2025年09月14日
*本文:テサロニケ人への手紙 第一 3章1-13節 (all)
†マケドニアには二つの重要な教会がありました。一つはピリピ教会、もう一つはマケドニアの首都に位置するテサロニケ教会です。特にテサロニケ教会は、ピリピ教会同様に激しい迫害を経験しており、「患難と迫害の中にある教会」と言えば真っ先に思い浮かぶほど、数多くの試練を乗り越えてきました。このような背景を踏まえ、《第一テサロニケ3章》から私たちが考えたいのは「パウロが歩んだ宣教の道はどのような道だったのか」という問いです。
パウロはローマを目指して進み、さらにイスパニア(現在のスペイン)まで足を伸ばそうとしていました。当時の地中海世界において、イスパニアは文字通り「地の果て」と考えられていたからです。パウロの心には常に前進したいという強い熱意が燃えていました。この情熱に導かれ、彼はピリピからテサロニケへと宣教の歩みを進めたのです。しかし、彼の志はそこで留まることなく、テサロニケからさらに先へと向かうことを望んでいました。第二次宣教旅行において、パウロは明確な到達点を見据えて歩みを進めました。彼の旅程はテサロニケ教会を含みましたが、特に重要な目的地として希望していたのはアテネでした。こうして彼は第二次宣教旅行で、アテネを経由し、当時繁栄を極めた大都市コリントまで到達するという主要目標を設定しました。そして、この当初の計画通りに目標を達成したのです。
何が教会を拡大させたのでしょうか? 確かに、前進しようとするパウロの熱意が教会拡大の原動力となりました。しかし、意外にも迫害こそが宣教の道を切り開いたのです。使徒の働きには、テサロニケで起きた迫害について詳細な記録があります。テサロニケでの迫害は、単なる妨害を超えた深刻なものだったと考えられます。ユダヤ人たちからの激しい迫害により、パウロは恵みに満ちたテサロニケの教会にそれ以上留まることができなくなりました。そのため、彼はベレアへと移動したのです。ところが、それでも彼を追い詰めようとするユダヤ人たちはベレアまで追跡し、教会に混乱をもたらし、脅迫を繰り返したのです。
私たちはこの深い対立の本質を理解する必要があります。なぜユダヤ人の間にこれほどの激しい憎しみが存在したのでしょうか?彼らが長い間待ち望んでいたキリスト、彼らの言葉で言えばメシアが来たにもかかわらず、なぜ「選ばれた民」であったはずの彼らがキリストを受け入れないという悲劇が歴史の中で起こったのでしょうか?それは、キリスト教の福音の伝道者たちが伝えた新しい教えが、彼らの従来の信仰と根本から矛盾する、理解しがたいものだったからです。さらに、彼らの心の奥底には憎しみと嫉妬の感情も潜んでいました。彼らの姿勢は、《マタイ 20章》と《マタイ 21章》に描かれる「ぶどう園のたとえ」に登場する労働者や農夫の心情と重なるものでした。
パウロは、ユダヤ人が引き起こした騒動から逃れ、ベレアの街に身を寄せました。避難先となったこの都市でも、彼は休むことなく福音を宣べ伝え続けたのです。ベレアという都市は知的水準が高く、福音のメッセージを心開いて受け入れました。初代教会においてパウロの宣教チームは、情熱を持って福音を伝えながら絶えず前進し続けました。この不屈の精神があったからこそ、使徒たちが伝えた福音のメッセージが何世紀もの時を超えて、現代の私たちにまで届いたのです。使徒たちの教えのおかげで、皆さんは今、明快に整理され、理解しやすい形の福音を手にしているのです。
使徒たちが開拓者として絶えず前進する旅路の中で、彼らはどこから力を得ていたのでしょうか。確かに、主の愛が最大の力の源です。しかし、今パウロが特に強調しようとしているのは「慰め」という要素です。この手紙はその慰めについて詳細に説明しています。その慰めとはどのようなものなのか、共に見ていきましょう。
