礼拝説教

ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています


2025年05月12日

*日付: 2025年5月11日, 主日礼拝
*本文: ピリピ人への手紙3章17-49節

†今日の 神様の御言葉は、ピリピ人への手紙の最後の部分を取り上げたいと思います。4章10節から最後まで見ていきます。パウロの教えには、常に理論と実践の両面が備わっています。理論と実践は、切り離すことのできない一体のものです。パウロもまず教理を教え、次に必ず倫理的な実践が続くように教えました。これにより、神様の御言葉が私たちの人生のあらゆる部分に行き渡るようにしてくれているのです。パウロの個人的な手紙であるピレモンへの手紙を振り返ると、その最後の部分に「もし彼があなたに何か損害を与えたか、負債を負っているなら、その請求は私にしてください」という印象的な一節があります。教会は聖なる場所であるため、教会内ではお金について語ることに対して、どこか恥ずかしさや遠慮があることが多いものです。しかし現実的には、お金の問題は非常に重要な問題です。パウロの手紙には、こうした物質的な問題に関する教えが随所に見られます。そして、今私たちが見ているピリピ書の後半部分でも、パウロは物質的な支援について詳しく語っています。ピリピからパウロがいたローマの牢獄までは、約1800〜2000キロメートルもの遠い距離がありました。この遠い道のりを、エパフロディトという使者がピリピ教会で集めたお金や必需品を持って、はるばる届けに来てくれたのです。それに対して、パウロは感謝の念と喜びの気持ちをここで語っています。

「私を案じてくれるあなたがたの心が、今ついによみがえってきた(口語訳:「芽(め)ばえてきた」)ことを、私は主にあって大いに喜んでいます。あなたがたは案じてくれていたのですが、それを示す機会がなかったのです。」(ピリピ 4:10)  

 この贈り物を受け取ったパウロは、このように語っています。この言葉を通して、パウロは非常に高尚な教えを私たちに示しているのです。牢獄に幽閉された自身のために、金銭的支援と必需品を提供してくれることへの深い感謝の念が伝わってきます。ここで「私を案じてくれるあなたがたの心が、今ついによみがえってきたこと」と語っています。そして、その後にさらに優しい言葉を付け加えています。「あなたがたはいつも私のことを考えてくれていたでしょう。しかし、助けることが容易ではなかったので、私の世話をすることができなかったのでしょう」という思いやりのある解釈を示しているのです。
 「よみがえってきた」(口語訳「芽ばえてきた」)といますが、この意味について考えてみましょう。私たちが誰かと愛の関係を結ぶとき、必然的に与え合う関係が生まれます。これについて、15節では次のように語られています。「ピリピの人たち。あなたがたも知っているとおり、福音を伝え始めたころ、私がマケドニアを出たときに、物をやり取りして私の働きに関わってくれた教会はあなたがただけで、ほかにはありませんでした。」(ピリピ 4:15) これは、パウロがマケドニアを離れてアガヤ地方(コリントがある地域)へ開拓のために旅立つ際、ヨーロッパ最初の教会であったピリピ教会のみがパウロを支援したことを示しています。人生において、ある人は余裕があり、またある人は不足や困難、苦しみを抱えています。このような状況下で、愛の関係を結んで生きる人々は、互いに与え合うことを実践せねばなりません。ピリピの教会はこのことを見事に実践し、それゆえに永く存続する教会となったのです。
 パウロは「心に生じたもの」を「心が芽生(めば)えてきた、心がよみがえってきた」と表現しました。これは、ピリピ教会に与えようとする心が芽生えたことを指しています。私たちの人生も、このように与え合いながら美しいものとなっていくのではないでしょうか。パウロは、「あなたがたがいつもこのような心を持って生きてきたことを私はよく知っている」と語ることで、この尊い贈り物への深い感謝を表しています。

