2026年09月20日
ローマ書4章4~12節で、パウロは「人は何によって神様に受け入れられるのか」という問題を、さらに深く説明しています。働いた人が給料を受け取る場合、それは「恵み」ではなく、働いたことへの当然の報酬です。しかし、神様の救いはそのようなものではありません。「これだけ善いことをしたから、神様からこれだけ受け取る権利がある」と考えることはできません。救いは、人間の努力に対して支払われる報酬ではなく、神様から無償で与えられる恵みだからです。
イエス様も、さまざまなたとえを通してこの恵みを教えられました。ぶどう園のたとえでは、一日中働いた人だけでなく、夕方になってから働き始めた人にも主人は同じ報酬を与えました。人間の計算から見れば不公平に思えるかもしれません。しかし、この物語が示しているのは、神様の恵みは人間の功績を単純に計算して与えられるものではないということです。聖書に登場するヨセフも、取税人マタイも、自分に特別な資格があったから愛されたのではなく、まず愛され、憐れみを受けた人々でした。
パウロ自身も、以前は自分の家柄や宗教的な熱心さ、律法を守ってきた生き方を誇りとしていました。しかし、イエス・キリストを知った後、それらを神様の前で誇ることはできないと悟りました。自分が立派だから神様に受け入れられたのではなく、神様の憐れみと愛によって生かされていることを知ったからです。信仰の危機は、自分の行いや実績を神様の恵みより大きく考え始めるところから生まれます。逆に、自分の弱さを認める時、私たちは神様の恵みをより深く知ることができます。
そこでパウロは、イスラエルの王ダビデの言葉を引用します。「幸いなことよ、その背きを赦され、罪をおおわれた人は。」ダビデは大きな罪を犯しましたが、自分の罪を認め、神様の前で悔い改めました。そして神様の赦しを経験しました。「罪をおおわれる」とは、罪そのものがなかったことになるという意味ではありません。自分では負いきれない罪の責任を、別の方が引き受けてくださるということです。キリスト教では、イエス・キリストが十字架によって私たちの罪を引き受けてくださったと信じます。だからダビデは、罪を赦された者は本当に幸いだと歌ったのです。
続いてパウロは、アブラハムがいつ神様に義と認められたのかを考えます。ユダヤ人にとって「割礼」は神様の民であることを示す重要なしるしでした。しかし、アブラハムが神様を信じ、その信仰を義と認められたのは、割礼を受けるずっと前のことでした。彼は75歳の時に神様の呼びかけに従い、99歳の時に割礼を受けました。つまり、割礼という宗教的な儀式によって救われたのではなく、その前から神様を信頼する信仰によって受け入れられていたのです。パウロはここから、神様の恵みは特定の民族や宗教的な資格を持つ人だけに限られたものではないと説明します。
それでは、割礼や洗礼のような宗教的な儀式には意味がないのでしょうか。そうではありません。パウロは割礼を「しるし」「証印」と呼びました。つまり、それはすでに与えられた神様の恵みを確認するためのしるしです。キリスト教の洗礼も同じように、洗礼という行為そのものが人を救うのではなく、すでにイエス・キリストを通して与えられた神様の愛と救いを受け入れ、それを確認する大切なしるしです。宗教的な儀式や習慣が神様の恵みそのものに置き換わってしまう時、信仰の本質を見失ってしまいます。
では、聖書が語る「信仰」とは何でしょうか。それは、神様の愛を受け入れることです。イエス様がザアカイに声をかけ、彼の家に入られた時、ザアカイはその愛を喜んで受け入れました。同じように、神様は私たちの弱さや罪を知りながらも、キリストを通して赦しと新しい人生を差し出してくださいます。救いとは、自分の力で神様の前にふさわしい人間になることではなく、その差し出された愛を信じて受け取ることです。だからパウロは、「ただ信仰によって」「ただ恵みによって」と強調しました。自分の功績を誇るのではなく、神様から与えられた大きな愛に目を向け、その恵みの中を歩むこと。それがローマ書4章が私たちに教えている信仰の姿なのです。
ローマ書4章20~25節では、アブラハムの信仰がどのようなものであったのか、そしてその信仰がイエス・キ...