2025年09月22日
*本文:テサロニケ人への手紙 第一 4章1-12節
†今日は先週に引き続き、《第一テサロニケ人への手紙4章》を見ます。
「最後に兄弟たち。主イエスにあってお願いし、また勧めます。…」(Ⅰテサロニケ4:1a)
「最後に」という言葉は、使徒の勧告における締めくくりの言葉です。人生や信仰生活の終盤においてこそ、深く考慮すべき事柄があります。使徒パウロは3章までテサロニケ教会の素晴らしい姿を称え、愛をもって彼らを励ましてきました。4章では、この教会の信徒たちが実践すべきことについて具体的な助言を与えています。
「…あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを私たちから学び、現にそう歩んでいるのですから、ますますそうしてください。」(Ⅰテサロニケ 4:1b)
パウロはテサロニケの信徒たちに、「神に喜ばれるためにどのように歩むべきか」を常に教えていました。2章でも、パウロは「人を喜ばせるのではなく、ただ神を喜ばせようとした」と証言しています(Ⅰテサロニケ 2:4-5)。このような生き方の模範を示したのは、パウロとシラスとテモテでした。
では私たち自身はどうすれば神様の喜びとなることができるでしょうか。私たちはその答えを見出し、実行する者とならねばなりません。使徒パウロは、神様の喜びとなることを人生の目的として生きていました。パウロだけでなく、使徒たちは皆このテーマを常に意識して日々を過ごしていました。つまり、「天を仰ぎ見て(神様の御心と命令を尊重して)」生きていたのです。私たちも「どうすれば神様の喜びとなることができるか」「どうすれば神様の願われることを行っていくことができるか」を常に心にとめて生きていくべきです。
《ヘブル人への手紙11章6節》には、私たちが「神がおられることと」「神がご自分を求める者には報いてくださる方であること」を信じる「信仰」によって神様の喜びとなることができると記されています。さらに、ヨハネ21章15-17節では、主に対する愛は「主の羊を養うこと」として示されています。神様の喜びとなる最も確かな道は、何よりも神様が私たちを創造された本来の目的に沿って生きることにあります。
《1節》でパウロは、テサロニケの信徒たちに神の喜びとなる道を教えたと述べています。そしてその教えに従って彼らが忠実に歩んでいることを称賛し、「ますますそうしてください」と励ましています。では、彼らの「行い」とは具体的に何だったのでしょうか?使徒は何に励むよう勧めているのでしょうか?今日の聖書箇所を通して、私たちはこの核心をしっかりと理解すべきでしょう。
「私たちが主イエスによって、どのような命令をあなたがたに与えたか、あなたがたは知っています。」(Ⅰテサロニケ 4:2)
使徒が先に言及した「神の喜びとなる方法」についての教えは、主イエスご自身から与えられた命令であると強調しています。だからこそ、これは私たちが真剣に取り組むべき最重要事項なのです。
「神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。…」(Ⅰテサロニケ 4:3a)
ここに「神のみこころ」という言葉が登場します。《マタイの福音書7章21節》でイエス様は「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」と語られました。多くの信仰者が深く考える言葉が、この「御心」という言葉です。「神の御心」という表現には、神様が私たちに対して抱いておられる願いが込められています。それは何でしょうか?それは私たちが聖なる者となることです。称賛を受けたテサロニケ教会に、使徒パウロが「最後に」付け加えた勧めは、まさに信徒たちの「聖さ」でした。これこそが主イエスの命令であり、神の御心の中心だというのです。だからこそ、これを決して忘れず、しっかりと掴んで生きるようにとパウロは訴えているのです。
常にパウロの教えの中心メッセージは「救い」です。救いの最初の段階は「義認(Justification)」です。私たちが罪から解放される道は、信仰によってのみ開かれます。信仰によって義とされる—これがパウロが最も重視して教えた基本的真理でした。しかし、私たちは義認で立ち止まってはなりません。パウロは「最後に」さらに進むべき道があると教えています。それは「聖くなること」です。私たちが継続して追求すべきは「聖化」なのです。