「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました」(ピリピ 4:11)。

 ここに「満足(自足―直訳表現)」という言葉が出ました。パウロが自ら満足することを学んだことを示しています。《第一テモテへの手紙6章6節》には、「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそが、大きな利益を得る道です」とあります。これは、パウロが自ら満足する心を持っていたことを示すものです。
 私たちは人生において多くのことを経験します。その中で、この「満ち足りる」心を持って生きること、すなわち人生の基準を崩さずに生きることが極めて重要です。これはストア学派が最も重んじた価値でもありました。変動する外的環境の中で、いかに心の平和を保って生きるか。平常心を失わず、乱れない心を持ち続け、自ら満足する自足の心を持って生きることは、ストア哲学において最高の境地とされました。当時のギリシャ文化圏において、手紙を受け取った人々はパウロの言葉をよく理解できたことでしょう。パウロは信徒たちが自身を見倣い、同じ心を持つことを願ったのです。
 パウロは自足する術をキリストから学びました。そのため、物質的な不足に直面しても、彼は疲弊せず、落胆せず、卑屈にもなりませんでした。確かに、経済的困窮は人々を疲れさせ、試みに遭わせ、時には卑屈にさせることがあります。しかし、この「自足」という美しい言葉の中に、パウロが常に心の中心をしっかりと保ちながら生きていた姿を見ることができます。彼は、サタンがどれほど倒そうとしても心の中心を崩さず、平常心で生き抜いた人だったのです。

「私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。」(ピリピ 4:12)

 この言葉には、使徒の威厳と丁寧さ、断固とした意志と温かみが同時に表れています。彼は「私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています」と語ります。通常、人は貧困に陥ると品位や高潔さを失いがちです。しかし、パウロの喜怒哀楽は金銭に左右されることがありませんでした。そのため、経済的困難にも動揺することなく、孤高の生き方を貫きました。彼は「私が足りなくてこのようなことを言っているのではない」と語っています。支援に対して過剰に感動したり、お世辞を言ったりしません。しかし、だからといって贈り物を無礼に受け取ることもありません。その姿勢は真に崇高でした。

では、人間の真の自足はどこから来るのでしょうか。詩篇の作者は「主は私の満足である」と語り、ペテロとヨハネは「金銀は私にはないが、私にあるものをあなたにあげよう」と宣言しました。私たちはすでに、金銀よりも貴重なものを得ているのです。たとえすべてを失っても、すべてが満たされるという約束が私たちの内にあります。これこそが私たちの信仰の本質です。
 人間の魂は神様の中でのみ真の満足を見出します。どんな物質的なものからも、私たちは決して完全な満足を得ることはできません。人間は愛の神によって、愛のために造られた存在であり、愛することと愛されることに喜びを見出します。その愛の極みは、キリストを通して示された恵みです。私たちはこの恵みの中で満足を得るのです。人生とは、この真理を求めてあえぎながら生きることです。ギリシャの哲学者たちは、人間を「器」として捉えました。人はその器に何かが満たされなければならない存在なのです。「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように 神よ 私のたましいはあなたを慕いあえぎます」(詩篇 42:1)という言葉が示すように、私たちの魂は切実に主を求めています。神様を見失った人間は、それゆえに憂うべき存在となったのです。
 ところが、人間の心には過度な貪欲が潜んでいます。十戒の最後に「貪(むさぼ)ってはならない」という戒めが置かれているのは、まさにこのためです。99個を持つ者が、1個しか持たない者からそれを奪って100個を満たそうとする、これが人間の性なのです。では、私たちはどうすればこの貪欲から解放されるのでしょうか。イエス様はすべてを与え尽くしてこの世を去られました。特に十字架上での出来事は、すべてを差し出すことの究極的な表現でした。最後に残された衣服さえもローマ兵士たちによってくじ引きで分配されました。《第二コリント人への手紙8章9節》は、このことを次のように述べています。「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」(Ⅱコリント 8:9) 十字架は自己否定の象徴です。ですから、私たちが真に十字架のもとに立つ時、私たちの魂は腐敗から守られます。十字架の真意を理解し、イエス様を信じる者は、欲望の奴隷となることも、自己中心的な生き方に閉じこもることも、私利私欲のために生きることもできないのです。