パウロは焦りを覚えながらアテネにまで旅をしてきました。彼の心の中には、コリントを経由してローマへと向かわなければならないという使命感があり、そこまで来たのです。しかし同時に、テサロニケの教会のことが絶えず気にかかっていました。パウロはテサロニケ教会に植えられた命がどのように育ち、生きているのか、切に知りたいと願っていたのです。そのため、愛弟子テモテをテサロニケ教会に送ったのです。《3章》の核心となる言葉は「堅固にせよ」です。これは「しっかりと建て上げなさい」という意味を持ちます。使徒パウロはテモテを送り出すとき、「あなたが行って、揺れ動く教会を修復し、堅固に建て上げなさい。テサロニケの信徒たちを健やかに立ち上がらせなさい。あなたこそが彼らに慰めを与える存在となるだろう」と託したのです。
「2 私たちの兄弟であり、キリストの福音を伝える神の同労者であるテモテを遣わしたのです。あなたがたを信仰において強め励まし、3 このような苦難の中にあっても、だれも動揺することがないようにするためでした。…」(Ⅰテサロニケ 3:2-3a)
ところが、パウロは逆に《7節》に「私はあなたがたによって慰めを受けた」と述べています。「こういうわけで、兄弟たち。私たちはあらゆる苦悩と苦難のうちにありながら、あなたがたのことでは慰めを受けました。あなたがたの信仰による慰めです。」(Ⅰテサロニケ 3:7)使徒パウロは彼らからの知らせによって、自身の苦難の中にあっても心の慰めを見出したのです。テモテがテサロニケから戻り、使徒にテサロニケ教会の現状を詳細に報告しました。その報告があまりにも恵みに満ちたものだったため、パウロは《1章》で「テサロニケ教会から私たち宣教者が皆去ってしまったにもかかわらず、あなたがたが立派な姿を示し、他の地域の諸教会の模範となったことは、真に驚くべきことである」と称賛しています。彼らの揺るぎない信仰の姿が、使徒にとって最高の慰めとなったのです。
この手紙を通して、私たちは宣教した教会を決して放っておかない使徒の深い愛情を見出すことができます。子どもを産みながら育てることを放棄する親ほど冷酷な存在はないでしょう。パウロは、我が子を慈しみ世話をする優しい母のように、テサロニケの教会を思い続けています。《2章》の鍵となる言葉は「恋しさ」です。使徒の心には深い郷愁が満ちているのです。しかし、その恋しさの中には切実な心配も織り交ざっています。「彼らは信仰を守って生きているだろうか」「あの教会はどのような状態になっているだろうか」という懸念です。使徒の胸の内には、切に会いたいという願いと心配する思いが共存しています。これはとても複雑で奥深い感情です。パウロはテサロニケの信徒たちに心から再会を望んでいたのです。世界各地の都市を巡り、福音の大路を築き上げている現代の宣教師たちが、この使徒パウロの心情を自らのものとし、彼の生き方を手本として、彼の開拓の方法に倣って宣教活動を行うならば、きっと豊かな実りをもたらすことでしょう。
前回の《Ⅰテサロニケ 2章》の説教で説明しましたように、《2章》はパウロの心情を表す「私は逃げたのではない」という弁明の章です。テサロニケに突如として現れ、また唐突に去ったという使徒パウロに対する批判の声もあったようです。そこでパウロは2章において「私は今、あなたがたに会うことはできないが、心の中ではあなたがたと再会することを切に願っている」と自らの真意を伝えようとしているのです(Ⅰテサロニケ 2:17)。さらに彼は「私の心は皆さんの教会に対する深い心配で満ちている」(Ⅰテサロニケ 3:5)と率直に述べています。
《3章》の中心テーマは、「揺れ動く教会を支え、堅固にしなさい」ということです。テサロニケの信徒たちも、わずか3週間という短い期間にパウロから深遠な御言葉を教わったにもかかわらず、やはり(信仰の中心が)揺れ動いていました。彼らは極度の患難の中でどう生きるべきか分からず困惑し、夢と希望が揺らぎ、すべてが不安定になっていたのです。この状況は、不朽の名作『ライオン・キング』の一場面を思い起こさせます。幼いライオンのシンバが成長して、亡き父ムファサのような堂々たる姿になっていたにもかかわらず、自分自身の変化に気づかず、自信を持てずにいる場面があります。同様に、テサロニケの信徒たちも本来なら確固たる確信を持って信仰を強めていくべきところ、大地が揺れるかのように不安定な状態に陥っていたのです。