《ヨハネの黙示録4章》には「天の礼拝」の光景が描写されています。使徒ヨハネがパトモス島に幽閉されていた時、聖霊が彼を天へと導かれました。そこでヨハネは、この世のすべての被造物を代表する者たちが主に向かって「聖なる、聖なる、聖なる。」と崇拝している姿を目撃しました。「聖なる」という言葉は、私たちの信仰生活の究極の目標を表しています。
使徒がテサロニケの信徒たちに単刀直入に、最も重要なこととして教え、強調したのはまさにこの「聖さ」でした。テサロニケ教会は多くの迫害に耐え忍び、信徒同士が互いに深く愛し合う模範的な共同体でしたが、彼らが最後まで堅持すべきは、聖なる者となる訓練を決して怠らないことでした。聖なる神に倣って聖なる生活を送り続けることは、私たち信仰者にとって欠かせない本分なのです。
《ローマ書》は大きくわけて2つの教えで構成されています。《ローマ書1-4章》は『義認』の教理を展開し、続く《5-8章》は『聖化』の教理を深く掘り下げています。私たちが信仰によって義とされた後、「どのようにして聖化の道を歩むか」が信仰生活における最も本質的な課題となります。
私たちの信仰の最終目標は「聖なる者」へと変えられることです。信仰の成否は、「私がどれほど聖なる者へと成長しているか」「私が聖さを体現できているか」によって決まります。信仰者がよく用いる言葉には、「聖」という文字がふんだんに用いられています。私たちが命の言葉として読む書物は「聖書」です。神の三位一体について語るとき、「聖父」「聖子」「聖霊」という表現を用います。礼拝を捧げる場所は「聖殿」と呼ばれ、キリストに従う者たちも「聖徒」と言われます。このように信仰の核心部分には常に「聖」の文字が用いられています。しかし皮肉なことに、日々の生活の中で私たちはこの中心的真理を見失いがちです。だからこそ使徒パウロは、多くの点で模範的だったテサロニケの信徒たちに、「聖なる者」となる道から目を離さないよう訴えかけたのです。
テサロニケ教会は激しい迫害と深い苦難の中で、主の再臨を切望しながら生きる終末意識の強い共同体でした。彼らは天からの力によって一変する世界を常に待ち望んでいました。その結果、現実の日常においてどのように生きるべきかという点がおろそかになることがありました。だからこそ、使徒パウロは今、この重要な勧めを伝えているのです。「あなたがたはいつも聖さを心に留め、聖なる訓練に励まなければならない」と使徒は教えています。
では、「聖なる訓練」とは具体的にどのようなものでしょうか?「聖なる」とはどういう意味でしょうか?出エジプト記3章でモーセが神様と出会う場面を振り返ってみましょう。モーセは燃え上がる柴の中に顕現なさった神様に出会いました。神様はモーセを呼び、「ここに近づいてはならない」と告げ、履き物を脱ぐように命じられました(出エジプト 3:5)。この場面から私たちが理解できる「聖なる」の本質は「区別された」という概念です。パリサイ人の「パリサイ(Pharisee)」という言葉も「区別された」「分離された」という意味を持っています。つまり、パリサイ人とは本来、世から「区別された者」を意味していたのです。
神様は、ご自分の民が世俗から区別され、絶えず神の御姿に倣って聖なる者となることを望んでおられます。「聖化」はまさにそうした「過程」なのです。もし私たちが信仰生活において「聖化」を忘れてしまうなら、私たちの信仰は岩礁に乗り上げて沈没する船のようなものです。だからこそ、使徒パウロは「聖化」を強く訴えているのです。テサロニケ教会が他のあらゆる面で優れ、称賛に値する共同体であったとしても、この点において油断しないようにと勧めました。彼らが聖化の旅路の中で、聖なる主の御姿に似た者となり、常に聖なる訓練に励むことを願ったのです。
イスラエルにはレビ記という祭祀法典が与えられていました。彼らはこの法典に従って神様への祭祀を執り行いました。神様はこの祭祀を通して、イスラエルを神の民として区別されたのです。レビ記という祭祀法典で最も中心となる言葉は「聖なる」という表現です。聖書学者の研究によれば、レビ記一冊だけで、「聖なる」という単語が計261回(名詞、動詞、形容詞を含む)記されているとのことです。もし私たちの人生そのものが祭祀であると考えるなら(ローマ 12:1)、最終的に私たちが追求すべきは聖性に他なりません。これこそが神の御心です。だからこそ、天の完全な礼拝の光景においても、すべての被造物が神に向かって「聖なる、聖なる、聖なる」と賛美する姿が描かれているのです(黙示録 4:8)。この天の礼拝が、まさに私たちの日常の姿でなければならないのです。