 イエス様は弟子たちに二枚の衣服以外は持つなと命じられました(マタイ 10:10)。この「二枚の衣服」(two coats)とは何を意味するのでしょうか。一着は着用中の衣服であり、もう一着は着替えのためでしょうか。あるいは他の人に与えるための衣服でしょうか。あるいは、他の人に分け与えるためのものかもしれません。いずれにせよ、主イエスは「それ以上のものを持つな」と言われました。また、弟子になろうとする者に対して「人の子には枕するところもない」とも語られました(ルカ 9:58)。弟子道の第一の徳目は無所有です。弟子の生き方とは、所有から解放された人生です。これは極めて深遠な教えです。しかし、所有から自由になることは本当に可能でしょうか。それは決して簡単なことではありません。私たちはどのようにして所有を超越する生き方を実践できるのでしょうか。私たちはその生き方を実践し、味わい、真に生きた人たちを知っています。
 それは、ペテロとヨハネです。彼らは船も網も父も、すべてを捨てて主に従いました。そして神殿の門の前で、足の不自由な物乞いにこう言ったのです。「私たちを見なさい。金や銀は持ち合わせていませんが、私に与えられたものをあなたに差し上げましょう。ナザレのイエスの御名によって、立ち上がり、歩きなさい」と。「私たちはあなたと同じような人でした。かつては、私たちの人生の中心にお金がありました。お金が私たちの主人であり、私もまたお金に縛(しば)られ、支配されていました。私がお金を所有しているのではなく、お金が私を所有していたのです。しかし今、私には本当に得たものがあります。それはナザレのイエス・キリストです。『金銀は私にはない。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。』」「主は私の全て、私の満足です。」これが弟子たちの経験した真理でした。

 パウロは「ありとあらゆる境遇(きょうぐう)に対処(たいしょ)する秘訣(ひけつ)を心得ている」と語りました。その秘訣とは何でしょうか?それは、極限(きょくげん)の貧困(ひんこん)の中でも耐える力を得たということです。深刻(しんこく)な貧困は人から思考力も、聴く力も、高邁な考えも奪います。貧困がもたらす影響は、実に恐ろしいものです。しかし、たとえ物質的に窮乏していても、イエス様を信じる人々は愛によって生きることができる、とパウロは証言しています。パウロ自身もそうでしたし、イエス様を信じた初代教会の信徒たちもまたそのように生きました。パウロの精神は明確でした。貧しい者たちへの配慮を怠り、この問題について深く考え実践しない者は、真の主の弟子とは言えないのです。
 ツァレファテのやもめは、最後の一食分しか残っていない極限状況の中で、預言者エリヤのために先にパンを作ることを選びました。「空にすれば満たされる」という預言者の言葉を信じ、死を覚悟で最後の食料を差し出したのです。その結果、何が起こったでしょうか。かめの粉と壺の油が尽きることのない奇跡が起こりました。これこそが復活信仰の本質です。復活信仰の勝利者たちは、このようにして生きるのです。《第二コリント人への手紙》8章と9章は、まさにこの教えを私たちに示しています。マケドニア教会、すなわちピリピの信徒たちは、極度の貧しさの中にありながら、自らを無にしてエルサレム教会のために献金をささげました。真理は、このような実践を伴って初めて真理となるのです。このような美しい生き方を選んだ人々こそが、私たちの信仰の先祖であり、私たちの教会の姿でした。主は富んでおられましたが、私たちのために貧しくなられ、それによって私たちを豊かにしてくださいました。これこそが私たちに与えられた救いの本質です。だからこそ、私たちもその生き方に倣って歩まなければならないのです。