皆さん、真の牧会とは、この使徒の心を持って行うべきものです。この心は、親が幼い子どもを抱きしめ、自分の足で立ち、歩けるようになるまで支え続ける、あの無条件の愛に似ています。子どもが自分の力でしっかりと立てるようになるまで、根気強く寄り添い、支えなければなりません。では、何が人を立ち直らせ、堅固にするのでしょうか?それは愛です。そして、その愛を受けた者が確固として立つ姿を見ることが、愛を注いだ者にとって最も大きな慰めとなるのです。
《ピリピ2章》を見ると、パウロはピリピへの使者として、テモテと共に誰を同伴者として送ったでしょうか?それはエパフロディトという人物でした。「私は、私の兄弟、同労者、戦友であり、あなたがたの使者で、私の必要に仕えてくれたエパフロディトを、あなたがたのところに送り返す必要があると考えました。」(ピリピ 2:25) このエパフロディトは執事としての役割を担っていました。パウロが牧師であるテモテに、経済面での支援を担う人物を同行させたのです。使徒の心は、まさに慈しみ深い父親の心情と重なります。彼はピリピの信徒たちの中に、生活の困窮があることを敏感に察知していたのでしょう。食べ物が足りなかったり、借金に悩まされたり、様々な物質的困難を抱えていたことが想像されます。そのピリピ教会の必要に応えるために、パウロはエパフロディトを送ったのです。
宣教活動において、前線に立つ人がいれば、後方で支援する人も不可欠です。これはまるで遠心力と求心力の関係に似ています。福音を広げるために前進することが重要ですが、同時に後方の基盤を固めなければ持続的な発展は望めません。このバランスが取れてこそ、強固な基盤を築きながら、さらに前進するという健全な循環が生まれるのです。使徒が第一次、第二次、第三次と宣教旅行を重ねた目的は、主の地盤を広げることだけではありませんでした。より重要な目的は、すでに開拓していた教会をさらに堅固にし、彼らを慰め、彼らを建て上げ、そしてその姿から自らも慰めを受けることにあったのです。これこそが真の愛の姿です。愛とは何でしょうか?それは単に自分の欲望を満たすことで得られる自己満足の世界ではありません。本物の愛とは、他者を喜ばせることでその喜ぶ姿を見て、自分も心から喜ぶことです。これが「Joy」と呼ばれる主の喜びなのです。この喜びは一時的な快楽である「Pleasure」とは本質的に異なります。これは極めて崇高な生き方であり、美しい世界です。
ここまで、《Ⅰテサロニケ 3章》がどのような背景で書かれたのかを詳しく説明してきました。この背景を理解した上で《3章》を読むと、この章が伝えようとしているメッセージが鮮明に理解できるようになります。二千年前に書かれた言葉が、単なる古い文字の羅列ではなく、今日にも生き生きと響き、私たちの心に迫るものとなるでしょう。それでは、《3章》の本文に入っていきましょう。
「そこで、私たちはもはや耐えきれなくなり、私たちだけがアテネに残ることにして、私たちの兄弟であり、キリストの福音を伝える神様の同労者であるテモテを遣わしたのです。…」(Ⅰテサロニケ 3:1-2a)
「耐えきれなくなり」という表現には、パウロの深い心の葛藤が表れています。使徒は夜も眠れぬほど「テサロニケの教会はどうなっているだろうか?この教会を今後どう導いていけばよいのだろう」と思い悩み、幾度となく考えを巡らせたことでしょう。
「…あなたがたを信仰において強め励まし」(Ⅰテサロニケ 3:2b)
何が人を真に強くするのでしょうか。それは「慰め」にほかなりません。英語の“comfort”はラテン語の“fortis“”(フォルティス)から派生した言葉で、この“fortis”には「強くする」という意味があります。「力」を意味する“force”も同じく“fortis”に由来しています。つまり「慰め」とは、弱り果てた者、躊躇している者を立ち上がらせ、力づける積極的な行為なのです。
