礼拝説教

あなたがたこそ私たちの栄光であり、喜びなのです。


2025年09月07日

*本文:テサロニケ人への手紙 第一 2章1-20節 (all)

†先週に続いて テサロニケ人への手紙 第一を見ます。《1章》では、テサロニケ教会が迫害の中でよく耐え、他の教会の模範となった様子が描かれています。続く《2章》と《3章》では、教会を分裂させようとする人々によって揺るがされているテサロニケの信徒たちに、パウロが真心をもって語りかけ、自らを弁護する内容が続きます。

《使徒の働き》を見ると、使徒パウロと彼の同労者たちの歩みを通して、彼らの精神(Spirit)と姿勢を知ることができます。特に注目すべきは彼らのチームの霊性と伝道への情熱です。パウロはテモテを再びテサロニケに派遣し、恵みに満ち、信仰の証しを立てる優れた教会となるよう導きました。その結果、テサロニケの信徒たちは忍耐を養い、互いに愛を分かち合う共同体へと成長していきました。しかし、この発展の陰で、偽教師たちが教会に侵入して混乱を引き起こし、ユダヤ人からの激しい迫害が続き、世俗の誘惑が信徒たちを脅かしていました。こうした状況の中で、教会内にパウロの一行を批判する声が生まれ、共同体の結束が危うくなりました。これらの問題に対処するため、パウロはテサロニケ前書を執筆したのです。
《2章》では、偽教師たちと教会を分断しようとする者たちに対して、パウロが自らの立場を弁明する内容が記されています。これは二千年前の出来事ですが、教会の歴史において繰り返し見られる普遍的な課題です。パウロの弁明の言葉からは、使徒とその同労者たちがいかに高潔な生き方を貫いたかが伝わってきます。それは現代の私たちにとっても重要な模範となります。同時に、教会を非難し、揺るがそうとする人々の戦略も見えてきます。

「 兄弟たち…」(Ⅰテサロニケ 2:1a)

この「兄弟たち(Brothers)」はギリシャ語で「アデルフォイ(ἀδελφοί, adelphoi)」です。この単語の語源は「一つの(ἀ)母胎(δελφοί)から生まれた生命たち」を表します。したがって、「兄弟たち」という呼びかけには、非常に親密な関係を示す根源的な意味が込められています。

「兄弟たち。あなたがた自身が知っているとおり、私たちがあなたがたのところに行ったことは、無駄になりませんでした。」(Ⅰテサロニケ 2:1)

この箇所は、パウロが教会を分裂させる偽教師たちに対して自己弁証を始める部分です。偽教師たちは、パウロとその一行がテサロニケで騒動を引き起こした後、迫害に苦しむ教会を見捨て、無責任に立ち去ったのではないかと非難していました。テモテをテサロニケに残したとはいえ、彼も頻繁に出入りしていたことを批判の対象としました。さらに、同じマケドニア地方のピリピでの迫害を引き合いに出し、ピリピで投獄され、暴行を受け、追放された者たちがテサロニケにやって来て、再び多くの人々を混乱に陥れたのではないかという言葉で教会の分裂を図っていました。

「それどころか、ご存じのように、私たちは先にピリピで苦しみにあい、辱めを受けていたのですが、私たちの神によって勇気づけられて、激しい苦闘のうちにも神の福音をあなたがたに語りました。」(Ⅰテサロニケ 2:2)

なぜこのような話をするのでしょうか?使徒たちは行く先々で牢獄に閉じ込められ、屈辱を受けましたが、彼らの苦難に対する人々の解釈は様々でした。使徒たちは「私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」(ローマ 14:8)と告白しながら、苦難を受け入れました。さらに、彼らは試練と迫害の中にあっても神の福音を伝え続けました。伝道者の道において、まさにこの姿勢が最も重要なのです。

「私たちの勧めは、誤りから出ているものでも、不純な心から出ているものでもなく、だましごとでもありません。」(Ⅰテサロニケ 2:3)

使徒の勧めは、誤った考えや不純な動機から出たものではなく、人々をだますような策略でもなかったと断言しています。米国ニューヨーク市のユニオン神学校(Union Theological Seminary, UTS)で教授を務めた著名な神学者ラインホールド・ニーバーの説教に「私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、(As deceivers, and yet true)」というタイトルのものがあります。これは《第二コリント6章》の言葉に基づいています。パウロはクリスチャンの生き方が外見上は欺く者のように映るかもしれないが、本質において真実であると語りました。「また、ほめられたりそしられたり、悪評を受けたり好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、」(Ⅱコリント 6:8)