「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。12 私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。」(ピリピ 4:11-12)
 この使徒の生き方から、私たちは重要な教訓を学ばなければなりません。9節には「あなたがたが私から学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことを行いなさい」とありました。この「受けたこと」とは、使徒の生き様を学び、その教えに従うことを意味しています。パウロはローマ書の最後で、この問題について再び言及しています。憧れていたローマが目前にありながら、彼はエルサレムへの長い道のりを引き返さなければなりませんでした。その理由として「異邦人は彼らの霊的なものにあずかったのですから、物質的なもので彼らに奉仕すべきです。」(ローマ 15:27)と語っています。ここでパウロは、私たちが愛の借りを負っていることを強調します。「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことは別です。」(ローマ 13:8) 私たちは基本的に愛の借りがあります。人は生まれながらにして、親からの愛の借りを負う存在です。この愛の連帯性の中に私たちは存在しています。信仰の観点から見ると、初代異邦人の教会はエルサレム教会から多くを得ていました。霊的な恩恵を受けた以上、大きな愛の借りを負っていたのです。そのため、優れた教師であったパウロは、異邦人の教会がエルサレム教会を支援することは当然だと考えました。飢饉の際も、どれほど貧しくとも、困難な状況にあっても、皆がエルサレム教会を見捨てることなく、支えようとしたのです。パウロは献金を集める中でも、その中に孤高さがありました。「すでにあなたがたに与えたものがあるのではありませんか。ですから、あなたがたはこうするのが当然ではないか」という姿勢でした。ガラテヤ人への手紙にも「みことばを教えてもらう人は、教えてくれる人と、すべての良いものを分かち合いなさい。」(ガラテヤ 6:6)とあります。
 皆さん、この教えを読むとき、私たちは深く考える必要があります。私たちが愛の借りある者であることを自覚し、使徒の教えを真の愛の実践として実行しているかを常に省みながら生きていきましょう。使徒は自分が受けた愛を決して忘れませんでした。

 使徒は後半の《15節》では「私がマケドニアを出たときに、物をやり取りして私の働きに関わってくれた教会はあなたがただけで、ほかにはありませんでした」と言いました。また、《16節》では「テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは私の必要のために、一度ならず二度までも物を送ってくれました」と語っています。このように、使徒は受けた恩を一つひとつ鮮明に記憶していました。後にテモテへの手紙で、パウロは堕落した人々について「感謝することを知らず、受けた愛を忘れて生きる」と指摘しています。しかし、使徒自身は違いました。彼は受けた親切を細部まで覚え、深い感謝を持って生きていたのです。

「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」(ピリピ 4:13)

 この御言葉は、多くの信徒が暗唱する重要な聖句です。神様の力によって、私たちはあらゆることを成し遂げられるという約束です。この力を得て、私たちは具体的な形で互いを愛し、助け合い、支え合い、補い合うことができます。そして、そのような分かち合いに参加できることを喜びとすべきです。

「それにしても、あなたがたは、よく私と苦難を分け合ってくれました。」(ピリピ 4:14)

 使徒は彼らの献身を高く評価(ひょうか)しています。

「15 ピリピの人たち。あなたがたも知っているとおり、福音を伝え始めたころ、私がマケドニアを出たときに、物をやり取りして私の働きに関わってくれた教会はあなたがただけで、ほかにはありませんでした。16 テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは私の必要のために、一度ならず二度までも物を送ってくれました。」(ピリピ 4:15-16)

 ピリピの信徒たちの具体的な支援を詳しく記しています。

「私は贈り物を求めているのではありません。私が求めているのは、あなたがたの霊的な口座に加えられていく実なのです。」(ピリピ 4:17)

