礼拝説教

「神様を捨てた人の罪」(副題:イエスが必要な理由)


2025年08月24日

*本文:ローマ書 1章21-32節

「21 彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍(にぶ)い心は暗くなったのです。22 彼らは、自分たちは知者であると主張しながら愚かになり、」(ローマ書 1:21-22)

パウロは、神様に感謝しない人間の野蛮(やばん)な性質(せいしつ)を指摘(してき)しています。人間は死を間近(まぢか)にすると、その時になってようやく神様を探し求めます。水がなければ、その時になって初めて水が貴重だと気づき、空気が汚れて初めて空気が貴重だと気づく、非常に愚かな存在が人間です。人間だけが、神様が創造された世界に生きながら、その創造主を覚えることも、神様に栄光を帰(き)することもしません。これがまさに罪なのです。

私たち人間が感謝するべきことが二つあります。まず第一に、私たちが神様の被造物として、心からの感謝を捧げながら生きて行かなければならない存在だということです。私たちが何者だというので、これほどまでに美しい世界を与えてくださったのでしょうか。第一、私たちの中に、それらを創造なさった神様の栄光を褒(ほ)め称(たた)える賛美と感謝があるべきではないでしょうか。「息(いき)のあるものはみな、主をほめたたえよ。 (詩篇150:6) 」これこそ人間が生きる究極的(きゅうきょくてき)な目的なのです。そして第二に、罪人である私たちを神様が救ってくださったからです。ですから、私たちはより一層(いっそう)大きな感謝の心を持つべきだということです。感謝する信仰は最(もっと)も水準(すいじゅん)が高い信仰だと言えます。パウロは「すべての事に感謝しなさい」と言いました(第一テサロニケ5:18)。しかし、人間は神様を崇(あが)めず、感謝も捧げません。「愚(おろ)か者は心の中で、『神はいない』と言っている。彼らは腐(くさ)っており、忌(い)まわしい事を行なっている。善を行なう者はいない」(詩篇14:1)。愚かな者は神はいないと言います。そして、神様に抵抗(ていこう)します。そうして人間の思いはむなしくなり、無知(むち)な心は暗くなったのです。

「朽(く)ちない神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣(けもの)、這(は)うものに似たかたちと替えてしまいました。」(ローマ書 1:23)

愚かなことに、人間は神様を失うと、その状態にとどまるのではなく、必ず神様以外の他(ほか)のものを心の中心に据(す)えようとするのです。それが偶像(ぐうぞう)です。神様に仕(つか)えることをしない人間は、必ず他の何かを神様のように偶像化し、それに仕えるのです。多くの人々が、人間、お金、権力(けんりょく)、欲望(よくぼう)、名誉(めいよ)、植物(しょくぶつ)、動物、鉱物(こうぶつ)、天体といった自然万物を偶像として崇拝(すうはい)しています。十戒(じっかい)の第一、第二の戒(いまし)めは、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない」というものです(出エジプト記20:3-4)。人間は神様の代わりに数多くの偶像を心の中心に据(す)えようとします。堕落した世界の罪とは、簡潔(かんけつ)に言えば、他のものに置(お)き替えることです。なぜ神様は偶像を作ってはならないと仰ったのでしょうか。神様は人間によっては対象化(たいしょうか)され得ず、常(つね)に独立(どくりつ)自存(じそん)のお方だからです。「神はモーセに仰(おお)せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」(出エジプト記3:14)。神様が特定の対象やイメージによって偶像化された途端(とたん)、神様に対する理解が歪曲(わいきょく)され、ひいては人間の人生そのものが正道(せいどう)から大きく外(はず)れてしまうのです。

「こで神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡されました。そのため、彼らは互いに自分たちのからだを辱(はずかし)めています。」(ローマ書 1:24)

神様を失った人間はどうなるのでしょうか。自らの欲望の赴(おもむ)くままに罪に引き渡(わた)されるということです。そこには必然的(ひつぜんてき)に倫理的(りんりてき)な崩壊(ほうかい)、特に性的堕落がもたらされます。真の主人を失った人間は、別の主人を追(お)い求めます。イスラエルの民が神様の代わりに主人として選んだ二つの偶像が、淫乱(いんらん)の神(バアル; Baal)とお金の神(マンモン; Mammon)でした。