では、私たちはどのようにして聖なる者となれるのでしょうか。その答えを《ローマ書》から探ってみましょう。パウロは《ローマ5章》で「勝利の賛歌」を歌い上げ、続く《6章》と《7章》では天からの聖霊の力を受けて、聖化の道を歩むことを教えています。「義認」が信仰を通して、主の恵みのゆえに実現するものであるならば、「聖化」は聖霊の働きによって可能となります。聖霊の力を受け入れ、私たちの内にある罪深い欲望や世俗的な願望を制して生きるべきだという教えが《ローマ6章と7章》の核心です。聖霊によって聖化されるという教理は他の宗教にはなく、キリスト教にだけ存在する独自の真理です。皆さんは信仰生活を送る中で、《ローマ6章と7章》を繰り返し熟読し、自分をどのように鍛錬しながら歩んでいくべきかを深く学んでください。
「…あなたがたが淫らな行いを避け、」(Iテサロニケ 4:3b)
使徒パウロは、淫らな行いを断ち切るよう勧告しています。このような指示を与えた背景には、テサロニケ教会内に「淫乱の罪」が侵入していたという現実がありました。この教会は使徒から高い評価を受けていたにもかかわらず、淫乱が忍び込んでいたのです。使徒はこれを捨て去るよう強く勧めています。
《第一コリント5章》には、「淫らな行いの罪」について詳細に記されています。世から区別されて建てられた教会の中に、再び世的な要素が浸透していたのです。世的なものの中でも特に「淫らな行い(淫乱)」が教会共同体の内側に入り込んでいました。
この「淫らな行い」とは何を指すのでしょうか。《ローマ1章》には、使徒パウロが理解する「淫らな行い」の本質が明確に示されています。淫らな行いはどのようにして人間の心に侵入するのでしょうか?本来、人間は神様を知るように創造された存在でした。しかし、人間が神様を拒絶するようになりました。その必然的な結果として、人間は偶像崇拝に陥りました。人間は神様と深い関係を結んで生きるように造られていたのに、神様を見失ったことで、内面に空虚さを抱えるようになりました。そして、その空虚を他のもので埋めようとします。こうして人間は神様以外のものに仕えるようになりました。これが偶像崇拝です。偶像崇拝は「霊的な姦淫」と言えます。このように霊的な姦淫に陥った人間には、次の段階の現象が続きます。それが「肉的な姦淫」です。人間はさらに肉欲に支配され、淫行を重ね、性的に汚れていきます。そしてその淫らな行いが極端になると「異質な情欲」を追い求めるようになります。パウロはこのように人間が罪の道を歩む過程を《ローマ1章》で詳しく描写しています。
しかし、罪深い世界から区別され、聖霊の支配を受ける聖殿(教会)の中にも、このように世的なものが再び侵入してくることがあります。その中で最も危険なのが「淫らな行い(淫乱)」であり、使徒はテサロニケ教会にこの点を特に警戒するよう諭しました。使徒は、テサロニケ教会がこの面に最も注意を払うことを強く訴えたのです。私たちは聖なる家庭を築くために「信家会(Faith & Family Foundation)」という組織を設立しました。しかし、聖なる家庭も汚染される可能性があります。世の潮流、教え、習慣が聖なる家庭の内部にも浸透してくることがあるのです。だからこそ、使徒パウロはテサロニケの信徒たちに、「あなたがたは、いかにして教会の神聖さを保つか」を常に心に留めながら生きるよう勧めているのです。
イスラエルの民は過越祭に無酵母パン(酵母(こうぼ)を入れないパン)を食べました。彼らは素朴な味のパンを口にしながら、聖なる信仰と聖なる家庭の真意を黙想したのです。パン種には良い面と悪い面、二つの使用例があります。聖書でパン種が良い意味で描かれた例は、《マタイ13章》の「パン種のたとえ」です。神の御言葉は、三サトンの小麦粉の中に混ぜられると、パン種のように速やかに広がり、その影響力を及ぼすという教えです(マタイ 13:33)。反対に酵母が悪い意味で記された例は、《第一コリント人5章》に見られます。パウロは「淫らな行い」という罪の有害な影響を指して「パン種」という言葉を用いました。私たちが聖なる者となるためには、何をどうすべきでしょうか。まず第一に、私たちの内にある「淫らな行い」を徹底的に捨て去らなければなりません。