 使徒パウロは再び教師としての立場から、こう言っています。「私は贈り物を求めているのではない」と。この言葉には、物質的なものへの執着がないことが表れています。彼が真に求めたのは、ピリピの信徒たちの行為が彼ら自身の益となり、霊的な口座に実が加えられることでした。NIV訳では“what I desire is that more be credited to your account.”と表現されており、これはあなたのアカウント(霊的な口座)にクレジットが積(つ)み重(かさ)なることを意味しています。
 使徒とピリピの信徒たちは深い愛で結ばれた関係にありました。遠路はるばる貴重な贈り物を持参する人々に対して、必ずしもこのような言葉を語る必要はなかったかもしれません。しかし、使徒はあえてこう語りました。「私は贈り物を求める者ではなく、神があなたがたの必要を満たし、より大きな恵みで満たしてくださることを信じています」と。これは深い信仰と愛に根ざした言葉です。多くの人は「あなたが私を助けてくれて嬉しい、ありがたい」という感謝の言葉を期待するでしょう。しかし使徒は「これによってあなたが祝福されるだろう」と語りました。世俗的な人々はこの言葉に戸惑(とまど)うかもしれません。しかし、このような言葉を語れる人は、非常に高潔な態度を持っています。そして、このような言葉が交わされる関係性もまた、極めて崇高なものです。その高き世界を教えてくれることができ、学ぶことができる人なのです。 もっと簡単に言えば、これは「あなたがたに大きな祝福があるだろう」という言葉です。使徒はこれを高尚にこう言っているのです。 本当に美しいです。

「私はすべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロディトからあなたがたの贈り物を受け取って、満ち足りています。それは芳ばしい香りであって、神が喜んで受けてくださるささげ物です。」(ピリピ 4:18)

 「私はすべての物を受けて、満ちあふれています」という使徒の言葉には、深い確信が表れています。使徒は受け取ったものを、すべて信徒たちが神様に献げたささげ物として理解していました。
 先生の幼少期(ようしょうき)の教会建築には深い意味が込められていました。西洋の様式に倣って建てられたL字型の建物には、水平と垂直が交わる場所に壇が設けられ、そこで牧師が礼拝を執り行いました。この建築様式には象徴的な意味があります。会衆から水平的にささげられる礼拝と愛と真心を、牧師が垂直的に神様へと引き上げる。これは「はしごの信仰」と呼ばれるもので、神様からの祝福を会衆に降ろし、会衆からのささげ物を神様へと引き上げるはしごの役割を表しています。これは、ヤコブがベテルで見た夢のはしご――天と地をつなぎ、天使たちが上り下りしたあのはしご――を想起させます。
 「それは芳ばしい香りであって」パウロは信徒たちの行為を単なる歴史上の出来事としてではなく、神様に喜ばれる香り高いささげ物として捉えていました。この手紙を読んだ当時の信徒たち、贈り物を送った彼らは、「これが神様に喜ばれるささげ物であったとは…」と感謝と喜びに満ちたことでしょう。私たちもまた、互いに何かを分かち合う際、神様に献げる心で、高尚で美しく、高貴なものとして分かち合うべきです。このような崇高な愛をもって生きる者となりましょう。

「19 また、私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。20 私たちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように。アーメン。」(ピリピ 4:19-20)

 使徒パウロは手紙の終わりに、心温まる挨拶を記しています。

「21 キリスト・イエスにある聖徒の一人ひとりに、よろしく伝えてください。私と一緒にいる兄弟たちが、あなたがたによろしくと言っています。22 すべての聖徒たち、特にカエサルの家に属する人たちが、よろしくと言っています。」(ピリピ 4:21-22)

 「カエサルの家に属する人たち」とは、おそらく帝国の貴族や高位の役人など、信仰を持つ高貴な身分の人々がいたのでしょう。

「主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊とともにありますように。」(ピリピ 4:23)

 この祝福の言葉は、パウロが他の書簡でも用いた結びの祈りであり、《ガラテヤ書6:18》(兄弟たち。私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊とともにありますように。アーメン)や《ピレモンへの手紙1:25》(主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊とともにありますように)にも見られます。使徒は、主の恵みが信徒たちの霊とともにあることを願って祝福を述べています。この手紙は、この恵みが私たち相互の間で分かち合われ、教会全体に満ちあふれることへの願いをもって締めくくられています。

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