「むしろ私たちは、神様に認められて福音を委ねられた者ですから…」(Ⅰテサロニケ 2:4a)

パウロは教会内に生じた誤解を解くために、自らの本心を率直に伝えています。使徒たちがなぜテサロニケに赴いたのか、何を教えようとしたのか、その真意を明らかにしようとしているのです。この説明は4章まで続きます。使徒の思いは、純粋な思いで一人ひとりの魂を救うために神の福音を伝えることにありました。使徒が釈明しようとする核心は、「兄弟たち。私たちは、しばらくの間あなたがたから引き離されていました。といっても、顔を見ないだけで、心が離れていたわけではありません。」(Ⅰテサロニケ 2:17a)という言葉に集約されています。これこそが、パウロがテサロニケ教会に伝えたかった偽りのない思いなのです。彼を非難し、失望している人々に対して、彼らに再会したいという強い願望と、彼らの信仰を完全なものにしたいという切実(せつじつ)な願いこそが自身の誠実(せいじつ)な気持ちであると述べています。「私たちは、あなたがたの顔を見て、あなたがたの信仰で不足しているものを補うことができるようにと、夜昼、熱心に祈っています。」(Ⅰテサロニケ 3:10) 私たちはこの使徒の心について深く考える必要があります。福音を宣べ伝える時、私たちもまた、この誠実な思いをもって臨まなければなりません。たとえ物理的には離れていても、心は常に人々と共にあるべきです。

使徒のこの誠実な思いは、まさに母親と父親の愛に似ています。《7節》でパウロは、乳母(うば)が子どもを大切に育てるように、テサロニケ教会を牧会したと記しています。「子は親を土に葬り、親は子を胸に葬る」という言葉があります。この格言は、親と子の心の違いを表現しています。神の御業に携わる中で、一つの場所に留まり、細やかに世話をし、優しく慰め、乳を飲ませ、成長を見守ることは確かに重要です。

しかし、奉仕はそれだけに留まるものではありません。別の使命のために前進しなければならず、新たな地へと向かうべき時もあります。私たちの人生は旅人のようなもので、立ち止まることなく前へ進み続けること、それが私たちの歩むべき道なのです。パウロは、物理的には離れていても、彼らを決して見捨てたことはないと強調しています。テサロニケを離れていた間も、祈りをささげるたびに彼らのことが祈りの中心であったと告白しています。「私たちは、あなたがたのことを覚えて祈るとき、あなたがたすべてについて、いつも神様に感謝しています。」(Ⅰテサロニケ 1:2) パウロは今、胸の奥深くにある真情を吐露することで、彼らに揺るぎない誠意を伝えているのです。

「むしろ私たちは、神に認められて福音を委ねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせるのではなく、私たちの心をお調べになる神に喜んでいただこうとして、語っているのです。」(Ⅰテサロニケ 2:4)

パウロは、自分が福音を伝える責任を神様から直接託されたことを強調しています。神様が彼を異邦人のための使徒として選び出し、彼らに福音を宣べ伝えるよう委任されたという深い確信がありました。これは、ヨハネ17章でイエス様が「父がわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わした」と述べられたのと同じ意味を持ちます。パウロも同様に、神様から遣わされた者としての自覚を持っていたのです。

パウロはキリストの香りを漂わせる弟子であり、人からの評価よりも神様を喜ばせることを最優先した人物でした。私たちの人生のすべての基準がこの使徒に倣うものであれば、その歩みは真の神の子としての美しい人生となるでしょう。使徒のこのような言葉は、単なる美辞麗句ではありません。この言葉には、「私があなたがたに人間的に好ましく映らなかったとしても、それは神様を喜ばせるためのものだった」という深い意味が込められています。テサロニケ教会の信徒たちは、この手紙を読んで長い間その真意を思い巡らせたことでしょう。

私たちが日々歩む福音の道、伝道者としての道は、人の歓心を得るためではなく、神様の喜びとなるための道です。その道のりにおいて、時に誤解を受け、私たちを疎んじる者もいるかもしれません。しかし、使徒パウロは生涯を通じて、神様の喜びとなるという唯一の基準を握り締めて歩み続けました。私たち自身の人生は何を基準に形作られているでしょうか?今一度、この言葉を深く心に刻み、日々の歩みを省みましょう。