《第一コリント人5章》を詳しく見てみましょう。「現に聞くところによれば、あなたがたの間には淫らな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどの淫らな行いで、父の妻を妻にしている者がいるとのことです。」(Iコリント 5:1) これは再婚した家庭において、継母と息子が性的関係を持ったという衝撃的な事実です。聖なる教会の中に、異邦人社会でさえ稀なこのような淫らな行為の罪が侵入していたのです。「それなのに、あなたがたは思い上がっています。むしろ、悲しんで、そのような行いをしている者を、自分たちの中から取り除くべきではなかったのですか。」(Ⅰコリント 5:2) 使徒はこうした罪を「徹底的に排除せよ」と厳しく命じています。
教会は常にこの「淫らな行い」というパン種を払い落とす責任があります。「6 あなたがたが誇っているのは、良くないことです。わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませることを、あなたがたは知らないのですか。7 新しいこねた粉のままでいられるように、古いパン種をすっかり取り除きなさい。あなたがたは種なしパンなのですから。私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。8 ですから、古いパン種を用いたり、悪意と邪悪のパン種を用いたりしないで、誠実と真実の種なしパンで祭りをしようではありませんか。9 私は前の手紙で、淫らな行いをする者たちと付き合わないようにと書きました。10 それは、この世の淫らな者、貪欲な者、奪い取る者、偶像を拝む者と、いっさい付き合わないようにという意味ではありません。そうだとしたら、この世から出て行かなければならないでしょう。11 私が今書いたのは、兄弟と呼ばれる者で、淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者がいたなら、そのような者とは付き合ってはいけない、一緒に食事をしてもいけない、ということです。」(Iコリント 5:6-11) この厳格(げんかく)な勧告の後、使徒パウロは《13節》で「…あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい。」(Ⅰコリント 5:13b)と断固として宣言しました。この古いパン種、あるいは悪意と邪悪のパン種を教会共同体から「徹底的に取り除きなさい」と命じたのです。常にこの点に警戒を怠らず、悪を徹底的に排除せよと教えたのです。
それでは、このパン種はどのような経路で教会の中に、あるいは私たち信者の内面に侵入してくるのでしょうか。使徒ヨハネは、「すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。…」(Iヨハネ2:16a)と警告しています。淫欲はまず「目」を通じて私たちの心に入り込みます。ですから、私たちは「目」を厳重に守らなければなりません。古の修道者たちが托鉢笠をかぶり、目を半開きにして、世俗の誘惑から目を守ろうとしたのはこのためでした。
イエス様は「もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。…」(マタイ 5:29)と言われ、「もし右の手があなたをつまずかせるなら、切って捨てなさい。」(マタイ 5:30)とも告げられました。罪は「目」から侵入し、次に「手」へと移行します。罪を犯す過程がこのような順序で進むのです。これは罪の侵入経路です。ですから、教会はこの罪の通路を根本から遮断しなければなりません。罪を完全に遮断する断固たる決意と鋭い警戒心を持って歩む必要があります。
《創世記3章》を見ると、神様は善悪を知る木の実を見ることも、食べることも禁じられました。罪は目、手、そして口へと進んでいきます。性的な堕落もまさにこの経路を通って私たちの内に入り込むのです。聖書の教えは、この原理を明確に示しています。罪を犯した目をえぐり出し、罪を犯した手を切り捨てるとは、罪に対して一切の妥協を許さず、毅然とした姿勢で立ち向かうべきだという教えです。私たちはイエス様の御言葉に従い、罪に対して断固とした態度を貫かなければなりません。なぜなら、教会が罪と妥協し、世と混ざり合うとき、その末路は難破した船のように崩壊へと向かうからです。
パウロは彼の愛する弟子テモテへの手紙で、「神の国に用いられる器は聖なるものでなければならない」と教えました(Ⅱテモテ 2:20-21)。同様に、使徒はテサロニケの信徒たちにも聖さの重要性を説いています。この教えは教会に向けた永遠の真理です。教会を導く指導者たちは特にこの点に注意を払い、教会内に忍び寄る罪を厳格に警戒しなければなりません。そして、聖なる教会と聖なる民となる道を示す責任があります。