「汚(よご)れに引き渡されました。」これは実(じつ)に悲しい話です。人間は神様を忘れ、神様を心の中心に置くことを厭(いと)い、神様を探し求めようともしません。では、神様はどうするべきでしょうか。死んだ者をも生かすことのできる全知全能の神様ですから、ご自分を愛するように人間を造る事もおできになったでしょう。しかし、強制(きょうせい)された愛は真の愛ではないことを神様はご存じなのです。愛とは、全面的な自由の上に成(な)り立つものです。

アラジンと魔法のランプの話は誰もが知っているでしょう。何でも願いを叶(かな)えてくれるというランプの巨人(きょじん)が出現(しゅつげん)し、「ご主人様、何をお望みですか」と尋(たず)ねます。ある日、アラジンが一人のお姫様を愛するようになります。そこで彼女が自分を愛するようにしてほしいと願います。しかし、ランプの巨人は「それは私のできることではない」と言います。物語の世界にも尊(とうと)い真理があるものです。

人間は神様を誤解しています。そして「なぜ全知全能の神は、上から私に向かって、あれこれのことをせよと強(し)いるのですか?」と言って反抗(はんこう)します。しかし、愛は強制(きょうせい)することができないのです。十戒(じっかい)には次のような言葉があります。「あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神」(出エジプト記 20:5)。この聖書の記述(きじゅつ)を読んで、ある人々は言います。「聖書の神は嫉妬(しっと)をするというのですか?何ともおかしな神ではありませんか」と。しかし、実の所(ところ)、聖書の神は、あまりにも素敵(すてき)なお方なのです。愛の神様であるがゆえに嫉妬をされるのです。ところが、人間はこの愛の神様を拒否(きょひ)するという事です。自ら愚かになる道を選び、神様から離れてしまったのです。神様が愛すれば愛するほどに、人間は神様から遠(とお)ざかって行きました。だとすれば、神様は他に何をすることができたでしょうか。パウロは、神様がただ「引き渡されたのだ」と言いました。これは 「人間が自ら神様を拒否したというのに、それ以上神様に何がおできになっただろうか」という事です。

パウロが語る神様の御怒りというテーマは、初めてローマ書を読む人にとって、非常に抵抗(ていこう)を感じる部分です。しかし、私たちの信仰が深(ふか)まっていくにつれて、その世界が理解できるようになります。愛が大きければ大きいほど、それが拒否された時に、言い知れない痛みと苦しみが生じるのです。そこには本当に切(せつ)なる神様の愛がありました。しかし、人間がその愛を拒(こば)みました。そうして、神様の御怒りが臨むようになったのです。その御怒りは、神様の愛を私たち人間が拒んだことの当然の結果なのです。<ローマ書1章>には、「あなたがたがこの愛を拒否するとは!罰を受けて当然な者たちよ!」というパウロのたぎるような思いが表れています。彼が神様の御怒りから語り始めた事には深い理由があるのです。

「25 彼らは神の真理を偽りと取り替(か)え、造り主の代わりに、造られた物を拝(おが)み、これに仕えました。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。26 こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、彼らのうちの女たちは自然な関係を自然に反するものに替え、」ローマ書 1:25-26)

パウロは《25節》で偶像崇拝の罪に対して繰り返し指摘(してき)しています。パウロは《26節》で再び神様が「引き渡された」のだと言います。言い換えるなら「遺棄(いき)」です。選択と遺棄の問題は、信仰において極(きわ)めて重要な問題です。まず、パウロは本文で遺棄があるということを明確に述(の)べています。なぜ遺棄が起こるのでしょうか。それは、人間が悔(く)い改(あらた)めないからです。悔い改めとは、自分がそれまで歩んできた人生の方向(ほうこう)を転換(てんかん)することです。もし、人が最後まで立ち返(かえ)ろうとしないなら、神様はなす術(じゅつ)なく、御顔を背(そむ)けられるという事です。これをパウロは、「引き渡され」と表現しました。