「 あなたがたが知っているとおり、私たちは今まで、へつらいのことばを用いたり、貪(むさぼ)りの口実(こうじつ)を設(もう)けたりしたことはありません。神がそのことの証人です。」(Ⅰテサロニケ 2:5)

この節は重要な真理を補足説明しています。「あなたがたが知っているとおり」という表現は「ですから」と同義であり、つまり「神を喜ばせようと努める者たちは、人からの好意を得るためにお世辞を言わない」という意味を含んでいます。また、「貪りの口実」とは、内なる強欲を隠し、周囲の人々を欺(あざむ)くために着ける偽りの表情を指します。漢字の「僞」が「偽る」という意味を持つことは注目に値します。漢字の「偽」という字は、「人」と「委(ゆだねる)」という二つの部分から成り立っており、人が行うことは全て偽りであるという意味合いを含んでいます。「偽善」という言葉は「善良でないにもかかわらず、善良なふりをすること」を表し、善良さという仮面を身につけた状態を表しています。パウロとその一行は、テサロニケの信徒たちに対して、お世辞の言葉や欲張った動機を隠す仮面を用いなかったと断言し、そのことについては神ご自身が証人であると宣言しています。

ネットワーク機器が互いに通信できるのは、まず基地局との接続が確立されているからです。これはあらゆるシステムの基本原理と言えます。同様に、人間も神様との交わりが確立されていなければ、他者と真に心を通わせることは困難です。罪人である私たちは、他者からの評価を得るためにお世辞を述べたり、自分の欲望を隠すために仮面をかぶって関係を築いたりするものです。しかし、私たち一人ひとりが神様の喜びとなることを第一に考える者となるなら、互いの間に真の理解と共感が生まれるでしょう。パウロは、神様の喜びとなろうとする誠実な心と生き方を貫いてきたことを、神様ご自身がご存知だと述べています。

「6 また私たちは、あなたがたからも、ほかの人たちからも、人からの栄誉は求めませんでした。7 キリストの使徒として権威を主張することもできましたが、あなたがたの間では幼子になりました。私たちは、自分の子どもたちを養い育てる母親のように、」(Ⅰテサロニケ 2:6-7)

パウロは使徒としての権威を用いて教会を導き、指示を与える立場にありながら、数々の迫害と苦難を経験する中でむしろ柔和さを身につけていきました。テサロニケの信徒たちに接する彼の姿は、驚くほど温かく優しいものでした。彼自身が述べるように、まるで「乳母が自分の子どもを養い育てるように」信徒たちに寄り添ったのです。当時の裕福な家庭では、短期間に多くの子どもを産んだ母親に代わり、乳母を雇って赤子に乳を与え育てる習慣がありました。パウロはこの比喩を用いて、自らの牧会の姿勢を表現しています。乳母が深い愛情と献身をもって赤子を育てるように、彼も信徒たちを心を込めて世話したのです。この姿勢こそが、牧会の本質といえるでしょう。

「あなたがたをいとおしく思い、…」(Ⅰテサロニケ 2:8a)

この《第一テサロニケ2章8節》の言葉は、《2章17節》、《3章10節》と互いに結びついています。使徒のこうした愛の心が教会全体に浸透していれば、使徒と教会の間に分裂が生じることはなかったはずです。パウロは信徒たちにとって、福音を教え導く母のような存在だったのです。サタンの常套手段は、羊飼い(牧者)を非難し、打ち倒すことで群れである教会を分裂させることです。これは《ゼカリヤ書》の預言にある通りです。「剣よ、目覚めよ。わたしの羊飼いに向かい、わたしの仲間に向かえ—万軍の主のことば—。羊飼いを打て。すると、羊の群れは散らされて行き、わたしは、この手を小さい者たちに向ける。」(ゼカリヤ 13:7) パウロはこの現実に深く心を痛めながら、テサロニケの信徒たちへこの手紙を記したのです。

「…神の福音だけではなく、自分自身のいのちまで、喜んであなたがたに与えたいと思っています。あなたがたが私たちの愛する者となったからです。」(Ⅰテサロニケ 2:8b)