では、私たちを聖化させる力はどのような経路でもたらされるのでしょうか?それは「耳」を通してやって来ます。私たちは神の御言葉を熱心に聴く必要があります。私たちは神の御言葉によって聖なる者へと変えられるのです。漢字の「聖」という字を見ると、まず「耳」という字が使用されています。そして「口」が続きます。私たちは神様の御言葉をよく聞くことで聖なる者となり、またその御言葉を忠実に伝えることでさらに聖さを深めることができます。こうして私たちは自分自身を絶えず聖めていく必要があります。新生は一度で完結するものですが、聖化は継続的な過程です。レビ記には神様がこう言われた言葉が記されています。「…あなたがたは聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである。」(レビ 11:45b) 私たちは聖なる訓練を通して、日々聖なる民として歩んでいかなければなりません。そして、聖なる神の御姿に少しずつ近づいていくべきなのです。これこそが使徒が「最後に」テサロニケの信徒たちに伝えたかった核心的メッセージです。次の箇所でさらに深く探っていきましょう。
「一人ひとりがわきまえて、自分のからだを聖なる尊いものとして保ち。」(Iテサロニケ 4:4)
使徒は家庭の聖化について語っています。家庭には夫と妻の関係があります。そして、子供が加わると親と子供の関係が形成されます。根本的に、家庭の聖化は夫と妻の関係から始まります。彼らはどのような関係を築いて歩むべきでしょうか?私たちは《エペソ5章》を通して何度も学んできました。妻は夫に対して、教会が主に従うように従い、夫は妻に対して、主が教会を愛するように愛しなさいと教えられています。このような関わり方で生きるよう使徒は勧めています。
それでは、なぜ今、使徒は再び家庭についての教えをテサロニケ教会に与えているのでしょうか。教会が終末を待ち望む共同体となると、主の再臨だけに目を向け、他のすべてをおろそかにしてしまう危険があるからです。そうなると、家庭の秩序が崩れる可能性が生じます。だからこそ使徒は、教会が終末を意識して生きることは良いことだとしつつも、同時に家庭内の倫理基盤もしっかりと確立して歩むべきだと諭したのです。
では、なぜパウロはここで特に夫に向けて勧告しているのでしょうか。緻密で正確な使徒が、なぜ夫だけに「妻にどう接するべきか」を教えたのでしょうか。それは2000年前の当時、すでに夫が社会的に尊重される立場にあったからです。そのため、わざわざ妻に夫を敬うよう指示する必要はありませんでした。一方で、妻は簡単に見捨てられ、軽視されることが多かったのです。このような背景から、使徒は「妻を聖なる尊いものとして保」つようにと夫たちに訴えかけたのです。
「神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、」(Ⅰテサロニケ 4:5)
使徒は、聖徒たちが世の邪悪な風潮に流されないよう警告しています。私たちはどのような時代を生きているでしょうか。私たちは過去のどの時代よりも誘惑に満ちた環境に置かれています。上下前後左右、あらゆる方向から世の影響にさらされているのです。かつてないほど容易に世界と繋がることができる、情報があふれる時代に生きています。時間も場所も選ばず、いつでもどこでも世界と交流し、関わることが可能になりました。だからこそ、私たちにはより強力な自己訓練が必要なのです。腐敗していく古い性質と淫らな世の汚れた風潮に翻弄されないためには、私たちは常に次の三つを実践しなければなりません。1)聖なる訓練を怠らず、2)主との結びつきを深め、3)目を覚まして警戒する姿勢(信仰)を保つことです。そして、「あらゆる形の悪から離れる」必要があります(Iテサロニケ 5:22)。
「また、そのようなことで、兄弟を踏みつけたり欺いたりしないことです。私たちが前もってあなたがたに話し、厳しく警告しておいたように、主はこれらすべてのことについて罰を与える方だからです。」(Iテサロニケ4:6)
「厳しく警告しておいたように」という言葉には、「苦しみの中で切実に叫ぶ者の訴えを聞き入れ、その深い痛みを理解し、不正を働いた者に公正な裁きを下す」という重大な意味が込められています。私たちの神様とはどのような方でしょうか。神様は不当に傷つけられ、虐げられ、声なき声を上げる人々の側に立たれる方です。だからこそ私たちは、すべての隠れたことを明るみに出し、真実を照らし出される神様の臨在を常に意識して生きるべきなのです。このことを心に留め、決して兄弟姉妹を欺いたり、危害を加えたりすることがあってはなりません。これは使徒による厳しい警告の言葉ですが、別の視点から見れば、差別され、軽蔑され、虐げられている人々への大きな慰めの言葉でもあります。神様は苦しみと悲しみの中で叫ぶ者たちの味方であり、彼らの祈りをすべて聞き届けてくださる方です。だからこそ、勇気を持って前進するようにと使徒は励ましているのです。