使徒パウロはテサロニケの信徒たちを心から慰めようとし、同時に彼らの消息を知ることで自らも慰められることを願いました。互いに慰め合うこの双方向の関係こそ、主にある私たちから生まれる真のフェローシップなのです。これが本物の愛の関係です。この愛の力によって、私たちは日々の困難を乗り越えて生きていくことができるのです。しかし、もしこのような互いに慰め合う共同体が存在しなかったら、福音を伝えた後にケアする心がなかったら、どうなるでしょうか?すべての関係は枯渇し、やがて倒れてしまうほかありません。皆さんがこの御言葉を学ぶ中で、「私はパウロ、シラス、テモテというこの三人の模範に倣い、さらに熱心に主に仕えなければならない」という決意を新たにしてくれることを願っています。
「このような苦難の中にあっても、だれも動揺することがないようにするためでした。」(Ⅰテサロニケ 3:3a)
人生には避けられない揺れがあります。使徒が福音を伝えてきた人々は、数え切れないほどの逆境と試練の年月を経て、絶え間ない危機に直面し、心が揺り動かされました。そのような時こそ、愛が必要なのです。慰めが必要なのです。励ましが必要なのです。これらの支えによって、私たちは困難の中でもしっかりと立つことができるのです。カトリック教会の(儀式の中で)堅信の秘蹟を「Confirmation」と呼びます。私たちのプロテスタント教会では「堅信」という言葉を用います。これは“You are confirmed.”(あなたは確かなものとされた)という確証を与えるものであり、信仰者として揺るがない基盤を持っているという証を示すものです。
「…あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難にあうように定められているのです。」(Ⅰテサロニケ 3:3b)
ここで使徒は、自分が自らの力で立ったのではなく、神様によって「立てられた」と明言しています。
「あなたがたのところにいたとき、私たちは前もって、苦難にあうようになると言っておいたのですが、あなたがたが知っているとおり、それは事実となりました。」(Ⅰテサロニケ 3:4)
使徒パウロはテサロニケの信徒たちに対して、「迫害と患難があなたがたのもとに必ず訪れるので、それに備えなさい」と前もって警告していました。注目すべきは、パウロが今日一部で見られるような「信じれば人生はうまくいく」「信仰があれば幸せになれる」といった繁栄の神学を説かなかったことです。むしろパウロは、罪の現実を正面から見つめ、人間が持つ弱さについても包み隠さず語りました。彼は弱さを否定するのではなく、むしろそれを認め、受け入れ、愛したのです。そして、避けられない患難についても明確に語りました。主イエスも「狭い門から入りなさい」(マタイ 7:13)と教えられました。苦難を愛するこの心を育てる教えは、なんと深遠で素晴らしいものでしょうか。使徒は《Ⅰテサロニケ2章》で「わたしがあなたがたに出会ったとき、ピリピ教会から追い出されてテサロニケ教会に逃げてきたと見る人も多かった。しかし、わたしがあなたがたに会って教えるとき、使徒としての権威を持って、決して人を喜ばせるような甘言や、お世辞を言ったりはしませんでした」(Ⅰテサロニケ 2:1-5)と述べています。パウロは人の耳に心地よい言葉だけを選んで語るのではなく、信仰の道には必ず苦難が伴うという厳しい現実も包み隠さず教えました。こうして彼は強靭な信徒を育てていったのです。
「そういうわけで、私ももはや耐えられなくなって、あなたがたの信仰の様子を知るために、テモテを遣わしたのです。それは、誘惑する者があなたがたを誘惑して、私たちの労苦が無駄にならないようにするためでした。」(Ⅰテサロニケ 3:5)
教会には必ず聖徒を試みる偽教師が現れます。教会の一致と平和を揺るがす人々がいるものです。すべての教会には誘惑と試練が付きまとうのが現実です。こうした困難や対立が全くない平穏な教会があるとすれば、それはもしかすると本当の意味での生きた教会ではないかもしれません。特に神の恵みが豊かに働いている教会では、この傾向がより顕著に現れるものです。さらに発展し、拡大していく教会には、ほぼ例外なく妨害者、邪魔をする者、偽りの教えを説く者が現れます。パウロはこの現実をよく理解していました。だからこそ彼は「あなたがたの信仰が揺らいで、私たちの労苦がすべて無駄になってしまうことを心配している」と率直に伝えたのです。