この言葉でパウロは、テサロニケの信徒たちへの深い愛情を表現しています。彼らをどれほど愛していたかと言えば、ただ福音だけでなく、自分の命さえも惜しまず与えたいと思うほどだったのです。テサロニケ教会はこのような愛によって開拓され、建て上げられた教会でした。現在、開拓伝道の道を歩んでいる、もしくはこれから歩もうとしている方々には、ぜひパウロのこの心と姿勢を持って歩んでいただきたいのです。

「兄弟たち。あなたがたは私たちの労苦と辛苦を覚えているでしょう。私たちは、あなたがたのだれにも負担をかけないように、夜も昼も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えました。」(Ⅰテサロニケ 2:9)

パウロは教会の中での労働を神聖なものと位置づけていました。自分の手で働くという姿勢こそが、彼の歩みの美しさを示しています。ユダヤの伝統において、レビの部族に属する者たちは世俗の仕事に従事せず、他部族が捧げる献金によって生活を維持するのが常でした。しかし、パウロとその同労者たちは自らの手で働き、誰にも経済的負担をかけないようにしました。

パウロがテサロニケで伝道していた時期、ピリピの教会は彼の必要を理解し、一度ならず二度までも支援物資を送って彼の働きを支えました。パウロ自身がピリピ書の中でこの事実を記し、ピリピの信徒たちの寛大さを称えています。「テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは私の必要のために、一度ならず二度までも物を送ってくれました。」(ピリピ 4:16) このようにパウロはピリピ教会からの援助を受けながらも、テサロニケの信徒たちに経済的負担をかけまいと、自らの手で働き続けました。昼間は生計を立てるための労働に励み、夜は熱心に御言葉を教え伝えるという務めを果たしたのです。

「また、信者であるあなたがたに対して、私たちが敬虔に、正しく、また責められるところがないようにふるまったことについては、あなたがたが証人であり、神もまた証人です。」(Ⅰテサロニケ 2:10)

パウロは、自分たちが主に忠実に従い、敬虔に、正しく、また責められるところがないようにふるまったことについて、テサロニケの信徒たち自身が証人だと言っています。「あなたがたが私たちの証人である」という表現はパウロの手紙に繰り返し登場します。「あなたたちが私たちの証人」ということは否定できない事実だということです。私たちは皆、このように言える人にならなければなりません。

「11 また、あなたがたが知っているとおり、私たちは自分の子どもに向かう父親のように、あなたがた一人ひとりに、12 ご自分の御国と栄光にあずかるようにと召してくださる神にふさわしく歩むよう、勧め、励まし、厳かに命じました。」(Ⅰテサロニケ 2:11-12)

テサロニケの信徒たち一人ひとりが神からの豊かな祝福を受け、キリストにあって義と認められ、完全な救いへと導かれること。さらには、天の御国への確かな希望を胸に抱きながら、最終的に神の栄光に満ちた永遠の世界へと到達すること。これこそがパウロのすべての奉仕と労苦の背後にある崇高な目的でした。

「こういうわけで、私たちもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたが、私たちから聞いた神のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実そのとおり神のことばとして受け入れてくれたからです。…」(Ⅰテサロニケ 2:13a)
テサロニケの人々は、パウロらの語った言葉を単なる人間の言葉としてではなく、真に神からの言葉として聞き、受け入れました。世の中には、耳があっても真理を聞き取れず、目があっても霊的な現実を見ることができない人々が多い中で、テサロニケの会堂に集っていた敬虔なギリシャ人たちと貴婦人たちは違いました。彼らはパウロが御言葉を語る時、その背後にある神の権威と真理を認識し、心から受け入れたのです。こうしてテサロニケ教会は堅固に建て上げられていったのです。なぜ彼らはパウロの言葉を単なる人間の言葉としてではなく、神の御言葉として聞き取ることができたのでしょうか?それは何よりもパウロのメッセージが遠回しな表現を避け、真理の核心を鋭く突くものだったからです。この真実さが聖霊の働きを引き出し、聞く者の心に深く響いたのです。パウロ自身が《4節》で述べているように、彼は神様から御言葉を託された者でした。これは、神様に代わって救いの福音を宣べ伝えるという重大な責任を委ねられたということです。ですから、私たちもまた、常に自分の言葉ではなく、神が語ってほしいと願われることに焦点を合わせなければなりません。その中心には常にイエス・キリストが置かれるべきです。キリストによる人類の贖いという御業こそが神の愛の最高の表現だからです。パウロは人々の顔色をうかがうことなく、ただ神の御心に従い、委託された真理を忠実に伝えようとしたのです。

