間の誇りが入り込む余地はないと繰り返し語りました。たくさん善いことをしたから神様に愛されるのでも、宗教的な儀式を行ったから特別に救われるのでもありません。まず神様が私たちを愛し、赦し、受け入れてくださる。その恵みから信仰生活が始まります。信仰が深くなればなるほど、人は「自分が立派だからではなく、神様の恵みによって生かされている」ということを知るようになるのです。
また、パウロは「神様はユダヤ人だけの神様ではなく、すべての人の神様である」と語りました。当時、ユダヤ人とそれ以外の人々の間には大きな壁がありました。しかし、福音は、そのような民族や身分の違いを越えて、すべての人に開かれています。お金を持っているかどうか、社会的な地位が高いか低いか、男性か女性か、若いか年老いているかによって、神様との距離が変わることはありません。神様の前では、すべての人が同じように大切な存在なのです。
聖書は、イエス・キリストの十字架が、人と人との間にある「隔ての壁」を取り壊すと教えています。エペソ人への手紙2章では、もともと互いに遠く離れていた人々が、キリストによって一つにされる姿が描かれています。教会とは、本来、さまざまな背景を持つ人々が互いを差別せず、神様の愛の中で一緒に生きる場所です。そこでは、国籍や文化、立場の違いを越えて、一人ひとりが尊重され、共に神様の家族として歩んでいくことが目指されています。
それでは、「神様の恵みだけで救われるのであれば、善い行いをする必要はないのでしょうか」。パウロは、そのような考えをはっきりと否定しました。恵みによって救われることは、正しく生きようとする努力を不要にするものではありません。むしろ、神様から無条件に愛されたことを知った人は、その愛に応えて、人を愛し、正しいことを行い、誠実に生きようとするようになります。善い行いは救われるための条件ではなく、神様の恵みを受けた人の人生から自然に現れてくる実りなのです。
今回の御言葉を通して示されたのは、キリスト教信仰の中心には「恵み」があるということでした。私たちは、自分の努力だけで完全な人間になることはできません。しかし神様は、そのような私たちを見捨てるのではなく、キリストを通して赦し、新しい人生へと招いてくださいます。そして、その恵みを受けた私たちは、自分を誇るのではなく、他の人を尊重し、隔ての壁を越え、愛と善を実践して生きるよう招かれています。「ただ恵みによって生きる」とは、何もしなくてもよいという意味ではなく、神様から受けた愛に感謝し、その愛を周りの人々へと分かち合って生きることなのです。
ローマ書4章20~25節では、アブラハムの信仰がどのようなものであったのか、そしてその信仰がイエス・キ...