「ところが今、テモテがあなたがたのところから私たちのもとに帰って来て、あなたがたの信仰と愛について良い知らせを伝えてくれました。…」(Ⅰテサロニケ 3:6a)
使徒パウロはテモテをテサロニケに残して自らはアテネへと進み、そこで合流を待ちました。彼がテモテを送り出した時の複雑な心境はどのようなものだったでしょうか。そして、後にコリントでテモテが再び戻ってきた時、彼はどれほどの喜びに満たされたことでしょう。使徒にとってテモテの報告は、長く険しい伝道の旅路で蓄積されたあらゆる疲れを洗い流し、心に重くのしかかっていた重圧と心配を一掃する、まさに天からの恵みの報告でした。
「…また、あなたがたが私たちのことを、いつも好意をもって思い起こし、私たちがあなたがたに会いたいと思っているように、あなたがたも私たちに会いたがっていることを知らせてくれました。」(Ⅰテサロニケ 3:6b)
ここに表れているのは、互いに会いたいと切望する真実の思いです。これこそが「恋しさ」の本質です。初代教会は、このような純粋な慕い合う心に満ちた共同体でした。「会いたい」という思いが、その根底に流れていたのです。真に聖霊に導かれる教会には、このような燃えるような情熱が与えられます。主が測り知れない大きな愛を私たちに注いでくださり、私たちは新しい命として生まれ変わりました。そのキリストの愛の中で、私たちはこのように熱く交わり合うようになったのです。これこそが生きた教会の真の姿です。驚くべき教会成長の秘訣や特別な方法論があるわけではありません。この姿に倣って生きるなら、自ずとリバイバルが起こり、教会は成長するのです。この愛の中にしっかりと根を下ろし、堅固に建て上げられ、霊的に強められるなら、おのずと発展していくのです。
「こういうわけで、兄弟たち。私たちはあらゆる苦悩と苦難のうちにありながら、あなたがたのことでは慰めを受けました。あなたがたの信仰による慰めです。」(Ⅰテサロニケ 3:7)
この箇所における「信仰」とは何を指しているのでしょうか。それは、苦難の中にあってもよく耐え忍ぶことです。テサロニケ教会の信徒たちが示した忍耐を指しています。
「あなたがたが主にあって堅く立っているなら、今、私たちの心は生き返るからです。」(Ⅰテサロニケ 3:8)
この一節こそが本章の核心部分です。テモテがテサロニケから戻り、パウロたちと合流した後に伝えた良い知らせによって、使徒パウロは深い慰めを得ました。だからこそ、彼は喜びに満ちてこの手紙を書いているのです。パウロは「今、私たちの心は生き返る」と表現しています。これまで常に不安と焦りに押しつぶされそうになり、胸が締め付けられるような重圧の中にいましたが、今ようやく本当の意味で「生きる」ことができそうだと感じたのです。使徒はここで「あなたがたは私の慰めそのもの」だと告白しています。「私の慰めはあなたがたから来るのです」と宣言しているのです。なんと美しい話でしょうか。
「あなたがたのことで、どれほどの感謝を神様におささげできるでしょうか。神様の御前であなたがたのことを喜んでいる、そのすべての喜びのゆえに。」(Ⅰテサロニケ 3:9)
「喜んでいる、そのすべての喜びのゆえに」というこの表現の深い意味が伝わってきます。使徒は、テサロニケの信徒たちのことを考えるだけで心が喜びに満たされ、ただ思い出すだけで神様への感謝が溢れてくるというのです。慰めを与え、また慰めを受ける人生は、この世のどのような成功や富よりも美しく、誇るべきものであり、心を豊かに満たすものだということです。だからこそ、パウロの内に神様への感謝が溢れていると告白しているのです。
「私たちは、あなたがたの顔を見て、あなたがたの信仰で不足しているものを補うことができるようにと、夜昼、熱心に祈っています。」(Ⅰテサロニケ 3:10)