「…この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いています。」(Ⅰテサロニケ 2:13b)

使徒パウロが神様の喜びとなりたいという純粋な思いをもって御言葉を宣べ伝えたとき、テサロニケの人々はそれを神様からの直接のメッセージとして心を開いて耳を傾けました。すると驚くべきことに、その御言葉は信じる者たちの内側で力強く働き始めたのです。この手紙の冒頭(3節)でパウロが述べているように、テサロニケ教会では「信仰から出た働き(Work of faith, KJV)」が豊かに現れました。この箇所を通して使徒は、福音の開拓者たちがどのような心構えで人間関係を築き、どのような姿勢で真理を伝えるべきかについて教えてくれています。

「兄弟たち。あなたがたはユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会に倣う者となりました。彼らがユダヤ人たちに苦しめられたように、あなたがたも自分の同胞に苦しめられたからです。」(Ⅰテサロニケ 2:14)

この言葉は、テサロニケに住むユダヤ人コミュニティについて語っています。歴史的背景を見ると、テサロニケには回心したユダヤ人が相当数いたようです。エルサレムの初代教会を振り返っても、使徒ヤコブは剣によって最初の殉教者となり、他の信者たちもユダヤの同胞から激しい迫害と侮辱を受けました。

「ユダヤ人たちは、主であるイエスと預言者たちを殺し、私たちを迫害し、神に喜ばれることをせず、すべての人と対立しています。」(Ⅰテサロニケ 2:15)

《ヨハネの福音書1章》には、痛切な事実が記されています。「この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。」(ヨハネ 1:11) 神様に選ばれ、長きにわたって約束の救い主を待ち望んできたはずの民が、主を受け入れることができませんでした。これは実に痛ましい出来事です。クリスマスの季節に私たちが深く思いを馳せるように、異邦の東方の博士たちが、むしろ選民よりも先に主の到来を知りました。《マタイ23章》には、イエス様がエルサレムの街を見下ろしながら、深い悲しみに包まれて涙を流される姿が描かれています。「エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。」(マタイ 23:27) パウロはテサロニケの信徒たちに語りかけるとき、彼らが経験している苦難をイエス様自身が歩まれた道と重ね合わせます。迫害に苦しむ信徒たちに、彼らの苦難が預言者たちや主の民も経験したものであることを思い起こさせることで、むしろ彼らを励まし、勇気づけようとしているのです。
《ローマ9章》を読むと、パウロを密かに狙い、命を奪おうとした同胞に対しても、彼は変わらぬ愛を抱き続けていたことがわかります。彼らはパウロを捕らえて町から追放し、石を投げつけて死んだと思い込み、城壁の外に放り捨てたこともありました。しかし神様はパウロを生かし、彼は再び立ち上がって宣教の道を歩み続けたのです。同胞から拒絶され、迫害を受けながらも、パウロの彼らへの愛は決して消えることがありませんでした。パウロはイスラエルの民について「彼らは養子とされ、栄光を受け、契約と律法と礼拝と約束を与えられた者たち」(ローマ 9:4)と述べつつ、彼らを励ましています。このようにユダヤ人を深く愛し続けたパウロの姿勢は、他に類を見ないものです。私たちもまた、同胞を愛するこの心を持つべきではないでしょうか。

テサロニケ教会のユダヤ人信徒たちに向けて、パウロは重要な真理を語りかけています。彼らが同胞から受ける迫害によって深い孤立感や屈辱を味わっているかもしれないが、その憎しみ、排斥、迫害の体験は、かつて預言者たちや主イエス御自身も歩まれた道であることを心に留めるよう促しているのです。さらに、彼らの母教会であるエルサレム教会もまた、同様の試練の中にあることを思い起こさせています。

「彼らは、異邦人たちが救われるように私たちが語るのを妨げ、こうしていつも、自分たちの罪が満ちるようにしているのです。しかし、御怒りは彼らの上に臨んで極みに達しています。」(Ⅰテサロニケ 2:16)