「同じように男たちも、女との自然な関係を捨てて、男同士(おとこどうし)で情欲に燃えました。男が男と恥ずべきことを行い、その誤りに対する当然の報いをその身に受けています。」(ローマ書 1:27)

これがローマにいる異邦人の罪の現実でした。罪はやがては人間性を喪失(そうしつ)させ、倫理的な崩壊(ほうかい)をもたらします。神様を失ってしまった人間は、魂に虚(むな)しさを感じるようになっています。それゆえ、その心の空席(くうせき)を他のものによって満たそうとします。最悪の場合(ばあい)、そこが汚(よご)れた欲望(よくぼう)で満たされてしまうのです。そうして結局は欲望の奴隷になります。神様がいなくても、美しく高尚(こうしょう)な人生を生きることができると考えるかもしれませんが、それは錯覚(さっかく)にすぎません。パウロは、神様を離れた者たちは姦淫(かんいん)を行い、同性愛(どうせいあい)に陥(おちい)ると言っています。ユダの手紙(ユダ1:6-7)やローマ書といった聖書の複数(ふくすう)の箇所(かしょ)で同様のことが語られています。人間の中心から神様が失われてしまう時、深刻(しんこく)な無秩序(むちつじょ)に陥ってしまいます。善悪(ぜんあく)の判断基準を全て失ってしまい、それによって甚(はなは)だしい混乱(こんらん)が生(しょう)じ、欲望の赴(おもむ)くままに突(つ)き進んでゆき、腐敗(ふはい)の極(きわ)みに達するのです。

同性愛は深刻な罪です。それは男性と女性の性を逆にすることです。人間には生まれながらに男性がいて、女性がいます。神様が創造なさった男女(だんじょ)固有(こゆう)の性を人為的(じんいてき)に変えてしまうことがいかに順(じゅん)理(り)に反する、不自然なことであり、大きな罪になるでしょうか。聖書は悪がその極(きわ)みに達すると、人が人に対して不自然な行動(こうどう)を取るようになるのだと語っています。女性と女性が、もしくは男性と男性が不自然な関係を持つようになるということです。人間は神様を捨てる時に欲望の奴隷となり、性的堕落が津波(つなみ)のように押(お)し寄(よ)せて来て、性的な奴隷に転落してしまいます。ローマの歴史家によると、ローマで最も深刻に蔓延(まんえん)した病(やまい)が性病であったといいます。堕落した人間は、なぜ性的堕落に陥(おちい)ることになるのでしょうか。神様の美しいアガペーの愛、すなわち霊的な愛を知らない者は、エロスの愛、すなわち肉体的な愛だけを追(お)い求めるようになるからです。そうして結局は性的堕落に陥るようになるのです。男性と女性が結婚して家庭を作る事が神様の御心であり、創造の秩序(ちつじょ)です。しかし、その秩序が破壊(はかい)されてしまう時、深刻な性的堕落が起こるのです。神様を知る知識のない所(ところ)では、このような総体的な混沌(こんとん)(カオス)と混乱(こんらん)を避(さ)けることはできません。ところが、パウロの憤(いきどお)りは当時のローマにだけ向けられているのではありません。というのも、これがまさに現代の私たちの姿でもあるからです。

「また、彼らは神を知ることに価値を認めなかったので、神は彼らを無価値な思いに引き渡されました。それで彼らは、してはならないことを行っているのです。」(ローマ書 1:28)

<28節>において、パウロは異邦人の中にある非常に深刻な罪を指摘しています。それは神様を心に置こうとしないことです。これがすべての罪の原因であり、根源です。しかし、人間は自らの内に、神様を心に置くことを嫌(いや)がる心と、神様を探し求める心との熾烈(しれつ)な葛藤(かっとう)を有(ゆう)しています。それゆえ、不敬虔(ふけいけん)は高慢であるだけでなく、自分自身を欺(あざむ)く欺瞞(ぎまん)(不正直(ふしょうじき))だという事が出来ます。神様を心に置くことを嫌(きら)う人間を、神様は放(ほう)っておくことしかできません。そうして命の根源である神様から遠(とお)ざかった人間は結局は干(ひ)からびてしまい、朽(く)ち果てるようになります。