さらに、パウロは昼も夜も絶え間なく祈り続けていることを明かしています。「私は休むことなく祈り続けているのですが、その祈りの中心は、実際にあなたがたと顔を合わせて、さらに深く互いに慰め合いたいという願いなのです」と伝えているのです。そして次の節から、彼はより具体的に自らの祈祷題目について述べています。《11節、12節、13節》は、パウロの切実な祈りの言葉なのです。
「どうか、私たちの父である神様ご自身と、私たちの主イエスが、私たちの道を開いて、あなたがたのところに行かせてくださいますように。」(Ⅰテサロニケ 3:11)
パウロの第一の祈りは、必ずテサロニケの信徒たちと再会できるようにというものです。この切なる願いは、真実の愛から生まれた純粋な思いです。恋い慕う人々が経験する世界もこのようなものではないでしょうか。私たちもこのような真摯な愛の世界を体験し、心から人を思う気持ちを育むべきなのです。世に蔓延する浅薄な愛や誘惑に満ちた愛ではなく、このような純粋な憧れと思慕の情を持つことが大切です。使徒は「神様、私たちはお互いに切に会いたいと願っていますので、どうか早く会わせてください」と真心から祈っているのです。愛する兄弟姉妹から離れ、遠く旅立っていくこの宣教チームの祈りが、このように美しいものなのです。
「12 私たちがあなたがたを愛しているように、あなたがたの互いに対する愛を、またすべての人に対する愛を、主が豊かにし、あふれさせてくださいますように。13 そして、あなたがたの心を強めて、…」(Ⅰテサロニケ 3:12-13a)
パウロの第二の祈りは、自分たちがテサロニケの信徒たちを愛するのと同じように、彼らも互いに深く愛し合い、さらにその愛が周囲のすべての人々へと広がっていくようにというものです。彼は愛があふれ出ることを心から願い、そのために熱心に祈っています。この愛が豊かに溢れるとき、信仰は揺らぐことがなく、心に孤独の闇が忍び寄ることもありません。
パウロもまた「あなたがたの間に愛が満ち溢れ、互いに慰め合い、支え合いながら歩める者となりますように」と心から祈っていたのです。そして《13節》では最後の祈りが記されています。
「…私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒たちとともに来られるときに、私たちの父である神の御前で、聖であり、責められるところのない者としてくださいますように。アーメン。」(Ⅰテサロニケ 3:13b)
これは荘厳(そうごん)な世界です。迫害が激しければ激しいほど、信徒たちは主の来臨を待ち望む「マラナタ」(Maranatha;アラム語で「主イエスよ、来てください」という意味)の信仰を強く持つようになります。これは「終末への希望に根ざした信仰」です。主の日(終わりの日)に、主がすべての聖徒たちと共に降臨されるという約束の言葉です。この言葉は、患難と迫害の中で苦しむテサロニケの教会に与えられた最大の慰めです。「私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒たちとともに来られるときに、私たちの父である神の御前で、聖であり、責められるところのない者としてくださいますように!」—これが彼の祈りの結論です。《11節、12節、13節》は、使徒が私たちの教会に向けた祈りの言葉なのです。
この手紙の各行に、美しい愛の交わりの精神が脈々と流れていて、電流のように心から心へと伝わる感動があるのです。この愛の世界は時代を超えて流れ続け、今日の私たち教会の信徒たちの交わりの中にも息づいています。私たちもこの同じ心を持って生き、この精神を携えて前進していきましょう。お祈りします。Ω
The steadfast love of the Lord never ceases His mercies never come to an end They are new every...
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