パウロは、ユダヤ人たちに神の御怒りは彼らの上に臨んで極みに達していると言います。この「御怒り」の真の意味を理解するには、《使徒28章》でパウロがイザヤ書を引用して説明した「不信仰の神秘」に目を向ける必要があります。旧約聖書の歴史を振り返ると、ユダヤの民は繰り返し預言者たちの言葉に耳を傾けず、彼らを退けてきました。《ローマ9章、10章、11章》では、イスラエルと新しいイスラエル(教会)の関係について詳細に記されています。イスラエルの躓きよって、救いが異邦人に至り、イスラエルが嫉妬するようになると書かれています。「それでは尋ねますが、彼らがつまずいたのは倒れるためでしょうか。決してそんなことはありません。かえって、彼らの背きによって、救いが異邦人に及び、イスラエルにねたみを起こさせました。」(ローマ 11:11) つまり、パウロが言う「御怒り」とは、究極的には福音の焦点がユダヤ人から異邦人へと移ったということを指しているのです。

イスラエルは昼夜(ちゅうや)を問わず働き、長い歴史を守り抜いてきた民族です。私たちがイスラエルと新しいイスラエル(教会)の関係を正確に理解してこそ、歴史の流れを正しく知ることができます。また、パウロが示した姿勢を学ぶことで、根拠のない怒りや憎悪の罠に陥ることを避けられるのです。残念ながら、今日に至るまでユダヤ人を蔑視し、迫害する動きは絶えません。ヨーロッパの暗い歴史がそれを物語り、テサロニケでさえ約6万人のユダヤ人が犠牲となりました。

《使徒28章》において、パウロは「イスラエルが福音に耳を傾けなくとも、福音の進展は止められないものであり、その救いの恵みは異邦人へと移ったのだ」と言いました(使徒 28:28)。同様に、《ローマ11章》でも「イスラエルの背きが世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となった」(ローマ 11:11-12)と記されています。

今日の私たちも様々な形の迫害を経験します。しかし、深く考えてみれば、いかなる迫害も神の御国の歩みを止めることはできないのです。むしろ、迫害は神様がより大きな道を開かれる契機となることを、私たち自身の目で見ることになります。これは個人の人生においても同様です。ですから、呪いや裁きを下すのは私たちの役割ではありません。神様の「呪い」や「裁き」の本質とは、祝福が取り去られることにほかなりません。《マタイ21章》でイエス様はこう宣言されました。「ですから、わたしは言っておきます。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ民に与えられます。」(マタイ 21:43) ここで祝福を奪われた者たちは、必然的に嫉妬の念を抱くようになります。これをパウロは《ローマ書》で「イスラエルにねたみを起こさせました」と表現したのです。あらゆる憎しみの源泉は妬みと嫉妬にあります。テサロニケ教会で起きた紛争や迫害の根底にも、この妬みと嫉妬が潜んでいたのです。《16節》で言及される「御怒り」とは、祝福が取り去られることを意味すると言いました。しかし同時に、その祝福を失った者は強い嫉妬に駆られるようになるということです。福音書ではこの状態を「泣いて歯ぎしりするのです」という強烈な言葉で表現しています。

「17 兄弟たち。私たちは、しばらくの間あなたがたから引き離されていました。といっても、顔を見ないだけで、心が離れていたわけではありません。そのため、あなたがたの顔を見たいと、なおいっそう切望しました。18 それで私たちは、あなたがたのところに行こうとしました。私パウロは何度も行こうとしました。しかし、サタンが私たちを妨げたのです。」(Ⅰテサロニケ 2:17-18)

パウロは、決して信徒らを軽々しく見捨てて遠ざかったのではないと強調します。

「19 私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのは、いったいだれでしょうか。あなたがたではありませんか。20 あなたがたこそ私たちの栄光であり、喜びなのです。」(Ⅰテサロニケ 2:19-20)

私たちはなぜ伝道者の道を歩み続けるのでしょうか。パウロの答えは明確です。「あなたがたこそ私たちの栄光であり、喜びなのです。」彼にとって、テサロニケの信徒たちの成長と信仰こそが最大の喜びであり、誇りでした。主イエスが再臨されるとき、彼らの信仰の実こそがパウロの真の報いとなるのです。こうして《2章》は締めくくられ、続く《3章》へと内容がつながっていきます。テサロニケ前書の全体を通して、使徒パウロが全身全霊をかけて魂を愛し、導いてくださった言葉の数々を見ることができました。お祈りします。Ω

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The Steadfast Love of the Lord

The steadfast love of the Lord never ceases His mercies never come to an end They are new every...

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