「神が私たちを召されたのは、汚れたことを行わせるためではなく、聖さにあずからせるためです。」(Ⅰテサロニケ 4:7)
神様が私たちを召されたのは、世の価値観に埋没させ、放縦な生き方を許し、穢れた欲望の奴隷とするためではありません。むしろ神様は、私たちを世から区別し、日々聖めながら、永遠の御国の市民として整えるために私たちを召されたのです。罪が私たちの内に侵入するとき、魂は深い苦悩に沈みます。これは罪が私たちの神様に似せて創造された本来の性質と相容れないからです。罪は鋭い剣のように私たちの内面を貫き、生命力を損なわせます。人生が時に耐え難い重荷となり、悲しみに満ちるのは、究極的には罪の破壊的な力によるものなのです。一方で、私たちの全ての罪を贖われた主の溢れる恵みが心を満たすとき、真の平安が魂にもたらされます。さらには、自分自身の痛みを超えて、他者の重荷を担うことができる超自然的な力さえ与えられるのです。私たちはこの真理を心に刻み、罪を遠ざけ、恵みを招き入れる教会とならなければなりません。
「ですから、この警告を拒む者は、人を拒むのではなく、あなたがたにご自分の聖霊を与えてくださる神を拒むのです。」(Ⅰテサロニケ4:8)
「拒む」というギリシャ語「アテテオ(ἀθετέω, atheteō)」は、何かを「無視して通り過ぎる」あるいは「見て見ぬふりをする」という意味を持ちます。使徒パウロがテサロニケの信徒たちに伝えた数々の神の御言葉、律法と教えは、前節の「私たちから学び」という言葉とつながっています。テサロニケの信徒たちは既に多くの御言葉と教えを受けていたにもかかわらず、それらを軽々しく無視し、捨て去る傾向がありました。この姿勢こそ、使徒が強く戒めているものです。私たちも同様に、神の御言葉を捨てるならば、学んだことを忘却の淵に沈め、本来の道から外れてしまうでしょう。それゆえ、私たちは昼夜を問わず学んだ御言葉と教訓を黙想し、真摯に実践することが求められます。
「この警告を拒む者は、人を拒むのではなく、あなたがたにご自分の聖霊を与えてくださる神を拒むのです。」神様を拒絶することは、すべてを失うことに他なりません。御言葉を拒めば、結果として私たちは全てを失うことになるのです。なぜ使徒はこれほど厳しい警告を発したのでしょうか。この背景には、テサロニケ教会に蔓延していた終末思想があります。終末への意識が強い共同体では、日常の責務を二の次にし、ただ主の再臨のみを待ち望む傾向があります。信仰への熱意そのものは称賛すべきですが、そのような共同体では「なすべき責務を果たしなさい」という御言葉がしばしば軽視されます。だからこそ使徒はそう諭したのです。これは終末論的な意識が高い教会に必ず必要となる重要な教えであり、実に深遠なものです。
テサロニケ教会を導いたのは誰でしょうか。それは使徒パウロです。パウロの人生は、すべての世俗的価値を捨て、ただ主のみを見つめ続ける献身の旅でした。このパウロの姿勢に感化され、テサロニケの信徒たちも同様の情熱をもって信仰生活を送っていたのです。現代の教会の中には、世の価値観と容易に妥協し、世の繁栄や成功を憧れの目で追い求めるところがあります。これは信仰共同体として深く恥じるべき姿です。私たちは神の御言葉を真摯に受け止め、信仰の本質を忠実に守り続ける共同体、主が誇りとされる教会へと成長しなければなりません。
続く節では、使徒パウロは語調を変え、新たな話題に移っています。
「兄弟愛については、あなたがたに書き送る必要がありません。…」(Ⅰテサロニケ 4:9a)
この言葉は、テサロニケ教会の人々が互いを愛し合う点で非常に優れており、パウロが特筆すべきことも、改めて教えるべきこともないほどであったことを示しています。《10節》に言及される「マケドニアのすべての兄弟たち」とは、ピリピ、テサロニケ、ベレヤの三教会の信徒たちを指します。これらの教会はキリストにある兄弟姉妹への深い愛に満ちあふれていました。その証拠に、エルサレムが飢饉に見舞われた際、彼ら自身が極度の貧困の中にありながらも、エルサレム教会を支援するために惜しみない献金を捧げたのです。この出来事は、《ローマ15章》と《第二コリント8章》に詳細に記録されています。