「29彼らは、あらゆる不義、悪、貪欲(どんよく)、悪意に満ち、ねたみ、殺意(さつい)、争い、欺(あざむ)き、悪巧(わるだく)みにまみれています。また彼らは陰口(かげぐち)を言い、30人を中傷(ちゅうしょう)し、神を憎み、人を侮(あなど)り、高ぶり、大言壮語(たいげんそうご)し、悪事(あくじ)を企(たくら)み、親(おや)に逆(さか)らい、31 浅(あさ)はかで、不誠実(ふせいじつ)で、情(なさ)け知らずで、無慈悲(むじひ)です。」(ローマ書 1:29-31)

パウロは不敬虔によって生じる21個もの罪のリストを挙(あ)げています。それによって、神様のいない世界において、いかなる罪が蔓延(はびこ)るかをはっきりと示したのです。私たちがこの御言葉に常(つね)に注意を払い、御言葉に照(て)らして自分自身の内側(うちがわ)にある罪を見なければなりません。イエス様も、暗闇(くらやみ)が光に勝つことはないと言われました(ヨハネ 8:12)。私たちは、真理の御言葉を知り、御言葉の中に留(と)まる人にならなければなりません。そうする時に、暗闇が私たちを打ち負(ま)かすことはできなくなるのです。

「彼らは、そのような行いをする者たちが死に値(あたい)するという神の定めを知りながら、自らそれを行っているだけでなく、それを行う者たちに同意(どうい)もしているのです。」(ローマ書 1:32)

パウロは、罪人である人間に対して、最終的には「死刑(しけい)宣告(せんこく)」が下されると語っています。罪から来る報酬(ほうしゅう)は死です(ローマ6:23)。「死(Death)」という単語を、私たちは重く受け止めなければなりません。一度死ぬことは定(さだ)まっています。そしてその次(つぎ)に裁きを受けるのです。「一度死ぬことと死後(しご)にさばきを受けることが定まっているように、」(ヘブル9:27) 罪を犯し続ける者を待ち受けているのは、最後の審判(しんぱん)台(だい)における神の死刑宣告なのです。「喪中(もちゅう)の家に行くほうがよい。 そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。(伝道者の書 7:2) 」人間は誰も死を避(さ)けて通(とお)ることができません。死はただの死で終わるのではなく、その行き着(つ)くところは永遠の地獄なのです。

20世紀を代表するスイスの改革(かいかく)主義(しゅぎ)神学者であるカール・バルトの著書(ちょしょ)の一つにローマ書講(こう)解(かい)があります。その《1章》の序論(じょろん)のタイトルが「Darkness(暗闇(くらやみ))」でした。世が神様を知ろうとしないがゆえに暗闇の世界になったという事です。私たちの人生は、地獄行きの列車に乗って、暗鬱(あんうつ)で、闇に包(つつ)まれた世界に向かっているのです。これが避(さ)けることのできない罪人の運命でしたが、神様は罪深い私たちのために道をお与えになりました。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ 3:16) 」神様がこの世を愛されたがゆえに、永遠の死に定められていた私たちのために、ひとり子をお与えになったのです。神様がその御子を通して、ご自身を知るための道と真理と命を私たちに示(しめ)してくださいました。これがまさに救いです。イエス様は「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」と言われました(ヨハネ11:25)。これは死んだ命が生きることを意味します。イエス様は「また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません」(ヨハネ11:26)と言われました。これは、私たちに永遠の命が約束され、保証されていることを意味します。ですから、私たちには他の道はありません。ただイエスだけが必要なのです。

私たちの中のはびこ(蔓延)る罪をよく認識し、ただイエス·キリストだけを眺(なが)めながら私たちの罪を毎日洗う聖化の道を歩いていきましょう。Ω
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