《第一テサロニケ4章9節》と《5章1節》の言葉を対比してみると、興味深い共通点が浮かび上がります。
「兄弟たち。その時と時期については、あなたがたに書き送る必要はありません。」(Ⅰテサロニケ5:1)
「兄弟愛については、あなたがたに書き送る必要がありません。…」(Ⅰテサロニケ 4:9a)
これらの言葉から、パウロはテサロニケの信徒たちに対して「時と時期」についても「兄弟愛」についても、もはやそれ以上教える必要がないと述べていることがわかります。
《Ⅰテサロニケ》の本質は後半部分、特に《5章》にあります。《4章12節》までは教会への称賛と基礎教理、倫理規範が記され、《13節》からは主の再臨という終わりの時に関する教えが展開されています。これは歴史の解釈に関わる重要な教えです。また、《Ⅱテサロニケ》も同じく終わりの時についての問いに答える手紙ですが、《Ⅰテサロニケ》とは強調点が異なります。
私たちが教理を理解することは極めて重要です。使徒パウロの偉大さは、彼が神の真理を徹底的に追求した人物だった点にあります。彼は神の根本真理を深く掘り下げ、その教えによって徹底的に自らを鍛え上げた人でした。皆さんは何に支配されて日々を過ごしていますか? 私たちは真理を王座に据え、神の御言葉に導かれて生きる者とならなければなりません。そのような人には、特別な教えは必要ありません。なぜなら、真理そのものが進むべき道を示してくれるからです。
もう一度《9節》の言葉を見てみましょう。
「兄弟愛については、あなたがたに書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちで、」(Ⅰテサロニケ 4:9)
マケドニア地方の教会群(ピリピ、テサロニケ、ベレヤ)は偉大な教会でした。《第二コリント8章》には、これら三つの教会の優れた証しが記されています。そこには「恵みを受けた者の生き方」「主の愛を知った者の歩み」が具体的に示されています。主の恵みと愛を受けた者は、日常の具体的な行動を通してその恵みと愛を表現しなければなりません。それが欠けるなら、その信仰は「偽物」と言わざるを得ません。
「マケドニア全土のすべての兄弟たちに対して、それを実行しているからです。兄弟たち、あなたがたに勧めます。ますます豊かにそれを行いなさい。」(Ⅰテサロニケ 4:10)
マケドニアにある三つの教会を使徒パウロは高く評価しています。そして、これまで立派に実践してきたように、今後もさらに深く実践し続けるよう勧めています。
「また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くことを名誉としなさい。」(Ⅰテサロニケ 4:11)
この言葉は、終末論的な雰囲気を強く感じさせる言葉です。すぐにも天に上げられると確信している人々は、目の前の仕事に集中できなくなりがちです。それゆえ使徒は「落ち着いた生活をしなさい」と諭したのでしょう。当時のテサロニケの教会には、おそらく落ち着きを失った興奮が広がっていたのでしょう。しかし、神の国と御心のために切実な思いと緊張感を持って生きるべきですが、同時に自分の日々の責任もきちんと果たさなければならないというのです。
「外の人々に対して品位をもって歩み、だれの世話にもならずに生活するためです。」(Ⅰテサロニケ 4:12)
「外の人々に対して品位をもって歩み、」終末論的な価値観を持って生きている人々には、往々にして周囲の人々に対する優越感が見られます。使徒パウロはテサロニケの信徒たちに、「そのような高慢な姿勢で世の人々を見下すことなく、品格を保って歩みなさい。」と諭(さと)しています。実に正しい教えです。
「だれの世話にもならずに生活するためです。」新国際版聖書(NIV)ではこの箇所を「not be dependent on anybody(誰にも依存するな)」と訳出しています。使徒パウロは、終末論的な価値観を持って生きる人々に対し、主への燃える信仰は保ちながらも、日々の生活における責任をしっかりと果たすよう勧めているのです。経済的困窮を理由に他者に頼り切るのではなく、自らの足で立ち、自分自身の手で道を切り開いていくことの大切さを説いています。
皆さん、私たちは御言葉に従って自らをさらに聖く区別し、与えられたことに最善を尽くす人生を生きましょう。 お祈りいたします。Ω
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